第七話:まだ生まれていない名前(後編)
蔵を出た。
初穂は一人になりたかった。
杏果にそう告げると、何も言わず頷いた。
宗介は縁側に座っていた。
急須と湯呑みが四つ。
初穂の顔を見る。
「冷めました」
「......何がです?」
「お茶がです」
「今、それ言います?」
「温め直します?」
「いえ、大丈夫です」
初穂は通り過ぎようとした。
「生方さん」
立ち止まる。
「何です?」
「自分の名前、ありました?」
初穂は振り返った。
穏やかな顔で宗介はお茶を飲んでいた。
「......知ってたんですか」
「何をです?」
「私の名前があそこにあること」
「いえ、知りませんよ」
「本当に?」
「ええ」
「じゃあ、どうして今」
「大抵あの帳面を最後まで読んだ人は」
宗介が湯呑みを置く。
「そういう顔をするので」
初穂は宗介を見つめた。
「何人見たんです?」
「三人」
「その人たちは?」
「一人は枝折さん」
「あと二人は?」
宗介は少し考える。
「私の父です」
「もう一人は?」
沈黙が長く感じた。
初穂は嫌な予感がした。
「誰ですか?」
宗介は初めて答えることを迷った。
それが分かった。
いつもなら、冗談か、とぼけるか、忘れたと言う。
だが、今回は違う。
「池生さん!」
宗介は庭にあった梅の木に手を当てる。そして白い花の周りを歩く蟻をいつもの何も考えていないように凝視めた。
「あなたのお母さんです」
初穂の思考が止まった。
「......は?」
「二十九年前」
「待って」
「花守へ来ました」
「待ってください」
「あなたを妊娠しているときです」
初穂が宗介へ詰め寄る。
「母が?」
「はい」
「ここに?」
「ええ、花守に」
「何で?」
「それは」
宗介は初穂を見る。いつもの笑いがない。
「あなたのお母さんに聞いた方がいい」
「母は花守なんて知らない」
「そう言いましたか?」
初穂は答えられなかった。
聞いたことなどない。花守という名前自体、一ヶ月前まで知らなかった。
「どうして母がここに」
「私には分かりません」
「帳面を見たんですか」
「見てましたよ」
「私の名前も?」
「そこまでは知りません」
「じゃあ何を」
「帰るときに」
宗介は静かに言った。
「一つだけ、聞かれました」
「何を?」
「この村で生まれた子は」
宗介の視線が初穂を通り越すように遠くなる。
「必ず、ここへ戻ってくるのかと」
風が吹いた。
梅の葉が揺れる。
「何て答えたんです?」
宗介は初穂を見る。
「戻ってきたくなければ───。
戻ってこなくてもいいんじゃないですか、と」
「......それだけ?」
「ええ」
「母は?」
「泣きました」
「それから?」
「帰りましたよ」
「母は私をここで産んではいない」
「知ってます」
「私は町の病院で生まれた」
「どこで生まれたのかは知りませんが、そうなのならそうなんでしょう」
「だったら」
初穂は自分の言葉で止まった。
私はここで生まれていない。
なのに帳面には、
〈生方初穂〉
そして、〈帰花〉。
芽吹ではない。
生まれる場所ではない。
帰る場所。
初穂は無意識に後ずさった。
「生方さん」
宗介の声。
「大丈夫ですか」
「......大丈夫に見えます?」
「見えません」
「じゃあ聞かないでください」
「そうですね」
「そこは素直なんですね」
「七十四ですからね」
「それ、便利ですね」
「便利ですよ」
ほんの一瞬だけ衝撃を受けた感情が緩んだ。
それが悔しかった。
*
初穂は民宿へ戻り母へ電話をかけた。
留守番電話に繋がった。
メッセージは残さなかった。
代わりに実季の死亡地点を、もう一度地図へ表示した。
自分の出生病院。
両親が当時暮らしていたアパート。
母が花守へ来たという時期。
あり得ない。
関係があるはずがない。
初穂は自分へそう言い聞かせながら一つずつ点を置いた。
そして気づいてしまった。
母が初穂を妊娠中に花守へ来た。
初穂は別の町で生まれた。
その出生地点からある距離を取る。
その円周上に、実季が生まれた病院。
次、実季の出生地点を中心にして、円周上に九年前の事故現場。
その事故現場からさらに円を描く。
花守が入る。
正確には、古い産屋の地点。
初穂はマウスから手を離した。
輪が閉じていた。
花守から始まって初穂の出生、実季の死、そしてまた花守へ戻る。
一つの円ではない。
複数の円が、互いを受け渡すように連なっている。
花守の中で見たものと同じだった。
スケールだけが違う。
「......私が見つけたんじゃない」
言葉が漏れた。
ここへ来た理由は博士論文だ。
航空写真を見ていた。消滅しそうな村を見つけ人口推移が気になった。
そこは花守。
自分はたまたま研究対象として村を見つけただけ。
そう思っていた。
だが、本当に?
実季が死ななければ、初穂は災害と集落の研究へ進んだだろうか。
このテーマを選んだだろうか。
花守の人口記録に目を止めただろうか。
ここへ来ただろうか。
そこまで考えて初穂は両手で顔を覆った。
「違う」
偶然だ。人間は出来事のあとに物語を作る。
原因と結果を並べ、そこに意味があったと思いたがる。
実季は自分を花守へ導くために死んだのではない。
そんなことがあっていいはずがない。
妹の死を何かの部品にするな。
何かの意味にするな。
「実季は......」
初穂は震える声で言った。
「実季は、実季だよ」
誰も答えない。
そのときスマートフォンが鳴った。
母からだった。
初穂は数秒、画面を見つめた。
通話ボタンを押す。
「もしもし」
『初穂?ごめん、買い物してて。三回もどうしたの』
いつもの母の声。
それだけで泣きそうになった。
「お母さん......」
『何?』
「聞きたいことあるの」
『何よ、怖いんだけど』
初穂は息を吸う。
「花守って村......」
電話の向こうが静かになった。
ほんの、二秒くらい。
でも十分だった。
「知ってるよね?」
『......何で』
母の声が変わった。
「何で知ってるの、じゃない」
初穂は目を閉じた。
「今、私そこにいる」
長い沈黙。
やがて母が、とても小さな声で言った。
『初穂...』
「うん」
『そこから出なさい』
初穂の背中が冷えた。
「どうして?」
『いいから!』
「何があったの」
『今すぐ帰ってきなさい』
「お母さん」
『お願いだから...』
声が震えている。
「二十九年前、ここに来た?」
返事がない。
「私がお腹にいたとき」
『......』
「古い帳面を見た?」
電話の向こうで何かが落ちる音がした。
『初穂...』
「私の名前ってあった?」
母が泣いている音がした。
その音を初穂は二十九年間で初めて聞いた気がした。
『......あった』
初穂は何も言えなかった。
『あなたの名前が』
母は息を詰まらせながら続けた。
『まだ名前なんて決めてなかったのに』
窓の外。
白い花が一輪、風もないのに揺れた。
『あの帳面に』
母の声が掠む。
『初穂って』
そして───。
『「帰ってくる」って』
電話を持つ手から力が抜けた。
初穂は窓の外を見る。
花守。ここは初めて来たはずの村。
なのに、その瞬間初めてではないような気がした。
知っている風景ではない。
記憶でもない。
もっと、身体の奥。
生まれるより前の、何か。
地図の上ではいくつもの円が重なっている。
その一つ一つが誰かの誕生で、誰かの死で、誰かの移動で、誰かの人生だった。
そして、初穂は初めて理解した。
自分は、この村を見つけたのではない。
研究していたのでもない。
ずっと────。
円の上を、歩いてきたのだ。