第三章 水面下の記録
週末、隼人は水槽の前で二冊のノートを見比べていた。正一の几帳面な筆跡と、自分自身の少しずつ整ってきた文字。並べてみると、まだまだ拙い部分も多いが、それでも確かな積み重ねが見えてくる。窓から差し込む夏の光が、二冊のノートの表紙を白く照らしていた。壁掛け時計の秒針が時を刻む音だけが、人けのない部屋に響いていた。
「マブイ、今日の水温は二十三度。餌の食いつきは、昨日より少し良くなったな」
隼人は独り言のように呟きながら、ノートにペンを走らせた。書き終えた文字をもう一度読み返しながら、小さく頷く。マブイは水槽の中央で、いつものように優雅に泳いでいる。食欲の落ち込みは、あれから数日で持ち直したようだった。それでも隼人はより一層、注意深く観察を続けるようにしていた。窓の外では、隣家の庭木が夏の日差しの中で葉を揺らしていた。
夕方、母がリビングで洗濯物を畳んでいた。休みの日の母は、いつもより少しゆったりとした表情をしている。隼人はその隣に座り、ノートを見せながらこれまでの記録について話した。
「毎日、こんなに細かく見てるのね」
母は感心したように言った。手にしていた靴下を丁寧に丸めながら、隼人の広げたノートを覗き込んだ。
「命を預かるって、こういうことなのかもしれないと思って」
隼人がそう言うと、母は手を止め、少し驚いた表情を浮かべた。畳みかけの洗濯物を膝に置いたまま、しばらく息子の顔を見つめていた。
「隼人がそんなことを言うようになるなんてね」
「お母さんも、毎日誰かの命と向き合ってるんだよね。病院で」
隼人がふと漏らした言葉に、母は少し目を伏せた。
「そうね。誰かの命に関わるっていうのは、ずっと気を張っていないといけないことだから。でも、それだけの重みがあるからこそ、やりがいもあるのよ」
母は洗濯物を畳む手を止め、遠くを見るような目で言葉を続けた。夜勤明けの朝、患者の容体が落ち着いているのを確認してから帰路につく瞬間が、何よりもほっとする瞬間なのだと、母は淡々と語った。
母の言葉には、看護師として長年働いてきた重みが滲んでいた。隼人はマブイの世話を通じて、少しだけ母の仕事の意味に近づけたような気がした。
その夜、隼人は自室でノートを見返しながら、これまでの記録を振り返っていた。最初の頃はたった数行だったメモが、今では見開き一ページを埋めるほどになっている。ページをめくるたびに、あの日々の光景が鮮明に思い出された。積み重ねてきた時間の重みを、ページの厚みが物語っているようだった。
学校では、美咲と過ごす時間が少しずつ増えていた。休み時間、二人は自然と隣り合って座るようになり、放課後は生物室や図書室で、研究発表の準備を進める日々が続いていた。
「今日のデータ、見せて」
美咲がノートを覗き込みながら言った。放課後の教室には、二人以外にほとんど人影がなく、窓から差し込む夕日が机の上を橙色に照らしていた。
「うん、これ」
隼人はノートを差し出した。二人の距離は、以前よりも自然に近くなっていた。以前なら意識してしまっていた沈黙も、今では心地よいものに変わりつつあった。
「そういえば、ニールたちは元気にしてる?」
美咲がふと思い出したように尋ねた。
「あ、実は先週、ムラさんの知り合いの愛好家さんが、大事に育ててくれるって言ってくれて。マブイ以外の四匹は、そちらに引き取ってもらったんだ」
隼人は、少し寂しさの滲む声でそう答えた。
「そうなんだ。急に、どうして」
「マブイの研究に集中したくて、これ以上手が回らなくなってきたのもあるけど、それだけじゃなくて。狭い水槽で五匹一緒より、それぞれもっとのびのびできる環境に移してあげた方がいいんじゃないかって、思うようになったんだ」
隼人は、ニールやサンズ、シーラ、ゴートの水槽内での様子を思い浮かべながら、そう説明した。手放す決断をするまでには、何日も悩んだ末のことだった。ムラさんに相談した時、彼はしばらく黙り込んだ後、「親父も、あの子たちがのびのび暮らせるなら、それが一番だと言うはずだ」と、力強く背中を押してくれた。
「そっか。隼人くんらしい選択だね」
美咲は優しくそう言って頷いた。その言葉に、隼人は少しだけ肩の荷が下りたような気がした。
「ねえ、この前のクッキー、また作ってきたんだ」
「本当? ありがとう」
隼人は素直にそう答えた。前回のクッキーの優しい甘さの記憶が、まだ舌の奥に残っているような気がした。こんな何気ないやり取りがいつのまにか日常の一部になっていることに、彼自身が一番驚いていた。
教室では、二人の様子に気づいたクラスメイトたちが時折冷やかすような視線を向けてくることもあったが、隼人はもうそれをさほど気にしなくなっていた。マブイのことを話す時、自然と表情が明るくなる自分に、隼人自身も気づき始めていた。
クラスの女子たちからも、二人のことを何かと聞かれることがあるらしい。それでも美咲はまるで意に介する様子もなく、いつも通り淡々と授業を受け、放課後になると迷わず生物室や隼人のアパートへと足を向けていた。
水質管理の作業も、以前より格段に丁寧になっていた。週に一度の水替えでは、古い水と新しい水の温度差を必ず確認し、カルキ抜きをした水を使う。正一のノートに書かれていた手順を、隼人は一つ一つ確かめながら実践していった。
水槽の底に溜まった汚れを、専用のポンプで丁寧に吸い出す。フィルターの掃除も、月に一度は欠かさず行うようになった。こうした地味な作業の一つ一つが、マブイの元気な泳ぎ方に確かに繋がっているのだと、隼人は実感していた。作業を終えた後の水槽は、いつも心なしか輝いて見えた。
「pH値も測るようになったんだ」
ある日、美咲が水槽の脇に置かれた試験紙を見て言った。透明な小瓶に入った試験紙は、几帳面に日付ごとのラベルが貼られている。棚の上には、他にもアンモニア濃度を調べるキットや、硬度を測る器具まで並んでいた。
「うん、生物部から借りたキットで。前より細かく分かるようになったよ」
隼人は少し得意げに答えた。数値化された情報が増えるにつれ、マブイの体調管理にも確かな手応えを感じられるようになっていた。棚に並んだ器具の一つ一つが、隼人にとって日々の努力の証のように思えた。
「そういえば、マブイの頭のところ、前からちょっと気になってたんだけど」
ある日、水槽を覗き込みながら美咲がふと言った。
「え?」
「ここ、この辺り。よく見ると、うっすら影みたいなものがあるでしょう。模様って言うほどはっきりしたものじゃないけど」
美咲が指さした場所を、隼人も覗き込んだ。言われてみれば、頭頂部の上向きの目の周りに、目を凝らさなければ分からないほどの淡い陰影のようなものが確かにあった。
「本当だ......気づかなかった」
「天の窓の言い伝えのこと、思い出しちゃった。関係あるのかな」
「どうだろう。ムラさんも見たことないって言ってたし、ただの色ムラかもしれない」
隼人はそう言いながらも、その淡い影をノートの隅にそっと書き留めておいた。この時はまだ、それがどれほどの意味を持つことになるのか、二人とも知る由もなかった。
放課後の生物室では、研究発表の資料作りが本格化していた。パソコンの起動音とキーボードを叩く音だけが、人けのない部屋に響いている。美咲は、これまでの記録をグラフにまとめる作業を担当してくれていた。
「水温とマブイの活動量、こうして並べてみると、関係性が見えてくるね」
美咲がノートパソコンの画面を指しながら言った。折れ線グラフには、この数週間の変化が丁寧に可視化されている。色分けされた線が、水温の上下と活動量の増減を視覚的に示していた。
「本当だ。水温が下がると、動きも少し鈍くなってる」
隼人はグラフを覗き込みながら、感心したように言った。これまで自分が肌で感じていた「なんとなくの違和感」が、こうして数字として示されると、より確かな手応えになって返ってくる気がした。
美咲はさらに、餌の量と体調の関係についてもグラフ化を進めていた。地道な作業だったが、二人で一つずつ積み上げていく充実感がそこにはあった。パソコンの画面には、色分けされた複数の折れ線が複雑に絡み合いながらも、確かな傾向を示し始めていた。放課後の生物室に差し込む夕日が、画面の色を一層鮮やかに見せていた。
「あとは、頂天眼の体の特徴についても、もう少し詳しく調べておきたいな」
美咲の提案に、隼人は頷いた。学校の図書室だけでなく市立図書館にも足を運んで、専門的な資料を探すことにした。二人で分担して、それぞれの視点から情報を集めようと決めた。
週末、隼人は一人で市立図書館を訪れた。学校の図書室よりもずっと広い館内は、静かで落ち着いた空気に包まれている。観賞魚の専門書のコーナーで、頂天眼についての詳しい記述がある本を探す。何冊か手に取り、じっくりと読み比べた末に、一冊の専門書を借りることにした。
閲覧席に座り、ページをめくる隼人の隣では、参考書を広げた学生らしき利用者が黙々とノートに向き合っていた。鉛筆の走る音と時折めくられるページの音だけが、広い空間に低く響いている。その澄んだ空気の中、隼人もまた自分なりの探求に没頭していった。
本には、頂天眼が中国原産の品種であり、江戸時代に日本へ伝来したこと、目の位置や体型のバランスが審査の重要な基準になることなどが記されていた。隼人はノートに要点を書き写しながら、これまで肌で感じてきたことが少しずつ体系立った知識として繋がっていくのを感じた。図書館の閉館時間を告げる放送が流れるまで、隼人は夢中でページをめくり続けた。
本の後半には、頂天眼を扱った歴代の品評会の記録も、簡単にではあるが紹介されていた。過去の受賞個体の写真を見ながら、隼人はマブイの姿を思い浮かべ、その美しさを重ね合わせずにはいられなかった。
さらにページをめくると、全国各地で開催されている金魚品評会の一覧が目に留まった。地方予選を勝ち抜いた個体だけが、より大きな大会に進めるという仕組みも、そこに改めて詳しく記されていた。今回自分たちが出場する大会が、その最初の一歩に過ぎないのだと知り、隼人は身の引き締まる思いがした。
「品評会では、色艶と泳ぎ方の優雅さが特に重視される」という一文に、隼人は目を留めた。マブイの持つ独特の輝きは、この基準に照らせば決して見劣りするものではないはずだと、密かに自信を持ち始めていた。
その夜、隼人は水槽の照明を、専門書で紹介されていた種類のものに変えてみようかと考えた。翌日、電気店に足を運び、金魚の体色をより美しく見せるとされるライトを購入した。店員に相談しながら、いくつかの商品を比較した末の選択だった。少し値が張ったが、貯めていたお小遣いを使うことにした。
新しいライトを取り付けると、水槽全体の雰囲気が一変した。マブイの金色の鱗が、これまで以上に鮮やかに輝いて見える。隼人はしばらくの間、水槽の前を離れることができなかった。光の角度を少しずつ変えながら、マブイが最も美しく見える位置を探る作業に時間を忘れて没頭した。しかし同時に、これが本当にマブイのためになっているのか、それとも自分の見栄のためなのか、ふとした瞬間に小さな疑問が胸をよぎることもあった。
翌週、隼人は借りた本を持って、ムラさんの家を訪れた。庭先の百日紅が、真夏の日差しを受けて鮮やかに咲いていた。玄関先の池では、鯉が数匹ゆったりと泳いでいた。門をくぐると、蝉時雨がふわりと隼人を包み込んだ。ムラさんは縁側で茶を飲みながら、隼人の訪問を待っていたようだった。本の内容に目を通しながら、懐かしそうに頷いた。
「ああ、これは昔からある基本書だな。親父も似たようなことを言ってたよ」
ムラさんは本のページをゆっくりとめくりながら、当時を懐かしむように目を細めた。
「色艶と泳ぎ方が大事っていうのは、ムラさんのお父さんも言ってたんですか」
隼人は身を乗り出すようにして尋ねた。専門書に書かれていた内容と実際に金魚を育てていた人の言葉が、どう重なるのか知りたかった。
「ああ。ただ、親父はいつも、それだけじゃないとも言ってた。見た目の美しさだけじゃなく、その金魚がどれだけ大切にされてきたかっていうのも、なんとなく伝わるものなんだと」
ムラさんは縁側に腰掛けながら、遠い記憶をたどるように目を細めた。当時の正一がそう語っていた時の様子を、今も鮮明に覚えているようだった。
ムラさんの言葉に、隼人は考え込んだ。数値化できる基準と、そうでない何か。その両方が、審査には関わっているのかもしれない。
「餌についても、何かコツがあるんですか」
隼人は本のページをめくりながら尋ねた。専門書には書かれていない実践的な知恵を、ムラさんから直接聞いておきたかった。
「色揚げに効果がある餌もあるにはあるが、与えすぎは禁物だ。基本は、栄養バランスの良い餌を決まった量、決まった時間にやることだな。特別なことより、当たり前のことを当たり前に続けることの方が大事なんだ」
ムラさんの言葉は、これまで隼人が積み重ねてきた日々の記録と重なるものだった。特別な魔法のような方法があるわけではなく、地道な積み重ねこそが確かな結果に繋がるのだと、改めて実感した。
ムラさんの家を出ると、隼人はその足で河川敷へ向かった。市立図書館で調べ物をしていた美咲と、夕方に落ち合う約束をしていたのだ。土手の上で手を振る姿を見つけて、隼人は駆け寄った。
「ムラさん、なんて言ってた?」
「うん、それが......」
隼人は歩きながら、聞いたばかりの話を美咲に伝えていった。川面には、夕日の赤が長く伸びて映り込んでいる。トンボが数匹、水面すれすれを飛び交っていた。この場所でムラさんと初めて出会ってから、もう一年以上が経っていることが、隼人にはふと不思議に思えた。
「当たり前のことを、当たり前に続ける、か」
美咲はその言葉を、噛みしめるように繰り返した。
「うん。なんだか、研究も同じかもしれないね。派手な発見がなくても、丁寧に積み重ねていくことに意味があるんだと思う」
その言葉に、美咲は深く頷いた。それから思い出したように、鞄からコピー用紙の束を取り出す。
「そうだ、私も図書館で見つけたよ。地域の民俗誌に金魚にまつわる言い伝えの分類が少し載ってた。天の窓そのものではなかったけど、似たような『生き物に想いが宿る』系の話は、この辺りにいくつかあったみたい」
美咲がコピーを手渡しながら説明した。隼人はそれを受け取り、じっくりと目を通した。二人で分担した成果が、少しずつ形になっていくのを隼人は嬉しく感じた。
しかし、その充実感とは裏腹に、隼人の中では少しずつ違う感情が芽生え始めていた。予選の日が近づくにつれ、専門書で読んだ「審査基準」という言葉が、頭の片隅に常に引っかかるようになっていた。誰にも見せていない自分だけの焦り。それが少しずつ胸の中で膨らんでいくのを、隼人自身、まだうまく言葉にできずにいた。夕暮れの河川敷を吹き抜ける風が、日中の熱を少しだけ和らげていた。
ある夜、隼人はノートに新しい項目を書き加えていた。「体色をより鮮やかにする方法」「泳ぎ方を美しく見せる工夫」。ペン先が、これまでよりも少し急いた動きで、ページの上を滑っていく。これまでの記録が、マブイの健康を見守るためのものだったのに対し、この新しい項目は、どこか「結果を出すため」の色合いを帯び始めていた。
新しく買ったライトのことも、その日の記録に書き加えた。しかし、これまでのような、素直な観察の記録とはどこか筆致が違っていることに、隼人はまだ気づいていなかった。
夏休みが明け、二学期が始まった頃、申込書類の提出期限が迫っていた。隼人と美咲は、放課後の生物室で最後の見直しを行った。誤字脱字がないか、記入漏れがないか、二人で何度も確認し合った。
「これで、提出できそうだね」
美咲が書類を確認しながら言った。開け放した窓から、蝉の声に混じって、遠くの吹奏楽部の音が流れ込んでくる。二人が座る机の上には、これまで書き溜めてきたノートと書類の控えが丁寧に並べられている。
「うん。あとは、当日までにできることを精一杯やるだけだ」
隼人は決意を込めて答えた。二人はその日のうちに、申込書類を郵便局から投函した。生物室を出て、自転車を押しながら並んで歩く道のりは、いつもより少し長く感じられた。夕暮れの郵便局は、他に客の姿もなく静かだった。ポストに書類を入れる瞬間、隼人は改めて後戻りのできない一歩を踏み出したのだと実感した。
ポストの投函口が閉じるかちゃりという小さな音が、やけに大きく聞こえた気がした。
書類を提出した数日後、二人は放課後の生物室で発表の練習を始めた。校内には、夏の名残を感じさせる暑さが残っていた。まだ原稿もできていない段階だったが、まずは口頭で、これまでの経緯を順番に話してみることにした。
「最初は、ムラさんに金魚を譲り受けたところから始めよう」
美咲が提案すると、隼人は頷き、その日の記憶をたどりながら少しずつ言葉にしていった。あの朝の川霧の匂いや、ムラさんの穏やかな声色までもが、鮮やかに蘇ってくるようだった。話しているうちに、これまでの数ヶ月間が思っていたよりもずっと濃密な時間だったことに、改めて気づかされた。傾いた日差しが、二人の影を長く生物室の床に伸ばしていた。
「うまく話せるかな、当日」
隼人が不安を漏らすと、美咲は柔らかく微笑んだ。生物室の水槽から漏れるポンプのかすかな音だけが、二人の間の沈黙を埋めていた。
「大丈夫だよ。私たちが実際に経験してきたことだもの。飾らずに話せば、きっと伝わると思う」
美咲の言葉に、隼人は不安が少しだけ和らぐのを感じた。
発表の練習と並行して、隼人はマブイを当日安全に運ぶための準備も進めていた。ムラさんに相談したところ、専用の運搬用容器を貸してくれることになった。
「これなら水温も保ちやすいし、揺れにも強い。俺が親父の代から使ってきたものだ」
ムラさんが差し出したのは、古いが手入れの行き届いた発泡スチロール製の容器だった。長年愛用されてきたのだろう。隅々まで丁寧に補修された跡が見て取れる。蓋の内側には、油性ペンで書かれた小さな文字で「正一」という名前が記されていた。文字は色褪せかけていたが、それでもはっきりと読み取ることができた。
「大切に使わせていただきます」
隼人は両手でそれを受け取りながら、深く頭を下げた。手のひらに伝わる容器の重みが、これまで受け取ってきた様々な想いの重さとどこか重なるような気がした。この容器もまた、正一の時代から受け継がれてきた想いの詰まった道具の一つなのだと思うと、自然と背筋が伸びる思いがした。
予選まで残り一ヶ月を切った頃から、隼人の生活は、これまで以上にマブイ中心のものになっていった。朝は誰よりも早く起きて水質を確認し、学校から帰ればすぐに水槽の前に座る。休日も、ほとんどの時間を水槽の世話と記録に費やすようになっていた。友人からバスケの誘いを受けても、断ることが増えていった。
「最近、付き合い悪くなったな」
ある日、友人に軽い口調でそう言われ、隼人は苦笑いを返すことしかできなかった。バスケ部の練習後、いつもなら一緒に寄り道していたファストフード店にも、最近は顔を出さなくなっていた。悪気はないと分かっていても、その一言が胸の奥に小さな棘のように残った。
自転車を漕ぎながら帰る道すがら、隼人はその言葉を何度も反芻していた。友人を蔑ろにしているつもりはなかったが、限られた時間の中でマブイのことを優先せざるを得ない自分がいることも、また事実だった。
それでも、隼人はマブイの水槽の前に座る時間を減らそうとは思わなかった。この積み重ねの先に、きっと何かが待っているはずだと、自分に言い聞かせるようにして日々の記録を続けていった。
ある放課後、隼人は自分に注がれる美咲の視線が、以前とは少し違うことに気づいた。以前は「マブイが元気に泳いでいるだけで嬉しい」と笑っていた自分が、最近では「もっとこうすれば良くなるかもしれない」と、常に何かに追い立てられるように話してばかりいることに、隼人自身、薄々気づき始めていた。教室の窓から差し込む西日が、二人の間に落ちる沈黙を、赤く照らしていた。
「隼人くん、最近ちょっと根を詰めすぎてない?」
美咲がさりげなく尋ねると、隼人は少し驚いたように顔を上げた。
「そんなことないよ。ただ、できることはやっておきたいだけで」
隼人はそう答えたが、その声には、自分でも気づいていないわずかな余裕のなさが滲んでいた。美咲は、それ以上は何も言わず、ただじっと水槽の中のマブイを見つめていた。その横顔に、隼人はどこか物言いたげな気配を感じたが、それが何なのかを尋ねる余裕はこの時の隼人にはなかった。
その週末、夕食の席で、母がふと箸を止めた。以前は水槽の前で鼻歌を歌っていたのに、最近は難しい顔でノートとにらめっこしてばかりいる。母がそのことに気づいていることを、隼人は自分に向けられた視線から、なんとなく感じ取っていた。
「根を詰めすぎないようにね」
母が何気なくそう声をかけた。
「うん、大丈夫」
隼人は短くそう答えたが、その返事もどこか上の空だった。母はそれ以上追及せず、ただじっと息子の横顔を見つめていた。
その夜、隼人は水槽の前で、いつものように記録をつけていた。ふと、マブイの泳ぎ方が、心なしかぎこちなく見えることに気づいた。ペンを止め、隼人はしばらくマブイの動きを注視した。新しく導入したライトの光量が少し強すぎるのかもしれないと思い、慌てて調整ボタンに手を伸ばす。
「ごめん、眩しかったかもしれない」
隼人は小さく呟き、光量を落とした。手元のリモコンを何度も操作しながら、マブイの反応を確かめる。マブイはしばらくすると落ち着きを取り戻し、いつも通りの優雅な泳ぎに戻っていった。それでも隼人の胸には、小さな不安の種がまた一つ蒔かれていた。
水槽の前に座り込んだまま、隼人はしばらく動けずにいた。予選までの残り日数を数えながら、これまでの日々を振り返る。マブイのために始めたはずのことが、いつのまにか少しずつ違う方向へ向かっているような、そんな漠然とした違和感が胸の奥に少しずつ積もり始めていた。
窓の外には、すっかり秋めいた夜空が広がっていた。星の瞬きを見上げながら、隼人は、この先に待っているものが何なのか、まだ想像もできずにいた。水槽の中では、マブイが変わらぬ美しさでゆるやかに水を掻いていた。
翌朝、隼人は登校前にもう一度水槽を覗き込んだ。マブイは変わらず美しく泳いでいたが、昨夜のぎこちなさの記憶がまだ胸の奥に小さく残っていた。「大丈夫、気のせいだ」と自分に言い聞かせながら、隼人は鞄を背負って玄関を出た。玄関先の空気は、すっかり秋の冷たさを帯びていた。
学校では、いつも通り美咲と研究発表の相談を続けた。しかし、以前のように無邪気にマブイの成長を喜び合うだけでなく、隼人の口からは「予選までにあと何ができるか」という言葉が、より頻繁に出るようになっていた。放課後の教室には、二人の他に数人の生徒が残っているだけだった。
「隼人くん、最近ちょっと」
美咲が何かを言いかけたが、途中で言葉を飲み込んだ。生物室の窓から差し込む夕日が、彼女の横顔を橙色に染めていた。
「ん?」
「ううん、なんでもない。頑張ろうね」
美咲はそう言って微笑んだが、その笑顔の奥に、これまでとは違う何かがあるように隼人にはふと感じられた。それでも二人は、その日もいつも通り、放課後の生物室で作業を続けた。パソコンの画面には、これまでの記録が一行ずつ積み重なっていった。
夕暮れ時、隼人が一人で下校する道すがら、河川敷でムラさんの姿を見かけた。竿を垂れるその後ろ姿は、いつもと変わらず穏やかだった。夕日を浴びた川面が、橙色にきらめいている。隼人は声をかけようか迷ったが、なんとなく今日はそっとしておきたい気分になり、遠くから会釈だけをして通り過ぎた。
家に帰ると、母がキッチンで夕食の支度をしていた。味噌汁の匂いが廊下まで漂ってくる。まな板の上で野菜を刻むリズミカルな音が響いていた。
「おかえり。今日は早かったのね」
「うん、ちょっと疲れて」
隼人は曖昧に答え、自室に向かった。水槽の前に座り、いつものようにノートを広げる。しかし、今日はなかなかペンが進まなかった。これまで積み重ねてきた記録の意味を、ふと見失いかけているようなそんな感覚があった。カレンダーに書き込んだ予選の日付が、以前よりもずっと近くに見えた。
マブイは、そんな隼人の様子を知ってか知らずか、水槽の中央でゆったりと尾びれを揺らしていた。上向きの目が、じっと隼人を見つめている。その瞳に何か答えを求めるように、隼人はしばらくの間ただ黙って水槽を見つめ続けた。
週末、隼人は思い切ってムラさんの家を訪ねた。何か話したいわけではなかったが、なんとなくムラさんの顔を見て安心したい気持ちがあった。
「おう、隼人くん。どうした、浮かない顔して」
ムラさんは玄関先で隼人を迎えるなり、すぐに異変を察したようだった。長年、様々な人と接してきた経験からか、その観察眼は鋭かった。
「いえ、大したことじゃないんです。ただ、なんだか、最近マブイのことばかり考えすぎてる気がして」
隼人は正直な胸の内を、少しずつ言葉にしていった。予選が近づくにつれて生まれた焦り、友人との距離、美咲が何かを言いかけてやめたこと。話しているうちに、これまで自分でも気づかなかった感情が、次々と言葉になって溢れ出してきた。誰かに話すことで、自分の中の靄が少しずつ晴れていくような感覚があった。
ムラさんは黙って隼人の話に耳を傾けていた。話し終えると、しばらく間を置いてからゆっくりと口を開いた。
「隼人くん、それは悪いことじゃない。何かに夢中になるっていうのは、そういうものだ。ただ、時々立ち止まって、自分が何のためにそれをやってるのか、確かめる時間も大事だぞ」
ムラさんの言葉は、これまで聞いてきたどの助言よりも隼人の胸の奥まで届いた。縁側から見える庭の景色を、しばらく二人で黙って眺めていた。
「僕は、何のために頑張ってるんでしょうか」
隼人が思わずそう漏らすと、ムラさんは優しく微笑んだ。夕暮れの光が、ムラさんの顔に深い陰影を作っていた。
「それは、隼人くん自身が、これから見つけていくことなんじゃないか。焦らなくていい。ゆっくりでいいんだ」
その言葉に、隼人は胸につかえていたものが少しだけ軽くなるのを感じた。すぐに答えが出るわけではなかったが、この問いを抱え続けること自体にも意味があるのかもしれないと、初めて思えた。
ムラさんの家からの帰り道、隼人は美咲に電話をかけた。
「今日、ムラさんのところに行ってきたんだ」
隼人は歩きながら、スマートフォンを耳に当てていた。夕暮れの道に、隼人の足音だけが響いていた。
「そうなんだ。どうだった?」
「うん......色々話を聞いてもらって、少し楽になった気がする。この前、何か言いかけてやめてたよね。あれ、なんだったの」
電話越しに、美咲が一瞬黙り込んだのが分かった。
「うん......ちょっとだけ、隼人くんが無理してるように見えたから。でも、うまく言葉にできなくて」
美咲の声には、これまでにない遠慮がちな響きがあった。スマートフォン越しでも、その戸惑いが伝わってくるようだった。
「ありがとう。心配かけてたんだね」
隼人は素直にそう伝えた。マブイのことばかりに気を取られて、すぐ隣にいる美咲の気持ちに十分に目を向けられていなかったのかもしれないと、今更ながらに気づかされた。夜道を歩きながら、隼人は自分の視野の狭さをひとり反省していた。
「予選まで、あと少しだね」
美咲がそう言うと、隼人は小さく頷いた。電話の向こうから、彼女の落ち着いた息遣いが伝わってくるようだった。
「うん。悔いのないように、やれることをやろう」
電話を切った後、隼人はしばらく夜空を見上げていた。星々の瞬きの向こうに、これから待ち受ける予選の日々を思い描きながら、隼人はもう一度気持ちを整え直していた。
部屋に戻ると、隼人はまず水槽の前に座った。今日は数値を測るためではなく、ただマブイの様子を眺めるためだけに、しばらく時間を過ごすことにした。餌をやるでもなく、水温を測るでもなく、ただじっと水槽を見つめる。マブイは、そんな隼人の視線に応えるように、ゆったりと水槽の中を回遊していた。
「ごめんな、マブイ。最近、ちゃんと見てあげられてなかったかもしれない」
隼人は小さく呟いた。数値やグラフでは表せないこの時間の大切さを、隼人は改めて噛みしめていた。ムラさんの父が、晩年になって辿り着いたという境地に、ほんの少しだけ近づけたような、そんな気がした。誰にも見せるためではなく、ただそこにいる命と向き合う時間。それこそが、これまで見失いかけていたものなのかもしれなかった。
その夜、隼人はノートに、これまでとは違う一文を書き加えた。「今日は、ただマブイを見ていた。それだけで、十分だった」。飾らない、素直な言葉だった。ページの余白には、いつものような細かい数値の代わりに、この短い一文だけがぽつんと書かれていた。
どこかで、秋の虫が絶え間なく鳴いていた。予選の日は、もうそこまで近づいている。隼人はまだ知らなかったが、この振り返りの時間こそが、これから訪れる試練を乗り越えるための、確かな支えになっていくのだった。
水槽の水面に映る月明かりが、静かに揺れていた。マブイはその光を受けながら、変わらぬ美しさで、ゆったりと水を掻き続けている。予選という大きな節目を前に、隼人はようやく、本当に大切なものが何なのかを少しずつ見つめ直し始めていた。