第四話:花の形(前編)
翌朝、実はなくなっていた。
正確には、初穂が昨夜見た場所にはなかった。
民宿の庭の六つの白い花。
いや、もう六つではない。
花弁を落とした茎が二本。
まだ咲いているものが五本。
合わせて七本。
その根元を、初穂はしゃがんで調べた。
「何か落としました?」
背後から女将の声。
「実です」
「実?何の?」
「昨日、この花に小さい実がついてたんです」
「へぇ」
「見ませんでした?」
「見てませんねぇ」
「丸くて、白っぽい」
「鳥じゃないですか」
「食べたってことですか?」
「鳥なら実くらい食べるでしょう」
「まあ......そうですね」
この村では、初穂が奇妙だと思ったものほど、誰かがごく普通の理由を与えてくる。
それが余計に気味が悪い。
初穂は立ち上がった。
「この花、昨日より増えてません?」
「そうですか?花って増えるものでしょう」
「たった一日で?」
「若いから元気なんじゃないですか」
「若い......?」
「年寄りの花なんて見たことないでしょう」
女将は真顔だった。
初穂は返事を諦めた。
*
朝食を終えると、初穂は昨夜のデータをもう一度確認した。
六つの円。その中央に民宿。
初穂は円の表示を消した。
死亡地点と出生地点だけに戻す。
次に、地点誤差を最大二十メートルまで許容してランダムにずらす。
円を描く。だが形は崩れる。
何度も繰り返した。
六つがあのように集まる組み合わせは、ほとんど出なかった。
「......だから何」
自分に言う。
統計的検定としては雑すぎる。
そもそものデータ選択に偏りがある。
記録が残っている地点だけを使っている。
自宅出産の情報も不完全。
後から都合のいい点を選んだ可能性も排除できない。
何より、六つの円が花のように見えるからといって、誰かが花を描いた証拠にはならない。
初穂は昨夜のファイル名を見た。
〈未完成〉この言葉だけが気に入らなかった。
何が完成するというのか。
*
「生方さーん」
民宿を出ると、宗介がいた。
「......どうしているんです?」
「迎えに来ました」
「約束しましたっけ」
「していません」
「じゃあ何で迎えに来たんです?」
「暇だったので......」
「畑仕事とかは?」
「ああ!今日は野菜に休んでもらいます」
「野菜側に選択権あります?」
「ないですねぇ。そんなことより!枝折さんのところでしょう?」
初穂が足を止める。
「どうして分かったんです?」
「顔に書いてありますよ」
「そんな顔してます?」
「生方さん最近、怒ってます」
「怒ってません」
「枝折さんに似てきましたよ」
「それは怒ります」
「ほら!」
宗介は満足そうだった。
二人で歩き出した。
少しして、初穂は聞いた。
「池生さん、昨日の『順番』って話、覚えてます?」
「何でしたっけ」
「本当に腹立つな、この人」
「ははは、冗談ですよ」
初穂は宗介を見る。
「冗談言うんですね」
「七十四年も生きてますから」
「年齢を免許みたいに使わないでください」
「便利ですよ」
「で、順番って何です?」
宗介は道端の雑草を避けながら歩く。
「生まれる人と、死ぬ人」
「それは聞きました」
「昔の記録だと、変なんです」
「どう変?」
「死んだ人が先に書いてあったりする」
初穂は歩みを緩めた。
「......死亡記録だからでは?」
「出生の帳面に」
「それおかしくないですか?」
「詳しくは枝折さんに」
「それを言ったら、私が怒られるんじゃないですか」
「たぶん怒られますねぇ」
「何で私に言ったんです」
「そりゃ生方さんが聞いたから」
「池生さん......長生きできたの運が良かっただけじゃないですか?」
「それは否定できません」
*
枝折は、今日は玄関を開けなかった。
宗介が戸を叩く。
「枝折さーん」
返事なし。
「いますよねー」
返事なし。
「昨日怒ったことなら気にしてませんよー」
中から声がした。
「おれを馬鹿にしてるのか!」
初穂は口元を押さえた。
「いるじゃないですかー」
「帰れ!」
「生方さんが来てます」
「お前だけ帰れ!」
宗介が初穂を見る。
「私、嫌われてます」
「自覚あったんですね」
「最近薄々と」
「六十年くらい遅い気がします」
玄関が乱暴に開いた。
枝折が立っている。
寝癖がひどい。
明らかに機嫌が悪い。
「十分だけだ」
「ありがとうございます」
初穂が頭を下げる。
「池生、お前は外」
「何でですかー?」
「お前がいると話が進まん」
「私、結構役に立ってますよ」
「昨日の栗まんじゅう五個食っただろ」
「四個です」
「いいから入ってくるな!」
結局、宗介は縁側に残された。
*
初穂はタブレットを枝折の前へ置いた。
「これを見てください」
六つの円。
枝折の表情は変わらなかった。
「これが何だ」
「昨日までの記録から作ったものです」
「......円だな」
「それは池生さんでも言いました」
「じゃあ何を言えばいい」
「この中心」
初穂は指で示す。
「今の民宿です」
「それがどうした?」
「何か知りませんか」
「何が言いたいんだ」
「あの民宿が建つ前、何があったか」
「家だ」
「誰のです?」
「前の持ち主」
「名前は?」
「榎戸といったな」
初穂はメモする。
「その前は?」
「知らん」
「調べられます?」
「何のためにだ」
「六つの円が偶然なのか確かめたい」
「単なる偶然だ」
「だったら調べても困らないですよね」
「面倒なんだよ」
「なるほど」
初穂はそう言って枝折を凝視める。
枝折はため息をつき、棚へ向かった。
古い土地台帳を取り出す。
ページをめくる。
「榎戸家。昭和三十四年に建て替え」
「その前は?」
「同じ敷地に家」
「もっと前」
「明治......」
指が止まった。
「何です?」
「......墓だ」
初穂は聞き間違えたと思った。
「墓ですか?」
「個人墓じゃない。古い共同墓地」
「種場の事ですか?」
「今の種場とは別だ」
初穂は椅子へ座り直した。
「いつまで?」
「明治十年代まで」
「どうして移したんです?」
「記録には衛生上の理由とある」
「現在の墓地へ?」
「いや」
枝折が別の地図を出した。
「一度ここへ」
点を示す。川の西側。
「それから今の種場へ?」
「そうだ」
「墓地を二回移してるんですか」
「川が崩れた」
初穂は三地点を地図へ入力する。
旧墓地と中間墓地、そして現在の種場。
その位置を見た瞬間、背中がざわついた。
「......枝折さん」
「何だ?」
「これ、距離測ったことあります?」
「あるわけないだろう」
「本当に?」
「墓同士の距離を測る趣味はない」
初穂は測定する。
旧墓地から中間墓地。
四十一・七メートル。
中間墓地から、別の古い地点。
初穂は古地図を確認する。
「ここ、何です?」
「産屋だ」
「産屋とは?」
「昔、出産や月経中の女が使ったと言われる小屋だ」
「いつまで?」
「明治の中頃にはなくなった」
距離は四十・二メートル。
初穂は黙った。
「どうした」
「また四十」
「四十?」
「メートル」
枝折が画面を見る。
初穂は円を描いた。
一つ、もう一つ。古い円。
現代の六つとは別の場所。
重なり方が似ている。
「古い記録」
初穂が言った。
「見せてください」
「昨日も言っただろ」
「あるんですよね」
「......」
「池生さんから聞きました」
「やっぱりあいつ帰らせろ」
「もう外です」
「生方さん」
初めて、名字で呼ばれた。軽口のない声だった。
「見たら、研究で済まなくなる」
「どういう意味です?」
「そのままだ」
「私は研究しに来ています」
「だからだ」
枝折は蔵の奥を見る。
「数字や地図で説明できる間は、その方がいい」
「説明できなくなるんですか」
「俺にはよく分からん」
「だったら私が見ます」
「若いな」
「研究に年齢は関係ありません」
「それが若いと言ったんだ」
「池生さんも同じようなこと言いそうですね」
「一緒にするな」
そこで初めて枝折が少しだけ顔をしかめた。
やがて、
「待ってろ」
と奥へ消えた。
*
持ってきたのは、木箱だった。
蓋の端が黒ずんでいる。
「触るなよ」
「はい」
「先に写真も撮るな」
「分かりました」
枝折が蓋を開ける。
中には和綴じの帳面が三冊。
表紙に題名はない。
一冊目は明治以前。
二冊目はさらに古い。
三冊目は年代不明。
「これは?」
「寺にあった」
「過去の帳簿?」
「違うな」
「何の記録です?」
「分からん」
初穂は一冊目を開く。
墨文字で人名、日付、場所らしき記載があった。
文字は読みにくいが、枝折が鉛筆で現代語訳を付箋に書いている。
〈文化十一年 藤代ふみ 芽吹〉
〈文政九年 藤代ふみ 咲〉
〈弘化三年 藤代ふみ 実〉
全てに場所の記載もあった。
初穂の指が止まった。
「一人の人生?」
「そう見える」
「出生、成人、死亡?」
「たぶんな」
別の名前も同じように記載があった。
「戸籍みたいなもの?」
「なら、こんな書き方はしない」
初穂はページをめくる。
名前、年月、地点。
そして気づく。
「......順番」
枝折が黙っている。
「池生さんが言ってたの、これですか」
別の記録を見る。
〈嘉永四年 鷲尾甚兵衛 実〉
〈嘉永七年 小海千代 芽吹〉
〈安政五年 鷲尾甚兵衛 種〉
「死んだ後に『種』?」
初穂が呟く。
「意味は分からん」
「埋葬ですか?」
「そう考えれば普通だ」
「でも死亡から七年後」
「墓を移した可能性もある」
さらに読む。
〈小海千代 芽吹〉
その横に小さく、〈甚兵衛の種より三十九間――〉
初穂は顔を近づけた。
「枝折さん」
「何だ?」
「これ、距離が書いてある?」
「昔の単位だから、そのままじゃない」
「三十九間なら七十メートルくらいですよね」
「そうだな」
「四十メートルじゃない」
「だからお前の説は外れたな」
初穂は少し考えた。
「いや───」
地図を見る。
古い地図の縮尺。
地点記載。
昔の「場所」が家屋単位なのか、地名単位なのか。
「違います」
「何がだ?」
「私が四十メートルだと思ってたのが、そもそも正確じゃない」
「今さらか」
「重要なんです」
死亡地点ではない。
墓でもない。
出生地点でもない。
帳面に書かれているのは、それぞれの人生の節目。
芽吹、咲、実、種。
点と点を結ぶ規則は単純な距離ではない。
「中心が、人じゃない」
初穂が呟く。
「何だ?」
「人生そのものが移動してる」
枝折は意味が分からない顔をした。
初穂も、まだ完全には分かっていない。
彼女は帳面の地点を可能な限り地図へ入力した。
古い記録なので誤差は大きい。
円の半径を固定しない。
一つの「種」地点から次の「芽吹」地点。
そこから次の「実」。
その中心関係だけを見る。
円を描く。十九個の円。
画面いっぱいに円が増える。
枝折が後ろから見ている。
初穂は表示を調整する。
年代ごとに不要な地図情報を消す。
道路を消す。建物を消す。地名を消す。円だけにする。
白い背景に細い線。
初穂の呼吸が止まった。
「......」
「どうした」
答えられない。
線が重なっている。
円と円。同じ大きさではない。
歪みもある。
位置も完全ではない。
しかし、人間の目は形を見つける。
そこに本当にある形も、ない形も。
だから初穂はすぐには信じなかった。
画面を回転する。
縮小、拡大。
やはり中央に一つの円。その周囲を六つの円が囲んでいる。
さらに外側。
同じ重なりが続こうとしている。
花弁だ。昨日、そう思った。
でも花弁のように見えるのではない。
明確な規則で円が重なっている。
「枝折さん」
「何だ?」
「これ、見たことあります?」
枝折は画面を見た。
「ないな」
「本当に?」
「嘘なんてつくか」
初穂はスマートフォンを取り出した。
今度は止めなかった。
検索窓にキーワードを入力する。
画像がすぐに出た。
同じだった。
画面の中には、美しい幾何学模様が並んでいる。
いくつもの円が、互いの中心を通るように重なっている。
花のような形。
初穂はスクロールする。
何度も同じ言葉が出てくる。
「フラワー・オブ・ライフ......」
口に出した。
枝折が眉を寄せる。
「何だそれ」
「神聖幾何学って呼ばれるものの一つです」
「宗教か?」
「特定の宗教ってわけじゃありません。似た幾何学意匠自体はいろんな文化にある。現代では生命とか、宇宙の秩序とか......」
そこまで言って、初穂は口を閉じた。
「どうした?」
「......嫌だな」
「何がだ?」
「意味が合いすぎる」
枝折がスマートフォンを見る。
検索結果。
生命、創造、循環、調和、宇宙。
初穂は画面を閉じた。
「後から意味を当てはめるのは危険です」
「自分で調べといて何を言ってる」
「だから嫌なんです」
「面倒な女だな」
「池生さんと同じ様なこと言わないでください」
「それは悪かったな、謝る」
「そこまで嫌なんですか」
初穂は一度、外へ出た。
空気が必要だった。
縁側では宗介が座っていた。
庭の梅の木を眺めている。
「お!終わりましたか?」
「まだです」
「長いですねぇ」
「何してたんです?」
「蟻を見てました」
「一時間も?」
「ええ、時間を忘れてました。」
「楽しかったですか?」
「ええ、まぁ、割と」
初穂も隣へ座った。
宗介は庭を指す。
「ここに巣があります」
「そうですか」
「向こうに餌」
「はい、餌ありますね」
「ずっと往復してます」
「働き者ですね」
「本人たちは、どこへ向かってるか知ってるんでしょうね」
「餌と巣でしょう」
「それは私たちが上から見てるから分かるんです」
初穂は宗介を見る。
宗介は蟻を見ていた。
「蟻からしたら?」
少し間があった。
「ただ歩いてるだけかもしれませんね」
初穂は何も言わなかった。