第五章 軋みと和解
全国大会の正式な案内が届いたのは、地方予選から一週間後のことだった。隼人は封筒を受け取ると、震える手でそれを開いた。分厚い封筒の中には、大会の概要をまとめた冊子と出場者への注意事項が記された用紙が入っていた。
「全国頂天眼品評会及び学生研究交流会」という文字が、案内状の一番上に大きく印刷されている。開催日は来月の第三土曜日、会場は隣県の大きな展示場だった。案内状には、当日のタイムスケジュールや輸送に関する注意事項も細かく記載されていた。
隼人はその案内状を、何度も繰り返し読んだ。地方予選とは比べ物にならない規模であることが、資料の端々から伝わってくる。全国から選ばれた出品者たちの中には、これまで専門書でしか見たことのないような著名な養魚家の名前も含まれているようだった。冊子には、過去の大会で優勝した個体の写真も掲載されており、その気品ある佇まいに隼人は思わず息を呑んだ。写真の中の金魚は、まるで別次元の存在のように、堂々とした輝きを放っていた。
「本当に、僕なんかが出て大丈夫なんだろうか」
隼人は一人、水槽の前でそう呟いた。マブイは変わらず優雅に泳いでいたが、隼人の胸にはこれまでにない重圧がのしかかり始めていた。窓の外を見ると、夕暮れの空に鳥の群れが飛び去っていくのが見えた。日々の何気ない光景さえ、今の隼人にはどこか落ち着かないものに感じられた。机の上に置かれた案内状の冊子は、何度も開いた跡で既に角が丸くなり始めていた。
翌日、隼人は美咲に案内状を見せた。休み時間の教室で、二人は資料を広げながら顔を寄せ合った。周囲の生徒たちの話し声が遠くのざわめきのように感じられた。
「すごい規模だね」
美咲もまた、資料に目を通しながら驚きの表情を浮かべていた。冊子のページをめくる指先が、心なしか震えているようにも見えた。
「うん。だからこそ、今度は絶対に一位を取りたいんだ」
隼人は強い口調でそう言った。二位という結果への悔しさが、いつのまにか「絶対に負けられない」という強迫観念に近い感情に変わりつつあることに、隼人自身はまだ気づいていなかった。教室の喧騒の中、その言葉だけが妙にはっきりと響いた。隣の席の生徒が、何気なくこちらを振り返るほどだった。
「一位、か」
美咲は少し複雑そうな表情を浮かべた。しかし、それ以上は何も言わず、じっと案内状を見つめ続けた。
その日から、隼人の飼育記録はこれまでとは違う色合いを帯びていった。マブイの体調管理は、健康を見守るためというより審査で高評価を得るための調整へと、少しずつ変わっていった。放課後の時間の使い方も、いつのまにか「マブイのため」から「結果のため」へと、その重心が移っていた。
「もう少し体色を鮮やかにできないだろうか」
隼人は専門書を読み返しながら、色揚げ効果があるとされる餌を以前よりも頻繁に与えるようになっていた。パッケージの裏に書かれた成分表を何度も確認しながら、いつもより多めに餌箱から餌をすくい取る自分に、隼人はまだ気づいていなかった。夕暮れの水槽に餌の粒がゆっくりと沈んでいく様子を、隼人はただ見つめていた。ムラさんから「与えすぎは禁物だ」と忠告されていたことも頭の片隅にはあったが、全国大会という目標の前では、その言葉が次第に薄れていくのを感じていた。
ある土曜日、隼人は美咲が訪ねてきた際に、水温を急激に上げる実験を試みようとしていた。専門書に「短期的な水温変化が、体色をより鮮やかにする場合がある」という記述を見つけたためだった。前日、電気店で急いで購入してきたヒーターが、まだ箱から出したばかりの状態で水温計や専門書のコピーと一緒に机の上に並べられている。
「隼人くん、それ、本当にやるつもりなの」
美咲は、隼人が用意していた温度調整の道具を見て、驚いた声を上げた。信じられないという表情で、机の上のヒーターを見つめている。
「うん。全国大会まで、あまり時間がないから」
「でも、これって、マブイに負担をかけることにならない?」
美咲の声には、これまでにない強さが込められていた。
「大丈夫だよ。ちょっとの間だけだから」
隼人は、美咲の心配を軽く受け流すように答えた。しかし、その言葉には、自分でも気づかないうちに苛立ちに似た響きが混じっていた。部屋の温度計が示す数字ばかりに気を取られ、隼人の視線は美咲の表情にまで向いていなかった。壁掛け時計の秒針の音が、やけに大きく感じられた。
「ちょっとの間だけでも、マブイにとっては大きな負担になるかもしれないよ」
美咲は、隼人が手にしていたヒーターの温度調整つまみにそっと手を伸ばした。その指先は、心配そうに小さく震えていた。
「やめて。これは僕とマブイの問題だから」
隼人は思わず、美咲の手を払いのけるように強い口調で言い放った。その瞬間、部屋の空気がこれまでにないほど張り詰めたものになった。
美咲は、しばらく黙ったまま隼人の顔を見つめていた。その目には、驚きと深い悲しみが入り混じっているように見えた。
「......分かった。隼人くんがそう言うなら」
美咲は短くそう言うと、鞄を手に取り、そのまま部屋を出て行った。ドアが閉まる音が、いつもよりずっと重く響いた。廊下を遠ざかっていく足音が、次第に小さくなっていくのを隼人はただ聞いていることしかできなかった。隼人は、その背中を呼び止めることができなかった。
一人残された部屋で、隼人は水槽の前に座り込んだ。天井の照明が水面に反射し、いつもより白々しく見えた。誰もいなくなった部屋の静けさが、これまで以上に重く感じられた。マブイは、いつもと変わらない様子で泳いでいたが、ふとその頭頂部に目をやった隼人は、小さな違和感を覚えた。
「あれ......」
以前、美咲と一緒に気づいた、あの淡い陰影。まだ模様と呼べるほどはっきりしたものではなかったはずのそれが、今はさらに薄れ、ほとんど見分けがつかないほどになっていた。
「気のせいか」
隼人はそう自分に言い聞かせたが、胸の奥には拭いきれない不安が広がっていった。机の上に置かれたヒーターの電源ランプが、まだ小さく点灯したままだった。美咲との間に生まれた気まずさと、マブイに現れたこの小さな変化が、どこかで繋がっているような、そんな予感を隼人は抱いていた。
週明け、学校で顔を合わせても、美咲との間にはこれまでにないぎこちない空気が流れていた。廊下ですれ違っても、互いに視線を合わせることさえどこか気恥ずかしく感じられた。
「おはよう」
隼人が声をかけると、美咲は小さく会釈を返しただけだった。休み時間になっても以前のように自然に会話が始まることはなく、二人の間には目に見えない壁ができてしまったかのようだった。教室の喧騒の中で、隼人はただ一人、居心地の悪さを感じながら過ごした。
放課後、隼人は一人で生物室に向かった。いつもなら美咲と一緒に発表資料の準備をする時間だったが、今日はその姿がなかった。誰もいない生物室の水槽から漏れるポンプの音だけが、やけに大きく聞こえた。壁に貼られた実験手順の掲示物が、いつもより色褪せて見えた。
その週末、隼人は一人でムラさんの家を訪ねた。何をどう話せばいいのか分からないまま、気づけば河川敷を通り過ぎ、ムラさんの家の門をくぐっていた。庭先の金木犀は、既に花を落とし、静かな佇まいを見せていた。落ち葉が敷き詰められた庭を眺めながら、隼人はしばらく玄関先に立ち尽くしていた。
「おう、隼人くん。今日はどうした」
ムラさんは、隼人の沈んだ表情を見て、すぐに何かを察したようだった。縁側に座るよう促しながら、湯呑みにお茶を注いでくれた。
「実は......マブイの体調を早く整えたくて、少し無理なことをしてしまって。美咲とも、気まずくなってしまいました」
隼人は俯きながら、途切れ途切れにそう切り出した。湯呑みの湯気が細く立ち上っていた。
隼人は、これまでの経緯をぽつりぽつりと語り始めた。全国大会への焦り、色揚げのための餌の変更、水温を急激に上げようとしたこと、そして美咲との対立。話しながら、隼人は自分がどれほど視野が狭くなっていたかを改めて思い知らされていた。
ムラさんは、しばらく黙って隼人の話を聞いていた。庭先から聞こえる虫の声だけが、その静寂を埋めていた。やがて、深く息をつくと、これまで語ったことのなかった話をぽつりと始めた。
「実はな、隼人くん。親父も、若い頃に同じようなことをしたことがあるんだ」
ムラさんは、湯呑みを両手で包み込むように持ちながら、低い声で語り始めた。その声には、これまで聞いたことのない重い響きがあった。
「え......」
「昔、初めて品評会に出そうとした時のことだ。親父は、どうしても良い結果を出したくて、無理な水温調整や過剰な餌やりをしたらしい。結果、金魚は体調を崩して、品評会の当日には見る影もなくなっていた」
ムラさんの声には、これまでにない重みがあった。縁側から差し込む西日が、その横顔に深い陰影を作っていた。隼人は、湯呑みを持つ手がわずかに震えているのに気づいた。
「その金魚は、結局その後まもなく死んでしまったそうだ。親父は、それからずっとそのことを悔やんでいた。晩年、静かに金魚と向き合うようになったのも、その経験があったからなんだ」
ムラさんは、そこで一度言葉を切り、庭の方へと視線を移した。当時の正一の悔恨が、今もこの庭のどこかにまだ漂っているかのようだった。庭木の葉が風に揺れる音だけが、しばらくの間、二人の間を満たしていた。
隼人は言葉を失った。これまで漠然としか聞いていなかった正一の過去が、今、はっきりとした重みを持って、自分自身の行動と重なって見えた。湯呑みの中の茶がすっかり冷めてしまっていることに、隼人はようやく気づいた。
「僕は、正一さんと同じ過ちを繰り返しかけていたんですね」
隼人は、震える声でそう呟いた。手のひらにじっとりとした汗がにじんでいた。縁側の向こうに広がる夕暮れの空が、その時、隼人にはやけに遠く感じられた。膝の上に置いた両手を、隼人は無意識にきつく握りしめていた。
「ああ。だが、気づけたのならまだ間に合う」
ムラさんは、隼人の肩に手を置きながら、はっきりと言った。
「親父は、あの経験を経て、初めて本当の意味で金魚と向き合えるようになったんだと思う。隼人くんも、今、その入り口に立ってるんじゃないか」
ムラさんは、隼人の目をまっすぐに見つめながら、はっきりとそう言った。その言葉には、長年この道を歩んできた者だけが持つ、確かな説得力があった。庭先から聞こえる鳥の声が、二人の沈黙の中にふと差し込んだ。
ムラさんの言葉に、隼人は深く頷いた。全国大会での結果よりも、今、自分が向き合わなければならないものが、はっきりと見えてきたような気がした。
ムラさんの家からの帰り道、隼人は一人、川沿いの道をゆっくりと歩いた。夕暮れの光が川面に長い影を落としている。対岸の木々が風に揺れ、ざわざわと音を立てていた。正一という人が、若い頃に犯した過ち。そして、それを一生かけて償うように生きてきた晩年。その姿を思うと、隼人は自分自身の未熟さを改めて痛感せずにはいられなかった。
「勝つことばかり考えて、マブイの気持ちをちゃんと想像できてなかったのかもしれない」
隼人は、誰に言うでもなく、そう呟いた。マブイは言葉を話せない。だからこそ、その小さな変化や様子を丁寧に汲み取ってあげることが、何よりも大切なのだと改めて思い知らされていた。川面を流れる水音だけが、その思考を包み込んでいた。
家に着き、自室に戻ると、隼人は美咲に電話をかけた。何度もためらった末に、ようやく発信ボタンを押す。西の空には、月が薄く浮かび始めていた。
「もしもし」
美咲の声は、いつもより少し硬かった。電話越しに聞こえる彼女の部屋のかすかな物音が、隼人の緊張をさらに高めた。
「美咲、この前はごめん。僕、視野が狭くなってた」
隼人は、率直に自分の気持ちを伝えた。声が少し震えていたが、それでも一言一言、丁寧に選んで話した。ムラさんから聞いた正一の過去のこと、それを通じて気づいた自分の過ちのこと。すべてを、隠さずに話した。
「マブイのことをちゃんと考えてるつもりだったのに、いつのまにか、自分の勝ちたい気持ちの方が大きくなってた」
電話の向こうで、美咲がしばらく沈黙した。遠くを通り過ぎる車の音だけが、その静寂を埋めていた。
「うん......分かってくれて、良かった」
美咲の声には、安堵とまだ少し残る戸惑いが混じっているようだった。
「本当にごめん。もう一度、ちゃんとマブイと向き合いたいんだ。美咲にも、また力を貸してほしい」
隼人は心からそう伝えた。受話器を握る手に、無意識のうちに力がこもっていた。
「うん。私も、もっと早く強く言えばよかった。ごめんね」
美咲の声には、これまでの硬さが少しずつ和らいでいくのが感じられた。電話の向こうで、彼女が小さく息をつく音が聞こえた。
「今度の日曜日、また部屋に行ってもいい? マブイの様子、見せてほしいな」
「うん、もちろん。待ってる」
隼人は、思わず声が弾むのを感じた。いつのまにか、夜はすっかり深まっていた。カーテンを閉めようと立ち上がった隼人の視界に、水槽の青白い光がぼんやりと映り込んでいた。
電話を切った後、隼人は水槽の前に座り込んだ。マブイは、いつもと変わらない様子で泳いでいたが、隼人の胸には、これからやり直すべきことの輪郭が、はっきりと見え始めていた。手元のスマートフォンの画面が、暗くなるまで、隼人はしばらくそれを見つめ続けていた。
翌日から、隼人は飼育の方法をこれまでのやり方に戻すことにした。急激な水温変化を狙う実験は、すぐに中止した。ヒーターとタイマーは棚の奥にしまい込んだ。餌の量も、ムラさんから教わった通りの栄養バランスを重視した基本の分量に戻した。餌箱の蓋を閉じる指先には、これまでとは違う静かな落ち着きが宿っていた。
ノートに書き加えた「体色をより鮮やかにする方法」「泳ぎ方を美しく見せる工夫」という項目には、一本の線を引いた。ペン先が紙をなぞる感触が、まるで自分自身の過ちを認める儀式のように感じられた。その代わりに、以前のような素直な観察の記録を丁寧に書き続けていくことにした。
「ごめんな、マブイ。焦りすぎてた」
隼人は水槽に向かって、小さく謝った。指先でそっとガラスに触れながら、これまでの数週間を振り返る。水槽越しに見えるマブイの姿が、いつもより一層澄んで見えた。マブイは、上向きの目でじっと隼人を見つめ返していた。
日曜日、約束通り美咲が部屋を訪れた。玄関のチャイムが鳴った瞬間、隼人は思わず背筋を伸ばした。廊下を歩く足音が近づいてくるのを、耳を澄ませて確かめる。
「久しぶり」
美咲は、少し緊張した面持ちで言った。手には、以前と同じように小さな紙袋を提げていた。
「うん。来てくれてありがとう」
隼人は、いつもよりも丁寧に部屋を片付けて、美咲を迎え入れた。窓を開け放ち、部屋の空気を入れ替えておいたことも、その几帳面さの表れだった。机の上には、二人で作り上げてきた研究資料が、綺麗に整頓されて並べられている。二人はしばらく、どこかぎこちない沈黙の中で、水槽の前に座った。
「マブイ、元気そうだね」
美咲がそう言うと、隼人は小さく頷いた。水槽を覗き込む美咲の横顔を見ながら、隼人はようやく肩の力を抜くことができた。窓辺に置かれた観葉植物の葉が、そよ風に揺れていた。
「うん。餌も水温も、前のやり方に戻したんだ」
「そう......よかった」
美咲は、安堵したように微笑んだ。その笑顔を見て、隼人の胸にもこれまでの張り詰めた気持ちが少しずつ緩んでいくのを感じた。
「あ......」
水槽を覗き込んでいた美咲が、小さく声を上げた。
「どうしたの?」
「マブイの頭のところ、なんだか前より模様がはっきりして見えない?」
美咲は水槽に顔を近づけながら、確かめるように言った。その声には、控えめながらも確かな驚きが滲んでいた。窓から差し込む光が、水槽の水面を通して揺らめきながら反射していた。
隼人も慌てて水槽を覗き込んだ。確かに、あの淡い陰影が以前二人で気づいた時よりも、心なしかくっきりと浮かび上がっているように見えた。
「本当だ......」
隼人は、その変化にしばらく見入っていた。焦りに駆られていた頃には見えなかったものが、初心に戻った今、再び姿を現し始めているのかもしれない。そんな予感が、隼人の胸にじわりと広がっていった。水槽の水面に映る二人の影が、ゆらりと重なり合っていた。
「全国大会まで、あと少しだね」
美咲がぽつりと言った。窓から差し込む午後の光が、水槽の水面をきらきらと輝かせていた。
「うん。今度は結果じゃなくて、マブイのことを一番に考えて臨みたい」
隼人はそう答えながら、赤みを帯び始めた空を見上げた。二位という結果への悔しさはまだ胸のどこかに残っていたが、それ以上に、大切なことを見失いかけていた自分自身と向き合えたことに、深い安堵を感じていた。
水槽の中で、マブイが小さく尾びれを揺らした。その頭頂部の模様は、まだ完全に元通りというわけではなかったが、確かに、以前より輝きを取り戻しつつあった。全国大会という舞台に向けて、隼人と美咲、そしてマブイの歩みが、再び同じ方向を向き始めていた。
それから数日後、隼人と美咲は放課後の生物室で、全国大会に向けた研究発表資料の見直しを始めた。地方予選での発表内容に、新たな考察を加えるためだった。
「天の窓についての部分、もう少し掘り下げてみない?」
美咲が提案した。放課後の生物室には二人の他に誰もおらず、窓から差し込む夕日が机の上を橙色に照らしていた。水槽のポンプの音だけが、その空間を満たしていた。
「でも、結局、詳しいことは分からずじまいだったし」
「地方予選でも、そう話したね。でも今回は、その先が書けると思う。分からないままだった謎の一部が、私たちの目の前で少しずつ動き始めてるんだから」
美咲の言葉に、隼人は頷いた。前回の発表では「分からないこと自体に価値がある」という段階で留まっていたが、今度はあの淡い陰影の変化という、実際に観察された事実を加えられる。以前の自分なら、この段階でも「もっと明確な答えが欲しい」と焦っていたかもしれない。しかし今は、分からないことをそのまま受け止めながらも、目の前で起きている小さな変化を正直に記録していく姿勢の方が、より誠実な研究の形なのだと素直に思えるようになっていた。廊下の向こうから、下校していく生徒たちの声が賑やかに響いてきた。
その夜、隼人は夕食の席で、母にここ最近の出来事を少しずつ話した。味噌汁のお椀を両手で包み込みながら、隼人はゆっくりと言葉を選んだ。
「実はこの前、美咲と少しぶつかっちゃって」
隼人がそう切り出すと、母は箸を止め、じっと耳を傾けた。味噌汁の湯気が、二人の間でゆっくりと立ち上っていた。
「勝ちたい気持ちが強くなりすぎて、マブイに無理をさせようとしてたんだ。美咲に止められて、それでようやく気づいた」
「そう......でも、ちゃんと気づけて、仲直りもできたのね」
母は優しく微笑んだ。
「うん。ムラさんにも、色々教えてもらって」
隼人は、正一の過去についても簡単に母に伝えた。母は黙って聞き入りながら、時折深く頷いていた。
「隼人も、少しずつ大人になっていくのね」
母のその一言に、隼人は少し照れくさそうに笑った。しかし、その言葉の奥にある温かさを、隼人はしっかりと受け止めていた。夕食の後片付けをしながら、母が鼻歌を歌う声が隼人の耳に心地よく響いていた。台所から漂う洗剤の香りが、いつもと変わらない穏やかな日常を物語っていた。
翌週末、隼人は河川敷でムラさんと会い、美咲と仲直りできたことを報告した。朝露に濡れた草を踏みしめながら、隼人はいつもの釣り場へと向かった。
「そうか、それは良かった」
ムラさんは、竿を垂れたまま、穏やかな笑みを浮かべた。朝霧の残る川面を見つめる横顔には、いつもと変わらない落ち着きがあった。水面を渡るトンボが、二人の間をすいと横切っていった。
「ムラさんのおかげです。正一さんの話を聞かせてもらったから、自分の間違いに気づけました」
「いや、気づいたのは隼人くん自身の力だ。俺はただ、親父の話をしただけだからな」
ムラさんは謙遜するように言ったが、その目には、隠しきれない誇らしさが浮かんでいた。竿先に伝わる小さな振動を確かめながら、彼は続けた。
「マブイの様子はどうだ」
「はい。天の窓の模様も、少しずつ戻ってきてる気がします」
隼人がそう答えると、ムラさんは満足そうに頷いた。
「そうか。それなら、きっと大丈夫だ」
ムラさんは、竿先を見つめたまま、深く頷いた。しばらく二人は無言のまま、川の流れる音に耳を傾けていた。
「隼人くん」
ムラさんがふと口を開いた。竿を握る手を止め、隼人の方へと向き直った。
「はい」
「親父が生きてたら、きっと隼人くんに会いたがっただろうな。金魚を、こんなに大切に想ってくれる若者に」
ムラさんの言葉に、隼人は胸が熱くなるのを感じた。会ったことのない正一という人物との目には見えない繋がりを、改めて実感する瞬間だった。朝日が、川面に金色の筋を描いていた。
「僕も、お会いしてみたかったです」
隼人が素直にそう答えると、ムラさんはふっと微笑んだ。その微笑みの奥に、亡き父への深い愛情が滲んでいるのを、隼人ははっきりと感じ取った。
川面を渡る風が、二人の間を心地よく通り抜けていった。この河川敷から始まった物語が、今、また新しい一歩を踏み出そうとしていることを、隼人は肌で感じていた。
それから全国大会までの数週間、隼人と美咲は、以前と変わらない、しかし以前よりも丁寧な日々を積み重ねていった。毎朝の水質チェック、週に一度の水替え、決まった時間の餌やり。特別なことは何もしていなかったが、その代わり、一つ一つの作業にこれまで以上に心を込めるようになっていた。学校帰りに立ち寄る河川敷でも、以前と変わらぬ穏やかな時間が流れていた。
「今日のマブイ、いつもよりゆったり泳いでる気がする」
ある日の放課後、美咲がノートに記録をつけながら言った。校庭の向こうには、秋の深まりを感じさせる澄んだ青空が広がっていた。彼女のペン先が紙の上を滑らかに走っていく音だけが、人けのない部屋に響いていた。
「うん。無理させてないからかな」
隼人はそう答えながら、水槽の中のマブイを見つめた。上向きの目が、穏やかな光を湛えているように見えた。
研究発表の資料も、少しずつ完成に近づいていった。地方予選の時よりも内容に厚みが増しているのを、隼人自身も感じていた。
資料作りの合間、隼人は発表原稿の練習も重ねた。地方予選の時とは違い、今度は原稿を丸暗記するのではなく、自分の言葉で素直に語れるように意識した。鏡の前で何度も口に出し、間の取り方や声の抑揚を少しずつ調整していった。
「無理に上手く話そうとしなくていいと思う。ありのままの気持ちを伝えれば、それで十分だよ」
美咲がそう声をかけてくれた。その言葉に、隼人はいつのまにか肩に入っていた力がすっと抜けていくのを感じた。生物室の窓から差し込む夕日が、二人の影を長く壁に映し出していた。
「隼人くんと美咲さんが、一度ぶつかって、それでも乗り越えたっていう部分も書いてみたら?」
担任の教師からも、そうした助言をもらった。放課後の職員室で、担任は資料に目を通しながら穏やかな口調でそう言った。
「僕たちの気持ちの部分まで、発表するんですか」
隼人は少し戸惑いながら尋ねた。
「研究っていうのは、データだけじゃなくて、そこに関わった人間の姿勢も大事な要素になることがあるからね」
担任は、机の上に広げられた資料を指しながら、続けて説明した。
「特に、一度立ち止まって間違いに気づき、それを立て直した過程は、研究の誠実さを表す貴重な要素になると思うよ」
その言葉に、隼人と美咲は顔を見合わせた。二人の間には、これまでの対立とそれを乗り越えた経験が、確かな絆として残っていた。単に飼育記録を並べるだけでなく、そこに至るまでの葛藤や気づきも、正直に書き加えてみることにした。
全国大会まで残り一週間となった夜、隼人は自室で一人、これまでの記録ノートを読み返していた。地方予選前の焦りに満ちた記述、対立の後の反省、そして仲直りしてからの穏やかな観察記録。ページをめくるごとに、この数ヶ月間の自分の変化がはっきりと浮かび上がってくるようだった。文字の筆致さえも時期によって微妙に異なって見えることに、隼人は改めて気づかされた。
正一のノートも、隣に並べて開いてみる。几帳面な筆跡で残された、晩年の穏やかな飼育記録。表紙の擦り切れた革の感触が、これまでに何度も触れてきたことを物語っていた。その静かな日々の積み重ねの先に、正一が何を見ていたのか、隼人はまだ完全には分からない。それでも、以前よりもその心境に近づけているような気がしていた。
「天の窓、か」
隼人は、ノートに記されたその一文を、もう一度指でなぞった。筆致の乱れたこの一行を書いた時、正一は何を見ていたのだろう。答えは返ってこない。それでも、同じ言葉を前にして同じ問いを抱いている自分が、今この瞬間だけは、会ったことのないその人とすぐ隣にいるような気がした。机の上の目覚まし時計が、こつこつと時を刻み続けていた。
窓の外には、静かな夜が広がっていた。水槽の中で、マブイがゆったりと尾びれを揺らしている。カーテンの隙間から差し込む月明かりが、水槽の水面にささやかな光の筋を作っていた。その頭頂部の模様は、あの対立を経た今、以前にも増して澄んだ輝きを放っているように、隼人には見えた。机の上に置かれた二冊のノートが、並んでその光を受けていた。
全国大会という大きな舞台を前に、隼人の心には、もう以前のような結果だけを求める焦りはなかった。代わりにあったのは、マブイと共にこれまで積み重ねてきたものをありのままに見てもらいたいという、ただそれだけの願いだった。地方予選から続くこの一連の日々が、隼人にとって何にも代えがたい財産になっていることを、今、はっきりと実感していた。
布団に入る前、隼人はもう一度水槽の前に立った。マブイは、いつものように水槽の中央でゆったりと泳いでいる。上向きの目が、部屋の明かりを受けて、淡く輝いていた。水槽のフィルターが立てるかすかな水音だけが、静まり返った部屋に響いていた。
「もうすぐ、全国大会だな」
隼人は小さく囁いた。マブイは答えるように、尾びれをゆっくりと動かした。その悠々とした動きを見ていると、明日を怖がっているのは自分だけなのだという気がしてくる。お前はいつも、ただそこで泳いでいるだけなんだな。隼人は口には出さず、そう語りかけた。
電気を消し、布団に入ってからも、隼人はしばらく穏やかな充足感に包まれていた。結果がどうなるかは、まだ誰にも分からない。それでも、この数ヶ月間で得たものは、きっと何にも代えがたい確かな財産になっているはずだった。