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第六話:まだ生まれていない名前(前編)


 妹が死んだ場所を、初穂は間違えない。

 九年前の八月十七日。
 午後三時四十二分頃。
 県道脇の斜面が崩れ、乗用車三台が土砂に巻き込まれた。

 死者は四名。
 そのうち一人が、生方実季。
 まだ二十歳だった。

 報道では「局地的豪雨による土砂災害」とされた。
 実季は友人の車に乗っていた。
 本来、そこを通る予定ではなかった。
 高速道路が事故で渋滞していたため、途中で一般道へ降りた。
 その道路でも工事があり、ナビが迂回路を示した。

 さらに途中でコンビニへ寄った。
 友人がトイレへ行き、実季がアイスを買った。

 十分、あるいは十五分。
 何か一つ違っていれば、土砂崩れの時間にはそこにいなかった。

 だから初穂は長い間、なぜ、という言葉から逃げられなかった。
 なぜ高速道路が渋滞した。
 なぜ一般道へ降りた。
 なぜ工事をしていた。
 なぜコンビニに寄った。

 なぜ実季だった。

 答えはない、すべて偶然。
 そう理解するまでに、何年もかかった。

 だから、画面の座標を見たとき初穂は最初に怒った。

「ふざけないでよ」
 誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。

 地図を拡大するとそこは実季の死亡地点。
 間違いない。
 当時何度も見た。
 事故現場にも行ったし献花もした。
 道路脇のガードレール。
 崩れた山肌。
 少し離れた小さな待避所。

 全部覚えている。その場所が、花守で途切れていた模様の、次の円が置かれる位置にある。

 ただしその場所は遠すぎる。
 これまで見ていた四十メートル程度の円とは規模が違いすぎる。

「違う」
 初穂は声にした。
「これは違う」

 縮尺を変えれば、いくらでも図形は作れる。

 小さな村の中で見つけた規則を、そのまま広域へ拡張するのは論理の飛躍だ。
 しかも、実季の死亡地点を知っている自分自身が操作している。

 無意識に合う位置を探した可能性がある。
 典型的な確証バイアス。
 人は見たいものを見る。

 初穂は地図を閉じた。

 もう一度開く。
 座標を消す。円を消す。
 最初から計算し直す。

 何度やっても同じだった。

「......何で」
 そのときだった。

 スマートフォンが震えた。

 杏果からだった。
〈明日じゃなくて、今でもいいですか〉

 時刻は午後十一時を回ろうとしていた。

 初穂はすぐ返信した。
〈大丈夫だよ。どうしたの?〉

〈やっぱり怖くなって〉
 続けて。
〈母子手帳、持ってきますね〉

  *

 二十分後。
 民宿の玄関を、杏果が叩いた。

 宿の女将はすでに寝ている。

 初穂がそっと戸を開ける。
「杏果ちゃん、こっちこっち」

「あっ、こんばんは」

「こんばんは。寒くない?」

「夏ですよ」

「夜の山は冷えるでしょう?」

「初穂さん、おばあちゃんみたい」

「ひどいなぁ、今から帰る?」

「あはは、すみません」
 杏果は笑った。
 だが、顔が強張っている。

 胸元に小さな布袋を抱えていた。
 二階へ上がる。初穂の部屋。
 杏果は床へ座ると、袋から一冊の母子健康手帳を取り出した。

 薄い黄色。
 角が丸くなっている。
 十七年前のものにしてはかなり古く見えた。

「お母さんには?」

「言ってないです」

「え?持ってきて大丈夫?」

「たぶん」

「その言葉、この村で流行ってるの?」

「池生さんもよく言いますよね」

「感染するんだ......」

 少し笑った。
 その程度の会話が、今はありがたかった。

 初穂は手帳を受け取る。
「どこに書いてあるの?」

「後ろの方」

 妊婦健診、血圧、体重、腹囲。
 胎児の発育。
 どこにでもある記録。

 杏果が横からページをめくる。
「ここだね」

 出産予定日の約三週間前。
 最後の妊婦健診。
 母親の体重、血圧。医師の所見は問題なし。

 そのページの下には余白があった。

 鉛筆で小さく文字が書かれている。
 初穂は顔を近づけた。
〈杏果 芽吹 七月十二日〉

「......七月十二日ってもしかして」

「私の誕生日です」

 初穂がページ上部を見る。

 健診日、六月二十八日。

 二週間前。

「これ、誰が書いたの?」

「分かりません」

「お母さんじゃない?」

「字が違います」

「お父さんとかは」

「......違う」

「名前は、もう決めてた?」

「それも聞きました」

「何て?」

「生まれて顔を見てから決めたって」

 初穂は杏果を見る。
「本当に?」

「役場への出生届も、生まれて五日後です」

「候補にはあったんじゃない?」

「それもなかったって」

「お母さんが忘れてる可能性は?」

「あります」
 杏果は少しムッとした。
「でも、それなら日付は?」

 初穂は答えられなかった。

 七月十二日。予定日は七月二十六日。

 自然分娩。
 山中で突然の陣痛。
 二週間の早い出生。

 その日付が二週間前のページに書かれている。

「筆圧が違う」
 初穂が呟いた。

「分かるんですか?」

「他の鉛筆の書き込みと比べるとね」

 医師や母親が書いたと思われる文字は薄い。

〈杏果 芽吹 七月十二日〉
 だけが妙に強い。

「この『芽吹』って」

「村の言い方ですよね」

「うん」

 二人とも黙った。

 初穂はページを光へ透かした。
 インクではない。

 紛れもなく鉛筆だった。後から書くことはできる。

 母親が記念に書いた。
 家族が書いた。
 誰かの悪戯。
 いくらでも説明できる。

「杏果ちゃん」

「はい......」

「これだけなら、まだ何とも言えない」

「分かってます」

「後から書いた可能性が一番高い」

「分かってる!」
 少し強い声。

 初穂は手帳を閉じかけた。
「ごめん」

「いや......私も」
 杏果が膝を抱える。
「初穂さんも、信じないんですね」

「信じないんじゃない」

「信じてないよね」

「違うよ」
 初穂は母子手帳を机へ置いた。
「信じたいものほど、疑わないといけないの」

「何で?」

「そうしないと、自分の欲しい答えしか見えなくなるから」

 杏果は黙った。

「私も昔、それをやった」

「え、何を?」

 初穂は一瞬迷った。
 これまで実季について杏果には詳しく話していない。

「妹が死んだとき」
 初めて言った。

 杏果が顔を上げる。
「妹さん?」

「九年前に土砂崩れで」

「......ごめんなさい」

「ううん、謝らなくていいよ」

「で、でも」

「事故だから」
 その言葉を口にすると、胸の中のどこかが痛んだ。
 昔よりずっと小さな痛み。
 でも消えない。

「私はね、理由を探したの」

「理由?」

「何で実季が死んだのか」

「......」

「雨が降った理由。そこを通った理由。高速を降りた理由。コンビニに寄った理由。全部をね」
 初穂は笑った。
「実季が前の日に送ってきたメッセージまで読み返してさ......」

「何か分かったんですか」

「いや、何も」

「......」

「何もなかった」
 初穂は窓を見る。
 黒い村が見える。

「だから、何かを見つけたときほど疑うようにしてる。杏果ちゃんの母子手帳も。村の円も」

「えっ?円って何?」

 初穂はしまったと思った。

 杏果の目が細くなる。
「何ですか、それ」

「......まだ仮説だかれ」

「私には言えないんじゃなかったんですか?」

「言えなかった」

「今は?」
 初穂は少し考える。
「もっと言えなくなった」

「えー、教えてよ!」

「ごめん」

 杏果が頬を膨らませる。
 初穂と杏果は少し笑った。

 そのとき母子手帳から、何かが落ちた。

 二人同時に床を見る。
 小さな紙片が折り畳まれている。

「これ......何?」

「知らない」
 杏果が拾う。

 古い和紙だった。
 母子手帳より明らかに古い。

「最初から入ってた?」

「分かんない。こんなの見たことない」

 初穂が受け取る。
 開くと墨で文字が書かれていた。

 二行だけ。
〈円井杏果 芽吹〉
〈種、杉平惣太郎より〉

 杏果は読めなかったらしい。
「何て書いてあります?」

「......」

「初穂さん?」

 言うべきか迷った。
 だが、隠す理由もない。

「あなたの名前」

「やっぱり」

「それと──」

「それと?」

 初穂は紙を見る。
「杉平惣太郎......」

 杏果の顔から色が消えた。
「......あのおじいさん?」

「うん」

 杏果が生まれる三年前。
 山中で死亡した老人。

 その死の近くで、杏果が生まれた。
 初穂は和紙を指で撫でた。

 素人目でも、十七年前に作ったものには見えない。

「枝折さんに見せよう」

「今から?」

「さすがに寝てる」

「池生さんなら起きてそう」

「何で?」

「年寄りって朝早いから、もう朝みたいなものでしょ」

「せめて日が変わってからにしてあげて」
その日、杏果は初穂の部屋で一夜を過ごした。

  *

 民宿を出ると、宗介がいた。

「え、何!?怖っ」

「おはようございます」

「何でいるんです?」

「杏果から電話が来ました」

 初穂が杏果を見る。
「電話したの?」

「はい」

「何時?」

「五時半頃かなぁ」

「池生さん寝てましたよね?」

「起きてました」

「本当に?」

「トイレ中でしたよ」

「聞かなきゃよかった」

 宗介は爽やかな顔をしている。
「枝折さんにも電話しましたよ」

「それは寝てたでしょう」

「怒られましたねぇ」

「でしょうね」

「また生きてる感じがしました」

「懲りないなあ」

 三人で枝折の家へ向かった。

  *

「朝っぱらから電話しやがって......死ね!」

 玄関を開けた枝折の第一声だった。

「そこは『実れ』じゃないんですね」
 宗介が言う。

「また、バカにしてんのか!?」

「結構怒ってます」

「五時半だぞ!」

「でも起きたでしょう?」

「お前の電話でな!」

「早起きもたまには良いですよ」

「宗介さん」
 杏果が小声で言った。
「黙った方がいいと思う」

「杏果までそんな」

「全会一致です」
 初穂が言った。

 宗介は少し寂しそうに黙った。

  *

 枝折の眠気は和紙を見た瞬間に消えた。

「これ......どこにあった」

「私の母子手帳」
 杏果が答える。

「いつから?」

「分かりません」

「母親は?」

「まだ聞いてない」

 枝折は和紙を光へ透かす。
 匂いを嗅ぐ。
 指で紙の縁を確かめる。

「見覚えあります?」
 初穂が聞く。

「同じ紙なら」
 そう言って立ち上がった。

 向かう先は、蔵だった。

 昨日の木箱。

 初穂の心臓が早くなる。

 枝折は一冊目ではなく、三冊目を出した。

 年代は不明。
 昨日ほとんど見せてもらえなかった帳面。

「これだ」
 ページを開く。

 紙質が同じ。
 初穂は和紙を隣へ置いた。
 色、繊維、厚さが酷似している。

「いつ頃のものです?」

「正確には分からん」

「でも?」

「少なくとも明治より前だ」

 杏果が笑った。
 乾いた笑いだった。
「じゃあ、変じゃないですか」

 誰も答えない。

「だって私、十七歳ですよ」

 枝折はページをめくる。

「この紙が古くても、文字が新しい可能性はある」
 初穂が言った。
 自分自身へ言い聞かせるように。
「古い紙に後から書けばいい」

「墨は?」

「鑑定しないと分からない」

「じゃあ鑑定してください。だって......」
 少女の声が震える。
「だって、私の名前ですよ」

 初穂は杏果の肩へ手を置いた。

 そのとき、枝折がページをめくる手を止めた。
「......あった」

「何が?」
 初穂が近づく。

 開かれた帳面。
 墨文字。
 いくつもの名前。

 地点、芽吹、咲、実、種と名前と一緒に無差別にも見える羅列があった。

 そして、下から四行目。
〈円井杏果〉

 初穂の身体が固まった。
「......嘘」

 杏果も覗き込む。
「これ、私?」

 名前の横に〈芽吹 七月十二日〉
 さらに小さく、〈杉平惣太郎 種より〉

 母子手帳から落ちた紙と同じ。

「枝折さん」
 初穂の声が低くなる。
「これ、いつからここに?」

「俺が持ち出したのは二十八年前」

「その前は?」

「寺だと言っただろう」

「誰でも触れた?」

「長い間は分からん。だが少なくとも俺が預かってから、勝手に触った奴はいない」

「二十八年前」
 杏果が呟く。
「私、生まれてない」

「そうなるな」

 枝折の声も硬い。

「ページを切った跡があります」
 初穂が気づいた。

 帳面の綴じ目。
 一枚だけ端が残っている。
 切り取られている。

 杏果の母子手帳に入っていた和紙と大きさが合う。

「いつ、誰が切ったんです?」

「知らん」

「枝折さんが預かる前?」

「俺じゃない」

 初穂は息を整えた。
「待ってください」

 少し間が空いた。

「杏果ちゃん以外にもあるはず」

「何がだ」

「まだ生まれていない人間の名前」

 枝折の顔が動いた。

 初穂はそれを見た。
「知ってますね」

「......」

「だから隠してた?」

「全部じゃない」

 宗介が蔵の入口から顔を出した。

「入っていいですか」

 三人同時に、「駄目」と言った。

「はい......」
 宗介の顔が消えた。

 緊張していた杏果が一瞬だけ笑みを浮かべた。
 その一瞬が終わる。

 枝折が椅子へ座った。
「俺がこれを預かったのは二十八年前だ」

「はい、さっきも聞きました」

「そのとき、今生きている奴の名前がいくつかあった」

「生まれる前から?」

「そうだ」

「何人?」

「当時確認したのは四人」

「杏果ちゃんも?」

「いや。あの頃は名前まで全部読んでない」

「どういう意味です?」

「読まないようにした」

 初穂は理解できなかった。

「なぜ?」

「当たるからだ」

 蔵が静かになった。

「何が......?」

「書いてあることが」
 枝折は帳面を見る。
「最初に見つけたのは、俺が二十九のときだった」

 奇妙な偶然に、初穂と同じ年齢。
「近所の夫婦に子供が生まれて名前を聞いた。その晩、この帳面を整理していて同じ名前を見つけた」

「いつ書かれたかは?」

「分からん。ただ帳面そのものは古い」

「誰かが後から書いた可能性は」

「そう思った」

「ですよね」

「次の年、また一人」

「......」

「三人目で、読むのをやめた」

「何で?」

「四人目の名前の横に」
 枝折は初穂を見る。
「実、と書いてあったからだ」

 杏果が息を呑む。
「死ぬ日が?」

「日付もあった」

「その人は?」
 初穂が聞く。

 枝折は答えない。
 それだけで分かった。

「......当たったんですね」

「事故だった」

「どんな?」

「農機具による事故だ」

「日付も?」

「同じ日だった」

 初穂は帳面から目を離せなくなった。

 予言、その言葉だけは使いたくない。
 使えば、思考が止まる。

「読ませてください」

「生方さん」

「全部を」

「やめた方がいい」

「ここまで来て、それは無理です」

「自分の名前があったらどうする」

 初穂は黙った。
 枝折も杏果も静かになっていた。

 ただ一人、外から宗介の声がした。
「お茶入りましたよー」

「今じゃない!」
 枝折が怒鳴る。

「冷めますよー」

「勝手に入れたんだろ!」

「お茶の時間かと」

 少しだけ現実へ戻された。

 初穂は息を吐く。
「見ます」

 枝折が目を閉じた。
 やがて帳面を差し出した。

  *

 
 知らない名前、すでに死んだ者、現在も村に住む者と名前が続く。

 初穂はスマートフォンで現住者一覧と照合する。
 規則性はまだ分からない。

「全員じゃない」

「そうだ」

「選ばれてる?」

「言い方は考えろ」

「じゃあ、記録されている人といない人がいる」

「それならいい」

「何の違い?」

「......」
 ページをめくる。
 杏果が横で見ている。

「お父さんの名前ない」

「お母さんは?」

「ないよ」

「でもあなたはある」

「......うん」

 さらに場所が村の外へ広がっていく。

 隣町、県境。
 そして聞いたことのない地名。

「これ......」
 初穂の胸がざわつく。
 円が村外へ続いていたことを思い出す。
「花守の住民だけじゃない」

「昔からそうだ」

「じゃあ、これは村人の記録じゃない」

「ああ、そうなるな」

「何の名簿なんですか」

「それが分かれば苦労してない」

 初穂は次のページをめくった。
 指が止まった。

 〈生方〉

 心臓が一度、強く打った。
 その下の名前を見る前に分かった。

 見たくない。
 でも、もう読んでいる。

〈生方実季〉

 視界の端が暗くなった。

「初穂さん?」

 杏果の声が遠い。

「......」

〈生方実季 実〉

 日付。九年前の八月十七日。

 地点、県道。一致している。
 初穂は椅子を蹴った。

 大きな音。

「違う!」

 誰も喋らない。

「違う!!」
 もう一度。
「こんなの、後から書いたに決まってる!」

 枝折が黙っている。

「ニュースになったし事故の記録なんて誰でも調べられる。私のことだって、大学のホームページに名前がある」

「生方さん──」

「誰かが書いたんですよね?」

「......」

「そうでしょう?」

 答えがない。

「何で黙るんですか!」
 声が震えた。怒っている。

 怒っているだけ。

「実季の名前をこんな――」

 ページを掴む。破りそうになり、手を止めた。
 研究資料だからではない。
 妹の名前が書いてあるからだった。

 それが余計に腹立たしい。

「いつから......」
 初穂が聞く。
「このページ、いつからあります?」

「俺が預かったときには、既に......」

「二十八年前?」

「ああ」

「実季は、そのとき生まれてない」

「そうだ」

「私も?」

「生まれて――」
 枝折が言葉を止めた。
 その瞬間、初穂は理解した。

「......何?」

 枝折の視線。
 帳面の次の行。

 実季の名前の下に一行空いて。

〈生方初穂〉

 自分の名前。
 初穂は動かなかった。

 音が消えた。
 ただ文字だけがある。

 生方初穂。
 間違いようがない。
 読み慣れた自分の姓名。

「私......」
 声が掠れた。
「二十九です」

 枝折は何も言わない。

「この帳面を持ってきたのが二十八年前なら」
 計算する必要もない。
「私の方が先に生まれてる」

 安堵が混じった。

「だったら、後から調べて書ける」

 枝折を見る。

「そうですよね」

「......そうだ」

「ほら......」

「ただし」
 その一言で安堵が消えた。

「何です?」

「俺が預かったのがだ、二十八年前だ」

「はい」

「帳面が寺から見つかったのは、その十五年前だ」

 初穂の口が閉じる。
「つまり四十三年前?」

「そうだ」

「私、生まれてない......」

「そうなる」

 初穂はページを見る。
〈生方初穂〉

 その横には芽吹でも、咲でも、実でも、種でもない二文字。

「......これ、何て読むんです?」
 杏果が尋ねた。

 初穂は読めた。
〈帰花〉
「きか......?」

「たぶんな」
枝折が言う。
「『花に帰る』」

 初穂は指で文字を追った。
 地点だけ記されている。

 初穂は座標を読む。
 見覚えがある数字ではない。

「どこ?」
 地図へ入力する。

 表示される。
 初穂は眉を寄せた。
「......ここ?」

 杏果が覗く。

 花守地区の村の中心付近。
 さらに拡大する。
 民宿でも種場でも花井戸でもない。

「どこですか?」

 初穂は位置を確かめる。
 現在の地図には、何もない。

 山際の空き地。
 だが、昨日見た古地図では───。

「産屋......?」
 呟いた。

「え?」

「昔、産屋があった場所」

 枝折が立ち上がった。
「違う」

「何が違うんです?」

「その産屋じゃない」

「え、でも昨日の地図に――」

「もっと古い」
 枝折は帳面を奪うように取った。

 別の資料を探す。
 やがて一枚を広げた。
 初穂が見たことのない古地図。

 花守という文字がない。

「これ......」

「今の花守ができる前だ」

 宗介の言葉が蘇る。
『昔からここにあったんじゃないですよ』『ここが花守になったんです』

 古地図には別の集落名が書かれている。

 その端の山際にある小さな四角。
〈産屋〉
 初穂の「帰花」の地点と一致した。

「どういう場所なんです?」

 枝折は答えない。

「出産するところ?」

「それだけじゃない」

「じゃあ何?」

 枝折は今までで一番言いづらそうな顔をした。
「生まれる者を待つ場所だったと書いてある」

「......同じでは?」

「違うんだ」

「だから何が」

「妊婦を待つんじゃない」

 初穂は眉を寄せた。
「じゃあ誰を待つんです?」

 枝折が帳面を見る。
「まだ───」
大きく深呼吸をした。その後続けて言った。

「母親の腹にもいない者を」
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神様はコンパスを使わない作者:然々曰
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第六話:まだ生まれていない名前(前編)


 妹が死んだ場所を、初穂は間違えない。

 九年前の八月十七日。
 午後三時四十二分頃。
 県道脇の斜面が崩れ、乗用車三台が土砂に巻き込まれた。

 死者は四名。
 そのうち一人が、生方実季。
 まだ二十歳だった。

 報道では「局地的豪雨による土砂災害」とされた。
 実季は友人の車に乗っていた。
 本来、そこを通る予定ではなかった。
 高速道路が事故で渋滞していたため、途中で一般道へ降りた。
 その道路でも工事があり、ナビが迂回路を示した。

 さらに途中でコンビニへ寄った。
 友人がトイレへ行き、実季がアイスを買った。

 十分、あるいは十五分。
 何か一つ違っていれば、土砂崩れの時間にはそこにいなかった。

 だから初穂は長い間、なぜ、という言葉から逃げられなかった。
 なぜ高速道路が渋滞した。
 なぜ一般道へ降りた。
 なぜ工事をしていた。
 なぜコンビニに寄った。

 なぜ実季だった。

 答えはない、すべて偶然。
 そう理解するまでに、何年もかかった。

 だから、画面の座標を見たとき初穂は最初に怒った。

「ふざけないでよ」
 誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。

 地図を拡大するとそこは実季の死亡地点。
 間違いない。
 当時何度も見た。
 事故現場にも行ったし献花もした。
 道路脇のガードレール。
 崩れた山肌。
 少し離れた小さな待避所。

 全部覚えている。その場所が、花守で途切れていた模様の、次の円が置かれる位置にある。

 ただしその場所は遠すぎる。
 これまで見ていた四十メートル程度の円とは規模が違いすぎる。

「違う」
 初穂は声にした。
「これは違う」

 縮尺を変えれば、いくらでも図形は作れる。

 小さな村の中で見つけた規則を、そのまま広域へ拡張するのは論理の飛躍だ。
 しかも、実季の死亡地点を知っている自分自身が操作している。

 無意識に合う位置を探した可能性がある。
 典型的な確証バイアス。
 人は見たいものを見る。

 初穂は地図を閉じた。

 もう一度開く。
 座標を消す。円を消す。
 最初から計算し直す。

 何度やっても同じだった。

「......何で」
 そのときだった。

 スマートフォンが震えた。

 杏果からだった。
〈明日じゃなくて、今でもいいですか〉

 時刻は午後十一時を回ろうとしていた。

 初穂はすぐ返信した。
〈大丈夫だよ。どうしたの?〉

〈やっぱり怖くなって〉
 続けて。
〈母子手帳、持ってきますね〉

  *

 二十分後。
 民宿の玄関を、杏果が叩いた。

 宿の女将はすでに寝ている。

 初穂がそっと戸を開ける。
「杏果ちゃん、こっちこっち」

「あっ、こんばんは」

「こんばんは。寒くない?」

「夏ですよ」

「夜の山は冷えるでしょう?」

「初穂さん、おばあちゃんみたい」

「ひどいなぁ、今から帰る?」

「あはは、すみません」
 杏果は笑った。
 だが、顔が強張っている。

 胸元に小さな布袋を抱えていた。
 二階へ上がる。初穂の部屋。
 杏果は床へ座ると、袋から一冊の母子健康手帳を取り出した。

 薄い黄色。
 角が丸くなっている。
 十七年前のものにしてはかなり古く見えた。

「お母さんには?」

「言ってないです」

「え?持ってきて大丈夫?」

「たぶん」

「その言葉、この村で流行ってるの?」

「池生さんもよく言いますよね」

「感染するんだ......」

 少し笑った。
 その程度の会話が、今はありがたかった。

 初穂は手帳を受け取る。
「どこに書いてあるの?」

「後ろの方」

 妊婦健診、血圧、体重、腹囲。
 胎児の発育。
 どこにでもある記録。

 杏果が横からページをめくる。
「ここだね」

 出産予定日の約三週間前。
 最後の妊婦健診。
 母親の体重、血圧。医師の所見は問題なし。

 そのページの下には余白があった。

 鉛筆で小さく文字が書かれている。
 初穂は顔を近づけた。
〈杏果 芽吹 七月十二日〉

「......七月十二日ってもしかして」

「私の誕生日です」

 初穂がページ上部を見る。

 健診日、六月二十八日。

 二週間前。

「これ、誰が書いたの?」

「分かりません」

「お母さんじゃない?」

「字が違います」

「お父さんとかは」

「......違う」

「名前は、もう決めてた?」

「それも聞きました」

「何て?」

「生まれて顔を見てから決めたって」

 初穂は杏果を見る。
「本当に?」

「役場への出生届も、生まれて五日後です」

「候補にはあったんじゃない?」

「それもなかったって」

「お母さんが忘れてる可能性は?」

「あります」
 杏果は少しムッとした。
「でも、それなら日付は?」

 初穂は答えられなかった。

 七月十二日。予定日は七月二十六日。

 自然分娩。
 山中で突然の陣痛。
 二週間の早い出生。

 その日付が二週間前のページに書かれている。

「筆圧が違う」
 初穂が呟いた。

「分かるんですか?」

「他の鉛筆の書き込みと比べるとね」

 医師や母親が書いたと思われる文字は薄い。

〈杏果 芽吹 七月十二日〉
 だけが妙に強い。

「この『芽吹』って」

「村の言い方ですよね」

「うん」

 二人とも黙った。

 初穂はページを光へ透かした。
 インクではない。

 紛れもなく鉛筆だった。後から書くことはできる。

 母親が記念に書いた。
 家族が書いた。
 誰かの悪戯。
 いくらでも説明できる。

「杏果ちゃん」

「はい......」

「これだけなら、まだ何とも言えない」

「分かってます」

「後から書いた可能性が一番高い」

「分かってる!」
 少し強い声。

 初穂は手帳を閉じかけた。
「ごめん」

「いや......私も」
 杏果が膝を抱える。
「初穂さんも、信じないんですね」

「信じないんじゃない」

「信じてないよね」

「違うよ」
 初穂は母子手帳を机へ置いた。
「信じたいものほど、疑わないといけないの」

「何で?」

「そうしないと、自分の欲しい答えしか見えなくなるから」

 杏果は黙った。

「私も昔、それをやった」

「え、何を?」

 初穂は一瞬迷った。
 これまで実季について杏果には詳しく話していない。

「妹が死んだとき」
 初めて言った。

 杏果が顔を上げる。
「妹さん?」

「九年前に土砂崩れで」

「......ごめんなさい」

「ううん、謝らなくていいよ」

「で、でも」

「事故だから」
 その言葉を口にすると、胸の中のどこかが痛んだ。
 昔よりずっと小さな痛み。
 でも消えない。

「私はね、理由を探したの」

「理由?」

「何で実季が死んだのか」

「......」

「雨が降った理由。そこを通った理由。高速を降りた理由。コンビニに寄った理由。全部をね」
 初穂は笑った。
「実季が前の日に送ってきたメッセージまで読み返してさ......」

「何か分かったんですか」

「いや、何も」

「......」

「何もなかった」
 初穂は窓を見る。
 黒い村が見える。

「だから、何かを見つけたときほど疑うようにしてる。杏果ちゃんの母子手帳も。村の円も」

「えっ?円って何?」

 初穂はしまったと思った。

 杏果の目が細くなる。
「何ですか、それ」

「......まだ仮説だかれ」

「私には言えないんじゃなかったんですか?」

「言えなかった」

「今は?」
 初穂は少し考える。
「もっと言えなくなった」

「えー、教えてよ!」

「ごめん」

 杏果が頬を膨らませる。
 初穂と杏果は少し笑った。

 そのとき母子手帳から、何かが落ちた。

 二人同時に床を見る。
 小さな紙片が折り畳まれている。

「これ......何?」

「知らない」
 杏果が拾う。

 古い和紙だった。
 母子手帳より明らかに古い。

「最初から入ってた?」

「分かんない。こんなの見たことない」

 初穂が受け取る。
 開くと墨で文字が書かれていた。

 二行だけ。
〈円井杏果 芽吹〉
〈種、杉平惣太郎より〉

 杏果は読めなかったらしい。
「何て書いてあります?」

「......」

「初穂さん?」

 言うべきか迷った。
 だが、隠す理由もない。

「あなたの名前」

「やっぱり」

「それと──」

「それと?」

 初穂は紙を見る。
「杉平惣太郎......」

 杏果の顔から色が消えた。
「......あのおじいさん?」

「うん」

 杏果が生まれる三年前。
 山中で死亡した老人。

 その死の近くで、杏果が生まれた。
 初穂は和紙を指で撫でた。

 素人目でも、十七年前に作ったものには見えない。

「枝折さんに見せよう」

「今から?」

「さすがに寝てる」

「池生さんなら起きてそう」

「何で?」

「年寄りって朝早いから、もう朝みたいなものでしょ」

「せめて日が変わってからにしてあげて」
その日、杏果は初穂の部屋で一夜を過ごした。

  *

 民宿を出ると、宗介がいた。

「え、何!?怖っ」

「おはようございます」

「何でいるんです?」

「杏果から電話が来ました」

 初穂が杏果を見る。
「電話したの?」

「はい」

「何時?」

「五時半頃かなぁ」

「池生さん寝てましたよね?」

「起きてました」

「本当に?」

「トイレ中でしたよ」

「聞かなきゃよかった」

 宗介は爽やかな顔をしている。
「枝折さんにも電話しましたよ」

「それは寝てたでしょう」

「怒られましたねぇ」

「でしょうね」

「また生きてる感じがしました」

「懲りないなあ」

 三人で枝折の家へ向かった。

  *

「朝っぱらから電話しやがって......死ね!」

 玄関を開けた枝折の第一声だった。

「そこは『実れ』じゃないんですね」
 宗介が言う。

「また、バカにしてんのか!?」

「結構怒ってます」

「五時半だぞ!」

「でも起きたでしょう?」

「お前の電話でな!」

「早起きもたまには良いですよ」

「宗介さん」
 杏果が小声で言った。
「黙った方がいいと思う」

「杏果までそんな」

「全会一致です」
 初穂が言った。

 宗介は少し寂しそうに黙った。

  *

 枝折の眠気は和紙を見た瞬間に消えた。

「これ......どこにあった」

「私の母子手帳」
 杏果が答える。

「いつから?」

「分かりません」

「母親は?」

「まだ聞いてない」

 枝折は和紙を光へ透かす。
 匂いを嗅ぐ。
 指で紙の縁を確かめる。

「見覚えあります?」
 初穂が聞く。

「同じ紙なら」
 そう言って立ち上がった。

 向かう先は、蔵だった。

 昨日の木箱。

 初穂の心臓が早くなる。

 枝折は一冊目ではなく、三冊目を出した。

 年代は不明。
 昨日ほとんど見せてもらえなかった帳面。

「これだ」
 ページを開く。

 紙質が同じ。
 初穂は和紙を隣へ置いた。
 色、繊維、厚さが酷似している。

「いつ頃のものです?」

「正確には分からん」

「でも?」

「少なくとも明治より前だ」

 杏果が笑った。
 乾いた笑いだった。
「じゃあ、変じゃないですか」

 誰も答えない。

「だって私、十七歳ですよ」

 枝折はページをめくる。

「この紙が古くても、文字が新しい可能性はある」
 初穂が言った。
 自分自身へ言い聞かせるように。
「古い紙に後から書けばいい」

「墨は?」

「鑑定しないと分からない」

「じゃあ鑑定してください。だって......」
 少女の声が震える。
「だって、私の名前ですよ」

 初穂は杏果の肩へ手を置いた。

 そのとき、枝折がページをめくる手を止めた。
「......あった」

「何が?」
 初穂が近づく。

 開かれた帳面。
 墨文字。
 いくつもの名前。

 地点、芽吹、咲、実、種と名前と一緒に無差別にも見える羅列があった。

 そして、下から四行目。
〈円井杏果〉

 初穂の身体が固まった。
「......嘘」

 杏果も覗き込む。
「これ、私?」

 名前の横に〈芽吹 七月十二日〉
 さらに小さく、〈杉平惣太郎 種より〉

 母子手帳から落ちた紙と同じ。

「枝折さん」
 初穂の声が低くなる。
「これ、いつからここに?」

「俺が持ち出したのは二十八年前」

「その前は?」

「寺だと言っただろう」

「誰でも触れた?」

「長い間は分からん。だが少なくとも俺が預かってから、勝手に触った奴はいない」

「二十八年前」
 杏果が呟く。
「私、生まれてない」

「そうなるな」

 枝折の声も硬い。

「ページを切った跡があります」
 初穂が気づいた。

 帳面の綴じ目。
 一枚だけ端が残っている。
 切り取られている。

 杏果の母子手帳に入っていた和紙と大きさが合う。

「いつ、誰が切ったんです?」

「知らん」

「枝折さんが預かる前?」

「俺じゃない」

 初穂は息を整えた。
「待ってください」

 少し間が空いた。

「杏果ちゃん以外にもあるはず」

「何がだ」

「まだ生まれていない人間の名前」

 枝折の顔が動いた。

 初穂はそれを見た。
「知ってますね」

「......」

「だから隠してた?」

「全部じゃない」

 宗介が蔵の入口から顔を出した。

「入っていいですか」

 三人同時に、「駄目」と言った。

「はい......」
 宗介の顔が消えた。

 緊張していた杏果が一瞬だけ笑みを浮かべた。
 その一瞬が終わる。

 枝折が椅子へ座った。
「俺がこれを預かったのは二十八年前だ」

「はい、さっきも聞きました」

「そのとき、今生きている奴の名前がいくつかあった」

「生まれる前から?」

「そうだ」

「何人?」

「当時確認したのは四人」

「杏果ちゃんも?」

「いや。あの頃は名前まで全部読んでない」

「どういう意味です?」

「読まないようにした」

 初穂は理解できなかった。

「なぜ?」

「当たるからだ」

 蔵が静かになった。

「何が......?」

「書いてあることが」
 枝折は帳面を見る。
「最初に見つけたのは、俺が二十九のときだった」

 奇妙な偶然に、初穂と同じ年齢。
「近所の夫婦に子供が生まれて名前を聞いた。その晩、この帳面を整理していて同じ名前を見つけた」

「いつ書かれたかは?」

「分からん。ただ帳面そのものは古い」

「誰かが後から書いた可能性は」

「そう思った」

「ですよね」

「次の年、また一人」

「......」

「三人目で、読むのをやめた」

「何で?」

「四人目の名前の横に」
 枝折は初穂を見る。
「実、と書いてあったからだ」

 杏果が息を呑む。
「死ぬ日が?」

「日付もあった」

「その人は?」
 初穂が聞く。

 枝折は答えない。
 それだけで分かった。

「......当たったんですね」

「事故だった」

「どんな?」

「農機具による事故だ」

「日付も?」

「同じ日だった」

 初穂は帳面から目を離せなくなった。

 予言、その言葉だけは使いたくない。
 使えば、思考が止まる。

「読ませてください」

「生方さん」

「全部を」

「やめた方がいい」

「ここまで来て、それは無理です」

「自分の名前があったらどうする」

 初穂は黙った。
 枝折も杏果も静かになっていた。

 ただ一人、外から宗介の声がした。
「お茶入りましたよー」

「今じゃない!」
 枝折が怒鳴る。

「冷めますよー」

「勝手に入れたんだろ!」

「お茶の時間かと」

 少しだけ現実へ戻された。

 初穂は息を吐く。
「見ます」

 枝折が目を閉じた。
 やがて帳面を差し出した。

  *

 
 知らない名前、すでに死んだ者、現在も村に住む者と名前が続く。

 初穂はスマートフォンで現住者一覧と照合する。
 規則性はまだ分からない。

「全員じゃない」

「そうだ」

「選ばれてる?」

「言い方は考えろ」

「じゃあ、記録されている人といない人がいる」

「それならいい」

「何の違い?」

「......」
 ページをめくる。
 杏果が横で見ている。

「お父さんの名前ない」

「お母さんは?」

「ないよ」

「でもあなたはある」

「......うん」

 さらに場所が村の外へ広がっていく。

 隣町、県境。
 そして聞いたことのない地名。

「これ......」
 初穂の胸がざわつく。
 円が村外へ続いていたことを思い出す。
「花守の住民だけじゃない」

「昔からそうだ」

「じゃあ、これは村人の記録じゃない」

「ああ、そうなるな」

「何の名簿なんですか」

「それが分かれば苦労してない」

 初穂は次のページをめくった。
 指が止まった。

 〈生方〉

 心臓が一度、強く打った。
 その下の名前を見る前に分かった。

 見たくない。
 でも、もう読んでいる。

〈生方実季〉

 視界の端が暗くなった。

「初穂さん?」

 杏果の声が遠い。

「......」

〈生方実季 実〉

 日付。九年前の八月十七日。

 地点、県道。一致している。
 初穂は椅子を蹴った。

 大きな音。

「違う!」

 誰も喋らない。

「違う!!」
 もう一度。
「こんなの、後から書いたに決まってる!」

 枝折が黙っている。

「ニュースになったし事故の記録なんて誰でも調べられる。私のことだって、大学のホームページに名前がある」

「生方さん──」

「誰かが書いたんですよね?」

「......」

「そうでしょう?」

 答えがない。

「何で黙るんですか!」
 声が震えた。怒っている。

 怒っているだけ。

「実季の名前をこんな――」

 ページを掴む。破りそうになり、手を止めた。
 研究資料だからではない。
 妹の名前が書いてあるからだった。

 それが余計に腹立たしい。

「いつから......」
 初穂が聞く。
「このページ、いつからあります?」

「俺が預かったときには、既に......」

「二十八年前?」

「ああ」

「実季は、そのとき生まれてない」

「そうだ」

「私も?」

「生まれて――」
 枝折が言葉を止めた。
 その瞬間、初穂は理解した。

「......何?」

 枝折の視線。
 帳面の次の行。

 実季の名前の下に一行空いて。

〈生方初穂〉

 自分の名前。
 初穂は動かなかった。

 音が消えた。
 ただ文字だけがある。

 生方初穂。
 間違いようがない。
 読み慣れた自分の姓名。

「私......」
 声が掠れた。
「二十九です」

 枝折は何も言わない。

「この帳面を持ってきたのが二十八年前なら」
 計算する必要もない。
「私の方が先に生まれてる」

 安堵が混じった。

「だったら、後から調べて書ける」

 枝折を見る。

「そうですよね」

「......そうだ」

「ほら......」

「ただし」
 その一言で安堵が消えた。

「何です?」

「俺が預かったのがだ、二十八年前だ」

「はい」

「帳面が寺から見つかったのは、その十五年前だ」

 初穂の口が閉じる。
「つまり四十三年前?」

「そうだ」

「私、生まれてない......」

「そうなる」

 初穂はページを見る。
〈生方初穂〉

 その横には芽吹でも、咲でも、実でも、種でもない二文字。

「......これ、何て読むんです?」
 杏果が尋ねた。

 初穂は読めた。
〈帰花〉
「きか......?」

「たぶんな」
枝折が言う。
「『花に帰る』」

 初穂は指で文字を追った。
 地点だけ記されている。

 初穂は座標を読む。
 見覚えがある数字ではない。

「どこ?」
 地図へ入力する。

 表示される。
 初穂は眉を寄せた。
「......ここ?」

 杏果が覗く。

 花守地区の村の中心付近。
 さらに拡大する。
 民宿でも種場でも花井戸でもない。

「どこですか?」

 初穂は位置を確かめる。
 現在の地図には、何もない。

 山際の空き地。
 だが、昨日見た古地図では───。

「産屋......?」
 呟いた。

「え?」

「昔、産屋があった場所」

 枝折が立ち上がった。
「違う」

「何が違うんです?」

「その産屋じゃない」

「え、でも昨日の地図に――」

「もっと古い」
 枝折は帳面を奪うように取った。

 別の資料を探す。
 やがて一枚を広げた。
 初穂が見たことのない古地図。

 花守という文字がない。

「これ......」

「今の花守ができる前だ」

 宗介の言葉が蘇る。
『昔からここにあったんじゃないですよ』『ここが花守になったんです』

 古地図には別の集落名が書かれている。

 その端の山際にある小さな四角。
〈産屋〉
 初穂の「帰花」の地点と一致した。

「どういう場所なんです?」

 枝折は答えない。

「出産するところ?」

「それだけじゃない」

「じゃあ何?」

 枝折は今までで一番言いづらそうな顔をした。
「生まれる者を待つ場所だったと書いてある」

「......同じでは?」

「違うんだ」

「だから何が」

「妊婦を待つんじゃない」

 初穂は眉を寄せた。
「じゃあ誰を待つんです?」

 枝折が帳面を見る。
「まだ───」
大きく深呼吸をした。その後続けて言った。

「母親の腹にもいない者を」
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次の話第七話:まだ生まれていない名前(後編)
神様はコンパスを使わない作者:然々曰
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