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第二話:実った人

朝になって見ると、庭の花は七つに増えていた。

 初穂は縁側にしゃがみ込み、そのうちの一輪へ顔を近づけた。

 「白いなぁ......こんなに綺麗な白い花あったんだ」

 昨夜、夢の中で実季が歩いていた草原の花によく似ている。
 ただし、それだけだった。
 花弁は六枚で直径は二センチほど。
 細い茎に小さな葉が二枚ついている。
 見たことがあるような、ないような花だ。

「何してるんです?」

 背後から声がした。

 振り返ると、民宿の女主人が味噌汁の鍋を持って立っていた。

「あ、すみません。勝手に庭に入ってしまいまして......」

「そんなの気にしなくていいですよ」

「ありがとうございます。あ、この花って何ていうんですか?」

 女主人は覗き込んだ。

「ああ、それ」

「ご存じですか?」

「名前なんてあったかなぁ」

 昨日の宗介と同じ反応だった。

「昔から咲いてるんですか?」

「咲いてるっていうか......」
 女主人は少し考えた。
「気づいたらあるんですよ」

「毎年?」

「どうだったかな...」

 曖昧だった。
 初穂はスマートフォンを取り出し、花を数枚撮影した。

 植物識別アプリにもかけてみる。

 候補はいくつか出た。
 だが、どれも葉の形が微妙に違う。

「珍しい花じゃないと思いますけどね」
 女主人は言った。
「それに山なんて、知らない草ばっかりでしょう」

「そうですね」

 もっともな話だ。

 初穂は立ち上がった。
 自分でも少し神経質になっている気がした。

 夢に出てきた花と、現実に咲いていた花。

 それだけで関連づけるのは、研究者として悪い癖どころか失格に近い。

 昨夜、写真を眺めすぎた。
 久しぶりに実季のことを考えた。
 そのせいで夢に出てきた。
 そして、朝に似た花を見た。
 順番は、それだけだ。

 人間は、後から意味を作る。

 初穂はそういうものを何度も見てきた。

  *

 午前九時。
 初穂は再び集会所へ向かった。

 宗介はすでに来ていた。
 今日は白いシャツに作業用のズボン。

 机の上には古い住宅地図が広げられている。

「昨日言ってたやつです」

「ありがとうございます」

「といっても、三十年くらい前ですけどね」

 初穂は地図を覗き込んだ。

 一九九三年。

 今より明らかに家が多い。

 現在は空き地になっている場所に名字が並んでいる。

 初穂はタブレットを横へ置き、現在の地図と比較した。

「この辺、かなり変わってますね」

「若いのが出ていきましたから」

「ここに五軒ありますよね。昨日、栗林になっていた場所」

「そうです」

「三軒が転出、二軒が亡くなった」

「ええ」

「亡くなった方の家は、そのまま空き家に?」

 宗介は少しだけ考えた。

「片方は取り壊しました」

「もう片方は?」

「燃えました」

 初穂は顔を上げた。

「火事ですか?」

「二十......何年前だったかな」

「怪我人は?」

「いません。空き家でしたから」

「原因は?」

「漏電だったと思いますよ」

 初穂はメモを取る。
 それから地図へ目を戻した。

 家がなくなる。
 道が変わる。
 畑になる。
 そして林へ戻る。
 集落というものは、そうやって少しずつ形を変える。

 生き物に似ている。

 初穂は以前、論文の草稿にそう書いたことがある。

 しかし指導教授から、
〈比喩は便利だが、これは分析ではない〉と赤字を入れられた。

 正しい指摘だった。

「池生さん」

「はい、何か研究の足しになりましたか?」

「昨日、気になったことがあるんですが」

「何でしょう?」

「『実る』って言葉です」

 宗介が地図から顔を上げた。
「ああ」

「亡くなることを、昔はそう言ったんですよね」

「そうです」

「由来は分かりますか?」

「由来......ですか?」

「たとえば宗教的な意味があるとか。山岳信仰とか、祖霊信仰......あ!土着信仰とか」

 宗介は困ったように笑った。

「難しいことは分かりませんねぇ」

「昔話でもいいです」

「昔話......?」

「昔話を」

「......花が咲けば、実がなる」
 宗介は言った。

 昨日と同じ言葉だった。

「え?それだけですか?」

「それだけじゃ足りません?」

「研究者としては、もう少し欲しいですね」

 初穂が笑う。
 宗介も笑った。

「じゃあ」
 宗介は少し考えてから、
「実がなったら、その次は何です?」
 と聞いた。

「花になる......違いますか?

「ええ、その次は?」

「......うーん...枯れて、種、ですか?」

「そう、その通り」

「種が落ちるということですね」

「その次は?」

「また芽が出る」

「その次は?」

「育って......花が咲く」

 宗介が頷いた。
「それで終わりです」

「終わり?」

「説明がですよ?」

「ああ...そう...なんですね」
 初穂は拍子抜けした。

 宗介が笑う。
「そんな大層な話じゃないんですよ。昔の人は、今より山や畑をよく見ていた。それだけでしょう」

「じゃあ、人が亡くなることを『実る』っていうのも」

「花が終わって、実になるからでしょうね」

「......なら、人が生まれることは?」

 宗介の指が、一瞬だけ止まった。

 初穂はそれを見逃さなかった。
「何か呼び方があるんですか?」

「ありますよ」

「何て?」

「芽吹く」

「成人は?」

「昔なら、嫁入りとか婿入りとかした頃に『咲いた』と言ったそうです」

 初穂はノートに書く。
 芽吹く、咲く、実る。

「それで、亡くなった人を種場に埋葬する。種が落ちた、ということですね」

「ええ」

 初穂はペンを止めた。
 昨日より、はっきりと一つの形が見えた。

 誕生、成長、成熟、死、埋葬。
 そして再び誕生。

「循環なんですね」

 初穂が言う。

 宗介は否定も肯定もしなかった。
「自然は大体そうでしょう」

「人間も?」

「人間だけなぜ別なんです?」

 穏やかな質問だった。
 初穂は答えなかった。
 宗介も答えを求めなかった。

 窓の外で、蝉が鳴き始めていた。

 梅雨はまだ明けていない。
 それなのに、夏の音がした。

「そういえば」
 宗介が地図を指差した。
「昔の資料を見るなら、枝折さんのところへ行きましょうか」

「今日、大丈夫ですか?」

「いると思いますよ」

「連絡しなくても?」

「ははは、村ですからね、まぁ大丈夫ですよ」

 その言い方がおかしくて、初穂は笑った。

  *

 枝折与志郎の家は、村の西側にあった。
 母屋より蔵の方が大きい。
 黒板塀。
 庭には梅の木。
 玄関脇に、使われなくなった郵便受けが二つ並んでいる。

「枝折さーん」
 宗介が玄関から声をかける。
「勝手に入りますよー」

「それ、アリなんですか?」

「村ですからね」

 宗介は真顔で言った。
 初穂は思わず吹き出した。

 奥から足音が聞こえる。

「誰だ」

「私ですよ、私」

「私じゃ分からん」

「池生ですー」

「はぁ?余計分からん」

 しわがれた声とともに、一人の男が現れた。
 枝折与志郎。六十一歳。

 宗介より十三歳若いはずだが、第一印象では年齢差が分かりにくかった。

 痩せていて、頬骨が高い。
 丸い眼鏡。
 白髪混じりの長めの髪を後ろで束ねている。

「こちら大学の先生です」
 宗介が言った。

「違います。大学院生です」
 初穂が訂正する。

「どっちでもいい」
 枝折は言った。

「大学の先生ですよ」

「本人が違うと言ってるぞ」

「じゃあ大学院生です」

 宗介は簡単に改めた。
 初穂は二人の関係が少しだけ分かった気がした。

「生方初穂と申します。花守地区の集落形成について調査しておりまして───」

「聞いてる」

「え?は?」

「池生からだ」

「え!?連絡してるじゃないですか」

「昨日しましたので」
 宗介が平然と言った。

 初穂はもう突っ込まなかった。

  *

 枝折の蔵は、資料庫になっていた。

 棚、段ボール、古い帳面、地形図。
 新聞の切り抜き、町史、行政資料。

「す...すごいですね」

「捨てる場所がないだけだ」

「資料館に寄贈とかは?」

「資料館が縮小した」

「そうでしたか」

「人口が減ると、最初に消えるのは役に立たないものだからな」
 枝折は淡々と言った。

「文化資料は役に立たないですか」

「今すぐ腹は膨れん」

「でも残してる」

「捨てる勇気がない」

 宗介が横から言う。
「この人、昔から素直じゃないんですよ」

「お前よりはましだ」

「私、素直ですよ」

「半世紀以上生きてそんなことを言える人間が一番信用ならん」

 初穂は笑いながら、棚に並ぶ地図を見た。

 面白い。
 予想以上の資料量だった。

 集落形成史だけでも、かなり追える。

「戦前の地図もありますか?」

「あるぞ」

「明治期は?」

「ある」

「それ以前は?」

 枝折が初穂を見た。
「......何を調べたい」

「花守が一度消滅したという記録があります」

「消滅だと?」

「古い村史に、途絶えたような記述があって。でも後の資料ではまた同じ地名が使われている」

「地名は残る」

「人がいなくなっても?」

「珍しくはない、人が無くなっても名前は残るだろう?」

「そうですね。でも、村の話です。ここは一度じゃないかもしれない」

 枝折の目が細くなった。

 宗介は黙っている。

「何を見た」

「人口記録です」

「それだけか?」

「航空写真も」

「それで?」

「まだ何とも」
 初穂は正直に答えた。
「だから確かめたいんです」

 しばらくの沈黙。

 やがて枝折は棚の奥から、大きな紙筒を三本持ってきた。

「明治三十二年」

 一つ置く。

「昭和十一年」

 二つ目。

「昭和四十七年」

 三つ目。

「それより古いのは?」

「今日はそれで十分だ」

「でも――」

「......古いものほど正確じゃない」

 枝折は言った。
 正論ではある。
 しかし、言い方が妙だった。

 見せたくないのだ、と初穂は直感した。

「分かりました」
 無理には追及しない。

 まだ二日目だ。
 初穂は明治期の地図を広げた。
 紙が黄ばんでいる。

 川、旧道、水田、家、神社。
 現在の配置とかなり違う。

「ここ、今は何があります?」

 初穂が地図上の小さな集落を指差す。

 宗介が覗く。
「何も」

「山林?」

「ですね」

「十軒くらいありますよね」

「ありましたよ」

「いつなくなったんです?」

 枝折が答えた。
「明治四十一年」

「理由は?」

「病気だ」

「感染症...ですか?」

「記録では赤痢だ」

「全滅したんですか?」

「全滅はしてない。生き残った者は下へ移った」

 初穂はメモする。

「その後、この場所には?」

「家は建ってない」

「じゃあ完全に山へ戻った」

「そうだ」

 普通だった。
 一度放棄された土地が森林へ戻る。

 珍しくない。

 次に昭和十一年の地図。

 初穂は眉を寄せた。

「......あれ?」

「何だ?」

「この辺」

 明治期に人が移った先。
 そこに新しい家並みが形成されている。
 それ自体は当然だ。

「この墓地」

「ああ」

「明治三十二年の地図ではここですよね」

「そうだ」

「昭和十一年だと......移動してる?」

「移した」

「墓地なんて移せるもんなんですか?」

「土地が崩れたからな」

 初穂は二枚の地図を見比べる。

 旧墓地と新墓地。
 旧集落と新集落。

 指で位置をなぞる。
 何か引っかかった。

 だが分からない。

 昨日の航空写真を見たときと同じ感覚。

「コピーしてもいいですか?」

「構わん」

「高解像度でスキャンできれば...」

「機械はある」

「え?本当ですか?」

「資料館から捨てられるところを持ってきた」
 枝折は言う。
「役に立たないものだからな」

 初穂は笑った。
 枝折は笑わなかった。

  *

 昼過ぎまで資料を見た。

 家屋位置、河川、道路、農地、寺社、墓。初穂は特に災害記録を重点的に確認した。
 花守では、百年の間に三度大きな災害が起きていた。

 明治四十一年の赤痢流行。
 昭和二十八年の山崩れ。
 昭和五十九年の水害。
 どれも村を壊滅させるほどではない。

 しかし人口推移には明確な影響を与えている。

「昭和二十八年の山崩れ、死者は?」

「七人だった」
 枝折が答える。

「場所は?」

「そこだ」
 地図に鉛筆で印をつける。

 初穂は座標を記録した。

「昭和五十九年の水害は?」

「三人が死んだ」

「場所は」

「ここの川沿いだ」

「赤痢は?」

「死んだ場所までは分からん」

「死亡者数は?」

「十一だ」

「...多いですね」

「当時はな。今みたいな知識も無かった」

 初穂はノートへ数字を書く。

 その横で宗介が、
「よく実った年だったそうですよ」
 と言った。

 初穂のペンが止まった。

 枝折が宗介を見る。

「その言い方、外の人間にはするなと言っただろう」

「生方さんはもう知ってますよ」

「知っているのと使うのは違う、だいたい使ったのはお前だろう」

「どうして、その言い方ダメなんです?」
 初穂が尋ねる。

 枝折は一瞬黙った。
「気味悪がる」

「私は気味悪がっていません」

「今、はな」

 初穂は返事をしなかった。

 枝折は資料へ目を落とした。

 それ以上話す気はないらしい。

  *

 日が少し暮れてきた。
 村入口のバス停へ、一台の小型バスが停まった。

 降りてきたのは杏果一人だった。
四時半より少し早い。
 初穂は少し離れたところで待っていた。

「本当に待ってたんだ」

「約束したからね」

「大学の人って暇なんですか?」

「それは失礼だな」

「暇じゃなきゃ、こんな村調べないでしょ」

「博士課程の人間に言ってはいけない言葉ランキング、かなり上位だよ」

「すみません」

 杏果が笑う。
 昨夜より自然だった。

「帰り道、少し歩いていい?」

「いいですけど」

「村の話を聞きたい」

「池生さんに聞けば何でも知ってますよ」

「年齢が違う人の話も必要なの」

「なるほどね」

 二人で歩いた。
 川沿いの道。
 学校帰りの高校生と大学院生。
 傍から見れば姉妹に見えるかもしれない。

「昨日言ってたこと」
 初穂から切り出した。

「何です?」

「十八になったら出ていくって」

「ああ、それね」

「家族は?」

「お父さんもお母さんも、好きにすればって」

「反対しないんだ」

「たぶん、出ると思ってないから」

「どうして?」

「みんなそうだから」

「みんな?」

「出る出るって言うんですよ。若い時は」

「でも結局残る?」

「いや、戻ってくる」

 初穂は足を止めかけた。
「戻ってくる?」

「進学とか就職で一回町に出ても、なんか戻ってくるんです」

「仕事は?」

「農家とか。町まで通う人もいるし」

「じゃあ、普通に地元へ戻るだけじゃない?」

「そうですけど」

 杏果は小石を蹴った。
 ころころと転がって側溝へ落ちる。

「戻ってくる場所まで似てるんです」

「どういうこと?」

「うーん......うまく言えない」

 杏果は黙った。
 初穂は急かさない。

 しばらく歩く。

「初穂さん」

「うん」

「昨日、種場見ましたよね」

「見たよ」

「あそこ、普通だと思いました?」

「墓地として?」

「はい」

「少し呼び方が変わってるとは思った」

「それだけ?」

「今のところは、ね」

 杏果は不満そうだった。

「何かあるの?」

「......私」
 彼女は道の先を見る。
「生まれた場所、あそこじゃないんです」

「家じゃないってこと?」

「病院でもないです」

 初穂は首を傾げた。
「ん?ごめん、意味が。どこ?」

 杏果が道の反対側を指差した。

 山、杉林。
 その手前に、細い獣道のような道がある。

「あっち」

「山の中?」

「うん」

「どうして?」

「お母さんが、急に産気づいたから」

「ここから病院までは遠いもんね」

「違います」
 杏果は言った。
「その日、お母さん、わざわざあそこに行ったんです」

「妊娠中に?」

「予定日、まだ二週間くらい先だったって」

「散歩?」

「分かりません」

「お母さんに聞いた?」

「何回も聞いた」

「何て?」

 杏果は一度笑った。
 だが、面白くて笑ったのではない。

「『歩きたくなった』って」

「歩きたくなった」

「それだけ」

 初穂は山を見る。
 舗装もされていない。
 妊娠後期の女性が気軽に散歩する場所には見えない。

「そこで産気づいた?」

「はい。お父さんが車で迎えに行ったけど間に合わなくて、近所の人が取り上げたって」

「十七年前?」

「そう」

 初穂の研究者としての感覚が、少しだけ反応した。

 出生地点。
 自宅でも病院でもない場所。
 村内での特殊な出生事例。
 それ自体は民俗的に興味深い。

「場所、案内してもらえる?」

 杏果の表情が消えた。

「今から?」

「嫌ならいいよ、無理強いはしないから」

「......別にぃ」

 二人は道を外れた。

  *

 十分ほど登った。
 杉林の中。
 地面は湿っている。

 途中から道らしい道もなくなった。

「本当にここ?」

「もう少し」

「お母さん、臨月近くでここ登ったの?」

「だから変なんです」

 息を弾ませながら杏果が言う。
 やがて杉林が切れた。
 小さな平地がある。
 直径十メートルほど。
 中央に一本の古い切り株。

「ここ」
 杏果が言った。

「ここで?」

「私が生まれました」

 初穂は周囲を見る。

 特別なものはない。
 祠もない。
 石碑もない。
 ただの山中。

「GPS取っていい?」

「どうぞ」

 初穂は端末を取り出した。

 位置情報を記録する。

 そのとき。

「あと」
 杏果が言った。
「初穂さんに言おうと思ってたこと、もう一個ある」

「何?」

「私が生まれる前」

 彼女は切り株を見る。

「ここで、人が死んでます」

 初穂の指が止まった。

「誰?」

「杉平のおじいさん」

「いつ?」

「私が生まれる......」
 杏果は数えるように指を動かした。
「三年前」

「死因は?」

「心臓だったかな」

「ここで?」

「山仕事してて倒れたって」

 初穂は切り株を見る。

 偶然、もちろん偶然だ。
 人が山で死ぬ。
 数年後、別の人間が同じ場所で出産する。
 人口数十人の村なら、不思議ではあるが説明不能ではない。

「それを気にしてるの?」

「それだけじゃない」
 杏果は低い声で言った。

「何が?」

「私が生まれたあと」
 初穂を見る。
「杉平のおじいさんのお墓、移したんです」

「どうして?」

「知りません、私が知りたいくらい」

「どこへ?」

 杏果は答えなかった。
 初穂はその顔を見て、察した。

「え......種場?」

 杏果が頷いた。

「どの墓?」

「一番奥です」

「昨日見た?」

「たぶん、ね」

「それとあなたの出生に、何か関係があると思ってる?」

「私は思ってません」
 杏果は即座に言った。

「でも、村の人は?」

 風が吹いた。
 杉の枝が擦れ合う。
 その音の向こうで、鳥が一羽鳴いた。

「私が小さい頃」
 杏果が言った。
「池生さんに聞いたことがあるんです」

「何を?」

「どうして私は、こんな変な場所で生まれたのって」

「何て言われた?」

 杏果は切り株を見たまま答えた。
「『近かったから』って」

「何が?」

「私も聞きました」

 初穂の背中に、汗とは違うものが流れた。

「池生さんは?」

「笑ってました」

「それだけ?」

「ううん」
 杏果がようやく初穂を見る。
「『種から芽が出るのに、遠くまで行く必要はない』って」

 初穂は何も言わなかった。
 合理的な説明はいくらでも作れるはずなのに。

 昔ながらの死生観。
 子供に対する比喩。
 偶然の出生地点。
 たった一例。
 証拠にもならない。

 だが、初穂は端末を見た。
 今記録した杏果の出生地点。

 そして午前中。
 枝折の資料で入力した複数の死亡地点。

 何となく指が動いた。
 地図を呼び出す。

「杉平さんって、フルネーム分かる?」

「杉平惣太郎」

「亡くなった年は?」

「私が生まれる三年前だから......二〇〇六年かな?」

 初穂は検索した。
 午前中に撮影した死亡記録のページ。

 杉平惣太郎。

 二〇〇六年八月二日。
 心不全。
 死亡場所――山林。

 座標まではない。
 しかし枝折が古地図へ手書きした印がある。

 初穂は画像を重ねた。
「......あれ?」

「どうしました?」

 場所が違う。
 ほんの少し。
 杏果が生まれた平地と、杉平が倒れたと記録された場所。

 同じではない。

 初穂は少し安心した。
 やはり伝聞が混ざったのだ。

「違うね」

「何が?」

「杉平さんが亡くなった場所。ここじゃない」

 杏果が画面を覗く。
 初穂は地図上の二点を示す。

「少し離れてる」

「どれくらい?」

「待って」

 距離を測定する。
 表示された数字。
 三十八・六メートル。

「四十メートル弱」

「......近いじゃないですか」

「近いけど、同じ場所じゃない。話が伝わるうちに混ざったんじゃない?」

 杏果は納得していない顔だった。

 初穂は二点を眺める。

 杉平の死と三年後の杏果の出生。
 意味はない。

 そう思いながら、なぜか初穂はその距離をノートへ書いた。

 三十八・六メートル。

 そして帰り道。
 もう一つのことに気づいた。

 昨日見た種場。
 杉平惣太郎の墓。
 そこまでの距離も、測ってみたくなった。

  *

 夜、民宿に着いた。
 初穂は三つの点を画面へ置いた。

 杉平惣太郎が倒れた場所。
 円井杏果が生まれた場所。
 杉平惣太郎の墓。
 距離を測る。
 死亡地点から出生地点。

 三十八・六メートル。

 死亡地点から墓。
 二百十一メートル。

 出生地点から墓。
 二百三十八メートル。

 特に規則性はない。

「ほら」
 誰に言うでもなく呟いた。
「何もない」

 画面を閉じようとした。

 だが、その前に別の資料が目に入った。

 今日、枝折の家で撮影した昭和二十八年山崩れの記録。

 死者七名。
 初穂は何となく一人目の死亡地点を地図へ打った。
 二人目、三人目、そして七人目。
 次に、災害後十年間に生まれた村人のうち、出生場所が判明している者を入力する。

 青い点が三つある。

「......」

 手が止まった。
 別におかしくはない。
 村は狭いし人が住める場所も限られている。

 点が近くなるのは当然だ。
 初穂は自分にそう言い聞かせた。

 それでも。
 一つの赤い点を選択する。

 死亡地点。
 そこから最も近い出生地点までを測る。

 四十一・二メートル。
 別の赤い点。

 四十・六。
 別の点。

 三十九・八。

「......待って」

 初穂は椅子へ座り直した。
 七件すべてではない。

 だが四件とも約四十メートル。
 偶然、標本数が少なすぎる。
 しかも資料の座標精度も低い。

 誤差がある。
 いくらでも説明できる。

 初穂はノートに書いた。
〈約40m?要検証。地形条件による可能性大〉

 それから文字を見つめた。
 翌日、枝折に出生記録を見せてもらおう。
 そう決めた。

 パソコンを閉じかけたとき。
 画面右端の杏果の出生地点。
 そこから三十八・六メートル離れた、杉平の死亡地点。

 初穂は無意識に、地図ツールの機能を開いていた。
 中心点を指定する。
 半径を入力する。
 三十八・六。

 決定を押す。

 細い線が現れた。
 杉平惣太郎が死んだ場所を中心に、小さな円が一つ。
 その円周上に、杏果が生まれた場所があった。

 初穂はしばらく画面を見つめた。
 ただの円だった。
 どこにでも描ける。

 中心と、半径。
 二つの点があれば、円など無数に作れる。

「意味なんて無い......」
 自分に言い聞かせた。

 そのとき、画面の左上。
 別の死亡地点。

 その近くに、別の出生地点。

 初穂は何となく距離を測った。

 三十九・一メートル。

 中心を指定する。

 円を描く。
 二つ目。
 初穂の指が止まった。

 二つの円は少しだけ、重なっていた。
 ただ、それだけだった。

 この時点では、初穂にはまだそれが何に見えるのか、分からなかった。
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神様はコンパスを使わない作者:然々曰
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第二話:実った人

朝になって見ると、庭の花は七つに増えていた。

 初穂は縁側にしゃがみ込み、そのうちの一輪へ顔を近づけた。

 「白いなぁ......こんなに綺麗な白い花あったんだ」

 昨夜、夢の中で実季が歩いていた草原の花によく似ている。
 ただし、それだけだった。
 花弁は六枚で直径は二センチほど。
 細い茎に小さな葉が二枚ついている。
 見たことがあるような、ないような花だ。

「何してるんです?」

 背後から声がした。

 振り返ると、民宿の女主人が味噌汁の鍋を持って立っていた。

「あ、すみません。勝手に庭に入ってしまいまして......」

「そんなの気にしなくていいですよ」

「ありがとうございます。あ、この花って何ていうんですか?」

 女主人は覗き込んだ。

「ああ、それ」

「ご存じですか?」

「名前なんてあったかなぁ」

 昨日の宗介と同じ反応だった。

「昔から咲いてるんですか?」

「咲いてるっていうか......」
 女主人は少し考えた。
「気づいたらあるんですよ」

「毎年?」

「どうだったかな...」

 曖昧だった。
 初穂はスマートフォンを取り出し、花を数枚撮影した。

 植物識別アプリにもかけてみる。

 候補はいくつか出た。
 だが、どれも葉の形が微妙に違う。

「珍しい花じゃないと思いますけどね」
 女主人は言った。
「それに山なんて、知らない草ばっかりでしょう」

「そうですね」

 もっともな話だ。

 初穂は立ち上がった。
 自分でも少し神経質になっている気がした。

 夢に出てきた花と、現実に咲いていた花。

 それだけで関連づけるのは、研究者として悪い癖どころか失格に近い。

 昨夜、写真を眺めすぎた。
 久しぶりに実季のことを考えた。
 そのせいで夢に出てきた。
 そして、朝に似た花を見た。
 順番は、それだけだ。

 人間は、後から意味を作る。

 初穂はそういうものを何度も見てきた。

  *

 午前九時。
 初穂は再び集会所へ向かった。

 宗介はすでに来ていた。
 今日は白いシャツに作業用のズボン。

 机の上には古い住宅地図が広げられている。

「昨日言ってたやつです」

「ありがとうございます」

「といっても、三十年くらい前ですけどね」

 初穂は地図を覗き込んだ。

 一九九三年。

 今より明らかに家が多い。

 現在は空き地になっている場所に名字が並んでいる。

 初穂はタブレットを横へ置き、現在の地図と比較した。

「この辺、かなり変わってますね」

「若いのが出ていきましたから」

「ここに五軒ありますよね。昨日、栗林になっていた場所」

「そうです」

「三軒が転出、二軒が亡くなった」

「ええ」

「亡くなった方の家は、そのまま空き家に?」

 宗介は少しだけ考えた。

「片方は取り壊しました」

「もう片方は?」

「燃えました」

 初穂は顔を上げた。

「火事ですか?」

「二十......何年前だったかな」

「怪我人は?」

「いません。空き家でしたから」

「原因は?」

「漏電だったと思いますよ」

 初穂はメモを取る。
 それから地図へ目を戻した。

 家がなくなる。
 道が変わる。
 畑になる。
 そして林へ戻る。
 集落というものは、そうやって少しずつ形を変える。

 生き物に似ている。

 初穂は以前、論文の草稿にそう書いたことがある。

 しかし指導教授から、
〈比喩は便利だが、これは分析ではない〉と赤字を入れられた。

 正しい指摘だった。

「池生さん」

「はい、何か研究の足しになりましたか?」

「昨日、気になったことがあるんですが」

「何でしょう?」

「『実る』って言葉です」

 宗介が地図から顔を上げた。
「ああ」

「亡くなることを、昔はそう言ったんですよね」

「そうです」

「由来は分かりますか?」

「由来......ですか?」

「たとえば宗教的な意味があるとか。山岳信仰とか、祖霊信仰......あ!土着信仰とか」

 宗介は困ったように笑った。

「難しいことは分かりませんねぇ」

「昔話でもいいです」

「昔話......?」

「昔話を」

「......花が咲けば、実がなる」
 宗介は言った。

 昨日と同じ言葉だった。

「え?それだけですか?」

「それだけじゃ足りません?」

「研究者としては、もう少し欲しいですね」

 初穂が笑う。
 宗介も笑った。

「じゃあ」
 宗介は少し考えてから、
「実がなったら、その次は何です?」
 と聞いた。

「花になる......違いますか?

「ええ、その次は?」

「......うーん...枯れて、種、ですか?」

「そう、その通り」

「種が落ちるということですね」

「その次は?」

「また芽が出る」

「その次は?」

「育って......花が咲く」

 宗介が頷いた。
「それで終わりです」

「終わり?」

「説明がですよ?」

「ああ...そう...なんですね」
 初穂は拍子抜けした。

 宗介が笑う。
「そんな大層な話じゃないんですよ。昔の人は、今より山や畑をよく見ていた。それだけでしょう」

「じゃあ、人が亡くなることを『実る』っていうのも」

「花が終わって、実になるからでしょうね」

「......なら、人が生まれることは?」

 宗介の指が、一瞬だけ止まった。

 初穂はそれを見逃さなかった。
「何か呼び方があるんですか?」

「ありますよ」

「何て?」

「芽吹く」

「成人は?」

「昔なら、嫁入りとか婿入りとかした頃に『咲いた』と言ったそうです」

 初穂はノートに書く。
 芽吹く、咲く、実る。

「それで、亡くなった人を種場に埋葬する。種が落ちた、ということですね」

「ええ」

 初穂はペンを止めた。
 昨日より、はっきりと一つの形が見えた。

 誕生、成長、成熟、死、埋葬。
 そして再び誕生。

「循環なんですね」

 初穂が言う。

 宗介は否定も肯定もしなかった。
「自然は大体そうでしょう」

「人間も?」

「人間だけなぜ別なんです?」

 穏やかな質問だった。
 初穂は答えなかった。
 宗介も答えを求めなかった。

 窓の外で、蝉が鳴き始めていた。

 梅雨はまだ明けていない。
 それなのに、夏の音がした。

「そういえば」
 宗介が地図を指差した。
「昔の資料を見るなら、枝折さんのところへ行きましょうか」

「今日、大丈夫ですか?」

「いると思いますよ」

「連絡しなくても?」

「ははは、村ですからね、まぁ大丈夫ですよ」

 その言い方がおかしくて、初穂は笑った。

  *

 枝折与志郎の家は、村の西側にあった。
 母屋より蔵の方が大きい。
 黒板塀。
 庭には梅の木。
 玄関脇に、使われなくなった郵便受けが二つ並んでいる。

「枝折さーん」
 宗介が玄関から声をかける。
「勝手に入りますよー」

「それ、アリなんですか?」

「村ですからね」

 宗介は真顔で言った。
 初穂は思わず吹き出した。

 奥から足音が聞こえる。

「誰だ」

「私ですよ、私」

「私じゃ分からん」

「池生ですー」

「はぁ?余計分からん」

 しわがれた声とともに、一人の男が現れた。
 枝折与志郎。六十一歳。

 宗介より十三歳若いはずだが、第一印象では年齢差が分かりにくかった。

 痩せていて、頬骨が高い。
 丸い眼鏡。
 白髪混じりの長めの髪を後ろで束ねている。

「こちら大学の先生です」
 宗介が言った。

「違います。大学院生です」
 初穂が訂正する。

「どっちでもいい」
 枝折は言った。

「大学の先生ですよ」

「本人が違うと言ってるぞ」

「じゃあ大学院生です」

 宗介は簡単に改めた。
 初穂は二人の関係が少しだけ分かった気がした。

「生方初穂と申します。花守地区の集落形成について調査しておりまして───」

「聞いてる」

「え?は?」

「池生からだ」

「え!?連絡してるじゃないですか」

「昨日しましたので」
 宗介が平然と言った。

 初穂はもう突っ込まなかった。

  *

 枝折の蔵は、資料庫になっていた。

 棚、段ボール、古い帳面、地形図。
 新聞の切り抜き、町史、行政資料。

「す...すごいですね」

「捨てる場所がないだけだ」

「資料館に寄贈とかは?」

「資料館が縮小した」

「そうでしたか」

「人口が減ると、最初に消えるのは役に立たないものだからな」
 枝折は淡々と言った。

「文化資料は役に立たないですか」

「今すぐ腹は膨れん」

「でも残してる」

「捨てる勇気がない」

 宗介が横から言う。
「この人、昔から素直じゃないんですよ」

「お前よりはましだ」

「私、素直ですよ」

「半世紀以上生きてそんなことを言える人間が一番信用ならん」

 初穂は笑いながら、棚に並ぶ地図を見た。

 面白い。
 予想以上の資料量だった。

 集落形成史だけでも、かなり追える。

「戦前の地図もありますか?」

「あるぞ」

「明治期は?」

「ある」

「それ以前は?」

 枝折が初穂を見た。
「......何を調べたい」

「花守が一度消滅したという記録があります」

「消滅だと?」

「古い村史に、途絶えたような記述があって。でも後の資料ではまた同じ地名が使われている」

「地名は残る」

「人がいなくなっても?」

「珍しくはない、人が無くなっても名前は残るだろう?」

「そうですね。でも、村の話です。ここは一度じゃないかもしれない」

 枝折の目が細くなった。

 宗介は黙っている。

「何を見た」

「人口記録です」

「それだけか?」

「航空写真も」

「それで?」

「まだ何とも」
 初穂は正直に答えた。
「だから確かめたいんです」

 しばらくの沈黙。

 やがて枝折は棚の奥から、大きな紙筒を三本持ってきた。

「明治三十二年」

 一つ置く。

「昭和十一年」

 二つ目。

「昭和四十七年」

 三つ目。

「それより古いのは?」

「今日はそれで十分だ」

「でも――」

「......古いものほど正確じゃない」

 枝折は言った。
 正論ではある。
 しかし、言い方が妙だった。

 見せたくないのだ、と初穂は直感した。

「分かりました」
 無理には追及しない。

 まだ二日目だ。
 初穂は明治期の地図を広げた。
 紙が黄ばんでいる。

 川、旧道、水田、家、神社。
 現在の配置とかなり違う。

「ここ、今は何があります?」

 初穂が地図上の小さな集落を指差す。

 宗介が覗く。
「何も」

「山林?」

「ですね」

「十軒くらいありますよね」

「ありましたよ」

「いつなくなったんです?」

 枝折が答えた。
「明治四十一年」

「理由は?」

「病気だ」

「感染症...ですか?」

「記録では赤痢だ」

「全滅したんですか?」

「全滅はしてない。生き残った者は下へ移った」

 初穂はメモする。

「その後、この場所には?」

「家は建ってない」

「じゃあ完全に山へ戻った」

「そうだ」

 普通だった。
 一度放棄された土地が森林へ戻る。

 珍しくない。

 次に昭和十一年の地図。

 初穂は眉を寄せた。

「......あれ?」

「何だ?」

「この辺」

 明治期に人が移った先。
 そこに新しい家並みが形成されている。
 それ自体は当然だ。

「この墓地」

「ああ」

「明治三十二年の地図ではここですよね」

「そうだ」

「昭和十一年だと......移動してる?」

「移した」

「墓地なんて移せるもんなんですか?」

「土地が崩れたからな」

 初穂は二枚の地図を見比べる。

 旧墓地と新墓地。
 旧集落と新集落。

 指で位置をなぞる。
 何か引っかかった。

 だが分からない。

 昨日の航空写真を見たときと同じ感覚。

「コピーしてもいいですか?」

「構わん」

「高解像度でスキャンできれば...」

「機械はある」

「え?本当ですか?」

「資料館から捨てられるところを持ってきた」
 枝折は言う。
「役に立たないものだからな」

 初穂は笑った。
 枝折は笑わなかった。

  *

 昼過ぎまで資料を見た。

 家屋位置、河川、道路、農地、寺社、墓。初穂は特に災害記録を重点的に確認した。
 花守では、百年の間に三度大きな災害が起きていた。

 明治四十一年の赤痢流行。
 昭和二十八年の山崩れ。
 昭和五十九年の水害。
 どれも村を壊滅させるほどではない。

 しかし人口推移には明確な影響を与えている。

「昭和二十八年の山崩れ、死者は?」

「七人だった」
 枝折が答える。

「場所は?」

「そこだ」
 地図に鉛筆で印をつける。

 初穂は座標を記録した。

「昭和五十九年の水害は?」

「三人が死んだ」

「場所は」

「ここの川沿いだ」

「赤痢は?」

「死んだ場所までは分からん」

「死亡者数は?」

「十一だ」

「...多いですね」

「当時はな。今みたいな知識も無かった」

 初穂はノートへ数字を書く。

 その横で宗介が、
「よく実った年だったそうですよ」
 と言った。

 初穂のペンが止まった。

 枝折が宗介を見る。

「その言い方、外の人間にはするなと言っただろう」

「生方さんはもう知ってますよ」

「知っているのと使うのは違う、だいたい使ったのはお前だろう」

「どうして、その言い方ダメなんです?」
 初穂が尋ねる。

 枝折は一瞬黙った。
「気味悪がる」

「私は気味悪がっていません」

「今、はな」

 初穂は返事をしなかった。

 枝折は資料へ目を落とした。

 それ以上話す気はないらしい。

  *

 日が少し暮れてきた。
 村入口のバス停へ、一台の小型バスが停まった。

 降りてきたのは杏果一人だった。
四時半より少し早い。
 初穂は少し離れたところで待っていた。

「本当に待ってたんだ」

「約束したからね」

「大学の人って暇なんですか?」

「それは失礼だな」

「暇じゃなきゃ、こんな村調べないでしょ」

「博士課程の人間に言ってはいけない言葉ランキング、かなり上位だよ」

「すみません」

 杏果が笑う。
 昨夜より自然だった。

「帰り道、少し歩いていい?」

「いいですけど」

「村の話を聞きたい」

「池生さんに聞けば何でも知ってますよ」

「年齢が違う人の話も必要なの」

「なるほどね」

 二人で歩いた。
 川沿いの道。
 学校帰りの高校生と大学院生。
 傍から見れば姉妹に見えるかもしれない。

「昨日言ってたこと」
 初穂から切り出した。

「何です?」

「十八になったら出ていくって」

「ああ、それね」

「家族は?」

「お父さんもお母さんも、好きにすればって」

「反対しないんだ」

「たぶん、出ると思ってないから」

「どうして?」

「みんなそうだから」

「みんな?」

「出る出るって言うんですよ。若い時は」

「でも結局残る?」

「いや、戻ってくる」

 初穂は足を止めかけた。
「戻ってくる?」

「進学とか就職で一回町に出ても、なんか戻ってくるんです」

「仕事は?」

「農家とか。町まで通う人もいるし」

「じゃあ、普通に地元へ戻るだけじゃない?」

「そうですけど」

 杏果は小石を蹴った。
 ころころと転がって側溝へ落ちる。

「戻ってくる場所まで似てるんです」

「どういうこと?」

「うーん......うまく言えない」

 杏果は黙った。
 初穂は急かさない。

 しばらく歩く。

「初穂さん」

「うん」

「昨日、種場見ましたよね」

「見たよ」

「あそこ、普通だと思いました?」

「墓地として?」

「はい」

「少し呼び方が変わってるとは思った」

「それだけ?」

「今のところは、ね」

 杏果は不満そうだった。

「何かあるの?」

「......私」
 彼女は道の先を見る。
「生まれた場所、あそこじゃないんです」

「家じゃないってこと?」

「病院でもないです」

 初穂は首を傾げた。
「ん?ごめん、意味が。どこ?」

 杏果が道の反対側を指差した。

 山、杉林。
 その手前に、細い獣道のような道がある。

「あっち」

「山の中?」

「うん」

「どうして?」

「お母さんが、急に産気づいたから」

「ここから病院までは遠いもんね」

「違います」
 杏果は言った。
「その日、お母さん、わざわざあそこに行ったんです」

「妊娠中に?」

「予定日、まだ二週間くらい先だったって」

「散歩?」

「分かりません」

「お母さんに聞いた?」

「何回も聞いた」

「何て?」

 杏果は一度笑った。
 だが、面白くて笑ったのではない。

「『歩きたくなった』って」

「歩きたくなった」

「それだけ」

 初穂は山を見る。
 舗装もされていない。
 妊娠後期の女性が気軽に散歩する場所には見えない。

「そこで産気づいた?」

「はい。お父さんが車で迎えに行ったけど間に合わなくて、近所の人が取り上げたって」

「十七年前?」

「そう」

 初穂の研究者としての感覚が、少しだけ反応した。

 出生地点。
 自宅でも病院でもない場所。
 村内での特殊な出生事例。
 それ自体は民俗的に興味深い。

「場所、案内してもらえる?」

 杏果の表情が消えた。

「今から?」

「嫌ならいいよ、無理強いはしないから」

「......別にぃ」

 二人は道を外れた。

  *

 十分ほど登った。
 杉林の中。
 地面は湿っている。

 途中から道らしい道もなくなった。

「本当にここ?」

「もう少し」

「お母さん、臨月近くでここ登ったの?」

「だから変なんです」

 息を弾ませながら杏果が言う。
 やがて杉林が切れた。
 小さな平地がある。
 直径十メートルほど。
 中央に一本の古い切り株。

「ここ」
 杏果が言った。

「ここで?」

「私が生まれました」

 初穂は周囲を見る。

 特別なものはない。
 祠もない。
 石碑もない。
 ただの山中。

「GPS取っていい?」

「どうぞ」

 初穂は端末を取り出した。

 位置情報を記録する。

 そのとき。

「あと」
 杏果が言った。
「初穂さんに言おうと思ってたこと、もう一個ある」

「何?」

「私が生まれる前」

 彼女は切り株を見る。

「ここで、人が死んでます」

 初穂の指が止まった。

「誰?」

「杉平のおじいさん」

「いつ?」

「私が生まれる......」
 杏果は数えるように指を動かした。
「三年前」

「死因は?」

「心臓だったかな」

「ここで?」

「山仕事してて倒れたって」

 初穂は切り株を見る。

 偶然、もちろん偶然だ。
 人が山で死ぬ。
 数年後、別の人間が同じ場所で出産する。
 人口数十人の村なら、不思議ではあるが説明不能ではない。

「それを気にしてるの?」

「それだけじゃない」
 杏果は低い声で言った。

「何が?」

「私が生まれたあと」
 初穂を見る。
「杉平のおじいさんのお墓、移したんです」

「どうして?」

「知りません、私が知りたいくらい」

「どこへ?」

 杏果は答えなかった。
 初穂はその顔を見て、察した。

「え......種場?」

 杏果が頷いた。

「どの墓?」

「一番奥です」

「昨日見た?」

「たぶん、ね」

「それとあなたの出生に、何か関係があると思ってる?」

「私は思ってません」
 杏果は即座に言った。

「でも、村の人は?」

 風が吹いた。
 杉の枝が擦れ合う。
 その音の向こうで、鳥が一羽鳴いた。

「私が小さい頃」
 杏果が言った。
「池生さんに聞いたことがあるんです」

「何を?」

「どうして私は、こんな変な場所で生まれたのって」

「何て言われた?」

 杏果は切り株を見たまま答えた。
「『近かったから』って」

「何が?」

「私も聞きました」

 初穂の背中に、汗とは違うものが流れた。

「池生さんは?」

「笑ってました」

「それだけ?」

「ううん」
 杏果がようやく初穂を見る。
「『種から芽が出るのに、遠くまで行く必要はない』って」

 初穂は何も言わなかった。
 合理的な説明はいくらでも作れるはずなのに。

 昔ながらの死生観。
 子供に対する比喩。
 偶然の出生地点。
 たった一例。
 証拠にもならない。

 だが、初穂は端末を見た。
 今記録した杏果の出生地点。

 そして午前中。
 枝折の資料で入力した複数の死亡地点。

 何となく指が動いた。
 地図を呼び出す。

「杉平さんって、フルネーム分かる?」

「杉平惣太郎」

「亡くなった年は?」

「私が生まれる三年前だから......二〇〇六年かな?」

 初穂は検索した。
 午前中に撮影した死亡記録のページ。

 杉平惣太郎。

 二〇〇六年八月二日。
 心不全。
 死亡場所――山林。

 座標まではない。
 しかし枝折が古地図へ手書きした印がある。

 初穂は画像を重ねた。
「......あれ?」

「どうしました?」

 場所が違う。
 ほんの少し。
 杏果が生まれた平地と、杉平が倒れたと記録された場所。

 同じではない。

 初穂は少し安心した。
 やはり伝聞が混ざったのだ。

「違うね」

「何が?」

「杉平さんが亡くなった場所。ここじゃない」

 杏果が画面を覗く。
 初穂は地図上の二点を示す。

「少し離れてる」

「どれくらい?」

「待って」

 距離を測定する。
 表示された数字。
 三十八・六メートル。

「四十メートル弱」

「......近いじゃないですか」

「近いけど、同じ場所じゃない。話が伝わるうちに混ざったんじゃない?」

 杏果は納得していない顔だった。

 初穂は二点を眺める。

 杉平の死と三年後の杏果の出生。
 意味はない。

 そう思いながら、なぜか初穂はその距離をノートへ書いた。

 三十八・六メートル。

 そして帰り道。
 もう一つのことに気づいた。

 昨日見た種場。
 杉平惣太郎の墓。
 そこまでの距離も、測ってみたくなった。

  *

 夜、民宿に着いた。
 初穂は三つの点を画面へ置いた。

 杉平惣太郎が倒れた場所。
 円井杏果が生まれた場所。
 杉平惣太郎の墓。
 距離を測る。
 死亡地点から出生地点。

 三十八・六メートル。

 死亡地点から墓。
 二百十一メートル。

 出生地点から墓。
 二百三十八メートル。

 特に規則性はない。

「ほら」
 誰に言うでもなく呟いた。
「何もない」

 画面を閉じようとした。

 だが、その前に別の資料が目に入った。

 今日、枝折の家で撮影した昭和二十八年山崩れの記録。

 死者七名。
 初穂は何となく一人目の死亡地点を地図へ打った。
 二人目、三人目、そして七人目。
 次に、災害後十年間に生まれた村人のうち、出生場所が判明している者を入力する。

 青い点が三つある。

「......」

 手が止まった。
 別におかしくはない。
 村は狭いし人が住める場所も限られている。

 点が近くなるのは当然だ。
 初穂は自分にそう言い聞かせた。

 それでも。
 一つの赤い点を選択する。

 死亡地点。
 そこから最も近い出生地点までを測る。

 四十一・二メートル。
 別の赤い点。

 四十・六。
 別の点。

 三十九・八。

「......待って」

 初穂は椅子へ座り直した。
 七件すべてではない。

 だが四件とも約四十メートル。
 偶然、標本数が少なすぎる。
 しかも資料の座標精度も低い。

 誤差がある。
 いくらでも説明できる。

 初穂はノートに書いた。
〈約40m?要検証。地形条件による可能性大〉

 それから文字を見つめた。
 翌日、枝折に出生記録を見せてもらおう。
 そう決めた。

 パソコンを閉じかけたとき。
 画面右端の杏果の出生地点。
 そこから三十八・六メートル離れた、杉平の死亡地点。

 初穂は無意識に、地図ツールの機能を開いていた。
 中心点を指定する。
 半径を入力する。
 三十八・六。

 決定を押す。

 細い線が現れた。
 杉平惣太郎が死んだ場所を中心に、小さな円が一つ。
 その円周上に、杏果が生まれた場所があった。

 初穂はしばらく画面を見つめた。
 ただの円だった。
 どこにでも描ける。

 中心と、半径。
 二つの点があれば、円など無数に作れる。

「意味なんて無い......」
 自分に言い聞かせた。

 そのとき、画面の左上。
 別の死亡地点。

 その近くに、別の出生地点。

 初穂は何となく距離を測った。

 三十九・一メートル。

 中心を指定する。

 円を描く。
 二つ目。
 初穂の指が止まった。

 二つの円は少しだけ、重なっていた。
 ただ、それだけだった。

 この時点では、初穂にはまだそれが何に見えるのか、分からなかった。
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第三話:地図に残るもの
神様はコンパスを使わない作者:然々曰
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