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第九話:円から出る

種は、雪のようには降らなかった。
 雪より重く、雨より乾いている。
 屋根を打ち、道路を跳ね、側溝に溜まる。

 初穂と杏果は、その上を歩いた。
 踏むたび、小さく硬い音がした。

「池生さんの家、こっち」
 杏果が先を指す。

「行ったことあるの?」

「あります。小学生の頃、柿もらいに」

「普通の思い出もあるんだ」

「そりゃありますよ」
 杏果が少しむっとする。
「この村、ずっと変だったわけじゃないです」

「......そうだね」

 それは忘れてはいけない気がした。
 花守は怪異ではない。
 少なくとも、そこで暮らしてきた人々にとっては。

 朝起きる。
 飯を食べる。
 畑へ行く。
 学校へ行く。
 恋をする。
 喧嘩をする。
 子供が生まれる。
 そして、誰かが死ぬ。

 その一つ一つまで異常だったことにしてしまえば、そこに生きた人間まで「仕組み」の一部にしてしまう。

 それは実季の死に意味をつけることと、どこか似ていた。

  *

 宗介の家は古い平屋だった。
 玄関が開いている。

「池生さん!」

 返事がない。

「宗介さん!」
 杏果が呼ぶ。

 奥から、「はいはい」と声がした。

 妙に普通だった。
 現れた宗介は、湯呑みを二つ持っていた。

「来ると思ってましたよ」

 初穂は足を止めた。
「......知ってたんですか」

「何を?」

「私たちが来ること」

「いいえ」

「じゃあ何で湯呑み二つ」

「一つは私のです」

「もう一つは?」

「枝折さん」

「は?いないじゃないですか」

「来ませんでした...」

「じゃあ来ると思ってないじゃないですか」

「結果的には生方さんが来たので無駄になりませんでした」

「そういう問題じゃ――」

 途中で杏果が笑った。
 泣いた後の掠れた笑い。

 初穂も少しだけ息を吐いた。

「お茶、飲みます?」

「時間がないです」

「そうですか......」

「......でも一口だけ頂きます」

 宗介は初穂へ湯呑みを渡した。

「え?私の分は?」
 杏果が言う。

「あ......」

「私のお茶は無いのね」

「若い人は冷たい水でいいですかね」

「年寄りの価値観ですね」

「まぁ七十四ですから」

「それ禁止にしたはずなんですけど」

宗介は淡い花柄のガラスコップに水を入れてきた。

 初穂たちはほんの数分乾いた喉を潤す事が出来た。

 外では世界がおかしくなっている。
 村中の季節が一日で過ぎていく。

 道には種が積もり住人たちは種場へ集まっている。

 それでも、淹れたお茶は普通に熱かった。初穂はそれが不思議なくらい嬉しかった。

  *

「聞きたいことがあります」

 湯呑みを置いた。

 宗介が頷く。
「でしょうね」

「誰が作ったんですか」

「何をです?」

「あの形......」

「......」

「とぼけないでください」

「とぼけてませんよ」

「人が生まれる場所、死ぬ場所、墓、家、災害、村の移動、それらが──。」
 初穂の声が強くなる。
「何百年もかけて、円が重なってる」

 宗介は黙って聞いている。

「フラワー・オブ・ライフって呼ばれている形に似てる。生命とか、循環とか、宇宙の秩序を表すっていう」

「そうですかー」

「知らなかったんですか」

「その名前は知りませんよ」

「じゃあ、咲きまるは?」

「それは知ってます」

「同じでしょう」

「そうかもしれません」

「誰が描いたんです」

 宗介は窓の外を見る。
 風がない。なのに種が落ち続けている。

「誰かが命令してるんですか?」

「知りませんよ」

「昔の村人?」

「それも知りません」

「何かの宗教?」

「さぁ、知りません」

「じゃあ――」

「生方さん」
 宗介が初めて少し困ったように笑った。
「神様はコンパスなんて使いませんよ」

 初穂は止まった。
 その言葉だけが妙にはっきり聞こえた。

「......だったら」
 ゆっくり尋ねる。
「どうやって円を描くんです?」

 宗介は窓の外へ目を向けた。
 種場へ続く道。
 そこを歩く人々。
 山から飛び立つ鳥、畑を渡る風、地面を這う蟻。

 そして、自分たち。

「生き物を歩かせるんです」

 初穂は何も言えなかった。
 宗介は続けない。
 説明もしない。
 それだけだった。

 今まで見てきたものすべてが頭の中で繋がった。
 死んだ場所。
 生まれた場所。
 人が家を建てた場所。
 墓を移した場所。
 母が花守へ来たこと。
 実季が迂回路を通ったこと。
 自分が研究者になったこと。

 初穂自身がここへ来たこと。

「じゃあ」
 杏果が小さく言った。
「私が外へ行きたいと思ったことも?」

 宗介は杏果を見る。
「分かりません」

「またそれ」

「本当に分からないんです」

「私が村を出たいって思ったのも、そう思わされたのかもしれない」

「そうかもしれませんね」

「じゃあ私の気持ちって何なんですか」
 杏果の声が震える。
「全部、決まってるなら......」

 宗介はしばらく黙った。

「杏果」

「何?」

「決まってるかどうかを確かめる方法なんて、あると思うか?」

「......分かんない」

「私にも分からん」

「じゃあ───。」

「だから」
 宗介は今度は少しだけ笑った。
「自分で決めたことにするしかないんじゃないか」

 初穂は種場で宗介が言ったことを思い出した。

 残るという、選択。それも自分で決めたことにする。

「そんなのでいいんですか」
 杏果が聞く。

「よくないですか?」

「適当じゃん」

「七十四年生きると───」

「それ禁止!」
 杏果が怒鳴った。

 宗介が笑う。
「怒れるなら大丈夫です」

「何がですか」

「まだ」
 宗介は言った。
「誰かに決めてもらう気はなさそうです」

 杏果は黙った。

  *

 初穂は立ち上がった。
「もう一度、村を出ます」

「そうですか」

「道が戻ってきます」

「でしょうね」

 初穂は宗介を睨んだ。
「それ知ってたんですか?」

「昔話にはあります」

「先に言ってくださいよ!!」

「聞かれなかったので」

「あなた本当に!」
 初穂は言葉を飲み込んだ。

 宗介が少し楽しそうだった。

「どうすれば出られるんです」

「知りません」

「昔話は?」

「道を歩いた者は戻る、と」

 初穂の中で何かが引っかかった。

「......何て?」

「道を歩いた者は戻る」

「道を?」

 宗介が首を傾げる。
 初穂は外を見る。

 村道、県道、橋、道路。
 人間が歩くために作った線。

 いや、人間が歩いてきた結果作られた線、と言った方が正しい。

「円を描くには」
 初穂は呟く。
「歩かせる」

「初穂さん?」
 杏果が見る。

「じゃあ」
 初穂は宗介へ振り返った。
「歩かなければいい」

「歩かずに出るんですか」

「違いますよ」
 初穂は笑った。
 自分でも馬鹿げていると思う。

「道を歩かなければいい」

 杏果が目を見開く。
「山を?」

「真っ直ぐ」

「道ないですよ」

「だからよ」
 初穂は答えた。
「ないところを行く」

  *

 車は置いた。荷物も最低限。

 水、スマートフォン、母子手帳、タブレット。
 それだけ。

 宗介の家の裏から山へ入る。

「初穂さん」

「何?」

「これ遭難って言いません?」

「言うかもね」

「ダメじゃん」

「でも円は描きにくい」

「熊とか出るんじゃ......?」

「出たら困るなぁ」

「虫は?」

「もうそこら中にいるよ」

「はあぁ......帰りたい」

「どこに帰る気?」

「......」
 杏果が黙った。

 二人で少し笑った。

 山を登る。
 枝を掻き分ける。

 斜面も急になってきていた。
足を滑らせて転ぶ。

「痛っ!」

「大丈夫?」

「大丈夫じゃないよぉ!」

 膝を擦りむいた。
 血が流れている。
 杏果は自分でそれを見て、少し笑った。

「え?何?どしたの?」

「ねぇ、ちゃんと痛いよ」

「当たり前でしょ」

「なんか......」
 杏果は傷を見る。
「嬉しいなって」

「ちょ......変なこと言わないでよ」

「だって今の、決まってなかった気がする」

「転ぶことまで決まってたかもよ」

「それは最悪だ」

「だから考えないの」

 立ち上がる。
「うん、行こう」

 二人は進んだ。

  *

 夕方になっていた。
 振り返ると花守が見えた。

 初穂は立ち止まる。

 高い。村全体が見える。
 最初から、ここまで登ればよかった。

 それぞれの場所に、色がある。
 花が散り、実が落ち、種が積もっているせいだろう。

 初穂には見えてしまった。

 円が一つ。
 その周りに、六つの円。

 さらに外へ続いている。完全ではない。
 山に隠れる部分もある。
 人工物ではないから、定規で引いたようでもない。

 なのに確かにそこにある。

 巨大な花。
 村そのものが、咲いている。

「......きれい」
 杏果が言った。

 初穂は頷いた。
「うん」

 怖い。それでも、美しかった。

「嫌いなのに」
 杏果が呟く。
「きれいって思う」

「いいんじゃない」

「いいのかな、いいんだよね」

「嫌いなものが全部醜いとは限らないよ」

 杏果は村を見る。
「私、この村好きだったのかな」

「嫌いだったんじゃない?」

「ひどい」

「杏果ちゃんが言ったんでしょ」

「まぁそれはそうですけど」

 初穂は遠くに人影を見つけた。
 たぶん宗介だ。
 小さすぎて顔までは分からない。
 こちらを見ているように見える。

 初穂は手を上げた。
 人影も手を上げた。

「......池生さん?」

「たぶん」

 杏果が吹き出した。
「初穂さんがたぶんって言うなって言ってたくせに」

「感染したかもね」

 二人はまた歩き出した。

  *

 日が落ちる。
 山の反対側。初穂のスマートフォンが、突然震えた。
 圏外表示が消える。

 一本の電波。

「......出た」

「え?熊?」

「電波がね」

 杏果が自分のスマートフォンを探し、持ってきていないことを思い出す。

「あ......」

「置いてきたんだったね」

「あーもう!最悪」

「新しいの買おう」

「お金ないです」

「親御さんに――」
 言って、止まった。
「......ごめん」

「いいですよ」
 杏果は前を見る。
「自分で働いて買うもん」

「うん」

「それも自分で決めます」

「うん、それがいいね」

 少し先に舗装された道が見えた。
 花守へ続く県道ではない。
 反対側の町へ降りる林道。

 二人は道路へ出た。

 白線、ガードレール。
 見慣れた人工物。

 初穂は初めて道路を見て安心した。

「出たー!」
 杏果が言う。

「出たね」

「本当に?」

「たぶん」

「だからやめてくださいって」

 二人は笑った。

 そして山の向こうで、低い音がした。
 地鳴りのような。
 風のような。

 振り返る。
 花守のある方向。

 山の上に、白いものが舞い上がっていた。

 花弁ではない。
 無数の種が空へ昇る。

 そして風に乗る。
 四方へ飛んでいく。

「......次の場所」
 初穂は呟いた。

「何です?」

「ううん、何でもない」

 まだ、説明したくなかった。
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神様はコンパスを使わない作者:然々曰
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第九話:円から出る

種は、雪のようには降らなかった。
 雪より重く、雨より乾いている。
 屋根を打ち、道路を跳ね、側溝に溜まる。

 初穂と杏果は、その上を歩いた。
 踏むたび、小さく硬い音がした。

「池生さんの家、こっち」
 杏果が先を指す。

「行ったことあるの?」

「あります。小学生の頃、柿もらいに」

「普通の思い出もあるんだ」

「そりゃありますよ」
 杏果が少しむっとする。
「この村、ずっと変だったわけじゃないです」

「......そうだね」

 それは忘れてはいけない気がした。
 花守は怪異ではない。
 少なくとも、そこで暮らしてきた人々にとっては。

 朝起きる。
 飯を食べる。
 畑へ行く。
 学校へ行く。
 恋をする。
 喧嘩をする。
 子供が生まれる。
 そして、誰かが死ぬ。

 その一つ一つまで異常だったことにしてしまえば、そこに生きた人間まで「仕組み」の一部にしてしまう。

 それは実季の死に意味をつけることと、どこか似ていた。

  *

 宗介の家は古い平屋だった。
 玄関が開いている。

「池生さん!」

 返事がない。

「宗介さん!」
 杏果が呼ぶ。

 奥から、「はいはい」と声がした。

 妙に普通だった。
 現れた宗介は、湯呑みを二つ持っていた。

「来ると思ってましたよ」

 初穂は足を止めた。
「......知ってたんですか」

「何を?」

「私たちが来ること」

「いいえ」

「じゃあ何で湯呑み二つ」

「一つは私のです」

「もう一つは?」

「枝折さん」

「は?いないじゃないですか」

「来ませんでした...」

「じゃあ来ると思ってないじゃないですか」

「結果的には生方さんが来たので無駄になりませんでした」

「そういう問題じゃ――」

 途中で杏果が笑った。
 泣いた後の掠れた笑い。

 初穂も少しだけ息を吐いた。

「お茶、飲みます?」

「時間がないです」

「そうですか......」

「......でも一口だけ頂きます」

 宗介は初穂へ湯呑みを渡した。

「え?私の分は?」
 杏果が言う。

「あ......」

「私のお茶は無いのね」

「若い人は冷たい水でいいですかね」

「年寄りの価値観ですね」

「まぁ七十四ですから」

「それ禁止にしたはずなんですけど」

宗介は淡い花柄のガラスコップに水を入れてきた。

 初穂たちはほんの数分乾いた喉を潤す事が出来た。

 外では世界がおかしくなっている。
 村中の季節が一日で過ぎていく。

 道には種が積もり住人たちは種場へ集まっている。

 それでも、淹れたお茶は普通に熱かった。初穂はそれが不思議なくらい嬉しかった。

  *

「聞きたいことがあります」

 湯呑みを置いた。

 宗介が頷く。
「でしょうね」

「誰が作ったんですか」

「何をです?」

「あの形......」

「......」

「とぼけないでください」

「とぼけてませんよ」

「人が生まれる場所、死ぬ場所、墓、家、災害、村の移動、それらが──。」
 初穂の声が強くなる。
「何百年もかけて、円が重なってる」

 宗介は黙って聞いている。

「フラワー・オブ・ライフって呼ばれている形に似てる。生命とか、循環とか、宇宙の秩序を表すっていう」

「そうですかー」

「知らなかったんですか」

「その名前は知りませんよ」

「じゃあ、咲きまるは?」

「それは知ってます」

「同じでしょう」

「そうかもしれません」

「誰が描いたんです」

 宗介は窓の外を見る。
 風がない。なのに種が落ち続けている。

「誰かが命令してるんですか?」

「知りませんよ」

「昔の村人?」

「それも知りません」

「何かの宗教?」

「さぁ、知りません」

「じゃあ――」

「生方さん」
 宗介が初めて少し困ったように笑った。
「神様はコンパスなんて使いませんよ」

 初穂は止まった。
 その言葉だけが妙にはっきり聞こえた。

「......だったら」
 ゆっくり尋ねる。
「どうやって円を描くんです?」

 宗介は窓の外へ目を向けた。
 種場へ続く道。
 そこを歩く人々。
 山から飛び立つ鳥、畑を渡る風、地面を這う蟻。

 そして、自分たち。

「生き物を歩かせるんです」

 初穂は何も言えなかった。
 宗介は続けない。
 説明もしない。
 それだけだった。

 今まで見てきたものすべてが頭の中で繋がった。
 死んだ場所。
 生まれた場所。
 人が家を建てた場所。
 墓を移した場所。
 母が花守へ来たこと。
 実季が迂回路を通ったこと。
 自分が研究者になったこと。

 初穂自身がここへ来たこと。

「じゃあ」
 杏果が小さく言った。
「私が外へ行きたいと思ったことも?」

 宗介は杏果を見る。
「分かりません」

「またそれ」

「本当に分からないんです」

「私が村を出たいって思ったのも、そう思わされたのかもしれない」

「そうかもしれませんね」

「じゃあ私の気持ちって何なんですか」
 杏果の声が震える。
「全部、決まってるなら......」

 宗介はしばらく黙った。

「杏果」

「何?」

「決まってるかどうかを確かめる方法なんて、あると思うか?」

「......分かんない」

「私にも分からん」

「じゃあ───。」

「だから」
 宗介は今度は少しだけ笑った。
「自分で決めたことにするしかないんじゃないか」

 初穂は種場で宗介が言ったことを思い出した。

 残るという、選択。それも自分で決めたことにする。

「そんなのでいいんですか」
 杏果が聞く。

「よくないですか?」

「適当じゃん」

「七十四年生きると───」

「それ禁止!」
 杏果が怒鳴った。

 宗介が笑う。
「怒れるなら大丈夫です」

「何がですか」

「まだ」
 宗介は言った。
「誰かに決めてもらう気はなさそうです」

 杏果は黙った。

  *

 初穂は立ち上がった。
「もう一度、村を出ます」

「そうですか」

「道が戻ってきます」

「でしょうね」

 初穂は宗介を睨んだ。
「それ知ってたんですか?」

「昔話にはあります」

「先に言ってくださいよ!!」

「聞かれなかったので」

「あなた本当に!」
 初穂は言葉を飲み込んだ。

 宗介が少し楽しそうだった。

「どうすれば出られるんです」

「知りません」

「昔話は?」

「道を歩いた者は戻る、と」

 初穂の中で何かが引っかかった。

「......何て?」

「道を歩いた者は戻る」

「道を?」

 宗介が首を傾げる。
 初穂は外を見る。

 村道、県道、橋、道路。
 人間が歩くために作った線。

 いや、人間が歩いてきた結果作られた線、と言った方が正しい。

「円を描くには」
 初穂は呟く。
「歩かせる」

「初穂さん?」
 杏果が見る。

「じゃあ」
 初穂は宗介へ振り返った。
「歩かなければいい」

「歩かずに出るんですか」

「違いますよ」
 初穂は笑った。
 自分でも馬鹿げていると思う。

「道を歩かなければいい」

 杏果が目を見開く。
「山を?」

「真っ直ぐ」

「道ないですよ」

「だからよ」
 初穂は答えた。
「ないところを行く」

  *

 車は置いた。荷物も最低限。

 水、スマートフォン、母子手帳、タブレット。
 それだけ。

 宗介の家の裏から山へ入る。

「初穂さん」

「何?」

「これ遭難って言いません?」

「言うかもね」

「ダメじゃん」

「でも円は描きにくい」

「熊とか出るんじゃ......?」

「出たら困るなぁ」

「虫は?」

「もうそこら中にいるよ」

「はあぁ......帰りたい」

「どこに帰る気?」

「......」
 杏果が黙った。

 二人で少し笑った。

 山を登る。
 枝を掻き分ける。

 斜面も急になってきていた。
足を滑らせて転ぶ。

「痛っ!」

「大丈夫?」

「大丈夫じゃないよぉ!」

 膝を擦りむいた。
 血が流れている。
 杏果は自分でそれを見て、少し笑った。

「え?何?どしたの?」

「ねぇ、ちゃんと痛いよ」

「当たり前でしょ」

「なんか......」
 杏果は傷を見る。
「嬉しいなって」

「ちょ......変なこと言わないでよ」

「だって今の、決まってなかった気がする」

「転ぶことまで決まってたかもよ」

「それは最悪だ」

「だから考えないの」

 立ち上がる。
「うん、行こう」

 二人は進んだ。

  *

 夕方になっていた。
 振り返ると花守が見えた。

 初穂は立ち止まる。

 高い。村全体が見える。
 最初から、ここまで登ればよかった。

 それぞれの場所に、色がある。
 花が散り、実が落ち、種が積もっているせいだろう。

 初穂には見えてしまった。

 円が一つ。
 その周りに、六つの円。

 さらに外へ続いている。完全ではない。
 山に隠れる部分もある。
 人工物ではないから、定規で引いたようでもない。

 なのに確かにそこにある。

 巨大な花。
 村そのものが、咲いている。

「......きれい」
 杏果が言った。

 初穂は頷いた。
「うん」

 怖い。それでも、美しかった。

「嫌いなのに」
 杏果が呟く。
「きれいって思う」

「いいんじゃない」

「いいのかな、いいんだよね」

「嫌いなものが全部醜いとは限らないよ」

 杏果は村を見る。
「私、この村好きだったのかな」

「嫌いだったんじゃない?」

「ひどい」

「杏果ちゃんが言ったんでしょ」

「まぁそれはそうですけど」

 初穂は遠くに人影を見つけた。
 たぶん宗介だ。
 小さすぎて顔までは分からない。
 こちらを見ているように見える。

 初穂は手を上げた。
 人影も手を上げた。

「......池生さん?」

「たぶん」

 杏果が吹き出した。
「初穂さんがたぶんって言うなって言ってたくせに」

「感染したかもね」

 二人はまた歩き出した。

  *

 日が落ちる。
 山の反対側。初穂のスマートフォンが、突然震えた。
 圏外表示が消える。

 一本の電波。

「......出た」

「え?熊?」

「電波がね」

 杏果が自分のスマートフォンを探し、持ってきていないことを思い出す。

「あ......」

「置いてきたんだったね」

「あーもう!最悪」

「新しいの買おう」

「お金ないです」

「親御さんに――」
 言って、止まった。
「......ごめん」

「いいですよ」
 杏果は前を見る。
「自分で働いて買うもん」

「うん」

「それも自分で決めます」

「うん、それがいいね」

 少し先に舗装された道が見えた。
 花守へ続く県道ではない。
 反対側の町へ降りる林道。

 二人は道路へ出た。

 白線、ガードレール。
 見慣れた人工物。

 初穂は初めて道路を見て安心した。

「出たー!」
 杏果が言う。

「出たね」

「本当に?」

「たぶん」

「だからやめてくださいって」

 二人は笑った。

 そして山の向こうで、低い音がした。
 地鳴りのような。
 風のような。

 振り返る。
 花守のある方向。

 山の上に、白いものが舞い上がっていた。

 花弁ではない。
 無数の種が空へ昇る。

 そして風に乗る。
 四方へ飛んでいく。

「......次の場所」
 初穂は呟いた。

「何です?」

「ううん、何でもない」

 まだ、説明したくなかった。
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神様はコンパスを使わない作者:然々曰
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