第二章 名付けと秘伝
金魚を迎えてから一週間が経ち、金魚たちはすっかり新しい環境に馴染んでいた。毎朝の餌やりが日課となり、水槽の前で過ごす時間は隼人の大切な一時となっていた。
その週末の朝、隼人は水槽の前でぼんやりと五匹を眺めていた。マブイは相変わらず、水槽の中央を悠然と泳いでいる。窓から差し込む朝日を受けて、金色の鱗が細かく輝いていた。ニールは相変わらず水草の陰から出てこようとせず、サンズとシーラは寄り添うように水槽の隅を回っていた。ゴートだけは、いつも通りのんびりとした足取りで、底の方をゆっくりと漂っていた。
「マブイ、今日も元気だな」
隼人は小さく呟き、餌箱を手に取った。ムラさんから譲り受けた専用フードを少量、指でつまんで水面に振りかける。金魚たちは一斉に餌に群がり、口をパクパクと動かしながら食べ始めた。マブイだけは他の魚たちよりも優雅に、まるで舞うように餌を捕らえていく。その様子を眺めるひとときが、隼人にとって、一日の始まりの中で最も心が落ち着く瞬間になっていた。
翌日の月曜日、教室で美咲に声をかけられた。休み時間の教室は、いつも通りの喧騒に包まれていたが、美咲はいつものように落ち着いた足取りで隼人の席に近づいてきた。
「金魚、元気にしてる?」
「うん、おかげさまで。もうすっかり水槽にも慣れたよ」
隼人は少し照れくさそうに答えた。
「見てみたいな。今度見せてくれない?」
美咲の提案に、隼人は一瞬言葉に詰まった。自分の部屋に女子を招くという発想は、これまで全く考えたことがなかった。
「ああ、いいよ」
隼人は少し緊張した様子で答えた。
「本当? じゃあ、今度の休みにでも。あ、もちろん金魚が見たいだけだからね」
美咲は少し頬を赤らめながら付け加えた。二人は連絡先を交換し、週末に隼人のアパートで会う約束をした。
その夜、隼人は母に、クラスメイトの佐藤美咲という子が金魚を見に来ると伝えた。
「あら、楽しみね」
母は、いつもより少し嬉しそうに笑った。
約束の日、隼人は朝から落ち着かなかった。部屋は普段から綺麗に保っていたが、念のために掃除機をかけ、散らかっていた本や雑誌を整理した。二間しかない狭いアパートだが、訪問者を迎えるのは初めてのことだった。冷蔵庫からはジュースと簡単なお菓子を取り出して用意し、時計を何度も確認しながら、部屋の中を意味もなく歩き回った。
ちょうど正午、インターホンが鳴った。
「ごめんくださーい」
美咲の明るい声が聞こえた。隼人は少し緊張しながらドアを開けた。彼女はカジュアルな私服姿で、学校の制服とは違う雰囲気に隼人は一瞬言葉を失った。
「やあ、来てくれたんだ」
「約束したからね。あ、これ、つまらないものだけど」
美咲は小さな紙袋を差し出した。開けてみると、金魚用のおやつと、手作りらしきクッキーが入っていた。クッキーには金魚の形をしたものもあり、隼人は思わず微笑んだ。丁寧に絞られたアイシングで、隼人から聞いた話を頼りに、上向きの目まで再現しようとした跡が見て取れた。
「えっ、ありがとう。そんな気を使わなくても」
隼人は少し照れながら受け取った。クッキーは丁寧に包装されており、彼女が時間をかけて準備したことが伝わってきた。
「いいの、いいの。それより、頂天眼さんに会わせて」
美咲の率直な性格に、隼人の緊張もほぐれた。彼女を部屋に招き入れ、水槽の前に案内した。水槽は、直射日光の当たらない部屋の隅に置かれており、レースのカーテン越しの柔らかな光が水面にゆらゆらと揺れていた。
「わあ、本当だ。目が上向いてる」
美咲は目を輝かせながら水槽を覗き込んだ。ガラスに額がつきそうになるほど、顔を近づけている。五匹の頂天眼は、初めて見る人間に少し警戒しているようだったが、すぐに普段通りの泳ぎを見せ始めた。特にマブイは美咲の存在にも動じることなく、優雅に泳いでいた。
「これが、マブイ。一番のお気に入りなんだ」
隼人が指さした金魚を見て、美咲は感嘆の声を上げた。マブイは他の四匹より少し大きく、金色の体表が光の中で一層輝いて見えた。ひれの動きも滑らかで、まるで水中で舞うダンサーのようだった。
「すごい。本当に美しいね。マブイって、沖縄の言葉だよね」
美咲は興味深そうに尋ねた。
「うん、『魂』って意味なんだ。なんとなくそう呼びたくなって」
隼人は少し恥ずかしそうに答えた。
「そういえば、うちのおばあちゃんが、この辺りで昔、金魚の品評会が盛んだったって話、前にしてたな」
美咲がふと思い出したように言った。
「品評会?」
「うん。おばあちゃんの家、この近くでずっと暮らしてる家系でね。子供の頃、近所で金魚の品評会があって、賑わってたって聞いたことがある」
美咲は祖母から聞いた話を、少しずつ思い出しながら語った。当時は地区の祭りに合わせて開催され、近隣の村からも見物客が集まるほどの賑わいだったという。当時の写真が家に残っているかもしれないと、美咲は付け加えた。祖母の若い頃の話は、これまで美咲自身もあまり詳しく聞いたことがなかったのだという。
隼人は驚いた。ムラさんの父も、かつて品評会に出品しようとしていたという話を思い出す。この町に、そんな歴史があったとは知らなかった。
「今度、詳しく聞いてみようか。おばあちゃん、話すの好きだから」
「うん、ぜひ」
隼人は前のめりになって頷いた。
「佐藤さんは、生物部でどんな活動してるの」
「校内の水槽と花壇の世話を任されてるんだ。あと、月に一回、地域の小学生向けに観察会もやってる」
美咲は少し照れくさそうに説明した。地道な活動を長く続けてきたのだろうことが、その口ぶりから伝わってきた。小学生たちに虫の名前を教える時が一番楽しいのだと、彼女は付け加えた。
「あ、それと。佐藤さんって呼ばれるの、なんだかくすぐったいな。美咲でいいよ」
美咲はそう言って、少し首をすくめた。
「じゃあ......美咲」
隼人は少し照れくさそうに、その名前を口にした。まだ慣れない響きだったが、悪くない気がした。
「美咲は、どうして生物部に入ったの」
隼人がふと尋ねると、美咲は少し考えるような間を置いてから答えた。
「小さい頃、庭でよく虫とか植物を観察してたんだ。おばあちゃんが、色んな生き物の名前を教えてくれて。それがきっかけかな」
美咲は懐かしそうに目を細めた。祖母の家の庭には、季節ごとに様々な虫がやってきたのだという。アゲハの幼虫を見つけては、羽化するまで毎日観察していた記憶が、今でも鮮明に残っていると彼女は言った。蛹が割れて羽が伸びていく瞬間を初めて見た時の感動は今でも忘れられないのだと、美咲は少し照れくさそうに付け加えた。
「なるほど」
「生き物って、それぞれ全然違う生き方をしてるでしょう。それを見てると、なんだか安心するの。人間の物差しじゃ測れないものが、ちゃんとそこにあるんだなって」
美咲の言葉には、これまで隼人が知らなかった一面が滲んでいた。物静かな彼女の内側にこんな確かな軸があったことに、隼人は少し驚いた。
「ご家族は、みんな生き物が好きなの」
隼人がふと尋ねると、美咲は少し困ったように笑った。しばらく黙り込んでから答えた。
「うちは、おばあちゃんだけかな。両親は仕事が忙しくて、あんまり家にいないから。おばあちゃんが色々教えてくれたんだ」
美咲は淡々とした口調でそう言ったが、その言葉の奥に寂しさのようなものがわずかに滲んでいるのを、隼人は感じ取った。
美咲の家庭も、決して単純なものではないのだろうと、隼人はその一言から感じ取った。互いに詳しくは語らないまま、それでも何か通じ合うものがあるような気がした。
「そうだ、見てほしいものがあるんだ」
隼人は机の上に置いていた正一の古いノートを手に取った。表紙の使い込まれた感触を、美咲に見えるように差し出す。
「ムラさんのお父さんが遺したノートなんだ。金魚の育て方が細かく書いてあって」
美咲はノートを受け取り、興味深そうにページをめくった。古い紙特有の少し黄ばんだ匂いが、ページをめくるたびに漂った。彼女はしばらく無言のまま、丁寧に一枚一枚を確認していった。
「すごい、几帳面な字。何十年分もあるの?」
美咲はページをめくる手を止め、感心したように呟いた。同じ筆跡が何年にもわたって続いていることに、驚きを隠せない様子だった。
「うん。ただ、一箇所だけ、変な言葉が書いてあって」
隼人は、天の窓という一行がある場所までページをめくった。美咲はその文字をじっと見つめた。
「天の窓......ムラさんは、なんて言ってたの」
「地元の言い伝えらしいんだけど、詳しいことは分からないって。大切に育てられた金魚の頭に、稀に模様が浮かぶことがあるとか。ムラさん自身も、見たことはないんだって」
美咲は真剣な表情でノートを見つめ続けた。
「ねえ、この言葉、自分たちで調べてみない?」
「調べるって、どうやって」
隼人は少し戸惑いながら尋ねた。手がかりらしい手がかりもない中、どこから手をつければいいのか見当もつかなかった。
「郷土資料館とか、行ったことある? この辺りの歴史に詳しい資料があるかもしれない」
美咲の提案に、隼人は少し驚いた。自分一人では思いつかなかった発想だった。図書室で本を探すことしか頭になかった自分と、地域の資料館という選択肢を思いつく美咲との違いに、隼人は素直に感心した。
「行ってみようか。今度の休みにでも」
「うん。それと......」
美咲はスマートフォンを取り出し、何かを検索し始めた。指先が画面の上を滑るように動き、いくつかのページを行き来していた。
「これ見て。今年の秋、市内で金魚の品評会があるみたい。学生向けの研究発表も、同時に開催されるって」
画面には、地元の公民館で開催される品評会の案内が表示されていた。頂天眼の部門があることも、そこには明記されている。開催日は四ヶ月後の秋、会場までの地図や出品料の記載も見て取れた。
隼人は画面を覗き込んだ。地方予選という文字が目に入る。
「マブイを、ここに出してみない?」
美咲の提案は、隼人にとって予想外だった。
「え、でも、僕なんて素人だし。マブイに負担をかけることにもなるんじゃ」
隼人は正直な不安を口にした。ムラさんから聞いた正一の若い頃の失敗の話が、頭をよぎった。無理な準備で金魚を弱らせてしまった、あの話だ。マブイに同じような思いをさせてしまうのではないかという恐れが、胸の奥に湧き上がった。あの時の正一も、きっと同じように期待と不安の間で揺れていたのだろう。
「無理にとは言わないよ。でも、マブイってすごく綺麗だし、育て方をちゃんと知ってる人に見てもらうのも、悪いことじゃないと思う」
美咲は慎重に言葉を選びながら言った。部屋に差し込む光が、少しずつ弱まりつつあった。
「少し考えさせて」
隼人はそう答えるのが精一杯だった。マブイの水槽を見つめながら、これから先の日々に新しい選択肢が加わったことを感じていた。
翌週の土曜日、隼人と美咲は市の郷土資料館を訪れた。町の中心部からバスで二十分ほどの場所にある、こぢんまりとした建物だった。バスの車窓から見える景色は、次第に古い家並みへと変わっていった。館内には、この地域の農業の歴史や古い写真、生活道具などが展示されている。ガラスケースの中には、使い古された農具や、色褪せた着物なども並べられていた。休日とあって、他に数組の家族連れの姿が見える程度で、館内は落ち着いた空気に包まれていた。
「金魚の展示なんて、あるのかな」
隼人は少し不安になりながら呟いた。
「受付で聞いてみようよ」
美咲は臆することなく、受付の年配の職員に声をかけた。物おじしないその態度に、隼人は密かに感心していた。
「あの、この辺りで昔、金魚の品評会が盛んだったって聞いたんですけど、何か資料はありますか」
職員は少し考え込んでから、奥の書庫へと二人を案内してくれた。
「確か、昭和の中頃までは、地区の祭りに合わせて金魚の品評会をやっていたはずだよ。詳しい資料が残っているかどうか」
書庫は薄暗く、古い紙とインクの匂いが漂っていた。職員はいくつもの棚を丁寧に確認しながら目当ての箱を探し当て、古い箱をいくつか棚から下ろしてくれた。中には、色褪せた白黒写真や手書きの記録用紙が詰まっていた。
「わあ......」
美咲が声を上げた。写真の中には、和服姿の人々が木製の台に並べられた金魚鉢を囲んでいる様子が写っていた。裏には「品評会記念」という文字と年号が記されている。写っている人々の表情は誇らしげで、当時の熱気がそのまま封じ込められているようだった。傍らには、子供たちが目を輝かせて金魚鉢を覗き込む姿も写っていた。
隼人は一枚一枚、丁寧に写真をめくっていった。頂天眼らしき金魚が写った写真は見当たらなかったが、当時の熱気だけは色褪せた写真からも十分に伝わってきた。埃っぽい紙の匂いが、指先にまで移ってくるような気がした。
手書きの記録用紙にも目を通してみたが、そこには出品者の名前と品種、簡単な審査結果が箇条書きで記されているだけだった。達筆すぎて読み取れない文字も多く、二人は顔を見合わせながら、時折読み方を推測し合った。虫食いで一部が欠けているページもあり、当時の詳細をすべて知るのは難しそうだった。
「この字、なんて読むんだろう」
美咲が指さした一文字を、隼人も覗き込んだ。二人でしばらく頭をひねったが、結局読み取ることはできなかった。虫食いの跡が、その文字の一部をさらに欠けさせていた。
「天の窓、っていう言葉、聞いたことないですか」
隼人は職員に尋ねてみた。職員は少し首をかしげた。
「さあ、初めて聞く言葉だね。この辺りでは、色々な言い伝えがあったみたいだけど、体系立てて記録に残ってるわけじゃないから」
職員は申し訳なさそうに言いながら、他にも何か手がかりがないか棚をもう一度確認してくれた。しかし、これ以上の資料は見当たらなかった。
結局、その日は「天の窓」についての明確な手がかりは見つからなかった。それでも、この土地にかつて確かに存在した金魚をめぐる人々の営みの一端を、隼人は肌で感じ取ることができた。
「見つからなかったね」
資料館を出た帰り道、美咲が残念そうに言った。夕方の空が、少しずつ茜色に染まり始めていた。
「うん。でも、何もないよりは良かったよ。ムラさんのお父さんが夢見てたものが、確かにこの町にあったんだって、分かっただけでも」
隼人は前向きにそう答えた。謎は謎のままだったが、それでも構わないという気持ちがいつのまにか芽生えていた。
「そういえば、品評会のこと、まだ返事してなかったね」
隼人がふと切り出した。二人はいつのまにか、資料館の帰り道からそのまま河川敷の方へと足を向けていた。
「マブイに無理をさせない範囲でなら、挑戦してみようかな。ムラさんのお父さんが果たせなかった夢の続きを、少しだけ覗いてみたい気もするし」
隼人は自分の言葉に、少し驚いていた。数週間前まで、金魚を飼うことさえ躊躇していた自分が、今は品評会への出場を考えている。ほんの少しの間に、自分の中で何かが確かに変わり始めているのを感じた。
「うん、いいと思う。私も、できる限り手伝うから」
美咲の言葉に、隼人は頷いた。夕暮れの道を歩きながら、二人はこれから始まる新しい挑戦について、とりとめもなく言葉を交わし続けた。西日が二人の影を長く伸ばし、家路につく人々の姿が、あちこちに見え始めていた。
週末、隼人は河川敷でムラさんに出場を決めたことを報告した。朝霧の名残がまだ薄く漂う中、ムラさんはいつもと変わらぬ様子で釣り糸を垂らしていた。竿先を見つめるその横顔には、長年この場所に通い続けてきた者だけが持つ静かな落ち着きがあった。
「品評会に、マブイを出そうと思います」
隼人は緊張しながらも、はっきりとした声で伝えた。
ムラさんは一瞬驚いた顔をしたが、すぐに柔らかな笑みを浮かべた。
「そうか。よく決めたな」
「無理はさせません。マブイが辛そうにしてたら、すぐにやめます」
隼人がそう付け加えると、ムラさんは満足そうに頷いた。その表情には、隼人の覚悟を確かに受け止めたという安堵が浮かんでいた。
「その気持ちがあれば十分だ。親父も、そういう飼い主にこそ、金魚を見てほしかったんじゃないかな」
ムラさんの言葉に、隼人は背筋が伸びる思いがした。単なる挑戦ではなく、誰かの想いを引き継ぐことでもあるのだと、改めて実感した。川面を渡る風が、二人の間をすり抜けていった。竿先に集中するムラさんの横顔を見ながら、隼人はこの穏やかな時間がこれからも変わらず続いていくことを、胸の内で願った。
その夜、隼人は夕食の席で、母に品評会のことを打ち明けた。味噌汁の湯気が立ち上る食卓で、母はいつも通り箸を進めながら隼人の話に耳を傾けていた。
「品評会に?」
「うん。研究発表も一緒にやることになって」
母は少し驚いた様子だったが、すぐに笑顔を見せた。箸を置き、隼人の顔をまじまじと見つめる。
「隼人が何かに夢中になってるの、久しぶりに見た気がするわ。頑張りなさい」
母はそう言うと、少し目を潤ませながら隼人の肩をぽんと叩いた。その仕草に、隼人は改めて母がずっと自分のことを気にかけてくれていたのだと実感した。
隼人は照れくさくなりながらも、素直に嬉しかった。夕食の後片付けをしながら、隼人はこれから始まる日々にささやかな期待を抱いていた。
翌週、隼人と美咲は放課後の図書室で、品評会の申込書類を確認した。出品者情報、金魚の品種と年齢、簡単な飼育歴を記入する欄がある。書類は思っていたよりも細かく、記入欄を埋めるだけでも一苦労だった。研究発表の申込には、テーマと概要を提出する必要があった。窓の外はすでに薄暗くなり始め、図書室の照明が二人の手元を白く照らしていた。
「テーマ、どうしようか」
美咲がノートを広げながら尋ねた。シャープペンシルの芯をコツコツと机に軽く打ちつけながら、考えを巡らせている様子だった。
「頂天眼の育て方、とかかな」
「もう少し具体的にした方がいいと思う。マブイの成長記録とか、天の窓の言い伝えについても触れてみたら」
美咲は自分のノートを開き、これまで見聞きした情報を指で辿りながら提案した。頭の中で、すでに構成の順序を組み立てているようだった。
美咲の提案に、隼人は少し考え込んだ。まだ解けていない謎を研究発表の中心に据えることに、迷いがないわけではなかった。
「でも、結局分からなかったわけだし」
「分からないままでも、それを調べようとした過程自体が、面白い研究になると思うよ」
美咲はノートを閉じながら、はっきりとした口調で言った。その言葉には、これまでの自分の研究経験に裏打ちされた自信が滲んでいた。
美咲の言葉に、隼人は納得した。分からないことを分からないまま提示することにも、意味があるのかもしれない。
それから毎朝、隼人は水温計とノートを手に、水槽の前に座る日課を始めた。水温は二十二度から二十四度の間を保つよう心がけ、餌の量も以前よりずっと慎重に計るようになった。マブイの泳ぎ方、体色の変化、餌への反応。気づいたことを、できるだけ細かく書き留めていく。学校に行く前のほんの十分ほどの時間だったが、それは隼人にとって、一日の始まりに欠かせない儀式のようになっていた。
最初のうちは何を記録すればいいのか分からず、ノートは簡単なメモ書き程度にしかならなかった。しかし日を追うごとに、隼人はマブイの些細な変化にも気づけるようになっていった。餌を食べる速さが少し落ちた日には水質を疑い、逆に活発に泳ぎ回る日には、その日の天候や水温との関係を書き記した。
「毎日、こんなに細かく見てるんだ」
ある日、美咲がノートを覗き込んで感心したように言った。
「うん。最初は面倒だったけど、慣れてきたら、マブイのことがもっと分かるようになった気がして」
隼人は少し誇らしげに答えた。地道な記録の積み重ねが、確かな手応えとなって返ってきているのを感じていた。ノートのページは、日を追うごとに少しずつ厚みを増していった。最初の頃の頼りない字は、今ではずいぶんと落ち着いた筆致に変わっている。
ある週末、美咲の誘いで隼人は彼女の祖母の家を訪ねることになった。バスに揺られること三十分、住宅街の奥まった一角にその家はあった。古い日本家屋で、玄関先には季節の花が丁寧に植えられている。庭には小さな畑があり、色とりどりの野菜が実っていた。門をくぐると、涼やかな風鈴の音が二人を出迎えた。
「おばあちゃん、この子が話してた金魚の子」
美咲が紹介すると、祖母は皺の刻まれた顔をほころばせた。着物姿の祖母は、隼人を上から下までしげしげと眺めてから、嬉しそうに何度も頷いた。
「まあ、わざわざありがとうね。品評会の話、聞きたいんだって?」
祖母は縁側に招き入れながら、二人にお茶を出してくれた。湯呑みからは、ほうじ茶の香ばしい香りが漂った。祖母は縁側に座り、ゆっくりと語り始めた。子供の頃、地区の祭りの日には村中の家々から色とりどりの金魚が持ち寄られ、庭先にずらりと並べられたのだという。
「頂天眼っていう金魚、覚えてますか」
隼人が尋ねると、祖母はしばらく考え込んだ。湯呑みを両手で包み込むように持ちながら、記憶をたどっているようだった。
「ああ、天を向いた目の金魚ね。珍しくて、見に来る人も多かったよ。ただ、育てるのが難しいって、みんな言ってたわねえ」
祖母はそう言うと、遠い記憶をたぐり寄せるように庭先の方へ視線を移した。当時、頂天眼を育てていた家は数えるほどしかなく、どんな顔ぶれだったかうっすらとは覚えているものの、はっきりとは思い出せないという。
「うちの近所にも、金魚のことになると人が変わったみたいに熱心になる人がいてね。名前は忘れちゃったけど、いつも一番いい場所に自分の金魚を並べてたっけ」
祖母はそう言うと、懐かしそうに小さく笑った。当時の賑わいを思い出すように、しばらく庭の畑に視線を向けていた。風が畑の葉を揺らす乾いた音が庭先から聞こえてきていた。
祖母は思い出したように立ち上がり、奥の間から古い写真の束を持ってきてくれた。色褪せた白黒写真の中には、庭先に並んだ金魚鉢とそれを囲む人々の姿が写っている。資料館で見たものとよく似た光景だった。
「持っていっていいよ。うちに置いといても、誰も見やしないから」
祖母はそう言って、数枚を美咲に手渡した。
祖母の記憶は断片的だったが、それでもこの土地に確かにあった金魚文化の温もりが、隼人の胸にゆっくりと染み込んでいった。
祖母の家を後にした帰り道、隼人と美咲はしばらく無言で歩いた。夕暮れの住宅街に、夕餉の支度をする匂いが漂っている。
「おばあちゃんの話、聞けてよかったね」
美咲がぽつりと言った。
「うん。天の窓のことは分からなかったけど、それでもマブイみたいな金魚を大切に育ててた人が、この町に確かにいたんだって分かった。それだけで、なんだか励まされる気がする」
隼人は素直な気持ちを口にした。目に見える答えが得られなくても、確かにそこにあった誰かの営みを知ることには、それだけの意味があるのだと隼人は感じ始めていた。
学校でも、二人が一緒にいる姿を見かけることが増えていた。
「鈴木、最近佐藤さんと仲良いじゃん」
ある日、バスケ部の友人に冗談交じりに言われ、隼人は思わず顔が熱くなった。休み時間の教室で、周囲にも聞こえるような声だったため、なおさら恥ずかしかった。隣の席の生徒たちも、興味津々といった様子でこちらを見ていた。
「違うよ。金魚の研究を一緒にしてるだけだ」
隼人は慌てて説明したが、友人はにやにやと笑うばかりだった。確かに美咲と過ごす時間は増えていたが、それを言葉にするのはまだ気恥ずかしかった。廊下ですれ違うたび、他のクラスメイトからも似たような視線を向けられることが、少しずつ増えていた。それでも隼人にとって美咲との時間は、何にも代えがたい大切なものになりつつあった。
放課後、隼人と美咲は生物室の隅を借りて、研究発表の骨子を固めていった。誰もいない生物室には、水槽のポンプの音だけが低く響いていた。テーマは「頂天眼の飼育記録と、地域に伝わる言い伝えについて」と決まった。
「序論では、マブイとの出会いから話そう。ムラさんのお父さんのこと、天の窓のことも含めて」
美咲がノートに構成案を書き出していく。彼女の几帳面な字が、白紙のページに整然と並んでいった。隼人はその手元を覗き込みながら、時折自分の考えを付け加えた。
「本論は、これまでの飼育記録が中心だね。水質と体調の変化、餌の与え方の工夫」
美咲はノートのページをめくりながら、これまで隼人がつけてきた記録をテーマごとに分類していった。水温、餌の量、マブイの泳ぎ方。ばらばらだった情報が、少しずつ一つの流れとして整理されていく。
「それと、資料館や美咲のおばあちゃんから聞いた話も、参考資料として入れられると思う」
隼人は自分のノートを見返しながら提案した。これまで集めてきた情報の一つ一つが、少しずつ意味を持ち始めているのを感じていた。構成案は、思っていたよりも早くまとまっていった。
その帰り道、隼人はふと、マブイの餌の食べ方がここ数日、心なしか鈍くなっている気がすることを思い出した。
「そういえば、最近マブイの食欲、少し落ちてる気がするんだ」
隼人は、ここ数日感じていた小さな違和感を、ようやく言葉にした。気のせいかもしれないと思いつつも、誰かに話すことでその不安を確かめたい気持ちがあった。
「水温は変わってない?」
美咲は少し心配そうに尋ねた。手元のノートには、これまでの記録がびっしりと書き込まれていた。ページの端は、何度も見返した跡で少し丸みを帯び始めていた。
「大丈夫だと思う。でも、念のため、今夜もう一度確認してみるよ」
美咲は少し心配そうな表情を浮かべたが、それ以上は何も言わなかった。隼人もこの時はまだ、それが後々どれほど大きな意味を持つことになるのか知る由もなかった。
その夜、隼人は水槽の前に座り、いつもより長い時間、マブイの様子を見つめ続けた。マブイは相変わらず美しく泳いでいたが、餌へ近づく速さは確かに以前より緩やかになっている気がした。水温計を確認し、ノートにその日の記録を丁寧に書き込む。ページをめくる手が、いつもより少しだけ重く感じられた。
「気のせいだといいけど」
隼人は小さく呟いた。水槽の中で揺れる水草の影が、電灯の光を受けてぼんやりと壁に映し出されていた。窓の外では、晩夏の気配を含んだ風がかすかに音を立てて吹き抜けていった。
正一のノートと、隼人自身のノート。二冊を並べて机の上に置きながら、隼人はふと思った。この空白のページの先に、まだ見ぬ何かが待っているのだとしたら、それを恐れずに見届けたいと。マブイは水槽の中で、いつものように上を向いた目でじっと隼人を見つめていた。
隼人はそっと水槽に手を伸ばし、ガラス越しにマブイへ触れるような仕草をした。冷たいガラスの感触だけが、指先に伝わってくる。それでも、その向こうにいる小さな命との距離が、この数週間で確かに縮まっているのを感じていた。
窓の外には、夏の終わりを告げる月が静かに浮かんでいた。品評会まで、あと二ヶ月足らず。この先に何が待っているのか、隼人にはまだ何も分からない。それでも、マブイと共に歩む一歩一歩を大切に積み重ねていこうと、隼人は心に決めていた。
水槽の中で、マブイがゆるりと尾びれを揺らした。その動きは、まるで隼人の決意に応えるかのように、いつもより一段と優雅に見えた。