ホーム›神様はコンパスを使わない›第三話:地図に残るもの
← 次の話目次前の話 →

第三話:地図に残るもの

朝起きて最初に思い出したのが妹の顔ではなく数字だったことに、生方初穂は少しだけ罪悪感を覚えた。

 そして、その罪悪感を抱いた自分に腹が立った。

 実季が死んで九年になる。
 姉が朝起きるたび妹を思い出している必要などない。

 忘れている時間が増えることは、裏切りではない。
 そう頭では分かっている。

 それでも、死んだ人間について人は妙な義務を背負う。

 忘れないこと。
 悲しみ続けること。
 意味を見つけること。

 初穂はそれが嫌で、意味ではなく記録を見る人間になった。

 だから今朝、考えるべきなのは数字だ。

 三十八・六。
 四十・六。
 四十一・二。
 四十メートル前後。
 たったの四例。
 統計と呼ぶのも恥ずかしい。

 何より、古い資料の地点情報には数メートル単位の誤差がある。

 死者が倒れた位置まで測量して残しているはずもない。

 それでも。
「......気持ち悪いな」

「朝ご飯がですか?」

 背後から女将に言われた。

「いやいや、違いますよ」

「あー、良かったです」

 初穂の前には焼き鮭、味噌汁、漬物、卵焼き。
 完全に普通の朝食だった。

 女将は味噌汁を置きながら、
「昨日の大学の先生ならもう来てますよ」
 と言った。

「先生?誰です?」

「池生さん」

「その人は大学の先生じゃないです」

「あら」

「元区長ですよ?」

「知ってます」

「知ってるんですか」

「生方さんが大学の先生で、池生さんも実は大学の先生なんでしょう?」

「私も大学の先生じゃないです」

「じゃあ誰が先生なんです?」

「誰も先生じゃないです」

「ややこしいですねぇ」

「何もややこしくないです」

 女将は不思議そうな顔をして厨房へ戻っていった。
 この村に来てから、自分の肩書だけが日々曖昧になっている気がした。

  *

「先生、おはようございます!」
 集会所へ行くと、宗介が言った。

「あなたまでやめてくださいよ」

「何を?」

「先生って」

「じゃあ何て呼べば?」

「昨日まで生方さんでしたよね」

「昨日まで大学院生だと知りませんでしたから」

「昨日説明しましたよ。それに院生て分かってるじゃないですか」

「そうでしたっけ?」

「.........」

「じゃあ生方さん」

「はい」

「あ、先生、お茶飲みます?」

「今のわざとですよね」

「何がです?」
 宗介は真顔だった。

 初穂は諦めて椅子に座った。
 机の上には急須と湯呑み、それに昨日とは違う菓子が置いてある。

 包装紙には「栗まんじゅう」と書いてあった。

「池生さん、今日も来てくれたんですね?」

「まぁ暇ですから。若い人がいなくなると、老人は急に暇になるんですよ」

「畑仕事とかは?」

「ありますよ」

「え?大丈夫なんですか」

「野菜は私が一時間遅れても怒りません」

「人間より付き合いやすそうですね」

「人間より話を聞きます」

「野菜が?」

「ええ。ですが返事もしません」

 宗介がお茶を注いだ。
 やはりこの人は、真面目なのか冗談を言っているのか分からない。

「枝折さんのところ、今日も行けますか?」

「もう電話しましたよ」

「今日は電話したんですね」

「昨日、生方さんに怒られたので」

「え、怒ってませんよ?」

「若い人に注意されたことは覚えておくようにしてるんです」

「それは偉いですね」

「でも内容は忘れます」

「......意味ないですね」

 宗介は栗まんじゅうを食べた。

  *

 枝折は、昨日より露骨に嫌そうな顔で二人を迎えた。

「また来たのか」

「電話したでしょう」

「電話をすれば来ていいという意味じゃない」

「電話って大抵そういうものじゃないんですか」

「お前からの電話は違う」

「枝折さん」
 初穂が間に入る。
「今日は、出生記録を見たいんです」

 枝折の目が止まった。

「出生だと?」

「はい」

「家屋じゃなくてか」

「出生地点です。できれば、病院以外で生まれた人の」

「はっ、何でそんなものを」

「確認したいことがあって」

「何をだ?」

 初穂は昨夜作った資料をタブレットで見せた。

 四つの死亡地点。
 四つの出生地点。
 その間の距離。

 枝折は黙って見る。
 宗介も横から覗き込んだ。

「きれいですねぇ」

「何がです?」

「丸、真ん丸だ」

 画面には、昨夜描いた二つの円が残っていた。

「いや、そこじゃなくて数字見てください」

「数字は苦手です」

「元区長ですよね、お金の計算とかあったんじゃ......」

「区長は計算しません。計算できる人に頼みます」

 枝折が低い声で言った。
「四十メートルか」

 初穂は頷く。
「前後です。まだ四例ですし、地点の誤差もあります。でも似すぎてる」

「ただの偶然だろ」

「その可能性が高いです」

「なら終わりじゃないか」

「だから確かめます」

「面倒な性格だな」

「研究者向きだと言ってください」

「研究者はみんな面倒なのか」

「少なくとも指導教授よりかはマシです」

 宗介が頷いた。
「先生って大変ですねぇ」

「だから先生じゃないですって」

 枝折が眼鏡を外し、目頭を押さえた。
「お前ら二人で来るな」

  *

 出生記録は蔵の一番奥にあった。

 正式な戸籍ではない。
 戦後、村の保健員がつけていた記録と、寺の過去帳、さらに古い産婆の覚え書きを、枝折が後年まとめたものだった。

 初穂が欲しかったのは正確な生年月日ではない。

 場所だった。

 現在ではほとんどが病院出産だが、昭和四十年代以前の花守では自宅出産が多い。

 さらに古い記録になると、
〈山中〉〈畑〉〈旧○○宅〉〈水車小屋〉
 など、妙な記述が増えた。

「昔の人って、こんなに家以外で産むものなんですか?」

「基本は家だ」
 枝折が言った。

「ですよね」

「だが急な出産はある」

「それにしても多くありません?」

 初穂は数えた。
 記録が比較的詳しい七十三件中、十一件。

 一割を超える。

「昔は病院が遠かったからな」

「でも予定日近い妊婦さんが山へ行く理由って何です?」

「知らん」

「畑ならまだ分かりますけど」

「昔の女は強かったんですよ、きっと」
 横で宗介が言った。

「それ今の女性に聞こえるところで言わない方がいいですよ」

「どうしてです?」

「説明するの面倒なので、そのまま生きてください」

 宗介は素直に頷いた。

 初穂は記録を撮影していく。
 昭和二十八年の山崩れ。
 死者七名。

 初穂は、その後十年間の出生を拾った。

 自宅出産、畑、旧家屋......。
 位置が推定できるものだけ。

 そして地図へ打つ。

 赤は死。
 青は出生。
 十三個の点。

「......」

 宗介が後ろから覗く。
「何か分かりました?」

「まだです」

「分からないものをずっと見る仕事なんですね」

「そうですよ」

「嫌な仕事ですね」

「たまに私も思います」

 一件目。死亡地点から最寄りの出生地点は四十一・二メートル。

 二件目は三十九・八。
 三件目は四十・六。
 四件目は三十九・九。
 そこまでは昨夜確認済み。

 五件目は八十八・三メートル。

「......全然違う」
 初穂は呟いた。

 六件目は百二十六メートル。
 七件目は十九・四。

 ばらばらだ。

「やっぱり偶然か......」

「何がです?」

「最初の四つだけ距離が似てたんです。でも他は全然違う」

 宗介は栗まんじゅうの二個目を開けていた。

「じゃあ帰りますか?」

「何でです?」

「終わったんでしょう?」

「まだ終わってません」

 五件目は八十八・三メートル。
 そこから別の青い点までは四十・一。

 指が止まる。
「......あれ?」

 死亡地点に対して、一番近い出生地点を選んでいた。

 だが「最寄り」である必要はない。

 初穂は六件目を測る。
 一番近い出生地点ではない。
 少し離れた青点。
 四十一・〇。

 七件目は三十九・七。

「池生さん」

「はい?」

「これ見てください」

 宗介が画面を覗く。
「数字ですね」

「それは分かってます」

「私は分かりません」

「......そうですか」

「どうかしましたか?」

「あ......枝折さんなら...枝折さん!」

「何だ?」

「ちょっと見てもらえます?」

「嫌だ」

「そこを何とか」

「池生に見せればいいだろ」

「今見せました」

「どうだった」

「数字ですね、って」

 蔵の奥から盛大なため息が聞こえた。

  *

 三十分後。
 初穂は二十三件を確認していた。

 完全ではない。
 資料が不足している。

 死亡地点も曖昧。
 出生位置も数十メートル単位の誤差がある。

 それでも。

 十六件。
 死者が出た場所から、おおむね三十七から四十三メートルの範囲で、その後数年以内に誰かが生まれている。

「......多すぎる」

 枝折は何も言わない。

「地形で説明できますか?」

「できる」

「どうやって?」

「この村で家を建てられる場所は限られてる」

「でも家じゃない出生もあります」

「畑も平地に作る」

「山中は?」

「さあな」

「水車小屋は」

「川がある」

「全部説明する気ですね」

「説明できるならな」

 初穂も、その姿勢には同意していた。
 異常に見えるものほど、まず普通の理由を探すべきだ。

「じゃあもう一つ」
 初穂は地形図を重ねた。
「標高差は」

 死亡地点と出生地点の高低差を比較する。

 「方角も年数もバラバラです。......ですが────」
 ここで少しまとまりが出る。

「死後七年以内...」

「村が小さいからだ」

「そうですね」

「納得したか」

「いいえ」

「何でだ」

「死亡地点を中心にして、該当する出生地点まで半径四十メートル前後の円を描きます」

「描けばどうなる」

 初穂は画面上に円を増やした。

 宗介が、
「花火みたいですね」
 と言った。

「まだです」

「何が?」

「まだ何にも見えません」

「私は花火に見えます」

「自由な発想ですね」

「もう七十四ですから」

 さらに円を増やす。
 それぞれの円は重なり、離れ、また重なる。

 雑然としている。
 美しくもない。
 規則的にも見えない。

 やはり自分は、数字に意味を求めすぎているのかもしれない。

 初穂は息を吐いた。

「ダメか」
 画面から手を離す。

 そのとき枝折が言った。
「年代を分けろ」

「え?」

「全部一緒にするから見にくい」

 初穂は枝折を見る。

「今、偶然だって言ってませんでした?」

「偶然かどうか見るんだろ」

「協力してくれるんですか」

「見づらないのが嫌なだけだ。気が変わるかもしれんぞ」

 宗介が笑った。
「この人、素直じゃないんですよ」

「黙れ」

 初穂は年代別にレイヤーを分けた。
 昭和二十年代。
 円を表示。三つ。

 昭和三十年代。四つ。
 昭和四十年代。五つ。

 そして、
「あ......」
 声が漏れた。

 昭和三十年代の三つの円。
 一つの円の中心近くを、別の円の縁が通っている。
 さらにその円の縁付近に、新しい出生地点がある。

 ただの偶然に見える。

 しかし、初穂は次の年代を表示した。

 その出生地点が、十数年後。
 今度は別の記録の基準点になっていた。

「待って」
 初穂は資料をめくった。

 青い点は昭和三十六年出生。
 真壁ハツ。
 その女性が五十四歳で畑仕事中に死亡。

 死亡地点。
 そこから四十・三メートル。

 六年後。
 男児出生。
「......中心が、移ってる」

「何がだ」
 枝折が訊いた。

「最初は死んだ人の場所を中心にしてたんです」

「ああ」

「でも違う」
 初穂は画面を拡大する。
「その円周上で生まれた人が、何十年後かに死ぬ。その死亡地点が、今度は次の円の中心になる」

 宗介は栗まんじゅうを持ったまま画面を覗く。
「リレーみたいですね」

 初穂は振り向いた。
「......そうです」

「何がです?」

「リレーです」

 宗介本人は思いつきで言っただけらしい。

 初穂は資料を追った。
出生し成長して死ぬ。
 点から点へ。円から円へ。
 一人の人生が終わった地点の周囲で、別の人生が始まる。

 その人生もやがて終わる。
 するとまた別の場所に円が生まれる。

「......これ」
 初穂の声が小さくなる。
「人口統計じゃない」

 宗介が言った。
「でしょうね」

「そこは分かるんですね」

「人口統計が何かは知ってます」

 初穂は聞いていなかった。
 地図を見ている。

 同じような大きさの円が互いに重なる。
 ただし、まだ足りない。
 何かになりそうで、ならない。

 彼女はデータを保存した。
「もっと古い記録が必要です」

 枝折の表情が変わった。
 ほんの少し。

「どれくらい古いのだ?」

「明治以前......」

「正確じゃないと言っただろ」

「正確じゃなくていいです。位置関係だけでも───」

「ない!」

 即答。

 初穂は枝折を見る。
「昨日は『古いものほど正確じゃない』って言いましたよね」

「ああ、言ったな」

「『ない』とは言わなかった」

「今日は言った」

「昨日はあるみたいな言い方でしたね」

「気のせいだ」

「枝折さん」

「ない、無いものは無い」

 宗介が湯呑みを置いた。
「ありますよ」

 枝折が宗介を睨んだ。
「お前は黙ってろ」

「でもありますよね」

「黙れ、それ以上言うな」

「生方さん、ありますよ」

「おい!池生!」

「どこに?」

「奥の――」

「お前ら帰れ!」

 枝折の声が蔵に響いた。
 初穂と宗介は黙った。

 宗介が小さな声で言った。
「怒られましたね」

「見れば分かります」

「久しぶりです」

「嬉しそうですね」

「いやぁ、人に本気で怒られると、生きてる感じがします」

「七十四歳の感想じゃないですね」

「何歳ならいいんです?」

「知りません」

 枝折が額を押さえた。
「......今日は帰れ」

 さっきより低い声だった。

 今度は冗談ではない。

 初穂はタブレットを閉じた。
「分かりました」

 追及しない。

 ただ、分かったことが一つある。

 古い記録は、ある。

  *

 帰り道。
 宗介と二人で歩いた。
 昼を過ぎ、山の空気が少し蒸している。

「池生さん」

「はい」

「どうして枝折さん、あんなに嫌がるんですか」

「昔から神経質なんです」

「そういう話じゃなくて」

「はは、分かってます」
 宗介は前を向いたまま歩く。

「昔の記録に、何があるんです?」

「さあ」

「知らない?」

「全部は───」

 初穂は足を止めた。
「全部は、ということは、少しは知ってますよね」

 宗介も止まる。
 道端では、白い花が咲いている。
 墓地にあったものと同じ。

「生方さん」

「はい」

「研究って、分からないものを分かるようにする仕事ですか」

「まあ......大雑把には」

「大変ですね」

「今、その話します?」

「私は分からないものを、分からないままにして七十四年生きてきました」

「それはそれで才能ですね」

「それはそれで、楽ですよ」

「おすすめされても困ります」

 宗介は笑った。
 そして歩き出した。

 初穂も後を追う。

「古い記録には」
 宗介が前を向いたまま言った。
「生まれた人と、死んだ人が書いてあります」

「それは新しい記録も同じですよね」

「そうですね」

「違うところは?」

 宗介はしばらく黙った。

「順番です」

「順番......?」

「ええ」

「どういう意味です?」

「枝折さんに怒られるので言いません」

「今ここにいませんよ」

「あとで怒られます」

「どうやって知るんです」

「なぜか知るんですよ、あの人」

「......うーん、怖いな」

「でしょう」

「そこは共感するんですね」

「長い付き合いですから」

 結局、宗介はそれ以上話さなかった。

  *

 民宿へ戻る途中、初穂は杏果に会った。

 制服ではない。
 白いTシャツにデニム。
 自転車を押している。

「あ、初穂さん」

「今日は学校休み?」

「土曜日ですよ」

 初穂は一瞬止まった。
「あ」

「大学の人って曜日分からなくなるんですか」

「なる人はなる」

「初穂さんは?」

「今なった」

 杏果が笑った。
「何か分かりました?」

「少しだけ」

「何が?」

「まだ言えないよ」

「ずるいなぁ」

「間違ってたら恥ずかしいから」

「研究者ってそういうの気にするんですね」

「すごく気にする」

「池生さんは何でも適当に言いますよ」

「知ってる」

 宗介は隣で、
「え?私は適当なことは言いませんよ」
 と言った。

 初穂と杏果が同時に宗介を見る。

「ん?何です?」

「いえ」「別にぃ」
 二人も同時に答えた。

  *

 その夜。
 初穂は一人で画面を見ていた。

 今日確認した記録。
 死亡と出生。 
 点が時間を越えて繋がる。

 考え方を変える。
 人間ごとに追う。
 生まれた場所。
 住んだ場所。
 死んだ場所。
 次の出生。

 初穂は線を引いてみた。
 すぐ消した。
 線ではない。線を引くと、むしろ分からなくなる。

 必要なのは距離。
 中心と円周。
 彼女は再び円を描いた。

 年代ごとに少しずつ。
 深夜十二時を過ぎた。

 画面の中央。
 三つの円が重なっている部分がある。
 初穂はそこを拡大した。

 三本の弧が重なる。

「......花びら?」
 口にした瞬間、鳥肌が立った。

 違う。そう見えただけだ。
 円が重なれば、花弁のような形などいくらでもできる。

 人間は顔でないものに顔を見る。
 星を繋げて動物を作る。
 雲を見て人の形だと言う。
 これと同じだ。

 初穂は表示を一度すべて消した。
 真っ白な地図。
 また一つずつ出す。

 指が止まった。
 六つの円が重なる。完全ではない。
 位置もわずかにずれている。

 古い記録の誤差を考えれば、むしろ当然だった。

 だが六つの円が、一ヶ所を囲もうとしている。

 中央にはまだ円がない。
 初穂は息を止めた。
 胸の奥で何かがざわついた。

 見たことがある。
 絶対に、この並びを。

 どこでか?
 それが思い出せない。

 スマートフォンを取ろうとした。
 検索すればいい。

 画像検索をかけようとする。
 幾何学、円、六つ、花。

 そこまで考えて、手を止めた。
 まだだ。自分から答えを探しに行く前に、記録を確認したい。

 似ている何かを先に知れば、今度はその形に合うデータだけを選んでしまう。

 研究では一番やってはいけないことだ。

「......明日」
 初穂は呟いた。

 古い記録を見る。
 枝折が隠しているもの。

 そして、この六つの円の中央。
 そこには今何があるのか。

 初穂は円の表示を残したまま、現在の航空写真へ切り替えた。

 地図が鮮明になる。
 道路、田、住宅、森。
 六つの円が囲む、その中心。

 初穂は拡大した。
「......え?」

 そこに建物がある。
 見覚えがあった。

 瓦屋根、細長い庭。
 道路沿いの小さな駐車スペース。

 初穂はさらに拡大した。

 間違いない。

 今、自分がいる場所。
 宿泊している民宿だった。

 その瞬間に窓の外で何かが落ちる音がした。

 こつり。と
 初穂は振り向く。

 暗い窓がある。
 見えるのは自分の姿だ。

 数秒後。

 また、こつり。と

 立ち上がり窓へ近づく。
顔を窓へ押し付ける。

 庭、街灯、白い花。
 そして、花の間に何かが落ちている。

 小さな丸いもの。

 初穂は窓を開けた。
 湿った夜気が入る。

 目を凝らす。

 実だった。
 白い花の一つがいつの間にか花弁を落とし、小さな実をつけていた。

 朝には咲いたばかりだったはずなのに。

 初穂はしばらく見つめた。

 花が終われば、実になる。

 昼間聞いた言葉が蘇る。
 違う。植物なら当たり前だ。

 何でも結びつけるな。
 初穂は窓を閉めた。

 それでも、画面へ戻るまでに少し時間がかかった。

 六つの円。
 中央の民宿。
 そして、まだ描かれていない、七つ目。

 初穂はその中心に小さな印だけを置いた。

 保存する。
 ファイル名を入力する欄。
 少し迷って、こう打った。

〈未完成〉

 窓の外で、また一つ。
 こつり、と。

 実が落ちた。
シェア
前の話 →
第二話:実った人
← 次の話
第四話:花の形(前編)
神様はコンパスを使わない作者:然々曰
目次を見る
コメント0件
ログインしてコメントする
まだコメントがありません
ホーム›神様はコンパスを使わない›第三話:地図に残るもの
← 前の話目次次の話 →

第三話:地図に残るもの

朝起きて最初に思い出したのが妹の顔ではなく数字だったことに、生方初穂は少しだけ罪悪感を覚えた。

 そして、その罪悪感を抱いた自分に腹が立った。

 実季が死んで九年になる。
 姉が朝起きるたび妹を思い出している必要などない。

 忘れている時間が増えることは、裏切りではない。
 そう頭では分かっている。

 それでも、死んだ人間について人は妙な義務を背負う。

 忘れないこと。
 悲しみ続けること。
 意味を見つけること。

 初穂はそれが嫌で、意味ではなく記録を見る人間になった。

 だから今朝、考えるべきなのは数字だ。

 三十八・六。
 四十・六。
 四十一・二。
 四十メートル前後。
 たったの四例。
 統計と呼ぶのも恥ずかしい。

 何より、古い資料の地点情報には数メートル単位の誤差がある。

 死者が倒れた位置まで測量して残しているはずもない。

 それでも。
「......気持ち悪いな」

「朝ご飯がですか?」

 背後から女将に言われた。

「いやいや、違いますよ」

「あー、良かったです」

 初穂の前には焼き鮭、味噌汁、漬物、卵焼き。
 完全に普通の朝食だった。

 女将は味噌汁を置きながら、
「昨日の大学の先生ならもう来てますよ」
 と言った。

「先生?誰です?」

「池生さん」

「その人は大学の先生じゃないです」

「あら」

「元区長ですよ?」

「知ってます」

「知ってるんですか」

「生方さんが大学の先生で、池生さんも実は大学の先生なんでしょう?」

「私も大学の先生じゃないです」

「じゃあ誰が先生なんです?」

「誰も先生じゃないです」

「ややこしいですねぇ」

「何もややこしくないです」

 女将は不思議そうな顔をして厨房へ戻っていった。
 この村に来てから、自分の肩書だけが日々曖昧になっている気がした。

  *

「先生、おはようございます!」
 集会所へ行くと、宗介が言った。

「あなたまでやめてくださいよ」

「何を?」

「先生って」

「じゃあ何て呼べば?」

「昨日まで生方さんでしたよね」

「昨日まで大学院生だと知りませんでしたから」

「昨日説明しましたよ。それに院生て分かってるじゃないですか」

「そうでしたっけ?」

「.........」

「じゃあ生方さん」

「はい」

「あ、先生、お茶飲みます?」

「今のわざとですよね」

「何がです?」
 宗介は真顔だった。

 初穂は諦めて椅子に座った。
 机の上には急須と湯呑み、それに昨日とは違う菓子が置いてある。

 包装紙には「栗まんじゅう」と書いてあった。

「池生さん、今日も来てくれたんですね?」

「まぁ暇ですから。若い人がいなくなると、老人は急に暇になるんですよ」

「畑仕事とかは?」

「ありますよ」

「え?大丈夫なんですか」

「野菜は私が一時間遅れても怒りません」

「人間より付き合いやすそうですね」

「人間より話を聞きます」

「野菜が?」

「ええ。ですが返事もしません」

 宗介がお茶を注いだ。
 やはりこの人は、真面目なのか冗談を言っているのか分からない。

「枝折さんのところ、今日も行けますか?」

「もう電話しましたよ」

「今日は電話したんですね」

「昨日、生方さんに怒られたので」

「え、怒ってませんよ?」

「若い人に注意されたことは覚えておくようにしてるんです」

「それは偉いですね」

「でも内容は忘れます」

「......意味ないですね」

 宗介は栗まんじゅうを食べた。

  *

 枝折は、昨日より露骨に嫌そうな顔で二人を迎えた。

「また来たのか」

「電話したでしょう」

「電話をすれば来ていいという意味じゃない」

「電話って大抵そういうものじゃないんですか」

「お前からの電話は違う」

「枝折さん」
 初穂が間に入る。
「今日は、出生記録を見たいんです」

 枝折の目が止まった。

「出生だと?」

「はい」

「家屋じゃなくてか」

「出生地点です。できれば、病院以外で生まれた人の」

「はっ、何でそんなものを」

「確認したいことがあって」

「何をだ?」

 初穂は昨夜作った資料をタブレットで見せた。

 四つの死亡地点。
 四つの出生地点。
 その間の距離。

 枝折は黙って見る。
 宗介も横から覗き込んだ。

「きれいですねぇ」

「何がです?」

「丸、真ん丸だ」

 画面には、昨夜描いた二つの円が残っていた。

「いや、そこじゃなくて数字見てください」

「数字は苦手です」

「元区長ですよね、お金の計算とかあったんじゃ......」

「区長は計算しません。計算できる人に頼みます」

 枝折が低い声で言った。
「四十メートルか」

 初穂は頷く。
「前後です。まだ四例ですし、地点の誤差もあります。でも似すぎてる」

「ただの偶然だろ」

「その可能性が高いです」

「なら終わりじゃないか」

「だから確かめます」

「面倒な性格だな」

「研究者向きだと言ってください」

「研究者はみんな面倒なのか」

「少なくとも指導教授よりかはマシです」

 宗介が頷いた。
「先生って大変ですねぇ」

「だから先生じゃないですって」

 枝折が眼鏡を外し、目頭を押さえた。
「お前ら二人で来るな」

  *

 出生記録は蔵の一番奥にあった。

 正式な戸籍ではない。
 戦後、村の保健員がつけていた記録と、寺の過去帳、さらに古い産婆の覚え書きを、枝折が後年まとめたものだった。

 初穂が欲しかったのは正確な生年月日ではない。

 場所だった。

 現在ではほとんどが病院出産だが、昭和四十年代以前の花守では自宅出産が多い。

 さらに古い記録になると、
〈山中〉〈畑〉〈旧○○宅〉〈水車小屋〉
 など、妙な記述が増えた。

「昔の人って、こんなに家以外で産むものなんですか?」

「基本は家だ」
 枝折が言った。

「ですよね」

「だが急な出産はある」

「それにしても多くありません?」

 初穂は数えた。
 記録が比較的詳しい七十三件中、十一件。

 一割を超える。

「昔は病院が遠かったからな」

「でも予定日近い妊婦さんが山へ行く理由って何です?」

「知らん」

「畑ならまだ分かりますけど」

「昔の女は強かったんですよ、きっと」
 横で宗介が言った。

「それ今の女性に聞こえるところで言わない方がいいですよ」

「どうしてです?」

「説明するの面倒なので、そのまま生きてください」

 宗介は素直に頷いた。

 初穂は記録を撮影していく。
 昭和二十八年の山崩れ。
 死者七名。

 初穂は、その後十年間の出生を拾った。

 自宅出産、畑、旧家屋......。
 位置が推定できるものだけ。

 そして地図へ打つ。

 赤は死。
 青は出生。
 十三個の点。

「......」

 宗介が後ろから覗く。
「何か分かりました?」

「まだです」

「分からないものをずっと見る仕事なんですね」

「そうですよ」

「嫌な仕事ですね」

「たまに私も思います」

 一件目。死亡地点から最寄りの出生地点は四十一・二メートル。

 二件目は三十九・八。
 三件目は四十・六。
 四件目は三十九・九。
 そこまでは昨夜確認済み。

 五件目は八十八・三メートル。

「......全然違う」
 初穂は呟いた。

 六件目は百二十六メートル。
 七件目は十九・四。

 ばらばらだ。

「やっぱり偶然か......」

「何がです?」

「最初の四つだけ距離が似てたんです。でも他は全然違う」

 宗介は栗まんじゅうの二個目を開けていた。

「じゃあ帰りますか?」

「何でです?」

「終わったんでしょう?」

「まだ終わってません」

 五件目は八十八・三メートル。
 そこから別の青い点までは四十・一。

 指が止まる。
「......あれ?」

 死亡地点に対して、一番近い出生地点を選んでいた。

 だが「最寄り」である必要はない。

 初穂は六件目を測る。
 一番近い出生地点ではない。
 少し離れた青点。
 四十一・〇。

 七件目は三十九・七。

「池生さん」

「はい?」

「これ見てください」

 宗介が画面を覗く。
「数字ですね」

「それは分かってます」

「私は分かりません」

「......そうですか」

「どうかしましたか?」

「あ......枝折さんなら...枝折さん!」

「何だ?」

「ちょっと見てもらえます?」

「嫌だ」

「そこを何とか」

「池生に見せればいいだろ」

「今見せました」

「どうだった」

「数字ですね、って」

 蔵の奥から盛大なため息が聞こえた。

  *

 三十分後。
 初穂は二十三件を確認していた。

 完全ではない。
 資料が不足している。

 死亡地点も曖昧。
 出生位置も数十メートル単位の誤差がある。

 それでも。

 十六件。
 死者が出た場所から、おおむね三十七から四十三メートルの範囲で、その後数年以内に誰かが生まれている。

「......多すぎる」

 枝折は何も言わない。

「地形で説明できますか?」

「できる」

「どうやって?」

「この村で家を建てられる場所は限られてる」

「でも家じゃない出生もあります」

「畑も平地に作る」

「山中は?」

「さあな」

「水車小屋は」

「川がある」

「全部説明する気ですね」

「説明できるならな」

 初穂も、その姿勢には同意していた。
 異常に見えるものほど、まず普通の理由を探すべきだ。

「じゃあもう一つ」
 初穂は地形図を重ねた。
「標高差は」

 死亡地点と出生地点の高低差を比較する。

 「方角も年数もバラバラです。......ですが────」
 ここで少しまとまりが出る。

「死後七年以内...」

「村が小さいからだ」

「そうですね」

「納得したか」

「いいえ」

「何でだ」

「死亡地点を中心にして、該当する出生地点まで半径四十メートル前後の円を描きます」

「描けばどうなる」

 初穂は画面上に円を増やした。

 宗介が、
「花火みたいですね」
 と言った。

「まだです」

「何が?」

「まだ何にも見えません」

「私は花火に見えます」

「自由な発想ですね」

「もう七十四ですから」

 さらに円を増やす。
 それぞれの円は重なり、離れ、また重なる。

 雑然としている。
 美しくもない。
 規則的にも見えない。

 やはり自分は、数字に意味を求めすぎているのかもしれない。

 初穂は息を吐いた。

「ダメか」
 画面から手を離す。

 そのとき枝折が言った。
「年代を分けろ」

「え?」

「全部一緒にするから見にくい」

 初穂は枝折を見る。

「今、偶然だって言ってませんでした?」

「偶然かどうか見るんだろ」

「協力してくれるんですか」

「見づらないのが嫌なだけだ。気が変わるかもしれんぞ」

 宗介が笑った。
「この人、素直じゃないんですよ」

「黙れ」

 初穂は年代別にレイヤーを分けた。
 昭和二十年代。
 円を表示。三つ。

 昭和三十年代。四つ。
 昭和四十年代。五つ。

 そして、
「あ......」
 声が漏れた。

 昭和三十年代の三つの円。
 一つの円の中心近くを、別の円の縁が通っている。
 さらにその円の縁付近に、新しい出生地点がある。

 ただの偶然に見える。

 しかし、初穂は次の年代を表示した。

 その出生地点が、十数年後。
 今度は別の記録の基準点になっていた。

「待って」
 初穂は資料をめくった。

 青い点は昭和三十六年出生。
 真壁ハツ。
 その女性が五十四歳で畑仕事中に死亡。

 死亡地点。
 そこから四十・三メートル。

 六年後。
 男児出生。
「......中心が、移ってる」

「何がだ」
 枝折が訊いた。

「最初は死んだ人の場所を中心にしてたんです」

「ああ」

「でも違う」
 初穂は画面を拡大する。
「その円周上で生まれた人が、何十年後かに死ぬ。その死亡地点が、今度は次の円の中心になる」

 宗介は栗まんじゅうを持ったまま画面を覗く。
「リレーみたいですね」

 初穂は振り向いた。
「......そうです」

「何がです?」

「リレーです」

 宗介本人は思いつきで言っただけらしい。

 初穂は資料を追った。
出生し成長して死ぬ。
 点から点へ。円から円へ。
 一人の人生が終わった地点の周囲で、別の人生が始まる。

 その人生もやがて終わる。
 するとまた別の場所に円が生まれる。

「......これ」
 初穂の声が小さくなる。
「人口統計じゃない」

 宗介が言った。
「でしょうね」

「そこは分かるんですね」

「人口統計が何かは知ってます」

 初穂は聞いていなかった。
 地図を見ている。

 同じような大きさの円が互いに重なる。
 ただし、まだ足りない。
 何かになりそうで、ならない。

 彼女はデータを保存した。
「もっと古い記録が必要です」

 枝折の表情が変わった。
 ほんの少し。

「どれくらい古いのだ?」

「明治以前......」

「正確じゃないと言っただろ」

「正確じゃなくていいです。位置関係だけでも───」

「ない!」

 即答。

 初穂は枝折を見る。
「昨日は『古いものほど正確じゃない』って言いましたよね」

「ああ、言ったな」

「『ない』とは言わなかった」

「今日は言った」

「昨日はあるみたいな言い方でしたね」

「気のせいだ」

「枝折さん」

「ない、無いものは無い」

 宗介が湯呑みを置いた。
「ありますよ」

 枝折が宗介を睨んだ。
「お前は黙ってろ」

「でもありますよね」

「黙れ、それ以上言うな」

「生方さん、ありますよ」

「おい!池生!」

「どこに?」

「奥の――」

「お前ら帰れ!」

 枝折の声が蔵に響いた。
 初穂と宗介は黙った。

 宗介が小さな声で言った。
「怒られましたね」

「見れば分かります」

「久しぶりです」

「嬉しそうですね」

「いやぁ、人に本気で怒られると、生きてる感じがします」

「七十四歳の感想じゃないですね」

「何歳ならいいんです?」

「知りません」

 枝折が額を押さえた。
「......今日は帰れ」

 さっきより低い声だった。

 今度は冗談ではない。

 初穂はタブレットを閉じた。
「分かりました」

 追及しない。

 ただ、分かったことが一つある。

 古い記録は、ある。

  *

 帰り道。
 宗介と二人で歩いた。
 昼を過ぎ、山の空気が少し蒸している。

「池生さん」

「はい」

「どうして枝折さん、あんなに嫌がるんですか」

「昔から神経質なんです」

「そういう話じゃなくて」

「はは、分かってます」
 宗介は前を向いたまま歩く。

「昔の記録に、何があるんです?」

「さあ」

「知らない?」

「全部は───」

 初穂は足を止めた。
「全部は、ということは、少しは知ってますよね」

 宗介も止まる。
 道端では、白い花が咲いている。
 墓地にあったものと同じ。

「生方さん」

「はい」

「研究って、分からないものを分かるようにする仕事ですか」

「まあ......大雑把には」

「大変ですね」

「今、その話します?」

「私は分からないものを、分からないままにして七十四年生きてきました」

「それはそれで才能ですね」

「それはそれで、楽ですよ」

「おすすめされても困ります」

 宗介は笑った。
 そして歩き出した。

 初穂も後を追う。

「古い記録には」
 宗介が前を向いたまま言った。
「生まれた人と、死んだ人が書いてあります」

「それは新しい記録も同じですよね」

「そうですね」

「違うところは?」

 宗介はしばらく黙った。

「順番です」

「順番......?」

「ええ」

「どういう意味です?」

「枝折さんに怒られるので言いません」

「今ここにいませんよ」

「あとで怒られます」

「どうやって知るんです」

「なぜか知るんですよ、あの人」

「......うーん、怖いな」

「でしょう」

「そこは共感するんですね」

「長い付き合いですから」

 結局、宗介はそれ以上話さなかった。

  *

 民宿へ戻る途中、初穂は杏果に会った。

 制服ではない。
 白いTシャツにデニム。
 自転車を押している。

「あ、初穂さん」

「今日は学校休み?」

「土曜日ですよ」

 初穂は一瞬止まった。
「あ」

「大学の人って曜日分からなくなるんですか」

「なる人はなる」

「初穂さんは?」

「今なった」

 杏果が笑った。
「何か分かりました?」

「少しだけ」

「何が?」

「まだ言えないよ」

「ずるいなぁ」

「間違ってたら恥ずかしいから」

「研究者ってそういうの気にするんですね」

「すごく気にする」

「池生さんは何でも適当に言いますよ」

「知ってる」

 宗介は隣で、
「え?私は適当なことは言いませんよ」
 と言った。

 初穂と杏果が同時に宗介を見る。

「ん?何です?」

「いえ」「別にぃ」
 二人も同時に答えた。

  *

 その夜。
 初穂は一人で画面を見ていた。

 今日確認した記録。
 死亡と出生。 
 点が時間を越えて繋がる。

 考え方を変える。
 人間ごとに追う。
 生まれた場所。
 住んだ場所。
 死んだ場所。
 次の出生。

 初穂は線を引いてみた。
 すぐ消した。
 線ではない。線を引くと、むしろ分からなくなる。

 必要なのは距離。
 中心と円周。
 彼女は再び円を描いた。

 年代ごとに少しずつ。
 深夜十二時を過ぎた。

 画面の中央。
 三つの円が重なっている部分がある。
 初穂はそこを拡大した。

 三本の弧が重なる。

「......花びら?」
 口にした瞬間、鳥肌が立った。

 違う。そう見えただけだ。
 円が重なれば、花弁のような形などいくらでもできる。

 人間は顔でないものに顔を見る。
 星を繋げて動物を作る。
 雲を見て人の形だと言う。
 これと同じだ。

 初穂は表示を一度すべて消した。
 真っ白な地図。
 また一つずつ出す。

 指が止まった。
 六つの円が重なる。完全ではない。
 位置もわずかにずれている。

 古い記録の誤差を考えれば、むしろ当然だった。

 だが六つの円が、一ヶ所を囲もうとしている。

 中央にはまだ円がない。
 初穂は息を止めた。
 胸の奥で何かがざわついた。

 見たことがある。
 絶対に、この並びを。

 どこでか?
 それが思い出せない。

 スマートフォンを取ろうとした。
 検索すればいい。

 画像検索をかけようとする。
 幾何学、円、六つ、花。

 そこまで考えて、手を止めた。
 まだだ。自分から答えを探しに行く前に、記録を確認したい。

 似ている何かを先に知れば、今度はその形に合うデータだけを選んでしまう。

 研究では一番やってはいけないことだ。

「......明日」
 初穂は呟いた。

 古い記録を見る。
 枝折が隠しているもの。

 そして、この六つの円の中央。
 そこには今何があるのか。

 初穂は円の表示を残したまま、現在の航空写真へ切り替えた。

 地図が鮮明になる。
 道路、田、住宅、森。
 六つの円が囲む、その中心。

 初穂は拡大した。
「......え?」

 そこに建物がある。
 見覚えがあった。

 瓦屋根、細長い庭。
 道路沿いの小さな駐車スペース。

 初穂はさらに拡大した。

 間違いない。

 今、自分がいる場所。
 宿泊している民宿だった。

 その瞬間に窓の外で何かが落ちる音がした。

 こつり。と
 初穂は振り向く。

 暗い窓がある。
 見えるのは自分の姿だ。

 数秒後。

 また、こつり。と

 立ち上がり窓へ近づく。
顔を窓へ押し付ける。

 庭、街灯、白い花。
 そして、花の間に何かが落ちている。

 小さな丸いもの。

 初穂は窓を開けた。
 湿った夜気が入る。

 目を凝らす。

 実だった。
 白い花の一つがいつの間にか花弁を落とし、小さな実をつけていた。

 朝には咲いたばかりだったはずなのに。

 初穂はしばらく見つめた。

 花が終われば、実になる。

 昼間聞いた言葉が蘇る。
 違う。植物なら当たり前だ。

 何でも結びつけるな。
 初穂は窓を閉めた。

 それでも、画面へ戻るまでに少し時間がかかった。

 六つの円。
 中央の民宿。
 そして、まだ描かれていない、七つ目。

 初穂はその中心に小さな印だけを置いた。

 保存する。
 ファイル名を入力する欄。
 少し迷って、こう打った。

〈未完成〉

 窓の外で、また一つ。
 こつり、と。

 実が落ちた。
シェア
← 前の話
第二話:実った人
次の話 →
第四話:花の形(前編)
神様はコンパスを使わない作者:然々曰
目次
コメント0件
ログインしてコメントする
まだコメントがありません