ホーム›神様はコンパスを使わない›第八話:花が実る夜
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第八話:花が実る夜

『初穂って』
 母の声が、電話の向こうで震えていた。
『「帰ってくる」って書いてあったの』

 初穂はすぐには返事をしなかった。

 窓の外、まだ朝にもなっていない薄暗い庭で、白い花が揺れている。
「......どうして花守へ来たの」

『それは』

「たまたま?」

『違うわ』

「誰かに教えられた?」

 長い沈黙。

『手紙が来たの』

「手紙って?」

『あなたを妊娠して、五ヶ月くらいだったと思う』

「誰から?」

『分からない』

「差出人は?」

『なかった』
 母が鼻を啜る。
『宛名だけ』

「お母さん宛て?」

『違う』
 初穂は嫌な予感を覚えた。
『生方初穂様方』

 息が止まった。

「え......私?」

『まだ、あなたの名前なんて決めてなかった』
 母が続ける。
『だから最初は、住所を間違えた手紙だと思った。でも、名字と住所は合ってた』

「中身は?」

『紙が一枚』

「何て?」

『地図が......』

「花守の?」

『そうよ』

「それだけ?」

『地図の端に、二文字だけあった』

 聞かなくても分かった。

「帰花......」

『......うん』

 初穂は椅子へ座った。
 どうして今まで聞かなかった、ではない。
 どうして母は話さなかった。

「それで、ここまで来たの?」

『気持ち悪かったから』

「普通、逆じゃない?」

『二十九年前よ。今みたいに何でも検索できるわけじゃない。榧野村なんて知らなかったし、お父さんには言えなかった』

「何でよ?」

『妊娠中で神経質になってると思われたくなかったの』

「一人で来たの?」

『そう』

「妊娠五ヶ月で?」

『あなたより若かったから』

「若さを無謀の言い訳にしないで」

 母がほんの少し笑った。
『そういうところお父さんに似たわね』

「今それどころじゃない」

『そうね』
 笑いが消えた。

「ここで何があったの」

『昔の産屋へ連れていかれた』

「誰に?」

『名前は覚えてない。おばあさんだったわ』

「村の人?」

『たぶん。手紙を見せたら、驚かなかったの』

「......」

『待ってたみたいだった』

「誰を?」
 母は答えなかった。
「私を?」

『あなたを、って言われた』
 初穂は目を閉じた。
『それから帳面を見せられた。初穂の名前があった』

「帰花も?」

『うん』

「意味は聞いた?」

『聞いた』

「何て?」

 電話の向こうで母が息を吸う。
『「一度、外で芽吹かせなさい」って』

「外?」

『花守じゃないところで産めってことだと思った』

「そのあと?」

『帰ろうとした』

「止められなかった?」

『ええ、誰にも』

 初穂は眉を寄せる。

『むしろ、そのおばあさんが言ったの』

「何て?」

『帰りなさい、って』
 意外だった。
『「この子にはまだ早い」って』

「まだ?」

『意味は分からない』

「それから一度も花守には?」

『行ってない』

「私の名前は?」

『え......』

「帳面を見て、初穂にしたの?」

『違う』
 母の返事は早かった。
『だから、それが一番怖かった』

「何で?」

『出産した日の夜』
 母の声が小さくなる。
『お父さんが言ったのよ』

「何て?」

『「初穂って名前はどうだ」って』

 初穂は声を失った。

『私はその名前を一度も口にしてない。手紙も捨てた。帳面のことも話してない』

「本当に?」

『本当よ』

「お父さんは何で初穂って」

『聞いたわ』

「何て?」

『秋に生まれたわけでもないのに、変よね』
 母は自嘲するように笑った。
『本人も分からないけど、「何となく浮かんだ」って』

 何となく歩きたくなった。
 杏果の母も、そう言ったみたいだ。
 予定日より二週間早くになぜか山へ。

 ただ、歩きたくなった。

「お母さん」

『うん』

「実季のことは?」
 電話の向こうが静かになった。
「帳面に、実季の名前もあった」

『......』

「知ってた?」

『知らないわ』

 即答ではなかった。

「本当に?」

『知らないって!』
 母が初めて声を荒らげた。
『知ってたら......』
 言葉が詰まる。
『知ってたら、あの子をあの日、家から出したりしなかった』

 初穂は唇を噛んだ。
 母を責めるつもりはなかった。
 それでも聞かずにはいられなかった。

「じゃあ、実季の死は」

『やめて』

「何か関係が――」

『やめなさい、初穂』
 母の声が変わった。
『あの子の死に意味をつけないで』

 初穂は何も言えなくなった。

『お願いだから......』
 母が泣いている。
『あの子は、何かのために死んだんじゃない』

「......うん」

『事故だった』

「うん」

『それでいいの』

 それでいい。
 初穂も、そう思っていた。
 九年間。そう思えるようになるために生きてきた。

『だから帰ってきて』

「......まだ無理」

『初穂!』

「杏果ちゃんのこともある」

『誰よその子?』

「ここの子よ」

『あなたには関係ないでしょう』

「もうあるよ」
 初穂は窓の外を見る。
 白い花が昨日より増えている。
「私の名前があって、実季の名前があって、ここまで来た理由まで繋がってる」

『だからこそ帰りなさい』

「逃げたら、ずっと分からない」

『分からなくていいことだってある』

 母の言葉に、枝折の言葉が重なった。
 分からないものを分からないままにする。

「ごめん」
 初穂は言った。
「それ、私にはできないみたい」

『......知ってる』
 母は疲れたように答えた。
『あなた、小さい頃からそうだった』

「何が?」

『蟻の行列見つけると、巣までついて行ってた』
 初穂は一瞬黙った。

 昨日、宗介も蟻を見ていた。

「そんなことあったっけ?」

『何時間も帰ってこなかったことあるわよ』

「覚えてないわ」

『蟻は覚えてるかもね』

「お母さんまで宗介さんみたいなこと言わないで」

『誰よ、それ』

「七十四歳の変な人」

『あなた、昔から変な人と仲良くなるわね』

「仲良くはなってない」

『その言い方はなってるわ』

 少しだけ笑った。

『初穂』

「うん」

『帰ってきて』

 もう一度。今度は静かだった。

「分かった」

 嘘だった。
 母にも分かったのだろう。
 それ以上は言わなかった。

  *

 午前七時。
 庭に出た初穂は立ち尽くした。

 白い花が二十三本になっていた。

「は?......一晩で?」

 しかもそれだけではない。

 庭の隅に季節の終わった紫陽花に、新しい花が咲いている。

 青と紫の鮮やかな色。
 六月末なら不自然ではない。

 問題はその隣だった。

「梅......?」
 梅の枝に白い花。

 季節は夏だ。あり得ない。

「女将さん!」
 返事がない。玄関から中へ戻る。
「え?女将さん?」

 厨房には誰もいない。
 朝食の支度もない。
 代わりに食卓の上へ紙が置かれていた。

〈朝餉は冷蔵庫にあります〉
 その下には。
〈今日は種場へ行きます〉

 初穂は紙を持ったまま動かなかった。

  *

 外へ出る。
 村が静かだった。
 普段から静かではある。
 だが、今日は違う。
 生活の音がない。

 草刈り機、軽トラック、テレビ...人の話し声......全ての音がない。

 代わりに花が咲いていた。

 道端、庭、畑、山、その全てに花が咲いている。桜まであった。
 初穂は足を止めた。
 本当に桜だった。
 淡い花弁。満開の桜。

 その根元には彼岸花。
 さらに少し先には菜の花、朝顔、コスモス、梅。

 季節が壊れている。

「嘘......夢の中なの?」
 スマートフォンを取り出す。

 撮影した。写真には映る。
 幻覚ではない。
 花へ触れる。感触も匂いもある。

 現実だった。

「生方さん」

 振り向く。宗介だった。
 今日は紺色のシャツに帽子。
 手には竹籠。

「これ......」
 初穂が周囲を指す。
「何です?」

「花ですねぇ」

「そういうの今いらないです」

「でしょうね」

「どうして咲いてるんですか」

「さあ、さっぱり」

「梅と桜と彼岸花と朝顔が一緒に咲くんですか!?この村では!?」

「珍しいですねぇ」

「珍しいで済ませないで!」

 宗介は花を見る。
「昔もあったそうです」

 初穂の声が止まった。
「いつ?」

「私は初めてですが」

「記録は?」

「枝折さんなら」

「また枝折さん?!」

「詳しいので」

「万能辞書じゃないんですよ、あの人!」

「本人に言ったら喜ぶかな」

「怒りますよ、きっとまた」

「ですよねぇ」

 初穂は宗介の竹籠を見る。
「何持ってるんです?」

「実ですよ」

 籠には小さな丸い実がいくつも入っている。

 白い実。
 初穂が民宿の庭で見たものと同じ。

「どこで?」

「落ちてました」

「花、今日咲いたんですよね?」

「そうですね」

「何で実があるんです?」

「花の後だからでしょう」

 初穂は宗介を睨んだ。
「時間って知ってます?」

「知ってますよ。もうすぐ八時」

「そういう意味じゃない」

 宗介が少し笑った。
 だが、いつもより短かった。

「池生さん」

「はい」

「今日は何の日なんです?」

 笑みが消える。

「私には分かりません」

「嘘よ!」

「嘘じゃないです」

「みんな種場へ行ってる」

「そうですね」

「あなたも?」

「そのつもりです」

「何をするんです」

「見届けます」

「何を?」

 宗介は籠を見る。
「花が実るところを」

  *

 枝折の家へ向かった。
 途中、誰ともすれ違わない。

 花だけがある。家々の玄関は開いている。

 車もある。
 しかし人がいない。
 枝折の家の玄関も開いていた。

「枝折さん!」

「いる」
 蔵から声。

 初穂は走った。
 枝折は資料を箱へ詰めていた。

「何してるんです?」

「片付けだ」

「今?」

「今だからだ」

「外、見ました?」

「見た」

「何が起きてるんです?」

「知らん」

「またそれ!」

「知らんものは知らん」

「村中の花が――」

「昔の記録にはある」
 枝折が一冊の帳面を投げる。
 初穂が受け取る。

「読め」

 付箋のあるページ。
 江戸末期。
〈春夏秋冬、同日に咲く〉
〈花三刻〉
〈実一刻〉
〈種、夜半まで〉

 初穂は読み上げた。

「花が......三刻?」

「昔の刻だから正確には違うが、数時間だろう」

「実一刻」

「花が落ちて、実がなる」

「一日で?」

「そう書いてある」

 指を下へ。
〈人、種場に集う〉
〈花守、一度実る〉

「花守が」
 初穂は枝折を見る。
「実る?」

「そうだ」

「村が?」

「記録ではな」

「どういう意味です」

「分からん」

「その後は?」

 枝折は別の地図を広げた。
「ここを見ろ」

 一八四〇年代の花守。その次、数十年後。
「......ない」

「そうだ」

「集落が消えてる」

「次を見ろ」

 さらに後。少し離れた場所に花守。

「移動してる」

「地名がな」

「人も?」

「家系を見る限り、何割かは同じだ」

「じゃあ村ごと移った?」

「違うな」

「何がです?」

「一度、人がほとんどいなくなってる」

 初穂の背中が冷えた。
「災害?」

「その時代によって違う」

「疫病とかも?」

「あるな、きっと」

「じゃあ――」

「原因は毎回違う」
 枝折が初穂を見る。
「結果だけ同じだ」

 集落が衰退しほぼ消える。
 そして別の場所で、同じ名前の集落が生まれる。

「花守って」
 初穂は呟く。
「場所の名前じゃないってこと?」

「俺もそう思ってる」

「じゃあ何」

 枝折は答えない。

 代わりに宗介の言葉が頭に浮かぶ。

 ここが花守になった。

「......状態?」

 枝折が眉を上げる。
「何だと?」

「花守って、一つの場所じゃなくて」
 初穂は地図を重ねる。
「何かが完成しそうになる場所に付く名前なんじゃないですか」

 村が移るたび、別の場所に円が増える。

「花が咲く場所」
 初穂は言った。
「だから花守」

 枝折はしばらく黙った。

「あり得るな」

「今日、何が起きるんです」

「記録では」
 枝折がページをめくる。指が止まる。

〈実、落つ〉
〈種、一つ〉
〈人、去る〉

 そしてその下の一文。
〈次の地、芽吹く〉

「村が死ぬってこと?」

「分からん」

「でも、みんな知ってる」

「知ってるというより」
 枝折が窓の外を見る。
「行くべきだと思ってる」

「何で?」

「俺も今朝から」

 初穂が振り返る。
「え?まさか、枝折さんまで......?」

「種場へ行かなきゃならない気がする」
 枝折は自分の胸を指した。
「理由は分からん」

 初穂は言葉を失った。

「行くんですか」

「ああ」

「分からないのに?」

「だから嫌なんだ」
 枝折は箱を閉じる。
「自分で決めたと思えないことほど、気味の悪いものはない」

  *

 杏果がいなかった。
 家へ行った。

 両親もいない。
 玄関は開いている。

「杏果ちゃん!」

 返事は無かった。

 制服、通学鞄がそのまま置いてある。

 そして、机の上には母子手帳。
 その横に、スマートフォン。

「何で置いてくのよ!」
 初穂はスマートフォンを手に取る。

 ロック画面。
 通知なし。

「杏果!」
 外へ飛び出す。

 嫌な予感。種場へ走る。

  *

 途中から、花が変わり始めていた。
 桜の花弁が落ちる。
 すぐに小さな緑の実。
 朝顔が萎む。

 異なる植物が同じ速度で季節を進めている。
 数ヶ月を数分で。
 地面には花弁が降り積もる。

 美しかった。
 息を呑むほど。

 初穂は走りながらその美しさを憎んだ。

 自然が整いすぎている。
 すべてが同じ方向へ向かっている。
 狂っているのではない。

 むしろ正しすぎる。
 それが怖い。

 種場が見えた。村人が集まっている。
 全員ではない。

 だが、ほとんどは老人。
 子供はいない。
 そもそも子供は杏果しかいないはず。

 目を凝らすとその杏果もいた。

「杏果!」
 振り向く。
 顔が青ざめている。
 初穂は人をかき分ける。

「何してるの!」

「分かんないよ」

「スマホも置いていくなんて」

「気づいたら......」

「帰ろう」

 腕を掴む。
 杏果の身体が動かない。
 力を入れる。

「杏果ちゃん?」

「足が......」

「何?足?」

「行きたいんです」
 泣きそうな顔。

「何言ってるの」

「嫌なのに」
 杏果は種場を見る。
「中に入りたい」

 初穂の背中に悪寒が走る。
「行かなくていい、ほら一緒に逃げよ?」

「でも」

「いいから」

 腕を引く。
 今度は動いた。

 ほんの一歩。
 杏果が息を吐く。

「......動ける」

「当たり前でしょ」

「でも、みんな」

 村人たちは静かだった。
 祈ってもいない。
 歌ってもいない。

 ただ、待っている。
 種場の墓石の間には、無数の白い花。

 やがて一斉に花弁が落ちた。

 誰かが息を呑む。

 花の跡に、白い実。
 何百、何千と。

 丸い小さな実。
 それが膨らむ。

 そして、ぱちっと割れた。
 中から、黒い種。
 ぱち、ぱちと次々に割れる。

「初穂さん......!」
 杏果が腕へしがみつく。
「これ」

「見なくていい」

「違う」

「何?」

 杏果が地面を指した。
 種が一粒落ちていた。

 初穂はしゃがむ。
 目だけ近づける。

 模様があった。
 細い筋、自然にできた凹凸。
 そう思いたかった。

 だが円が一つ。
 その周囲に、六つの円。
 小さすぎて完全ではない。

 それでも見間違えるはずがない。

 初穂は立ち上がった。
「......どうなってるの」

「生方さん」

 背後から宗介の声。

「池生さん......」

「はい」

「説明してください」

「できません」

「何か知ってるでしょう!」

「知ってることは、ほとんど話しましたよ」

「じゃあ何でこんな平気なんです」

 宗介は少し考えた。
「平気に見えます?」

 初穂は止まった。
 宗介の手が震えている。

「怖いんですか?」

「ええ」

「だったら何で来たんです」

「来たくなったから」

「それが怖いって言ってるんですよ」

「そうですね」
 宗介は笑わない。
「七十四年生きてきて」

 種場を見る。
「自分が自分で決めてないかもしれないと思うのは」
 ゆっくり。
「なかなか嫌なもんですよ」

 初穂は杏果の腕を握り直す。

「帰りましょう」

「どこへ?」

「村の外に決まってるでしょ」

 杏果が顔を上げる。

「でもどうやって......」

「車があるから」

「でも......」

「嫌なんでしょ?」

 杏果の目に涙が溜まる。

「嫌だ」

「なら行くよ!」

 宗介が二人を見る。

「池生さん」

「はい」

「あなたも来ます?」

 宗介は少し驚いた。

「ええ!?私?」

「嫌なんでしょう」

「まぁ嫌ですね」

「じゃあ──。」

「でも行きません」

「どうして」

 宗介は種場を見る。

「ここで生まれましたからね」

「それが何ですか!?」

「さあ」

「またそれ」

「すみません」

 初穂は苛立った。
「生まれた場所で死ぬ義務なんてないですよ」

「そうですね」

「だったら......!一緒に行きましょうよ」

「でも」
 宗介は初穂を見る。
「義務じゃなくて、自分で残るなら?」

「それも、この形に決められた選択かもしれないでしょ?」

「かもしれませんねぇ」

「じゃあ、どうしたいんですか?」

「分からない」
 宗介はほんの少し笑った。
「だから、自分で決めたことにします」

 初穂は宗介を見つめた。
 初めてこの老人がひどく寂しく見えた。

  *

 二人で走った。
 種場を出る、村の中心へ。
 杏果は何度も振り返った。

「見ないで」

「でも......」

「見ちゃダメ」

「お父さんとお母さんが......」

 初穂の足が止まる。

 そうだ杏果の両親。

「連れてく?てか連れていこう」

「......」

「杏果?」

 少女は泣いていた。
「呼びました」

「いつ?」

「朝に」

「何て?」

「行こうって」

「返事は?」

 杏果が首を振る。
「お母さんが」
 涙を拭う。
「『あなたはまだ種じゃない』って」

 初穂は意味が分からなかった。

「お父さんは?」

「『自分で決めなさい』って」

 宗介と同じ。
 初穂は種場の方向を見る。
 連れ出すことはできる。

 だが本当に杏果の両親が、自分の意思で残っているなら、それを初穂が否定するのは───。

「行こう」
 杏果が言った。初穂を見る。
「私が決める」
 涙を流したまま。
「行きたい!」

 初穂は頷いた。
「分かった」

  *

 民宿へ戻る。

 鞄にパソコンと資料を必要最低限だけ詰める。
 杏果は母子手帳を取った。

「それ持ってくの?」

「置いてくの嫌です」

「分かった」

 車のエンジンをかける。

「よし、行くよ」

 村道へ出る。
 午後三時を過ぎていた。
 空が既に暗くなり始めている。

 雨ではない。
 雲もないのに山が影を作っている。
 道端の花はほとんど実へ変わっていた。

 花弁がなくなり種だけが残る。

 初穂はアクセルを踏む。

 村入口の橋。
 赤い郵便ポスト。

「出られる」
 杏果が呟く。

「当たり前よ」
 初穂も言う。
「道はあるんだから」

 橋を渡る。県道へ続く山道。
 スマートフォンは圏外になった。
 ナビはまた車を山中に表示している。

「大丈夫」
 初穂は自分にも言った。
「来た道を戻ればいい」

 数十分後、杏果が言った。

「初穂さん」

「何?」

「この道......」

「うん?」

「さっき通りませんでした?」

「似た道多いからね」

「でも」
 杏果が前を指す。

 道端にまた赤い郵便ポスト。
 初穂の足がアクセルから離れた。

 花守に戻っていた。
 二人とも何も言わなかった。

「......間違えたか」
 初穂が言う。
「どこかで分岐を」

「一本道でしたよ」

「見落としただけ」

「初穂さん......?」

「もう一回」

 Uターンし別方向に走る。
 今度は速度を落とす。
 分岐を確認。

 さっき通った反対へ。

 森が切れる。
 また赤い郵便ポスト。

「......」
 杏果が震え始めた。

「大丈夫」

「出られないよ......」

「道がおかしいだけ」

「出られない」

「そんなわけない」

「だって!」

「落ち着いて」

「出られないじゃん!」
 杏果が叫んだ。

 初穂はブレーキを踏んだ。
 車が停まる。
 静かになる。
 杏果は両手で顔を覆う。

「やっぱり」

「杏果?」

「最初からここから出るとかじゃないんだ」

「出られるから!」

「違う!」
 杏果が顔を上げる。
「私、村から出たいんじゃなかった」

 初穂は黙った。

 杏果が自分の胸を握る。

「この......」

「......」

「この村とか、家とか、お父さんとか、お母さんとかじゃなくて」
 言葉を探す。
「生まれた場所も」

「......」

「死ぬ場所も」

「......」

「どこへ行くかも」

 初穂は何を言おうとしているのか分かった。

 杏果は泣きながらはっきりと言った。
「私、この形から出たい」

 外で一斉に何かが落ちた。

 雨のような音。

 だが空は晴れている。

 種だった。

 無数の種が山から、木々から、家々の庭から道路へ降り注いでいる。

黒い種、白い種、小さな種、大きな種がフロントガラスをぱらぱらと叩く。

 初穂はそれを見ながらふと思った。

 花が実った。
 なら次は芽吹く。

「杏果」

「......何?」

「もう一度行く」

「どこへよ?」

 初穂は村の奥を見る。
 種場ではない。
 古い産屋でもない。
あの人のところ。

「池生さん」
 初穂はエンジンを切った。
「聞いてないことがある」

「何を?」

 車を降りる。

 地面いっぱいに、種。
 その一粒を踏む。

「誰が───。」

 初穂は言った。
「この形を描いたのか」

 そして二人は種の降る村を歩き始めた。
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神様はコンパスを使わない作者:然々曰
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第八話:花が実る夜

『初穂って』
 母の声が、電話の向こうで震えていた。
『「帰ってくる」って書いてあったの』

 初穂はすぐには返事をしなかった。

 窓の外、まだ朝にもなっていない薄暗い庭で、白い花が揺れている。
「......どうして花守へ来たの」

『それは』

「たまたま?」

『違うわ』

「誰かに教えられた?」

 長い沈黙。

『手紙が来たの』

「手紙って?」

『あなたを妊娠して、五ヶ月くらいだったと思う』

「誰から?」

『分からない』

「差出人は?」

『なかった』
 母が鼻を啜る。
『宛名だけ』

「お母さん宛て?」

『違う』
 初穂は嫌な予感を覚えた。
『生方初穂様方』

 息が止まった。

「え......私?」

『まだ、あなたの名前なんて決めてなかった』
 母が続ける。
『だから最初は、住所を間違えた手紙だと思った。でも、名字と住所は合ってた』

「中身は?」

『紙が一枚』

「何て?」

『地図が......』

「花守の?」

『そうよ』

「それだけ?」

『地図の端に、二文字だけあった』

 聞かなくても分かった。

「帰花......」

『......うん』

 初穂は椅子へ座った。
 どうして今まで聞かなかった、ではない。
 どうして母は話さなかった。

「それで、ここまで来たの?」

『気持ち悪かったから』

「普通、逆じゃない?」

『二十九年前よ。今みたいに何でも検索できるわけじゃない。榧野村なんて知らなかったし、お父さんには言えなかった』

「何でよ?」

『妊娠中で神経質になってると思われたくなかったの』

「一人で来たの?」

『そう』

「妊娠五ヶ月で?」

『あなたより若かったから』

「若さを無謀の言い訳にしないで」

 母がほんの少し笑った。
『そういうところお父さんに似たわね』

「今それどころじゃない」

『そうね』
 笑いが消えた。

「ここで何があったの」

『昔の産屋へ連れていかれた』

「誰に?」

『名前は覚えてない。おばあさんだったわ』

「村の人?」

『たぶん。手紙を見せたら、驚かなかったの』

「......」

『待ってたみたいだった』

「誰を?」
 母は答えなかった。
「私を?」

『あなたを、って言われた』
 初穂は目を閉じた。
『それから帳面を見せられた。初穂の名前があった』

「帰花も?」

『うん』

「意味は聞いた?」

『聞いた』

「何て?」

 電話の向こうで母が息を吸う。
『「一度、外で芽吹かせなさい」って』

「外?」

『花守じゃないところで産めってことだと思った』

「そのあと?」

『帰ろうとした』

「止められなかった?」

『ええ、誰にも』

 初穂は眉を寄せる。

『むしろ、そのおばあさんが言ったの』

「何て?」

『帰りなさい、って』
 意外だった。
『「この子にはまだ早い」って』

「まだ?」

『意味は分からない』

「それから一度も花守には?」

『行ってない』

「私の名前は?」

『え......』

「帳面を見て、初穂にしたの?」

『違う』
 母の返事は早かった。
『だから、それが一番怖かった』

「何で?」

『出産した日の夜』
 母の声が小さくなる。
『お父さんが言ったのよ』

「何て?」

『「初穂って名前はどうだ」って』

 初穂は声を失った。

『私はその名前を一度も口にしてない。手紙も捨てた。帳面のことも話してない』

「本当に?」

『本当よ』

「お父さんは何で初穂って」

『聞いたわ』

「何て?」

『秋に生まれたわけでもないのに、変よね』
 母は自嘲するように笑った。
『本人も分からないけど、「何となく浮かんだ」って』

 何となく歩きたくなった。
 杏果の母も、そう言ったみたいだ。
 予定日より二週間早くになぜか山へ。

 ただ、歩きたくなった。

「お母さん」

『うん』

「実季のことは?」
 電話の向こうが静かになった。
「帳面に、実季の名前もあった」

『......』

「知ってた?」

『知らないわ』

 即答ではなかった。

「本当に?」

『知らないって!』
 母が初めて声を荒らげた。
『知ってたら......』
 言葉が詰まる。
『知ってたら、あの子をあの日、家から出したりしなかった』

 初穂は唇を噛んだ。
 母を責めるつもりはなかった。
 それでも聞かずにはいられなかった。

「じゃあ、実季の死は」

『やめて』

「何か関係が――」

『やめなさい、初穂』
 母の声が変わった。
『あの子の死に意味をつけないで』

 初穂は何も言えなくなった。

『お願いだから......』
 母が泣いている。
『あの子は、何かのために死んだんじゃない』

「......うん」

『事故だった』

「うん」

『それでいいの』

 それでいい。
 初穂も、そう思っていた。
 九年間。そう思えるようになるために生きてきた。

『だから帰ってきて』

「......まだ無理」

『初穂!』

「杏果ちゃんのこともある」

『誰よその子?』

「ここの子よ」

『あなたには関係ないでしょう』

「もうあるよ」
 初穂は窓の外を見る。
 白い花が昨日より増えている。
「私の名前があって、実季の名前があって、ここまで来た理由まで繋がってる」

『だからこそ帰りなさい』

「逃げたら、ずっと分からない」

『分からなくていいことだってある』

 母の言葉に、枝折の言葉が重なった。
 分からないものを分からないままにする。

「ごめん」
 初穂は言った。
「それ、私にはできないみたい」

『......知ってる』
 母は疲れたように答えた。
『あなた、小さい頃からそうだった』

「何が?」

『蟻の行列見つけると、巣までついて行ってた』
 初穂は一瞬黙った。

 昨日、宗介も蟻を見ていた。

「そんなことあったっけ?」

『何時間も帰ってこなかったことあるわよ』

「覚えてないわ」

『蟻は覚えてるかもね』

「お母さんまで宗介さんみたいなこと言わないで」

『誰よ、それ』

「七十四歳の変な人」

『あなた、昔から変な人と仲良くなるわね』

「仲良くはなってない」

『その言い方はなってるわ』

 少しだけ笑った。

『初穂』

「うん」

『帰ってきて』

 もう一度。今度は静かだった。

「分かった」

 嘘だった。
 母にも分かったのだろう。
 それ以上は言わなかった。

  *

 午前七時。
 庭に出た初穂は立ち尽くした。

 白い花が二十三本になっていた。

「は?......一晩で?」

 しかもそれだけではない。

 庭の隅に季節の終わった紫陽花に、新しい花が咲いている。

 青と紫の鮮やかな色。
 六月末なら不自然ではない。

 問題はその隣だった。

「梅......?」
 梅の枝に白い花。

 季節は夏だ。あり得ない。

「女将さん!」
 返事がない。玄関から中へ戻る。
「え?女将さん?」

 厨房には誰もいない。
 朝食の支度もない。
 代わりに食卓の上へ紙が置かれていた。

〈朝餉は冷蔵庫にあります〉
 その下には。
〈今日は種場へ行きます〉

 初穂は紙を持ったまま動かなかった。

  *

 外へ出る。
 村が静かだった。
 普段から静かではある。
 だが、今日は違う。
 生活の音がない。

 草刈り機、軽トラック、テレビ...人の話し声......全ての音がない。

 代わりに花が咲いていた。

 道端、庭、畑、山、その全てに花が咲いている。桜まであった。
 初穂は足を止めた。
 本当に桜だった。
 淡い花弁。満開の桜。

 その根元には彼岸花。
 さらに少し先には菜の花、朝顔、コスモス、梅。

 季節が壊れている。

「嘘......夢の中なの?」
 スマートフォンを取り出す。

 撮影した。写真には映る。
 幻覚ではない。
 花へ触れる。感触も匂いもある。

 現実だった。

「生方さん」

 振り向く。宗介だった。
 今日は紺色のシャツに帽子。
 手には竹籠。

「これ......」
 初穂が周囲を指す。
「何です?」

「花ですねぇ」

「そういうの今いらないです」

「でしょうね」

「どうして咲いてるんですか」

「さあ、さっぱり」

「梅と桜と彼岸花と朝顔が一緒に咲くんですか!?この村では!?」

「珍しいですねぇ」

「珍しいで済ませないで!」

 宗介は花を見る。
「昔もあったそうです」

 初穂の声が止まった。
「いつ?」

「私は初めてですが」

「記録は?」

「枝折さんなら」

「また枝折さん?!」

「詳しいので」

「万能辞書じゃないんですよ、あの人!」

「本人に言ったら喜ぶかな」

「怒りますよ、きっとまた」

「ですよねぇ」

 初穂は宗介の竹籠を見る。
「何持ってるんです?」

「実ですよ」

 籠には小さな丸い実がいくつも入っている。

 白い実。
 初穂が民宿の庭で見たものと同じ。

「どこで?」

「落ちてました」

「花、今日咲いたんですよね?」

「そうですね」

「何で実があるんです?」

「花の後だからでしょう」

 初穂は宗介を睨んだ。
「時間って知ってます?」

「知ってますよ。もうすぐ八時」

「そういう意味じゃない」

 宗介が少し笑った。
 だが、いつもより短かった。

「池生さん」

「はい」

「今日は何の日なんです?」

 笑みが消える。

「私には分かりません」

「嘘よ!」

「嘘じゃないです」

「みんな種場へ行ってる」

「そうですね」

「あなたも?」

「そのつもりです」

「何をするんです」

「見届けます」

「何を?」

 宗介は籠を見る。
「花が実るところを」

  *

 枝折の家へ向かった。
 途中、誰ともすれ違わない。

 花だけがある。家々の玄関は開いている。

 車もある。
 しかし人がいない。
 枝折の家の玄関も開いていた。

「枝折さん!」

「いる」
 蔵から声。

 初穂は走った。
 枝折は資料を箱へ詰めていた。

「何してるんです?」

「片付けだ」

「今?」

「今だからだ」

「外、見ました?」

「見た」

「何が起きてるんです?」

「知らん」

「またそれ!」

「知らんものは知らん」

「村中の花が――」

「昔の記録にはある」
 枝折が一冊の帳面を投げる。
 初穂が受け取る。

「読め」

 付箋のあるページ。
 江戸末期。
〈春夏秋冬、同日に咲く〉
〈花三刻〉
〈実一刻〉
〈種、夜半まで〉

 初穂は読み上げた。

「花が......三刻?」

「昔の刻だから正確には違うが、数時間だろう」

「実一刻」

「花が落ちて、実がなる」

「一日で?」

「そう書いてある」

 指を下へ。
〈人、種場に集う〉
〈花守、一度実る〉

「花守が」
 初穂は枝折を見る。
「実る?」

「そうだ」

「村が?」

「記録ではな」

「どういう意味です」

「分からん」

「その後は?」

 枝折は別の地図を広げた。
「ここを見ろ」

 一八四〇年代の花守。その次、数十年後。
「......ない」

「そうだ」

「集落が消えてる」

「次を見ろ」

 さらに後。少し離れた場所に花守。

「移動してる」

「地名がな」

「人も?」

「家系を見る限り、何割かは同じだ」

「じゃあ村ごと移った?」

「違うな」

「何がです?」

「一度、人がほとんどいなくなってる」

 初穂の背中が冷えた。
「災害?」

「その時代によって違う」

「疫病とかも?」

「あるな、きっと」

「じゃあ――」

「原因は毎回違う」
 枝折が初穂を見る。
「結果だけ同じだ」

 集落が衰退しほぼ消える。
 そして別の場所で、同じ名前の集落が生まれる。

「花守って」
 初穂は呟く。
「場所の名前じゃないってこと?」

「俺もそう思ってる」

「じゃあ何」

 枝折は答えない。

 代わりに宗介の言葉が頭に浮かぶ。

 ここが花守になった。

「......状態?」

 枝折が眉を上げる。
「何だと?」

「花守って、一つの場所じゃなくて」
 初穂は地図を重ねる。
「何かが完成しそうになる場所に付く名前なんじゃないですか」

 村が移るたび、別の場所に円が増える。

「花が咲く場所」
 初穂は言った。
「だから花守」

 枝折はしばらく黙った。

「あり得るな」

「今日、何が起きるんです」

「記録では」
 枝折がページをめくる。指が止まる。

〈実、落つ〉
〈種、一つ〉
〈人、去る〉

 そしてその下の一文。
〈次の地、芽吹く〉

「村が死ぬってこと?」

「分からん」

「でも、みんな知ってる」

「知ってるというより」
 枝折が窓の外を見る。
「行くべきだと思ってる」

「何で?」

「俺も今朝から」

 初穂が振り返る。
「え?まさか、枝折さんまで......?」

「種場へ行かなきゃならない気がする」
 枝折は自分の胸を指した。
「理由は分からん」

 初穂は言葉を失った。

「行くんですか」

「ああ」

「分からないのに?」

「だから嫌なんだ」
 枝折は箱を閉じる。
「自分で決めたと思えないことほど、気味の悪いものはない」

  *

 杏果がいなかった。
 家へ行った。

 両親もいない。
 玄関は開いている。

「杏果ちゃん!」

 返事は無かった。

 制服、通学鞄がそのまま置いてある。

 そして、机の上には母子手帳。
 その横に、スマートフォン。

「何で置いてくのよ!」
 初穂はスマートフォンを手に取る。

 ロック画面。
 通知なし。

「杏果!」
 外へ飛び出す。

 嫌な予感。種場へ走る。

  *

 途中から、花が変わり始めていた。
 桜の花弁が落ちる。
 すぐに小さな緑の実。
 朝顔が萎む。

 異なる植物が同じ速度で季節を進めている。
 数ヶ月を数分で。
 地面には花弁が降り積もる。

 美しかった。
 息を呑むほど。

 初穂は走りながらその美しさを憎んだ。

 自然が整いすぎている。
 すべてが同じ方向へ向かっている。
 狂っているのではない。

 むしろ正しすぎる。
 それが怖い。

 種場が見えた。村人が集まっている。
 全員ではない。

 だが、ほとんどは老人。
 子供はいない。
 そもそも子供は杏果しかいないはず。

 目を凝らすとその杏果もいた。

「杏果!」
 振り向く。
 顔が青ざめている。
 初穂は人をかき分ける。

「何してるの!」

「分かんないよ」

「スマホも置いていくなんて」

「気づいたら......」

「帰ろう」

 腕を掴む。
 杏果の身体が動かない。
 力を入れる。

「杏果ちゃん?」

「足が......」

「何?足?」

「行きたいんです」
 泣きそうな顔。

「何言ってるの」

「嫌なのに」
 杏果は種場を見る。
「中に入りたい」

 初穂の背中に悪寒が走る。
「行かなくていい、ほら一緒に逃げよ?」

「でも」

「いいから」

 腕を引く。
 今度は動いた。

 ほんの一歩。
 杏果が息を吐く。

「......動ける」

「当たり前でしょ」

「でも、みんな」

 村人たちは静かだった。
 祈ってもいない。
 歌ってもいない。

 ただ、待っている。
 種場の墓石の間には、無数の白い花。

 やがて一斉に花弁が落ちた。

 誰かが息を呑む。

 花の跡に、白い実。
 何百、何千と。

 丸い小さな実。
 それが膨らむ。

 そして、ぱちっと割れた。
 中から、黒い種。
 ぱち、ぱちと次々に割れる。

「初穂さん......!」
 杏果が腕へしがみつく。
「これ」

「見なくていい」

「違う」

「何?」

 杏果が地面を指した。
 種が一粒落ちていた。

 初穂はしゃがむ。
 目だけ近づける。

 模様があった。
 細い筋、自然にできた凹凸。
 そう思いたかった。

 だが円が一つ。
 その周囲に、六つの円。
 小さすぎて完全ではない。

 それでも見間違えるはずがない。

 初穂は立ち上がった。
「......どうなってるの」

「生方さん」

 背後から宗介の声。

「池生さん......」

「はい」

「説明してください」

「できません」

「何か知ってるでしょう!」

「知ってることは、ほとんど話しましたよ」

「じゃあ何でこんな平気なんです」

 宗介は少し考えた。
「平気に見えます?」

 初穂は止まった。
 宗介の手が震えている。

「怖いんですか?」

「ええ」

「だったら何で来たんです」

「来たくなったから」

「それが怖いって言ってるんですよ」

「そうですね」
 宗介は笑わない。
「七十四年生きてきて」

 種場を見る。
「自分が自分で決めてないかもしれないと思うのは」
 ゆっくり。
「なかなか嫌なもんですよ」

 初穂は杏果の腕を握り直す。

「帰りましょう」

「どこへ?」

「村の外に決まってるでしょ」

 杏果が顔を上げる。

「でもどうやって......」

「車があるから」

「でも......」

「嫌なんでしょ?」

 杏果の目に涙が溜まる。

「嫌だ」

「なら行くよ!」

 宗介が二人を見る。

「池生さん」

「はい」

「あなたも来ます?」

 宗介は少し驚いた。

「ええ!?私?」

「嫌なんでしょう」

「まぁ嫌ですね」

「じゃあ──。」

「でも行きません」

「どうして」

 宗介は種場を見る。

「ここで生まれましたからね」

「それが何ですか!?」

「さあ」

「またそれ」

「すみません」

 初穂は苛立った。
「生まれた場所で死ぬ義務なんてないですよ」

「そうですね」

「だったら......!一緒に行きましょうよ」

「でも」
 宗介は初穂を見る。
「義務じゃなくて、自分で残るなら?」

「それも、この形に決められた選択かもしれないでしょ?」

「かもしれませんねぇ」

「じゃあ、どうしたいんですか?」

「分からない」
 宗介はほんの少し笑った。
「だから、自分で決めたことにします」

 初穂は宗介を見つめた。
 初めてこの老人がひどく寂しく見えた。

  *

 二人で走った。
 種場を出る、村の中心へ。
 杏果は何度も振り返った。

「見ないで」

「でも......」

「見ちゃダメ」

「お父さんとお母さんが......」

 初穂の足が止まる。

 そうだ杏果の両親。

「連れてく?てか連れていこう」

「......」

「杏果?」

 少女は泣いていた。
「呼びました」

「いつ?」

「朝に」

「何て?」

「行こうって」

「返事は?」

 杏果が首を振る。
「お母さんが」
 涙を拭う。
「『あなたはまだ種じゃない』って」

 初穂は意味が分からなかった。

「お父さんは?」

「『自分で決めなさい』って」

 宗介と同じ。
 初穂は種場の方向を見る。
 連れ出すことはできる。

 だが本当に杏果の両親が、自分の意思で残っているなら、それを初穂が否定するのは───。

「行こう」
 杏果が言った。初穂を見る。
「私が決める」
 涙を流したまま。
「行きたい!」

 初穂は頷いた。
「分かった」

  *

 民宿へ戻る。

 鞄にパソコンと資料を必要最低限だけ詰める。
 杏果は母子手帳を取った。

「それ持ってくの?」

「置いてくの嫌です」

「分かった」

 車のエンジンをかける。

「よし、行くよ」

 村道へ出る。
 午後三時を過ぎていた。
 空が既に暗くなり始めている。

 雨ではない。
 雲もないのに山が影を作っている。
 道端の花はほとんど実へ変わっていた。

 花弁がなくなり種だけが残る。

 初穂はアクセルを踏む。

 村入口の橋。
 赤い郵便ポスト。

「出られる」
 杏果が呟く。

「当たり前よ」
 初穂も言う。
「道はあるんだから」

 橋を渡る。県道へ続く山道。
 スマートフォンは圏外になった。
 ナビはまた車を山中に表示している。

「大丈夫」
 初穂は自分にも言った。
「来た道を戻ればいい」

 数十分後、杏果が言った。

「初穂さん」

「何?」

「この道......」

「うん?」

「さっき通りませんでした?」

「似た道多いからね」

「でも」
 杏果が前を指す。

 道端にまた赤い郵便ポスト。
 初穂の足がアクセルから離れた。

 花守に戻っていた。
 二人とも何も言わなかった。

「......間違えたか」
 初穂が言う。
「どこかで分岐を」

「一本道でしたよ」

「見落としただけ」

「初穂さん......?」

「もう一回」

 Uターンし別方向に走る。
 今度は速度を落とす。
 分岐を確認。

 さっき通った反対へ。

 森が切れる。
 また赤い郵便ポスト。

「......」
 杏果が震え始めた。

「大丈夫」

「出られないよ......」

「道がおかしいだけ」

「出られない」

「そんなわけない」

「だって!」

「落ち着いて」

「出られないじゃん!」
 杏果が叫んだ。

 初穂はブレーキを踏んだ。
 車が停まる。
 静かになる。
 杏果は両手で顔を覆う。

「やっぱり」

「杏果?」

「最初からここから出るとかじゃないんだ」

「出られるから!」

「違う!」
 杏果が顔を上げる。
「私、村から出たいんじゃなかった」

 初穂は黙った。

 杏果が自分の胸を握る。

「この......」

「......」

「この村とか、家とか、お父さんとか、お母さんとかじゃなくて」
 言葉を探す。
「生まれた場所も」

「......」

「死ぬ場所も」

「......」

「どこへ行くかも」

 初穂は何を言おうとしているのか分かった。

 杏果は泣きながらはっきりと言った。
「私、この形から出たい」

 外で一斉に何かが落ちた。

 雨のような音。

 だが空は晴れている。

 種だった。

 無数の種が山から、木々から、家々の庭から道路へ降り注いでいる。

黒い種、白い種、小さな種、大きな種がフロントガラスをぱらぱらと叩く。

 初穂はそれを見ながらふと思った。

 花が実った。
 なら次は芽吹く。

「杏果」

「......何?」

「もう一度行く」

「どこへよ?」

 初穂は村の奥を見る。
 種場ではない。
 古い産屋でもない。
あの人のところ。

「池生さん」
 初穂はエンジンを切った。
「聞いてないことがある」

「何を?」

 車を降りる。

 地面いっぱいに、種。
 その一粒を踏む。

「誰が───。」

 初穂は言った。
「この形を描いたのか」

 そして二人は種の降る村を歩き始めた。
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神様はコンパスを使わない作者:然々曰
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