第五話:花の形(後編)
「池生さん」
「また何か訊きたいんですか?」
「この村の人って、昔から円を大事にしたりします?」
「円?また難しい質問ですねぇ」
「そんな小難しくないです。丸いもの、模様とか」
「団子は丸いですね」
「真面目に訊いているんですが」
「もちろん真面目です」
「じゃあ他には?」
「月......とか?」
「もう少し人為的なもの」
「あ!五円玉ですね」
「......帰りますよ」
「私の家はこの村です」
初穂は額を押さえた。
「昔の家紋とか、祭りの紋様とか。何か円が重なったようなもの」
「見たことないですねぇ」
「本当に?」
「たぶん」
「その『たぶん』て怖いんですよ」
宗介は少し考える。
「でも───」
「何です?」
「昔の人、花のことを丸って呼んだことはありますよ」
初穂の手が止まった。
「どういう意味です?」
「知りません」
「何で知ってるんです?」
「祖母が言ってました」
「何て?」
宗介は記憶を探すように目を細めた。
「咲きまる、とか」
「咲きまる?」
「いや」
首を振る。
「咲きわ......こっちかな」
初穂の背中を、冷たいものが通った。
「どう書くんです?」
「字なんて知りませんよ。子供の頃に聞いただけですから」
「どういうもの?」
「さあ...」
「何に使う言葉?」
「忘れました」
「そこ頑張って思い出してください」
「もう七十四なんですよ」
「今だけ五十歳くらいになれませんか!?」
「えぇ......無茶言いますね」
「言葉だけでも───。」
宗介はしばらく考えた。
やがて口を開いた。
「命は円に生まれて」
初穂が顔を上げる。
「重なって花になって」
宗介の声がほんの少しだけ昔の誰かの声をなぞるように変わった。
「実って」
庭で蟻が歩いている。
「また円へ帰る」
初穂は言葉を失った。
宗介がこちらを見る。
「だったかなぁ」
「......今それを忘れてたんですか?」
「今思い出しました」
「都合よすぎません?」
「年寄りの記憶は、呼んでも来ない猫みたいなもんです」
「どんな例えですか」
「餌があると来ます」
「今の餌は何だったんです?」
「生方さんがしつこかった」
「私が?そんなにしつこい?」
「ええ」
宗介はまた蟻を見る。
初穂はスマートフォンを握りしめた。
フラワー・オブ・ライフ。
生命、循環、円。
あまりに綺麗に重なる。
だからこそ、信用してはいけない。
綺麗すぎる答えほど危険だ。
*
午後。
初穂は一人で高台へ登った。
村を俯瞰できる場所。
初日に写真を撮った地点だ。
タブレットを開く。
目の前に現実の花守。
画面の中に、過去の花守。
明治から現在まで。
さらに古い地点を重ねる。
家が消える。
道が変わる。
墓が移る。
誰かが死ぬ。
誰かが生まれる。
それぞれ単体なら何でもない。
人間の営み。
ただの歴史。
しかし年代を重ねると、円が現れる。
そして花になる。
初穂は山を見渡した。
「誰が......」
呟く。
仮に人為的なものだとする。
誰が作った?
一人では不可能。
数百年、いや何世代にもわたる。
出産場所、死亡地点、墓地移転。
それらすべてを誘導しなければならない。
村ぐるみ?
しかし杏果は知らなかった。
枝折も、少なくとも形そのものは知らなかったように見える。
宗介は?
分かっていそうで分からない。もしくは何も考えていないのか。
そもそも昭和二十八年の山崩れを誰が配置できる?
赤痢を?洪水を?
人間には無理だ。
なら偶然。その方がはるかに合理的。
しかし、偶然でこんな形ができるのか。
初穂は画面を拡大した。
そして、気づいた。
「......違う」
民宿。昨夜、六つの円の中央だと思った場所。
正確には違う。
民宿は中央ではない。
現在の円群が作る花の、中心から少しだけずれている。
約十二メートル。
初穂は中心点を割り出す。
地図上では民宿の裏。
小さな空き地。
初穂は顔を上げた。
ここからでも見える。
民宿の屋根。
その後ろの木々に隠れた場所。
初穂は山道を下った。
*
民宿の裏には何もなかった。
古い柿の木、それだけ。
GPSを確認する。
あと六メートル。
ここだ。
初穂は立ち止まった。
地面を見る。草に覆われている。
何もない。
足で少し草を分ける。
平たいが石があった。
人工物?
しゃがみ込み土を手で払う。
石板だった。
文字がある。
ほとんど風化している。
読めない。
ただ、中央に一つだけ浅い窪みがある。
丸い。
直径五センチほど。
「......何これ」
「昔の井戸ですよ」
突然背後から声がした。
ビクッと方が上がり振り向く。
宗介がいた。
「何よもう!びっくりした!」
「す、すみません。そんなに驚かなくても......」
「びっくりしますよ!ところで何でいるんです?」
「帰る途中です」
「あなたの家、反対方向じゃなかったですか」
「あ、散歩です」
「本当ですか?」
「たぶん」
「そのたぶんって禁止にしません?」
宗介が石板を見る。
「昔、ここに井戸があったそうです」
「いつまで?」
「私が生まれる前」
「埋めたんですか」
「ええ」
「どうして?」
「水が出なくなった」
初穂は石板を見つめる。
「名前は?」
「井戸のですか?」
「はい」
「井戸に名前なんて――」
宗介が言いかけて、止まった。
「何です?」
「いや、まぁ」
「絶対何かありますよね」
「たいしたことじゃ」
「聞きます!」
「聞くでしょうね」
「当たり前じゃないですか」
宗介は困ったように頭を掻いた。
「花井戸......と」
初穂は目を閉じた。
「......もうやだ」
「何がです?」
「全部花に寄ってくる」
「花守ですから」
「そういう問題じゃないです」
初穂は立ち上がる。
「池生さん。この井戸の場所、昔から変わってませんか?」
「井戸は歩きませんよ」
「......分かってます」
「なら変わってないでしょう」
「そういうところ本当に腹立つな」
宗介が笑う。
初穂は画面を見る。
中心に花井戸。
そして六つの円。
その瞬間、一つの考えが浮かんだ。
「......中心じゃない」
「何が?」
「ここ、中心じゃないかもしれない」
「さっき中心って言ってませんでした?」
「言いました。でも───」
初穂は画面を縮小する。
現在までに確認した円。
古い円のその外側。
まだデータのない部分。
花の形は、ここで終わっていない。
中心だと思った場所も、もっと大きな模様の一部分かもしれない。
初穂の指が震える。
画面をさらに縮小する。
花守地区全体、周辺集落。
「池生さん」
「はい」
「花守って、昔からこの場所にあるんですよね」
宗介は答えなかった。
「え、池生さん?」
「それは───」
池生は少し笑った。
「枝折さんに聞いた方がいいですよ」
「どうして?」
「私はまた怒られたくないので」
初穂はため息を吐いた。
「昨日、生きてる感じがするって喜んでましたよね」
「あれから気が変わりました」
「コロコロ変わりますね。」
宗介は歩き出した。
数歩進んでから、振り返らずに言った。
「花守は」
初穂が顔を上げる。
「昔からここにあったんじゃないですよ」
「......え?」
「ここが花守になったんです」
宗介はそのまま歩いていく。
「待ってください」
「夕飯の時間ですよ」
「説明してください」
「お腹空いたでしょう」
「今それどころじゃないです」
「私は空きました」
「自由だな、この人!」
初穂は追いかけた。
だが宗介は、それ以上答えなかった。
*
その夜初穂は初めて、花守地区の外側まで地図を広げた。
かつて存在した集落。
廃村、災害地点、古い寺社、墓地。
枝折から受け取った資料には、周辺地域の記録も少し含まれている。
点を打っていく。
まだ足りない。
しかし花守だけを見ていたときには端で途切れていた円があった。
その円周は、村の外へ続いている。
初穂は画面を見つめた。
円は花守で終わっていない。
むしろ花守という一つの村そのものが、もっと大きな何かのほんの一部分に見える。
「嘘でしょ......」
呟く。
同時にスマートフォンが鳴った。
杏果からだった。
〈初穂さん、起きてます?〉
〈起きてるよ〉
すぐ返す。
〈明日、見てほしいものがあります〉
〈何?〉
少し間が空く。
〈私の母子手帳です〉
初穂は眉を寄せた。
〈出生場所のこと?〉
〈それもあります〉
続けてもう一通。
〈でも変なのはそこじゃないです〉
〈どこ?〉
長い間。やがて届いた。
〈私が生まれた日のページに、私が生まれる前から、私の名前が書いてあります〉
初穂は画面を見た。
冗談?杏果がそんな冗談を言うだろうか。
文字を打つ。
〈どういう意味?〉
既読。返信はなかなか来ない。
〈LINEではあまり上手く伝えられません。明日持っていきます〉
初穂はスマートフォンを置いた。
目の前の地図。いくつもの円。
そして、枝折が隠していた帳面。
芽吹、咲、実、種。
初穂は不意に気づいた。
あの帳面、年代順ではなかった。
人別でもなかった。
なら、何の順番で書かれていたのか。
彼女は撮影を許された数ページを開く。
最初の行、実。
次、芽吹。
次、実。
次、芽吹。
一つずつ地図上で確認する。
年代順ではない。
名前順でもない。
家系順でもない。
場所の順番だ。一つの地点から、次の地点へ。
まるで、何かが移動している。
あるいは何かを描いている。
初穂は窓を見る。
夜の村が見える。
人間が眠っている家の中で何も知らずに、あるいは知っていて、地図の上では円が静かに重なっている。
初穂は自分が今日検索した言葉を、声に出さずに読んだ。
フラワー・オブ・ライフ。
生命の花。
だが、画面にあるそれは、完成していなかった。
まだ外側に、何も描かれていない場所がある。
そこへ次の円を置けば、花はもう一枚花弁を増やす。
初穂はその位置を計算した。
表示された座標を見た。
そして、顔から表情が消えた。
そこは、九年前に───。
妹の実季が土砂に埋まって死んだ場所だった。