ホーム天窓の魚第一章 河川敷の約束
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第一章 河川敷の約束

 朝靄が水面から立ち上っていた。淡い光の中で霧のベールが川面を覆い、世界をぼんやりとした輪郭に変えている。鈴木隼人は河川敷に佇み、竿を握る手に朝の冷気を感じていた。対岸の木々は、まだ霧に半分ほど隠れていて、輪郭だけがぼんやりと浮かび上がっていた。
 周囲には誰もいない。ただ時折、遠くで鳥の鳴き声が聞こえるだけだ。川の流れる音と、風が葦を揺らす音だけが、この空間に存在していた。学校が始まる前の貴重な時間。隼人にとって、この静寂の中で過ごす一時は何物にも代えがたかった。朝日がまだ完全に顔を出す前の、世界が色を取り戻し始める瞬間。それは一日の中で最も落ち着ける時間帯だった。
 祖父から釣りを教わったのは、隼人がまだ小学生の頃だった。祖父は三年前に他界している。あの頃、祖父は「魚は命だ。命と向き合うときは、いつだって敬意を忘れるな」と、幾度となく言い聞かせてきた。隼人はその言葉を、今もどこかで覚えている。
 祖父が亡くなってからも、隼人は一人でこの河川敷に通い続けた。誰かに教わるためではなく、ただ祖父と過ごした時間の続きを、ここでなら感じられる気がしたからだ。
 竿先がわずかに震えた。隼人は息を呑み、動きを止めた。水中の生き物と自分の間には、一本の糸だけが繋がっている。やがて小さな引きが、はっきりとした手応えに変わった。
「来た」
 声が朝の静けさに溶けていく。水面に波紋が広がり、銀色の小鮒が姿を現した。それほど大きくはないが、朝日を受けて鱗が輝いている。隼人はそっと魚を掬い上げ、しばらくその姿を見つめてから、観察用のバケツに移した。
 朝日が完全に昇りきる前に、隼人は三匹の小鮒と一匹の小鯉を釣り上げていた。各々の魚が異なる表情を見せる。特に小鯉は、淡い金色がかった鱗を持ち、他とは一線を画す輝きを放っていた。隼人はバケツの中を覗き込み、水の中で泳ぐ姿にしばらく見入った。自然界には不思議なことに、同じ種であっても一匹一匹に個性がある。それは人間と同じだと、隼人はふと思った。
 満足げに道具を片付けていると、背後から声がかかった。
「おう、隼人くん。今日も早いな」
 振り返ると、丸太のように頑丈な体つきの男が河川敷を降りてくるのが見えた。村上正雄、地元では「ムラさん」の愛称で親しまれている六十代の男性だ。退職した元土木作業員で、今は釣りを生きがいにしている。隼人とは、この川で知り合って以来の釣り仲間だった。一年ほど前、大雨で流れが大きく変わってしまった時期に、新しいポイントの見極め方を教えてくれたのがムラさんだった。それ以来、朝の河川敷で顔を合わせるのが、いつしか当たり前の習慣になっていた。
「ムラさん、おはようございます」
 隼人は丁寧に会釈をした。
「いい朝だな。何か釣れたか」
「小鮒が三匹に、小鯉が一匹です」
 ムラさんは隼人のバケツを覗き込み、満足げに頷いた。
「なかなかだ。この川も昔は、もっと多くの魚がいたんだがな」
 ムラさんは遠くを見るような目で呟いた。開発が進み、水質も変わり、川の姿は少しずつ変わってきた。隼人が生まれるよりずっと前、この河川敷一帯には、田畑が広がっていたのだとムラさんは語ったことがある。当時を知る者も、この町では年々少なくなっているという。それでも、まだこうして命を育む川に感謝しながら、二人はしばらく黙って水面を見つめた。
「そういえば、隼人くん。ちょっと相談があってな」
 釣り道具を片付けながら、ムラさんは唐突に話題を変えた。隼人は不思議そうな顔をして彼を見上げた。
「実はな、うちの親父が飼ってた金魚の、引き取り手を探しててな。もう俺一人じゃ手が回らなくなってきたんだ」
「金魚、ですか」
 隼人は意外そうな表情を浮かべた。ムラさんの家に金魚がいたとは知らなかった。
「ああ。親父の正一が、晩年、足腰が弱くなって外に出られなくなってからの楽しみだったんだ。特別な種類らしくてな。頂天眼っていう金魚なんだが聞いたことあるか」
 隼人は首を横に振った。釣りは好きだが、観賞魚の知識はほとんどなかった。
「珍しい品種でな。目が特徴的なんだ。上向きについてるんだよ。だから頂天眼って名前がついた。昔は天道眼とも呼ばれてたらしい。天を見上げる目ってことでな」
 ムラさんは手で金魚の目の位置を示しながら説明した。その手つきからも、金魚への愛着が感じられる。長年、父の傍らでその世話を見てきたのだろうその語り口には、単なる知識だけではない確かな実感がこもっていた。
「どうだ、興味あるか」
 隼人は戸惑いの表情を浮かべた。二間しかない古いアパートの一室に、新たな命を迎え入れることになる。それは簡単な決断ではなかった。金魚を飼うとなれば、水槽や餌、ポンプなど、準備するものも多い。しかし、ムラさんの困った表情を見ると、断ることもできなかった。
「少し、考えさせてください」
「ああ、もちろんだ。急かすつもりはない。ただ、あの子たちも生き物だからな。早く決めてやりたいと思ってな」
 隼人はしゃがみ込み、バケツの中の四匹を一匹ずつ、そっと川へ帰した。「ありがとう」と小さく声をかけながら、最後の小鯉が水の中に消えていくのを見届ける。釣り上げた魚を観察した後は必ず川に戻す。それが、祖父から教わって以来、隼人が欠かさず続けてきた習慣だった。
 二人は並んで河川敷を登り始めた。朝日が完全に昇り、町は日常の喧騒に包まれ始めていた。
「そういえば隼人くん、今日も学校か」
「はい、一時限目から授業があります」
 隼人は時計を確認した。まだ間に合う時間だが、急がないといけない。学校までは自転車で十五分ほどかかる。今日は道が混んでいれば、少し危ういところだった。
「勉強の方はどうだ」
「まあ、なんとかやってます」
 隼人は曖昧に答えた。真面目な性格ではあるが、成績は中の上程度。特に秀でた科目もなく、かといって落第するほど酷くもない。そんな普通の高校生だった。バスケ部に所属してはいるが、レギュラーには程遠く、ベンチを温める日々が続いている。強いて言えば、生物の授業だけは楽しいと感じていた。
「将来は何か考えてるのか」
「特に......まだ決めてないです」
 この質問は、最近よく大人たちから投げかけられる。しかし、明確な答えはまだ見つからない。好きなことは釣りだけど、それを職業にしようとは思っていない。周りの友人たちは、進学する大学や目指す職業を明確に語り始めていた。
「焦ることもないさ。でも、自分が本当に好きなことや興味あることを大事にするんだ。それが道しるべになる」
 ムラさんの言葉は優しく、隼人の心に染み入った。彼の生き方そのものが、その言葉の重みを増していた。
「じゃあ、金魚のことは考えておいてくれ。あの子たちにも、新しい住処が必要だからな」
「はい、分かりました」
 二人は土手の上で別れた。隼人は急ぎ足で自宅に向かう。今日も朝練に参加するつもりだったバスケ部の練習は、もう間に合わないだろう。彼は諦めて、直接教室に向かうことにした。部活の顧問である先生には、また釣りで休みかと言われるに違いない。しかし、そんなものは気にも留めなかった。この朝は、新たな水中の世界とのつながりを感じさせる贅沢な時間だった。
 アパートに戻り、制服に着替える間も、隼人の頭からはムラさんの提案が離れなかった。物心ついた頃から今に至るまで、隼人はペットを飼ったことがなかった。母は看護師として夜勤もあり、動物の世話をする余裕がなかったのだ。小学生の頃、クラスメイトが教室で飼っていたメダカを羨ましそうに眺めていたことを、隼人はふと思い出した。
 鏡に映る自分の顔を見つめながら、隼人は考え続けた。頂天眼。天を見上げる目を持つ金魚。どんな姿をしているのだろう。想像だけでは、ほとんど何も分からなかった。ネクタイを締めながら、彼の頭の中には、想像上の金魚が泳ぎ始めていた。
 学校への道すがら、隼人は立ち止まって空を見上げた。透き通るような青空が広がっている。頂天眼もこうして空を見上げるのだろうか。上向きの目でしか見られない景色というのは、どんなものなのだろう。彼はその思いを胸に、足早に学校へと向かった。
 放課後、隼人は図書室に立ち寄った。頂天眼について、何か手がかりがないか調べてみたかった。放課後の図書室には、数人の生徒が黙々と勉強机に向かっているだけで、いつも通り落ち着いた空気が流れている。書架の隅で観賞魚の図鑑を見つけ、ページをめくる。
 金魚は鯉が突然変異した品種から始まり、日本や中国で品種改良が進められてきたこと。様々な品種があり、体型や鰭の形、目の位置などによって分類されること。頂天眼についてはわずかな記述しかなかったが、隼人はその一文一文を丹念に読んだ。「水質の変化に敏感」「他の品種より繊細な飼育を要する」という記述に、隼人は少し不安を覚えた。図鑑に載っている頂天眼の写真はひどく色褪せていて、細部まではよく分からなかった。
「鈴木くん、珍しいね。こんな本読んでるなんて」
 突然声をかけられ、隼人は顔を上げた。クラスメイトの佐藤美咲が、不思議そうな顔で彼を見ていた。午後の柔らかな光が窓から差し込み、彼女の黒髪を優しく照らしている。図書室の静けさの中、彼女の声は意外と耳に心地よかった。
「あ、ちょっと調べものがあって」
 隼人は思わず体を少し後ろに引きながら答えた。普段あまり話さないクラスメイトに声をかけられるのは、少し緊張する。美咲は隼人の開いている本に視線を落とし、少し身を乗り出した。
「金魚の本? ペット飼うの」
「いや、まだ決めてないんだけど」
 隼人は少し戸惑いながら説明した。釣り仲間のムラさんから金魚を譲り受ける話があること、品種は頂天眼というらしいこと。言葉にしながら、その決断の重みを感じていた。
「頂天眼」
 美咲は首を傾げた。その仕草に、隼人はなぜか一瞬視線を逸らした。
「ちょうてんがん、って読むのかな。聞いたことないな」
「うん、僕も初めて聞いた」
 隼人は少し安心した様子で続けた。
「調べてみたけど、この学校の図書室にはあまり詳しい本がなくて」
 美咲は本棚の方をちらりと見やった。
「観賞魚の本、うちの学校だと数が少ないもんね。生物部の本棚にも、あまり詳しいのはないと思う」
 その一言に、隼人は少し意外な気持ちになった。てっきり、生物部なら何でも知っているものだと思い込んでいたのだ。
「そうなんだ。もっと詳しく知ってるのかと思ってた」
「魚のことなら少しは分かるけど、頂天眼は専門外かな。金魚飼ってる子、あんまりいないし」
 美咲は少し考えるような素振りを見せたが、それ以上は踏み込んでこなかった。生物部に所属していることは、隼人もなんとなく耳にしたことがあったが、これまで深く話したことはない。
 美咲は、クラスの中では物静かな印象の生徒だった。休み時間も、教室でにぎやかに過ごすよりは、廊下の窓際で植物の観察記録をつけていることが多い。それが変わっているとからかわれることもあったが、美咲自身はさほど気にする様子もなく、淡々と自分の関心事に向き合っているように見えた。隼人にとって、そんな彼女の姿は、どこか自分とは違う世界に生きているように映っていた。教室での彼女は、必要最低限のことしか話さない。それでも、生物の話題になると目の色が少しだけ変わるのを、隼人はこれまで何度か見かけたことがあった。
「そう。じゃあ、また何かあったら声かけてね」
 美咲は軽く手を振り、図書室を出て行った。隼人は彼女の後ろ姿を見送りながら、なぜか少し落ち着かない気持ちになった。これまで、クラスメイトとこんな風に言葉を交わしたことは、あまりなかった気がする。図書室の静けさが戻り、彼は再び本に目を落とした。
 家に帰る道すがら、隼人は考え込んでいた。金魚を飼うべきか否か。その決断は、彼の日常に小さな変化をもたらすだろう。変化は常に不安を伴うものだが、同時に新しい可能性も秘めている。夕暮れの街並みは、いつもと変わらないように見えるが、彼の気持ちは揺れ動いていた。
 家に着くと、母親が玄関で彼を出迎えた。
「おかえり、隼人。今日は遅かったわね」
「うん、図書室で調べものしてたから」
 母親は優しく微笑んだ。
「珍しいわね。何を調べてたの」
「金魚のこと」
 隼人は少し照れくさそうに答えた。自分でも、どこか不慣れな話題を口にしている自覚があった。母親は驚いた様子で眉を上げた。
「金魚? どうして急に」
 彼は釣り仲間のムラさんからの話を説明した。ムラさんの父、正一の形見だということ、まだ返事をしていないこと、匹数はまだ聞いていないこと。母親は最初は心配そうな表情を浮かべたが、隼人の真剣な様子を見て、次第に柔らかな表情になった。
「そう......あなたが責任を持てるなら、反対はしないわ」
 母親は看護師として、夜勤も多い日々を送っている。そんな中でも、隼人の話にはいつも真剣に耳を傾けてくれた。隼人が中学に上がる少し前、父は病気で他界していた。それ以来、母は女手一つで家計を支えてきた。隼人自身、そのことに引け目を感じたことはなかったが、母の疲れた横顔を見るたび、自分にできることは何かないかと、ふと考えることがあった。夕食の支度も、最近では隼人が担うことが増えていた。
 その言葉に、隼人は少し安心した。自室に戻り、窓から見える夕焼けを眺めながら、もう一度考えた。金魚の世話。未知の生き物との共生。その責任を負う覚悟はあるだろうか。
 これまで、隼人が何かを最後まで続けたことは、あまりなかった。バスケ部も、なんとなく友人に誘われて入っただけだった。釣りだけは祖父から教わって以来、飽きることなく続けてきた数少ない趣味だ。金魚の世話も、そんな風に続けられるだろうか。そう思うと、少しだけ不安と、それ以上の期待が胸の中で入り混じった。
「よし、引き受けよう」
 隼人は決意した。ムラさんに連絡を取り、金魚を受け取る日程を相談することにした。スマートフォンを取り出し、メッセージを送る。画面を見つめながら、返事が来るまでの短い時間さえ、やけに長く感じられた。返事はすぐに来た。
「週末、うちに来ないか。金魚と必要な道具、全部渡すよ」
 隼人は深呼吸して、「はい、お願いします」と返信した。これで決まった。
 週末、隼人はムラさんの家を訪れた。バス停から歩いて十分ほどの道のりを、水槽をどう運ぶか思案しながら歩いた。郊外の静かな住宅街にある一軒家だった。手入れの行き届いた小さな庭には、石灯籠と小さな池がある。池の水面には、初夏の日差しを受けた木漏れ日が細かく揺れていた。長年、正一が丹精込めて手入れしてきたのだろう庭木の一本一本にも、確かな年月の重みが感じられた。玄関先で鳴った呼び鈴に応えて、ムラさんが現れた。
「おう、隼人くん。よく来たな」
「お邪魔します」
 玄関を上がり、靴を脱ぐ。廊下の奥から、かすかに水音が聞こえてくる。和室の障子を開けると、そこには小さな水槽が置かれていた。中には、隼人がこれまで見たことのない奇妙な姿の金魚が泳いでいる。
「これが頂天眼か」
 隼人は息を呑んだ。金色の体に、上を向いた奇妙な目。まるで天を仰ぐような姿勢で泳ぐその魚は、確かに不思議な魅力を放っていた。体は太めで丸みを帯び、特に特徴的なのは名前の通り頭頂部に位置する目だった。まるで常に上を見上げているような姿勢で泳ぐその姿は、どこか神秘的でもあり、同時にどこか滑稽でもあった。想像していた金魚とは、まるで別の生き物のように思えた。
「ああ、これが頂天眼だ。最初は慣れないかもしれんが、飼ってみると愛着が湧くぞ」
 ムラさんは懐かしむような表情で水槽を見つめた。
「何匹いるんですか」
「全部で五匹だ。水槽と餌、必要な道具も全部あげるよ」
 ムラさんは説明を続けた。水替えの方法や餌やりの頻度、注意すべき点など。水は週に一度、三分の一程度を交換すること。水道水は必ず一日以上置いて塩素を抜くこと。餌は一日二回、彼らが食べきれる量を与えること。与えすぎは水を汚す原因になるため、少なめに調整するのが良いという。隼人は真剣な表情で聞き入り、時折メモを取った。
「気をつけないといけないのは水温だ。急激な変化に弱いからな。あと、直射日光も避けるように」
 ムラさんは水槽の隣に座り、一匹一匹を指差しながら説明した。
「この子は特に食いしん坊でな、餌の時間になると一番に来るんだ」
 その言葉には、長年共に過ごした者だけが持つ親密さが感じられた。
「分かりました。大切に育てます」
 隼人は決意を込めて応えた。
「ああ、頼むよ。親父の形見なんだ、この子たちは」
 ムラさんの目に、一瞬だけ感傷的な色が浮かんだ。
「親父さんって、どんな人だったんですか」
 隼人が尋ねると、ムラさんはしばらく黙り込んだ。やがて、湯呑みに口をつけてから、ゆっくりと語り始めた。
「親父は若い頃、金魚の品評会で認められることを夢見てたんだ。まだ戦後の混乱が残ってた時分でな。家業を継がなきゃならなかったし、家族を養うので精一杯だった。だから、夢は夢のまま、ずっと胸にしまってたんだよ」
 ムラさんは水槽の中の金魚を見つめながら続けた。当時、正一は近所でも評判の飼育熱心な青年だったという。しかし、家業の農作業に追われる日々の中で、金魚に割ける時間は限られていた。品評会に出品する夢を語る余裕さえ、次第に失われていったのだろう。
「一度だけ、若い頃に出品したことがあったらしい。でも、結果は散々だったそうだ。準備不足で、金魚の体調も万全じゃなかった。それ以来、親父は品評会って場所そのものから、距離を置くようになったって聞いてる」
 ムラさんは、当時を知らない自分でさえ、その悔しさが伝わってくるような口ぶりで言った。無理を重ねて出品した金魚は、大会の後、体調を崩して長くは生きられなかったのだという。その一件が、正一の心に深い影を落としたことは、想像に難くなかった。
 隼人は、その話を聞きながらまだ見ぬ五匹の頂天眼のことを思った。自分がもし同じ立場だったら、その痛みをどう受け止めただろうか。
「歳を取って体が動かなくなって、ようやく時間ができた頃には、もう品評会に出るような元気は残ってなかった。それでも、毎日毎日飽きもせずにこの子たちの世話をしてた。誰に見せるでもなく、ただ静かにな」
 ムラさんは、当時の父の姿を思い出すように、遠くを見つめた。足腰が弱り、外出もままならなくなった正一にとって、水槽の前に座る時間だけが、変わらない日課だったという。晴れた日には縁側まで水槽を運び、日向ぼっこをさせるように金魚たちを眺めていたと、ムラさんは付け加えた。
「見せるためじゃなかったんですね」
「ああ。若い頃は、認められたい、評価されたいって気持ちが強かったらしい。でも晩年は違った。ただ、この子たちが元気に泳いでるのを見るだけで、満足そうにしてたよ」
 隼人は、その変化の意味を、まだ完全には理解できずにいた。しかし、認められることを追い求めた末に辿り着いたあの穏やかな満足というものの重みだけは、なんとなく伝わってくる気がした。
 隼人は水槽の中で泳ぐ頂天眼を見つめた。上向きの目が、じっと自分を見返しているような気がした。この魚たちは、正一が最後まで手放さなかったささやかな喜びそのものなのかもしれない。そう思うと、隼人の中で金魚という存在への向き合い方が、少しずつ変わっていくのを感じた。
「一度だけ、親父が言ってたことがある。金魚は、飼う人間の焦りも落ち着きもそのまま吸い込んでしまうものなんだって。焦って育てれば、金魚も落ち着かなくなる。でも、丁寧に向き合えば、金魚も応えてくれるんだと」
 その言葉を口にする時、ムラさんの声には、単なる父の教えを伝えるだけではないどこか自分自身にも言い聞かせるような響きがあった。隼人は、その言葉を胸の奥にそっとしまい込んだ。まだ実感の伴わない言葉だったが、いつかその意味を自分自身で確かめる日が来るような気がしていた。
 ムラさんは立ち上がり、押し入れから古びた木箱を取り出した。そのまま棚の奥に手を伸ばし、いくつかの飼育道具も一緒に取り出した。餌の袋、予備のフィルター、水質検査用の試薬。どれも使い込まれた様子だったが、丁寧に保管されていたことが分かる。
「これは、親父が書き残していたノートだ。お前に渡しておく」
 箱の中には、古い革表紙のノートが一冊入っていた。表紙は、長年の手擦れで角が丸くなっている。ページを開くと、達筆な文字で日々の水替えの記録や、餌の分量、季節ごとの注意点などが、几帳面に綴られている。日付は十年以上前から始まっており、一日も欠かすことなく書き継がれていた。後半のページになるにつれ、文字は少しずつ震え、乱れていったが、それでも記録は途切れることなく続いていた。最後の数ページには、震える文字ながらも丁寧に線を引いた表が残されていた。
「こんな大切なもの、僕がもらっていいんですか」
「いいんだ。読んでみるといい。金魚を育てる上で、参考になることが書いてあるはずだ」
 隼人は恐縮しながらも、ありがたく受け取った。表紙の重みが、思っていたよりもずっしりと手のひらに伝わってくる。ぱらぱらとページをめくっていると、ある一行に目が留まった。他の記述とは違い、そこだけ筆致が乱れている。
「天の窓、か」
 隼人はその文字を、声に出して読んでみた。前後に説明らしきものはなく、ただ短くそう書かれているだけだった。
「ムラさん、これは何のことですか」
 ムラさんは覗き込み、少し驚いたような顔をした。
「そこにそんなことが書いてあったのか。俺も、詳しいことは知らないんだ。ただ、地元の年寄りの間じゃ、昔からうっすらと伝わってる話でな。誰かの想いを託されて大切に育てられた金魚には、ごく稀に頭のところに模様が浮かぶことがあるんだそうだ。育てる人間の心が、そのまま映るんだと」
 ムラさんは記憶をたどるように、宙を見つめた。
「親父が生きてた頃、一度だけそんな言葉を口にしたことがあった。夜中に水槽を眺めながら、独り言みたいに呟いてたんだ。天の窓が開くのを見た、って。俺は聞き返したんだが、親父はそれ以上何も言わなかった」
 その時の父の横顔を、ムラさんは今でもはっきりと覚えているという。穏やかな、それでいてどこか遠くを見るような表情だった。
「じゃあ、親父さんの金魚にも、その模様が出たってことですか」
「さあな。俺自身、この目で見たわけじゃない。だから、本当かどうかも分からん。ただの言い伝えかもしれないし、親父が見た夢か何かだったのかもしれない」
 ムラさんは曖昧に首を振った。隼人は、その謎めいた一言に、なぜか心を惹かれる自分に気づいた。筆致の乱れたその一行だけが、几帳面な正一が唯一言葉を選びあぐねた痕跡のように見えた。何を見て、何を思ってその一行を書き残したのか。それを知る術は、もう正一自身にしかないのかもしれない。それでも、隼人はこのノートの中に、まだ語られていない何かが眠っているような気がしてならなかった。
 帰り支度を整えると、隼人は水を抜いて空にした水槽を段ボールに入れ、背負った。金魚たちは、ムラさんが用意してくれた蓋つきの移送用容器に移し替え、両手で大切に抱えた。玄関先で、ムラさんは再び隼人を見つめた。
「また何かあったら相談してくれ」
「はい、ありがとうございます」
 隼人は深々と頭を下げた。単に金魚を譲り受けるだけでなく、ムラさんとその父の思い出も一緒に預かっているような気がした。ムラさんは、荷を負った隼人の背中を見送りながら、しばらく玄関先に立ち尽くしていた。その姿を、隼人は振り返ることなくそれでも背中で感じ取っていた。
 バス停までの道を、隼人はいつもより慎重に歩いた。バスに揺られる間も、膝の上の容器を気遣うように、そっと支え続けた。
 家に帰った隼人は、すぐに作業に取り掛かった。部屋の片隅にテーブルを用意し、水槽を設置する。水は、受け取りの日取りが決まった時点でバケツに汲み置きしておいたものを使った。ムラさんに教わった通り、一日以上置いて塩素を抜いてある。フィルターを設置し、水温計も取り付けた。ムラさんから受け取った砂利や水草も、丁寧に配置していった。
 全ての準備が整うまでに、予想以上に時間がかかった。窓の外は既に夕暮れ時。オレンジ色の光が水槽に反射し、幻想的な雰囲気を作り出していた。部屋の中に、ぽつんと置かれた水槽だけが、これから始まる新しい日々の証のように見えた。
「よし......行くぞ」
 隼人は慎重に金魚たちを新しい水槽に移した。まず移送用の小さな容器の水と、水槽の水の温度を合わせる。急激な温度変化はストレスになると、ムラさんから教わっていた。手のひらで水温を確かめながら、隼人は何度も水槽と容器を見比べた。少しずつ水槽の水を容器に入れ、環境に慣らしていく。そして最後に、優しく金魚たちを新しい住処へと移した。
 最初はストレスで動きが鈍かったが、徐々に水槽内を探索し始める姿に、彼は安堵の息を漏らした。五匹の頂天眼は、それぞれ少しずつ違う模様と体型をしていた。いずれも天を仰ぐような上向きの目を持っているが、体の大きさや鰭の形、黄金の輝き方には個体差がある。水草の陰から顔を出しては、また隠れるという動作を繰り返す個体もいれば、物怖じせず水槽の中央を悠然と泳ぐ個体もいた。
「ようこそ、俺の家に」
 隼人は水面に顔を近づけ、小さく囁いた。その言葉が彼らに届くかどうかは分からないが、言葉にすることで自分と金魚たちの新しい関係が始まったことを実感したかった。傾いた夕日が、水槽の水面に、細長い光の筋を描いていた。
 五匹の頂天眼は、それぞれ個性的な泳ぎ方で水槽内を回遊していた。特に一匹、他よりも金色が鮮やかな個体が隼人の目を引いた。その金魚は他よりも活発に泳ぎ、時折水面近くに上がってきては、まるで隼人を観察しているかのように見上げる。他の四匹が物陰や水草の間を好むのに対し、その一匹だけは、水槽の中央を堂々と泳ぎ続けていた。
「お前は......マブイと名付けよう」
 沖縄の方言で「魂」を意味する言葉。以前、学校の修学旅行で沖縄を訪れた時に覚えた言葉だ。なぜそれを選んだのか、自分でも分からなかったが、何か特別な存在に感じられた。他の四匹にも、それぞれの見た目から浮かんだ響きのまま、ニール、サンズ、シーラ、ゴートと名前をつけた。
 名付けながら、隼人は五匹それぞれの違いに気づき始めていた。ニールは少し臆病で、物陰に隠れがちだった。餌を与えても、他の四匹が食べ始めるまで、じっと様子をうかがっている。サンズとシーラはいつも寄り添うように泳いでいて、まるで兄弟のようだった。片方が動けば、もう片方も同じ方向へついていく。ゴートは動きこそゆっくりだが、水槽の中でどっしりとした風格を漂わせている。そしてマブイだけが、他のどの魚とも違う輝きを放っていた。
 水槽の前にしゃがみ込み、隼人はしばらくその様子を眺め続けた。たった数時間前まで、赤の他人の家にいた五匹の金魚が、今はもう自分の部屋の一部になっている。そのことが、なんだか不思議に思えた。
 窓の外はすっかり暗くなっていた。隼人は水槽の明かりだけを残し、部屋の電気を消した。五匹の頂天眼が、青白い光の中をゆるやかに泳いでいる。机の上には、正一の古いノートが置かれたままだった。
 隼人はもう一度、その表紙にそっと触れた。まだ何も分からない。ただ、この小さな水槽の中に、誰かの長い年月が確かに息づいているのだと、そんな気がしていた。ノートの最後のページには、まだ何も書かれていない真っ白な余白が残されていた。その余白を、これから自分が埋めていくことになるのだろうかと、隼人はふと思った。
 水槽の中で、マブイがゆっくりと水面近くまで上ってきた。上向きの目が、じっと隼人を見つめている。それが偶然なのか、それとも何か意味があるのか、隼人にはまだ分からない。それでも、この小さな金魚との日々が、これから何かを変えていく予感だけは、確かに胸の中にあった。
 布団に入ってからも、隼人はしばらく寝つけなかった。天井を見上げながら、今日一日の出来事を思い返す。あの日、河川敷でムラさんに声をかけられた時には、想像もしていなかった展開だった。今、自分の部屋には五匹の金魚がいる。彼らはただの観賞用の生き物ではなく、ムラさんの家族の歴史の一部でもある。そして今、その歴史の一端を、自分が引き継ぐことになったのだ。
 隣の部屋からは、母のかすかな寝息が聞こえてくる。隼人は目を閉じたまま、水槽のフィルターが立てるかすかな水音に耳を澄ませた。その規則的な音が、まるで新しい生活の始まりを告げる合図のように感じられた。
 この五匹の頂天眼との出会いが、これまでの平凡な日々に静かに、しかし確実に、新しい風を運び込み始めている。隼人はまだ知らない。この小さな水槽の中で、これから何が起きようとしているのかを。ただ、その予感だけを胸に抱いたまま、隼人はやがて静かな眠りに落ちていった。
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第二章 名付けと秘伝
天窓の魚作者:森本 凛
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第一章 河川敷の約束

 朝靄が水面から立ち上っていた。淡い光の中で霧のベールが川面を覆い、世界をぼんやりとした輪郭に変えている。鈴木隼人は河川敷に佇み、竿を握る手に朝の冷気を感じていた。対岸の木々は、まだ霧に半分ほど隠れていて、輪郭だけがぼんやりと浮かび上がっていた。
 周囲には誰もいない。ただ時折、遠くで鳥の鳴き声が聞こえるだけだ。川の流れる音と、風が葦を揺らす音だけが、この空間に存在していた。学校が始まる前の貴重な時間。隼人にとって、この静寂の中で過ごす一時は何物にも代えがたかった。朝日がまだ完全に顔を出す前の、世界が色を取り戻し始める瞬間。それは一日の中で最も落ち着ける時間帯だった。
 祖父から釣りを教わったのは、隼人がまだ小学生の頃だった。祖父は三年前に他界している。あの頃、祖父は「魚は命だ。命と向き合うときは、いつだって敬意を忘れるな」と、幾度となく言い聞かせてきた。隼人はその言葉を、今もどこかで覚えている。
 祖父が亡くなってからも、隼人は一人でこの河川敷に通い続けた。誰かに教わるためではなく、ただ祖父と過ごした時間の続きを、ここでなら感じられる気がしたからだ。
 竿先がわずかに震えた。隼人は息を呑み、動きを止めた。水中の生き物と自分の間には、一本の糸だけが繋がっている。やがて小さな引きが、はっきりとした手応えに変わった。
「来た」
 声が朝の静けさに溶けていく。水面に波紋が広がり、銀色の小鮒が姿を現した。それほど大きくはないが、朝日を受けて鱗が輝いている。隼人はそっと魚を掬い上げ、しばらくその姿を見つめてから、観察用のバケツに移した。
 朝日が完全に昇りきる前に、隼人は三匹の小鮒と一匹の小鯉を釣り上げていた。各々の魚が異なる表情を見せる。特に小鯉は、淡い金色がかった鱗を持ち、他とは一線を画す輝きを放っていた。隼人はバケツの中を覗き込み、水の中で泳ぐ姿にしばらく見入った。自然界には不思議なことに、同じ種であっても一匹一匹に個性がある。それは人間と同じだと、隼人はふと思った。
 満足げに道具を片付けていると、背後から声がかかった。
「おう、隼人くん。今日も早いな」
 振り返ると、丸太のように頑丈な体つきの男が河川敷を降りてくるのが見えた。村上正雄、地元では「ムラさん」の愛称で親しまれている六十代の男性だ。退職した元土木作業員で、今は釣りを生きがいにしている。隼人とは、この川で知り合って以来の釣り仲間だった。一年ほど前、大雨で流れが大きく変わってしまった時期に、新しいポイントの見極め方を教えてくれたのがムラさんだった。それ以来、朝の河川敷で顔を合わせるのが、いつしか当たり前の習慣になっていた。
「ムラさん、おはようございます」
 隼人は丁寧に会釈をした。
「いい朝だな。何か釣れたか」
「小鮒が三匹に、小鯉が一匹です」
 ムラさんは隼人のバケツを覗き込み、満足げに頷いた。
「なかなかだ。この川も昔は、もっと多くの魚がいたんだがな」
 ムラさんは遠くを見るような目で呟いた。開発が進み、水質も変わり、川の姿は少しずつ変わってきた。隼人が生まれるよりずっと前、この河川敷一帯には、田畑が広がっていたのだとムラさんは語ったことがある。当時を知る者も、この町では年々少なくなっているという。それでも、まだこうして命を育む川に感謝しながら、二人はしばらく黙って水面を見つめた。
「そういえば、隼人くん。ちょっと相談があってな」
 釣り道具を片付けながら、ムラさんは唐突に話題を変えた。隼人は不思議そうな顔をして彼を見上げた。
「実はな、うちの親父が飼ってた金魚の、引き取り手を探しててな。もう俺一人じゃ手が回らなくなってきたんだ」
「金魚、ですか」
 隼人は意外そうな表情を浮かべた。ムラさんの家に金魚がいたとは知らなかった。
「ああ。親父の正一が、晩年、足腰が弱くなって外に出られなくなってからの楽しみだったんだ。特別な種類らしくてな。頂天眼っていう金魚なんだが聞いたことあるか」
 隼人は首を横に振った。釣りは好きだが、観賞魚の知識はほとんどなかった。
「珍しい品種でな。目が特徴的なんだ。上向きについてるんだよ。だから頂天眼って名前がついた。昔は天道眼とも呼ばれてたらしい。天を見上げる目ってことでな」
 ムラさんは手で金魚の目の位置を示しながら説明した。その手つきからも、金魚への愛着が感じられる。長年、父の傍らでその世話を見てきたのだろうその語り口には、単なる知識だけではない確かな実感がこもっていた。
「どうだ、興味あるか」
 隼人は戸惑いの表情を浮かべた。二間しかない古いアパートの一室に、新たな命を迎え入れることになる。それは簡単な決断ではなかった。金魚を飼うとなれば、水槽や餌、ポンプなど、準備するものも多い。しかし、ムラさんの困った表情を見ると、断ることもできなかった。
「少し、考えさせてください」
「ああ、もちろんだ。急かすつもりはない。ただ、あの子たちも生き物だからな。早く決めてやりたいと思ってな」
 隼人はしゃがみ込み、バケツの中の四匹を一匹ずつ、そっと川へ帰した。「ありがとう」と小さく声をかけながら、最後の小鯉が水の中に消えていくのを見届ける。釣り上げた魚を観察した後は必ず川に戻す。それが、祖父から教わって以来、隼人が欠かさず続けてきた習慣だった。
 二人は並んで河川敷を登り始めた。朝日が完全に昇り、町は日常の喧騒に包まれ始めていた。
「そういえば隼人くん、今日も学校か」
「はい、一時限目から授業があります」
 隼人は時計を確認した。まだ間に合う時間だが、急がないといけない。学校までは自転車で十五分ほどかかる。今日は道が混んでいれば、少し危ういところだった。
「勉強の方はどうだ」
「まあ、なんとかやってます」
 隼人は曖昧に答えた。真面目な性格ではあるが、成績は中の上程度。特に秀でた科目もなく、かといって落第するほど酷くもない。そんな普通の高校生だった。バスケ部に所属してはいるが、レギュラーには程遠く、ベンチを温める日々が続いている。強いて言えば、生物の授業だけは楽しいと感じていた。
「将来は何か考えてるのか」
「特に......まだ決めてないです」
 この質問は、最近よく大人たちから投げかけられる。しかし、明確な答えはまだ見つからない。好きなことは釣りだけど、それを職業にしようとは思っていない。周りの友人たちは、進学する大学や目指す職業を明確に語り始めていた。
「焦ることもないさ。でも、自分が本当に好きなことや興味あることを大事にするんだ。それが道しるべになる」
 ムラさんの言葉は優しく、隼人の心に染み入った。彼の生き方そのものが、その言葉の重みを増していた。
「じゃあ、金魚のことは考えておいてくれ。あの子たちにも、新しい住処が必要だからな」
「はい、分かりました」
 二人は土手の上で別れた。隼人は急ぎ足で自宅に向かう。今日も朝練に参加するつもりだったバスケ部の練習は、もう間に合わないだろう。彼は諦めて、直接教室に向かうことにした。部活の顧問である先生には、また釣りで休みかと言われるに違いない。しかし、そんなものは気にも留めなかった。この朝は、新たな水中の世界とのつながりを感じさせる贅沢な時間だった。
 アパートに戻り、制服に着替える間も、隼人の頭からはムラさんの提案が離れなかった。物心ついた頃から今に至るまで、隼人はペットを飼ったことがなかった。母は看護師として夜勤もあり、動物の世話をする余裕がなかったのだ。小学生の頃、クラスメイトが教室で飼っていたメダカを羨ましそうに眺めていたことを、隼人はふと思い出した。
 鏡に映る自分の顔を見つめながら、隼人は考え続けた。頂天眼。天を見上げる目を持つ金魚。どんな姿をしているのだろう。想像だけでは、ほとんど何も分からなかった。ネクタイを締めながら、彼の頭の中には、想像上の金魚が泳ぎ始めていた。
 学校への道すがら、隼人は立ち止まって空を見上げた。透き通るような青空が広がっている。頂天眼もこうして空を見上げるのだろうか。上向きの目でしか見られない景色というのは、どんなものなのだろう。彼はその思いを胸に、足早に学校へと向かった。
 放課後、隼人は図書室に立ち寄った。頂天眼について、何か手がかりがないか調べてみたかった。放課後の図書室には、数人の生徒が黙々と勉強机に向かっているだけで、いつも通り落ち着いた空気が流れている。書架の隅で観賞魚の図鑑を見つけ、ページをめくる。
 金魚は鯉が突然変異した品種から始まり、日本や中国で品種改良が進められてきたこと。様々な品種があり、体型や鰭の形、目の位置などによって分類されること。頂天眼についてはわずかな記述しかなかったが、隼人はその一文一文を丹念に読んだ。「水質の変化に敏感」「他の品種より繊細な飼育を要する」という記述に、隼人は少し不安を覚えた。図鑑に載っている頂天眼の写真はひどく色褪せていて、細部まではよく分からなかった。
「鈴木くん、珍しいね。こんな本読んでるなんて」
 突然声をかけられ、隼人は顔を上げた。クラスメイトの佐藤美咲が、不思議そうな顔で彼を見ていた。午後の柔らかな光が窓から差し込み、彼女の黒髪を優しく照らしている。図書室の静けさの中、彼女の声は意外と耳に心地よかった。
「あ、ちょっと調べものがあって」
 隼人は思わず体を少し後ろに引きながら答えた。普段あまり話さないクラスメイトに声をかけられるのは、少し緊張する。美咲は隼人の開いている本に視線を落とし、少し身を乗り出した。
「金魚の本? ペット飼うの」
「いや、まだ決めてないんだけど」
 隼人は少し戸惑いながら説明した。釣り仲間のムラさんから金魚を譲り受ける話があること、品種は頂天眼というらしいこと。言葉にしながら、その決断の重みを感じていた。
「頂天眼」
 美咲は首を傾げた。その仕草に、隼人はなぜか一瞬視線を逸らした。
「ちょうてんがん、って読むのかな。聞いたことないな」
「うん、僕も初めて聞いた」
 隼人は少し安心した様子で続けた。
「調べてみたけど、この学校の図書室にはあまり詳しい本がなくて」
 美咲は本棚の方をちらりと見やった。
「観賞魚の本、うちの学校だと数が少ないもんね。生物部の本棚にも、あまり詳しいのはないと思う」
 その一言に、隼人は少し意外な気持ちになった。てっきり、生物部なら何でも知っているものだと思い込んでいたのだ。
「そうなんだ。もっと詳しく知ってるのかと思ってた」
「魚のことなら少しは分かるけど、頂天眼は専門外かな。金魚飼ってる子、あんまりいないし」
 美咲は少し考えるような素振りを見せたが、それ以上は踏み込んでこなかった。生物部に所属していることは、隼人もなんとなく耳にしたことがあったが、これまで深く話したことはない。
 美咲は、クラスの中では物静かな印象の生徒だった。休み時間も、教室でにぎやかに過ごすよりは、廊下の窓際で植物の観察記録をつけていることが多い。それが変わっているとからかわれることもあったが、美咲自身はさほど気にする様子もなく、淡々と自分の関心事に向き合っているように見えた。隼人にとって、そんな彼女の姿は、どこか自分とは違う世界に生きているように映っていた。教室での彼女は、必要最低限のことしか話さない。それでも、生物の話題になると目の色が少しだけ変わるのを、隼人はこれまで何度か見かけたことがあった。
「そう。じゃあ、また何かあったら声かけてね」
 美咲は軽く手を振り、図書室を出て行った。隼人は彼女の後ろ姿を見送りながら、なぜか少し落ち着かない気持ちになった。これまで、クラスメイトとこんな風に言葉を交わしたことは、あまりなかった気がする。図書室の静けさが戻り、彼は再び本に目を落とした。
 家に帰る道すがら、隼人は考え込んでいた。金魚を飼うべきか否か。その決断は、彼の日常に小さな変化をもたらすだろう。変化は常に不安を伴うものだが、同時に新しい可能性も秘めている。夕暮れの街並みは、いつもと変わらないように見えるが、彼の気持ちは揺れ動いていた。
 家に着くと、母親が玄関で彼を出迎えた。
「おかえり、隼人。今日は遅かったわね」
「うん、図書室で調べものしてたから」
 母親は優しく微笑んだ。
「珍しいわね。何を調べてたの」
「金魚のこと」
 隼人は少し照れくさそうに答えた。自分でも、どこか不慣れな話題を口にしている自覚があった。母親は驚いた様子で眉を上げた。
「金魚? どうして急に」
 彼は釣り仲間のムラさんからの話を説明した。ムラさんの父、正一の形見だということ、まだ返事をしていないこと、匹数はまだ聞いていないこと。母親は最初は心配そうな表情を浮かべたが、隼人の真剣な様子を見て、次第に柔らかな表情になった。
「そう......あなたが責任を持てるなら、反対はしないわ」
 母親は看護師として、夜勤も多い日々を送っている。そんな中でも、隼人の話にはいつも真剣に耳を傾けてくれた。隼人が中学に上がる少し前、父は病気で他界していた。それ以来、母は女手一つで家計を支えてきた。隼人自身、そのことに引け目を感じたことはなかったが、母の疲れた横顔を見るたび、自分にできることは何かないかと、ふと考えることがあった。夕食の支度も、最近では隼人が担うことが増えていた。
 その言葉に、隼人は少し安心した。自室に戻り、窓から見える夕焼けを眺めながら、もう一度考えた。金魚の世話。未知の生き物との共生。その責任を負う覚悟はあるだろうか。
 これまで、隼人が何かを最後まで続けたことは、あまりなかった。バスケ部も、なんとなく友人に誘われて入っただけだった。釣りだけは祖父から教わって以来、飽きることなく続けてきた数少ない趣味だ。金魚の世話も、そんな風に続けられるだろうか。そう思うと、少しだけ不安と、それ以上の期待が胸の中で入り混じった。
「よし、引き受けよう」
 隼人は決意した。ムラさんに連絡を取り、金魚を受け取る日程を相談することにした。スマートフォンを取り出し、メッセージを送る。画面を見つめながら、返事が来るまでの短い時間さえ、やけに長く感じられた。返事はすぐに来た。
「週末、うちに来ないか。金魚と必要な道具、全部渡すよ」
 隼人は深呼吸して、「はい、お願いします」と返信した。これで決まった。
 週末、隼人はムラさんの家を訪れた。バス停から歩いて十分ほどの道のりを、水槽をどう運ぶか思案しながら歩いた。郊外の静かな住宅街にある一軒家だった。手入れの行き届いた小さな庭には、石灯籠と小さな池がある。池の水面には、初夏の日差しを受けた木漏れ日が細かく揺れていた。長年、正一が丹精込めて手入れしてきたのだろう庭木の一本一本にも、確かな年月の重みが感じられた。玄関先で鳴った呼び鈴に応えて、ムラさんが現れた。
「おう、隼人くん。よく来たな」
「お邪魔します」
 玄関を上がり、靴を脱ぐ。廊下の奥から、かすかに水音が聞こえてくる。和室の障子を開けると、そこには小さな水槽が置かれていた。中には、隼人がこれまで見たことのない奇妙な姿の金魚が泳いでいる。
「これが頂天眼か」
 隼人は息を呑んだ。金色の体に、上を向いた奇妙な目。まるで天を仰ぐような姿勢で泳ぐその魚は、確かに不思議な魅力を放っていた。体は太めで丸みを帯び、特に特徴的なのは名前の通り頭頂部に位置する目だった。まるで常に上を見上げているような姿勢で泳ぐその姿は、どこか神秘的でもあり、同時にどこか滑稽でもあった。想像していた金魚とは、まるで別の生き物のように思えた。
「ああ、これが頂天眼だ。最初は慣れないかもしれんが、飼ってみると愛着が湧くぞ」
 ムラさんは懐かしむような表情で水槽を見つめた。
「何匹いるんですか」
「全部で五匹だ。水槽と餌、必要な道具も全部あげるよ」
 ムラさんは説明を続けた。水替えの方法や餌やりの頻度、注意すべき点など。水は週に一度、三分の一程度を交換すること。水道水は必ず一日以上置いて塩素を抜くこと。餌は一日二回、彼らが食べきれる量を与えること。与えすぎは水を汚す原因になるため、少なめに調整するのが良いという。隼人は真剣な表情で聞き入り、時折メモを取った。
「気をつけないといけないのは水温だ。急激な変化に弱いからな。あと、直射日光も避けるように」
 ムラさんは水槽の隣に座り、一匹一匹を指差しながら説明した。
「この子は特に食いしん坊でな、餌の時間になると一番に来るんだ」
 その言葉には、長年共に過ごした者だけが持つ親密さが感じられた。
「分かりました。大切に育てます」
 隼人は決意を込めて応えた。
「ああ、頼むよ。親父の形見なんだ、この子たちは」
 ムラさんの目に、一瞬だけ感傷的な色が浮かんだ。
「親父さんって、どんな人だったんですか」
 隼人が尋ねると、ムラさんはしばらく黙り込んだ。やがて、湯呑みに口をつけてから、ゆっくりと語り始めた。
「親父は若い頃、金魚の品評会で認められることを夢見てたんだ。まだ戦後の混乱が残ってた時分でな。家業を継がなきゃならなかったし、家族を養うので精一杯だった。だから、夢は夢のまま、ずっと胸にしまってたんだよ」
 ムラさんは水槽の中の金魚を見つめながら続けた。当時、正一は近所でも評判の飼育熱心な青年だったという。しかし、家業の農作業に追われる日々の中で、金魚に割ける時間は限られていた。品評会に出品する夢を語る余裕さえ、次第に失われていったのだろう。
「一度だけ、若い頃に出品したことがあったらしい。でも、結果は散々だったそうだ。準備不足で、金魚の体調も万全じゃなかった。それ以来、親父は品評会って場所そのものから、距離を置くようになったって聞いてる」
 ムラさんは、当時を知らない自分でさえ、その悔しさが伝わってくるような口ぶりで言った。無理を重ねて出品した金魚は、大会の後、体調を崩して長くは生きられなかったのだという。その一件が、正一の心に深い影を落としたことは、想像に難くなかった。
 隼人は、その話を聞きながらまだ見ぬ五匹の頂天眼のことを思った。自分がもし同じ立場だったら、その痛みをどう受け止めただろうか。
「歳を取って体が動かなくなって、ようやく時間ができた頃には、もう品評会に出るような元気は残ってなかった。それでも、毎日毎日飽きもせずにこの子たちの世話をしてた。誰に見せるでもなく、ただ静かにな」
 ムラさんは、当時の父の姿を思い出すように、遠くを見つめた。足腰が弱り、外出もままならなくなった正一にとって、水槽の前に座る時間だけが、変わらない日課だったという。晴れた日には縁側まで水槽を運び、日向ぼっこをさせるように金魚たちを眺めていたと、ムラさんは付け加えた。
「見せるためじゃなかったんですね」
「ああ。若い頃は、認められたい、評価されたいって気持ちが強かったらしい。でも晩年は違った。ただ、この子たちが元気に泳いでるのを見るだけで、満足そうにしてたよ」
 隼人は、その変化の意味を、まだ完全には理解できずにいた。しかし、認められることを追い求めた末に辿り着いたあの穏やかな満足というものの重みだけは、なんとなく伝わってくる気がした。
 隼人は水槽の中で泳ぐ頂天眼を見つめた。上向きの目が、じっと自分を見返しているような気がした。この魚たちは、正一が最後まで手放さなかったささやかな喜びそのものなのかもしれない。そう思うと、隼人の中で金魚という存在への向き合い方が、少しずつ変わっていくのを感じた。
「一度だけ、親父が言ってたことがある。金魚は、飼う人間の焦りも落ち着きもそのまま吸い込んでしまうものなんだって。焦って育てれば、金魚も落ち着かなくなる。でも、丁寧に向き合えば、金魚も応えてくれるんだと」
 その言葉を口にする時、ムラさんの声には、単なる父の教えを伝えるだけではないどこか自分自身にも言い聞かせるような響きがあった。隼人は、その言葉を胸の奥にそっとしまい込んだ。まだ実感の伴わない言葉だったが、いつかその意味を自分自身で確かめる日が来るような気がしていた。
 ムラさんは立ち上がり、押し入れから古びた木箱を取り出した。そのまま棚の奥に手を伸ばし、いくつかの飼育道具も一緒に取り出した。餌の袋、予備のフィルター、水質検査用の試薬。どれも使い込まれた様子だったが、丁寧に保管されていたことが分かる。
「これは、親父が書き残していたノートだ。お前に渡しておく」
 箱の中には、古い革表紙のノートが一冊入っていた。表紙は、長年の手擦れで角が丸くなっている。ページを開くと、達筆な文字で日々の水替えの記録や、餌の分量、季節ごとの注意点などが、几帳面に綴られている。日付は十年以上前から始まっており、一日も欠かすことなく書き継がれていた。後半のページになるにつれ、文字は少しずつ震え、乱れていったが、それでも記録は途切れることなく続いていた。最後の数ページには、震える文字ながらも丁寧に線を引いた表が残されていた。
「こんな大切なもの、僕がもらっていいんですか」
「いいんだ。読んでみるといい。金魚を育てる上で、参考になることが書いてあるはずだ」
 隼人は恐縮しながらも、ありがたく受け取った。表紙の重みが、思っていたよりもずっしりと手のひらに伝わってくる。ぱらぱらとページをめくっていると、ある一行に目が留まった。他の記述とは違い、そこだけ筆致が乱れている。
「天の窓、か」
 隼人はその文字を、声に出して読んでみた。前後に説明らしきものはなく、ただ短くそう書かれているだけだった。
「ムラさん、これは何のことですか」
 ムラさんは覗き込み、少し驚いたような顔をした。
「そこにそんなことが書いてあったのか。俺も、詳しいことは知らないんだ。ただ、地元の年寄りの間じゃ、昔からうっすらと伝わってる話でな。誰かの想いを託されて大切に育てられた金魚には、ごく稀に頭のところに模様が浮かぶことがあるんだそうだ。育てる人間の心が、そのまま映るんだと」
 ムラさんは記憶をたどるように、宙を見つめた。
「親父が生きてた頃、一度だけそんな言葉を口にしたことがあった。夜中に水槽を眺めながら、独り言みたいに呟いてたんだ。天の窓が開くのを見た、って。俺は聞き返したんだが、親父はそれ以上何も言わなかった」
 その時の父の横顔を、ムラさんは今でもはっきりと覚えているという。穏やかな、それでいてどこか遠くを見るような表情だった。
「じゃあ、親父さんの金魚にも、その模様が出たってことですか」
「さあな。俺自身、この目で見たわけじゃない。だから、本当かどうかも分からん。ただの言い伝えかもしれないし、親父が見た夢か何かだったのかもしれない」
 ムラさんは曖昧に首を振った。隼人は、その謎めいた一言に、なぜか心を惹かれる自分に気づいた。筆致の乱れたその一行だけが、几帳面な正一が唯一言葉を選びあぐねた痕跡のように見えた。何を見て、何を思ってその一行を書き残したのか。それを知る術は、もう正一自身にしかないのかもしれない。それでも、隼人はこのノートの中に、まだ語られていない何かが眠っているような気がしてならなかった。
 帰り支度を整えると、隼人は水を抜いて空にした水槽を段ボールに入れ、背負った。金魚たちは、ムラさんが用意してくれた蓋つきの移送用容器に移し替え、両手で大切に抱えた。玄関先で、ムラさんは再び隼人を見つめた。
「また何かあったら相談してくれ」
「はい、ありがとうございます」
 隼人は深々と頭を下げた。単に金魚を譲り受けるだけでなく、ムラさんとその父の思い出も一緒に預かっているような気がした。ムラさんは、荷を負った隼人の背中を見送りながら、しばらく玄関先に立ち尽くしていた。その姿を、隼人は振り返ることなくそれでも背中で感じ取っていた。
 バス停までの道を、隼人はいつもより慎重に歩いた。バスに揺られる間も、膝の上の容器を気遣うように、そっと支え続けた。
 家に帰った隼人は、すぐに作業に取り掛かった。部屋の片隅にテーブルを用意し、水槽を設置する。水は、受け取りの日取りが決まった時点でバケツに汲み置きしておいたものを使った。ムラさんに教わった通り、一日以上置いて塩素を抜いてある。フィルターを設置し、水温計も取り付けた。ムラさんから受け取った砂利や水草も、丁寧に配置していった。
 全ての準備が整うまでに、予想以上に時間がかかった。窓の外は既に夕暮れ時。オレンジ色の光が水槽に反射し、幻想的な雰囲気を作り出していた。部屋の中に、ぽつんと置かれた水槽だけが、これから始まる新しい日々の証のように見えた。
「よし......行くぞ」
 隼人は慎重に金魚たちを新しい水槽に移した。まず移送用の小さな容器の水と、水槽の水の温度を合わせる。急激な温度変化はストレスになると、ムラさんから教わっていた。手のひらで水温を確かめながら、隼人は何度も水槽と容器を見比べた。少しずつ水槽の水を容器に入れ、環境に慣らしていく。そして最後に、優しく金魚たちを新しい住処へと移した。
 最初はストレスで動きが鈍かったが、徐々に水槽内を探索し始める姿に、彼は安堵の息を漏らした。五匹の頂天眼は、それぞれ少しずつ違う模様と体型をしていた。いずれも天を仰ぐような上向きの目を持っているが、体の大きさや鰭の形、黄金の輝き方には個体差がある。水草の陰から顔を出しては、また隠れるという動作を繰り返す個体もいれば、物怖じせず水槽の中央を悠然と泳ぐ個体もいた。
「ようこそ、俺の家に」
 隼人は水面に顔を近づけ、小さく囁いた。その言葉が彼らに届くかどうかは分からないが、言葉にすることで自分と金魚たちの新しい関係が始まったことを実感したかった。傾いた夕日が、水槽の水面に、細長い光の筋を描いていた。
 五匹の頂天眼は、それぞれ個性的な泳ぎ方で水槽内を回遊していた。特に一匹、他よりも金色が鮮やかな個体が隼人の目を引いた。その金魚は他よりも活発に泳ぎ、時折水面近くに上がってきては、まるで隼人を観察しているかのように見上げる。他の四匹が物陰や水草の間を好むのに対し、その一匹だけは、水槽の中央を堂々と泳ぎ続けていた。
「お前は......マブイと名付けよう」
 沖縄の方言で「魂」を意味する言葉。以前、学校の修学旅行で沖縄を訪れた時に覚えた言葉だ。なぜそれを選んだのか、自分でも分からなかったが、何か特別な存在に感じられた。他の四匹にも、それぞれの見た目から浮かんだ響きのまま、ニール、サンズ、シーラ、ゴートと名前をつけた。
 名付けながら、隼人は五匹それぞれの違いに気づき始めていた。ニールは少し臆病で、物陰に隠れがちだった。餌を与えても、他の四匹が食べ始めるまで、じっと様子をうかがっている。サンズとシーラはいつも寄り添うように泳いでいて、まるで兄弟のようだった。片方が動けば、もう片方も同じ方向へついていく。ゴートは動きこそゆっくりだが、水槽の中でどっしりとした風格を漂わせている。そしてマブイだけが、他のどの魚とも違う輝きを放っていた。
 水槽の前にしゃがみ込み、隼人はしばらくその様子を眺め続けた。たった数時間前まで、赤の他人の家にいた五匹の金魚が、今はもう自分の部屋の一部になっている。そのことが、なんだか不思議に思えた。
 窓の外はすっかり暗くなっていた。隼人は水槽の明かりだけを残し、部屋の電気を消した。五匹の頂天眼が、青白い光の中をゆるやかに泳いでいる。机の上には、正一の古いノートが置かれたままだった。
 隼人はもう一度、その表紙にそっと触れた。まだ何も分からない。ただ、この小さな水槽の中に、誰かの長い年月が確かに息づいているのだと、そんな気がしていた。ノートの最後のページには、まだ何も書かれていない真っ白な余白が残されていた。その余白を、これから自分が埋めていくことになるのだろうかと、隼人はふと思った。
 水槽の中で、マブイがゆっくりと水面近くまで上ってきた。上向きの目が、じっと隼人を見つめている。それが偶然なのか、それとも何か意味があるのか、隼人にはまだ分からない。それでも、この小さな金魚との日々が、これから何かを変えていく予感だけは、確かに胸の中にあった。
 布団に入ってからも、隼人はしばらく寝つけなかった。天井を見上げながら、今日一日の出来事を思い返す。あの日、河川敷でムラさんに声をかけられた時には、想像もしていなかった展開だった。今、自分の部屋には五匹の金魚がいる。彼らはただの観賞用の生き物ではなく、ムラさんの家族の歴史の一部でもある。そして今、その歴史の一端を、自分が引き継ぐことになったのだ。
 隣の部屋からは、母のかすかな寝息が聞こえてくる。隼人は目を閉じたまま、水槽のフィルターが立てるかすかな水音に耳を澄ませた。その規則的な音が、まるで新しい生活の始まりを告げる合図のように感じられた。
 この五匹の頂天眼との出会いが、これまでの平凡な日々に静かに、しかし確実に、新しい風を運び込み始めている。隼人はまだ知らない。この小さな水槽の中で、これから何が起きようとしているのかを。ただ、その予感だけを胸に抱いたまま、隼人はやがて静かな眠りに落ちていった。
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