遅発
十一月に入り、山は冬の気配を帯び始めた。朝の気温は氷点下を記録し、トンネル坑口には霜が降りる。作業員たちは厚手の防寒着を着込み、吐く息は白く、手指は装薬作業の最中に感覚を失いかける。日常に変化はない。午前四時三十分に現場へ到着し、装薬を開始する。その繰り返し。
田代の事故が起きたのは、十一月十二日のことだった。
この日も、切羽面で装薬作業を行っていた。百二十八本の装薬孔。午前七時、装薬は順調に進んでいた。五十本目の孔にダイナマイトを装填している時、田代が現場に到着した。
「おはようございます、柊さん」
田代はいつも通り、明るい声で挨拶する。わずかに頷く。
「今日も見学させてもらっていいですか」
返事はしない。田代はそれを了承と受け取り、少し離れた場所で作業を見始めた。
七十二番目の装薬孔にダイナマイトを挿入しようとした時、異変に気づいた。ダイナマイトを孔に挿入する瞬間、わずかな抵抗があった。通常とは違う感触。ダイナマイトを引き抜き、ヘッドライトで孔の内部を照らす。孔底に、何かが詰まっている。装薬棒で確認する。柔らかい抵抗。ダイナマイトではない。岩石でもない。装薬棒を引き抜く。棒の先端に、黒ずんだ塊が付着している。異臭がする。腐敗臭。
神谷を呼んだ。
「どうした」
神谷が近づいてくる。七十二番目の孔を指差した。
「異物が入ってる」
神谷は孔を覗き込む。眉をひそめる。
「何だこれは」
「おそらく動物の死骸」
削岩作業中に迷い込んだ小動物、ネズミかコウモリの死骸だろう。
「掃除しろ。この孔の装薬は後回しだ」
装薬棒で異物を掻き出し始める。作業は難航した。死骸は孔底で潰れ、岩盤に張り付いている。慎重に、少しずつ掻き出していく。三十分が経過した。ようやく異物が完全に除去される。孔の内部を確認し、清浄であることを確かめた。この三十分の遅れが、後に致命的な結果を招くことになる。
異物を除去した孔にダイナマイトを装填し、残りの装薬孔も順に埋めていく。
装薬作業は午前九時三十分に完了した。雷管の装着に移る。百二十八本の雷管を、一つ一つ慎重に装薬孔へ挿入していく。
午前十時三十分、すべての雷管の装着が完了した。結線作業に移る。赤い銅線が切羽面に張り巡らされていく。百二十八本の雷管が、一本の主線で結ばれていく。結線が完了したのは、午前十一時三十分だった。通常より四十五分遅い。
神谷が近づいてくる。
「柊、工期が遅れてる」
無言で応じた。
「本社からのプレッシャーが厳しい。今日の発破は、予定通り午前十一時四十五分に実行する」
時計を確認する。あと十五分。導通試験、主線の延長、発破機への接続。ギリギリだが、可能だ。
「問題ないな」
神谷が念を押す。再び頷いた。導通試験機で回路を確認する。四百二十オーム。正常値だ。主線を退避所まで延長する。急いだ。通常なら慎重に行う作業だが、時間がない。
午前十一時四十三分、主線が発破機に接続された。
「全員退避」
神谷の声が拡声器を通じて響く。作業員たちが退避所に集まってくる。退避所へ入った。田代が隣に立つ。
「今日の装薬も完璧でしたね、柊さん」
返事をしない。胸の奥に、わずかな不安があった。いつもと違う。急ぎすぎた。何か見落としているかもしれない。その不安を口にすることはなかった。
神谷が腕時計を確認する。
「発破を開始する。十秒前」
カウントダウンが始まる。目を閉じる。
「九、八、七」
意識は、切羽面へ向かう。百二十八本のダイナマイト。その中の一つ、七十二番。異物を除去した孔。
「六、五、四」
わずかな不安が、意識を掠める。
「三、二、一」
「発破」
神谷がレバーを倒す。電流が主線を駆け抜ける。
爆発。
何かが違った。轟音の中に、わずかな不協和音がある。百二十八回の爆発の中に、一つだけ、欠けているものがある。耳は、その欠落を感知した。爆発が終わった後、目を開ける。他の作業員たちは何も気づいていない。分かる。不発がある。
「換気開始」
神谷の声。換気扇が回り始める。十五分間の待機。壁に背を預けたまま、じっと待つ。他の作業員たちは雑談をしている。意識は切羽面にある。どの装薬孔が不発なのか。七十二番だ。
換気が完了し、作業員たちが切羽面に向かう。腰を上げた。切羽面に到達した時、予感は確信に変わった。岩塊の山の中に、爆発していない装薬孔が一つある。七十二番の孔だ。孔は岩塊に半分埋もれているが、内部のダイナマイトと雷管は無傷のまま残っている。不発だ。
神谷を呼んだ。
「不発がある」
神谷の表情が強張る。不発は、発破作業における最大の危険だ。爆発しなかった爆薬は、いつ爆発するか分からない。衝撃、振動、熱、あらゆる刺激が起爆の引き金になり得る。
「どこだ」
「七十二番」
神谷は切羽面へ視線を向けた。岩塊に埋もれた装薬孔。その中には、六百グラムのダイナマイトと電気雷管が眠っている。
「全員退避」
神谷が命令する。作業員たちが坑口へ向かう。後に続いた。田代も一緒だった。
退避所で、神谷が尋ねてくる。
「原因は何だ」
考える。結線は確認した。導通試験も正常だった。となると、考えられる原因は二つ。
「結線の接触不良、あるいは雷管の不良」
「他には」
「遅発の可能性」
遅発。雷管が起爆信号を受け取ったが、何らかの理由で化学反応が遅延している状態。数分後、あるいは数時間後に突然爆発する可能性がある。
神谷は腕時計を確認した。
「発破から二十分経過した。通常、遅発なら五分以内に爆発する」
同意を示す。統計的には、遅発の九十パーセントは五分以内に爆発する。残りの十パーセントは予測不能だ。
「三十分待機する。それでも爆発しなければ、不発と判断し、再点火の準備をする」
三十分間、誰も話さなかった。作業員たちは壁に背を預け、じっと待つ。目を閉じ、今日の爆発を反芻する。百二十七回の爆発。一つだけ、欠けている。その欠落が、胸の奥に奇妙な感覚を生んでいた。不完全な爆発。それは初めての経験だった。十五年間、発破は常に完璧だった。すべての雷管が起爆し、すべてのダイナマイトが爆発した。今日、一つだけ、爆発しなかった。その不完全さが、奇妙な期待感を与えていた。まだ爆発は終わっていない。七十二番のダイナマイトは、まだ眠っている。いつ目覚めるのか。それは誰にも分からない。予測不能な爆発。その不確実性に、陶酔に近い感覚を覚えていた。
三十分が経過した。爆発は起きなかった。
「よし」
神谷が腰を上げる。
「不発と判断する。再点火の準備をする。柊、お前が行け」
立ち上がる。不発の装薬孔に近づき、古い雷管を除去し、新しい雷管を装着する。それが不発処理の手順だ。
「待ってください」
田代が声を上げた。
「俺が行きます」
神谷と視線を田代へ向けた。
「柊さんにばかり危険な仕事をさせるわけにはいきません。俺も発破技士です。やらせてください」
神谷は考え込む。数秒の静寂。
「田代、お前不発の処理をしたことがあるのか」
「いえ、ありません。でも、いつかはやらなきゃいけない仕事です。今、柊さんから学びたいんです」
神谷は視線をこちらへ向ける。何も言わない。
「分かった」
神谷は田代へ視線を戻した。
「だが、柊の指示に厳密に従え。勝手なことは絶対にするな」
田代は深く頷いた。
田代と二人で、新しい雷管と工具を持って切羽面に向かった。他の作業員たちは退避所に残る。坑内を歩く二人。田代は緊張しているのか、何度も深呼吸をしている。黙って歩いた。
切羽面に到達する。岩塊の山。その中に、七十二番の装薬孔がある。
「柊さん」
田代が緊張した声で問いかける。
「どうすればいいですか」
「ここで待て。俺が作業する。お前は見ていろ」
装薬孔に近づく。慎重に、ゆっくりと。不発のダイナマイトは極めて不安定だ。わずかな衝撃で爆発する可能性がある。孔を覗き込む。ダイナマイトが見える。赤と黄色のストライプ。雷管も見える。銅の光沢。雷管の脚線に手を伸ばす。指先が脚線に触れる。冷たい。慎重に、脚線を主線から外す。絶縁テープを剥がす。銅線を解く。脚線が外れた。
次に、雷管をダイナマイトから引き抜く。これが最も危険な作業だ。雷管は衝撃に弱い。引き抜く際の摩擦で、起爆する可能性がある。呼吸を整える。心拍を落ち着かせる。そして、ゆっくりと雷管を引き抜いた。一ミリ、二ミリ。雷管が動く。五センチ。雷管が完全に引き抜かれた。手に持つ。雷管は冷たい。起爆していない証拠だ。
「原因は雷管の不良だな」
田代は小さく頷く。古い雷管を慎重に地面に置く。そして、新しい雷管を取り出す。新しい雷管をダイナマイトに装着する。脚線を主線に接続する。絶縁テープで固定する。
「これで終わりだ」
膝の埃を払った。
「後は退避所から再点火する」
田代に向き直る。
「戻るぞ」
田代は、装薬孔から目を離さなかった。
「田代」
呼びかける。田代は顔を上げる。その目が、異様に輝いている。
「柊さん」
田代の声が震えている。
「俺、今すごく興奮してます」
田代へ顔を向けた。
「不発の処理。これ、めちゃくちゃスリリングですね。心臓がバクバクしてます」
それは恐怖ではない。興奮だ。田代の目の中に何かを見た。自分と同じものを。爆発への渇望。
「田代! 爆発を、楽しむな」
田代の表情が戸惑いに変わる。
「楽しんでるわけじゃ......」
「お前は楽しんでる。爆発を見るのが楽しい。爆発に近づくのが楽しい。そうだろう」
田代は答えられない。図星だったからだ。
「それは、危険だ。爆発は、楽しむものじゃない」
「じゃあ、何なんですか」
田代が問い返す。
「柊さんにとって、爆発って何なんですか。柊さんだって、爆発に魅了されてるじゃないですか」
答えない。田代は続けた。
「柊さんの目を見れば分かります。発破の時、柊さんの目は、まるで恋人を見るような目をしてる」
黙ったままだった。
「俺は、柊さんみたいになりたいんです。爆発を、もっと深く理解したい」
「田代」
歩き出した。
「戻るぞ。これ以上ここにいるな」
田代は黙って後を追った。
退避所に戻ると、神谷が尋ねてくる。
「どうだった」
「雷管の不良だった。新しい雷管に交換した。再点火できる」
神谷は安堵の表情を見せた。
「よし、全員退避確認。再点火を実行する」
作業員たちが応答する。神谷がカウントダウンを始めた。
「十秒前」
目を閉じる。七十二番の装薬孔。そこに、新しい雷管が装着されている。
「五、四、三、二、一、発破」
神谷がレバーを倒す。電流が主線を流れる。
瞬間、爆発。七十二番の装薬孔が爆発する。轟音と衝撃波。目を開ける。爆発は成功した。
次の瞬間。予期しない二番目の轟音。身体が硬直した。
「何だ、今の音は」
神谷が叫ぶ。作業員たちが騒ぎ始める。二回目の爆発。それは再点火による爆発ではない。別の何かだ。
駆け出した。
「切羽面に行く」
神谷と他の作業員たちが後を追う。坑内を走る。呼吸が荒くなる。足音が反響する。切羽面に到達した時、光景を目にした。岩塊の山が、さらに崩れている。粉塵が舞い上がり、視界を遮っている。そして、その岩塊の下に、人間の脚が見える。作業服を着た脚。
「誰か岩の下にいるぞ!」
神谷が叫ぶ。すぐに作業員たちが岩塊に取りつき、除去を始めた。駆け寄って岩塊に手をかける。重い――。歯を食いしばって力任せに押し動かす。
岩塊を一つ、二つ、三つ。ずらしていくたび、下から人の形が見え始めた。作業服。ヘルメット。――誰かが埋まっている。
「田代だ!」
誰かが叫んだ。作業員たちがさらに岩塊をどかす。
やがて、田代の全身が現れた。
仰向けのまま、動かない。意識はない。顔は蒼白で、唇は紫色に沈んでいる。視線が右腕に吸い寄せられた。――肘から先がない。切断面から血が噴き出していた。鮮やかな赤。ダイナマイトの赤紙の縞模様なんかより、ずっと鮮烈な赤だ。
「救急車を呼べ!」
神谷が叫ぶ。作業員の一人が無線機を取り出すが、坑内では電波が届かない。
「坑口まで運ぶぞ!」
四人の作業員が田代を抱え上げる。
駆け寄り、田代の脚を支えた。思ったより軽い。嫌な軽さだ。坑口へ走る。肺が焼けるように痛む。それでも足は止まらない。
田代の血が手のひらを伝い、滴り落ちる。生温い。――生きている温度だ。
坑口を抜けた。外の光が目に刺さる。十一月の陽光が、田代の蒼白な顔を照らしていた。作業員の一人が携帯電話を取り出し、救急車を呼んでいる。
「意識がない。右腕が切断されている。出血多量。至急、救急車を」
田代の顔に視線を注いだ。閉じられた瞼。動かない胸。いや、わずかに動いている。まだ生きている。
十分後、サイレンの音が聞こえた。救急車が到着する。救急隊員たちが降りてきて、田代の状態を確認する。
「脈拍微弱。血圧低下。すぐに搬送します」
田代は担架に乗せられ、救急車へと運び込まれた。ドアが閉まり、車体が動き出す。サイレンが遠ざかっていく。
その場に立ち尽くし、ゆっくりと自分の手のひらを見下ろした。田代の血がこびりついている。ぬるい感触だけが残っている。
神谷が肩を掴む。
「柊、何が起きた」
答えなかった。理解していたからだ。
遅発――。七十二番装薬孔の古い雷管は不良品ではない。起爆信号は届き、化学反応も始まっていた。ただ、何らかの理由で反応が遅れた。
新しい雷管を装着し、再点火した瞬間。眠っていた古い雷管も目を覚まし、ほぼ同時に爆ぜた。〇・一秒の差。二つ分の爆発。
あの時、田代は切羽面にいた。なぜそこにいたのか。分からない。――いや、分かりたくないだけだ。推測はできる。田代は爆発が見たかったのだ。近くで。自分と同じように。
警察が到着したのは三十分後。労基署の職員も来て、現場は封鎖された。黙ったまま事情聴取を受けた。
「不発の処理手順は正しかったか」
「はい」
「田代氏に、退避所に残るよう指示したか」
「はい」
「田代氏と一緒に切羽面に行ったのか」
「はい。不発処理の際、田代を同行させました」
「処理後、田代氏と一緒に退避所に戻ったのか」
「はい」
「では、なぜ田代氏は再び切羽面にいたのか」
「分かりません」
機械的に答えた。質問は三時間続いた。同じ質問が何度も繰り返されて、同じ答えを繰り返した。
最後に、警察官が言った。
「今日はこれで終わりです。また連絡します」
現場を離れた。軽トラックに乗り込むが、エンジンをかけられなかった。ハンドルに額を押し当てる。田代の声が、耳に残っている。「俺、今すごく興奮してます」「不発の処理。これ、めちゃくちゃスリリングですね」。田代の中に自分を見た。爆発への渇望。それは自分だけのものではなかった。田代も、同じものを持っていた。そして田代は、その渇望のために腕を失った。
胸の奥に、予期しない感情が芽生えていた。羨望。田代は、爆発に触れた。爆発に身体を奪われた。自分は、それを羨んでいた。頭を振った。何を考えているのか、と。だが、その思考は消えなかった。エンジンをかける。アパートに戻り、ドアを開けた。いつもの部屋がそこにあるはずなのに、空気が沈んでいる。
靴を脱ぎながら、ふと手のひらに目がいった。洗い流したはずの田代の血の感触が、まだそこに張り付いている。
温かった。――忘れられない温度だ。
冷蔵庫を開け、ビールを取り出す。プルタブを開けて飲むが、味がしない。ビールを置き、床に座る。壁に背を預ける。田代は生きている。救急隊員から聞いた情報では、命に別状はない。右腕を失ったが、生きている。安堵すべきだった。だが、胸の奥には別の感情があった。期待。爆発が、予定外に起きた。遅発という、予測不能な爆発。その不確実性に、奇妙な興奮を覚えていた。自分が危険な領域に踏み込んでいることを理解した。そして既に引き返すことはできない所まで来てしまっていた。
その夜、眠れなかった。天井の染みを眺めながら、今日の爆発を何度も反芻した。二回の爆発。一つは予定通り。もう一つは予定外。予定外の爆発。それは、新しい体験だった。そしてその体験を、もう一度味わいたいと思っていた。
三日後、田代の見舞いに向かった。町から車で一時間。白い総合病院が見えてくる。近づくほど、消毒液の匂いが強くなった。
田代は三階の個室と聞いている。エレベーターで上がり、静かな廊下を進む。302号室の前で足が止まる。
ノックしようとする指先が、わずかに震えた。
......ノックする。
「どうぞ」
田代の声がした。ドアを開けると、田代はベッドに横になっていた。右腕は、包帯で覆われている。いや、右腕はない。肘から先が、ない。
「柊さん」
田代は笑顔を見せた。その笑顔には力がなかった。顔色は悪く、目の下に隈がある。
「来てくれたんですね」
窓際の椅子に腰を下ろした。窓の外には、山が見える。紅葉した山が。
「体調は、どうだ」
「痛みはあります。でも、痛み止めを飲んでるので、我慢できます」
田代は右腕のない部分へ視線を落とした。
「医者が言ってました。幻肢痛が出るかもしれないって」
幻肢痛。失った身体部位に痛みを感じる現象。脳が、まだそこに腕があると錯覚する。
「腕は、もう戻らないんですよね。当たり前だけど」
田代は顔を向けた。
「でもね、柊さん。俺、後悔してないんです」
田代の目を捉えた。
「後悔してない?」
「はい。不思議ですよね。腕を失ったのに、後悔してない」
田代の声には、奇妙な昂揚がある。
「あの時のこと、覚えてます。柊さんと一緒に退避所に戻った後、俺、もう一度切羽面に戻ったんです」
黙ったままだった。
「なぜ戻ったんだ」
「爆発を、近くで見たかったんです」
田代の目が、熱を帯びる。
「柊さんが言ってたじゃないですか。爆発の内部を見たことがあるか、って」
田代の言葉を思い出した。自分が田代に投げかけた質問。
「俺、あの時初めて分かったんです。柊さんが何を言ってたのか」
田代は窓の外へ視線を移した。
「爆発は、すごかった。目の前で、世界が変わった。岩が粉々になって、衝撃波が俺の身体を吹き飛ばした」
田代の声が震えている。それは恐怖ではない。興奮だ。
「腕が飛ぶ瞬間、痛みは感じなかったんです。ただ、爆発の音だけが聞こえました。轟音。それは、音というより、世界そのものでした」
田代の目を捉えた。その目の中に、自分と同じものを見た。爆発への陶酔。
「田代! お前は、もう発破技士には戻れない」
田代は小さく首を縦に振った。
「分かってます。右腕がなければ、装薬も結線もできません」
田代は右腕のない部分へ視線を落とした。
「でも、いいんです」
「いいのか」
「ええ。だって、俺は見たんです。爆発を。本当の爆発を」
田代は笑った。その笑顔には、狂気の影があった。
「柊さん、ありがとうございます。柊さんのおかげで、俺は爆発の意味が分かりました」
椅子から腰を上げる。
「もう行く」
「柊さん」
田代が呼び止める。
「柊さんも、いつか爆発の中に入るんですか」
答えない。
「俺、思うんです。柊さんは、いつか爆発になるんじゃないかって」
ドアに向かった。
「また来てくださいね」
背中に、田代の声が届いた。
振り返らず、病室を出る。廊下を歩く。看護師とすれ違う。
エレベーターに乗り、一階へ降りた。自動ドアの風が頬を撫でる。
病院を出た。
駐車場で、軽トラックに乗り込む。エンジンをかけない。自分の右腕へ視線を落とした。この腕が、まだある。田代は、右腕を失った。爆発に、身体の一部を奪われた。そして田代は、それを後悔していない。胸の奥に、言葉にできない感情が渦巻いていた。羨望と嫉妬と渇望。ハンドルを握りしめた。何を考えているのか。田代は腕を失ったのだ。それは悲劇だ。心の底は、別のことを告げていた。田代は、爆発に触れた。自分は、まだ触れていない。エンジンをかける。病院を出る。山道を走る。
途中、車を止めた。道路脇の展望台。そこから、トンネル工事の現場が見下ろせる。車を降り、展望台に立つ。遠くに、トンネルの坑口が見える。小さな黒い穴。あの穴の中で、毎日、爆発が起きている。その穴へ視線を注いだ。あそこが、居場所だ。爆発がある場所。展望台を離れる。現場に戻る。
事故から一週間後、労働基準監督署の調査が完了し、現場は再開された。会社は事故を「田代の過失」として処理した。田代が再点火後、指示に反して切羽面に戻ったことが原因、という結論。遅発については、「予見不可能な偶発事故」と記録された。その結論に異議を唱えなかった。
会議室で、本社から来た安全管理部長が説明した。
「今回の事故は、田代技士の重大な規則違反によるものです。再点火後の立ち入り禁止区域に、無断で侵入した結果です」
部長は資料へ視線を落とした。
「会社としては、田代技士に対して労災保険を適用し、治療費と補償金を支払います。しかし、懲戒処分も検討しています」
神谷が反論した。
「田代は若手ですが、真面目な技士です。なぜ切羽面に戻ったのか、理由があるはずです」
「理由は何であれ、規則違反は規則違反です」
部長は言い切った。そして顔を向けた。
「柊技士、あなたは田代技士と一緒に不発処理を行いましたね」
「はい」
「処理後、田代技士と一緒に退避所に戻りましたね」
「はい」
「その後、田代技士の行動に、何か異常はありませんでしたか」
思い出した。退避所で、田代は興奮した様子だった。目が輝いていた。しかし、それを言わなかった。
「特にありませんでした」
部長は軽く頷く。
「分かりました。柊技士に責任はありません。今後も通常通り、業務を続けてください」
会議は終わった。会議室を出る。廊下で、神谷が声をかけてくる。
「柊、お前は何か知ってるんじゃないか」
足を止める。
「田代がなぜ切羽面に戻ったのか。お前は知ってるんじゃないか」
神谷へ顔を向けた。神谷の目は、疑っている。
「知りません」
神谷はため息をついた。
「まあ、いい。とにかく、工事は続ける。お前は今まで通り、発破を担当してくれ」
無言で応じた。現場に戻る。切羽面へ視線を向けると、事故の痕跡はもうない。岩塊は撤去され、新しい岩盤が露出している。削岩機が新しい装薬孔を開けている。岩盤に触れる。冷たく、硬い。この岩盤を、明日破壊する。
心の底には、変化が起きていた。田代の事故を見て、気づいてしまった。爆発は、予測可能なものだけではない。遅発のように、予測不能な爆発もある。そして、予測不能な爆発の方が、心を強く揺さぶる。その不確実性を、もう一度体験したかった。
翌日から、発破作業を再開した。何かが変わっていた。装薬の際、装薬量を意識するようになった。通常は一つの孔に六百グラム。もし七百グラムにしたら。八百グラムにしたら。爆発の規模は、どう変わるのか。結線の際、雷管の配置を意識するようになった。通常は均等に配置する。もし一部を密集させたら爆発の伝播は、どう変わるのか。まだ実行していない。その考えが頭を離れなかった。爆発を、変える。爆発を、制御する。いや、違う。爆発を、加速させる。その欲望を抑えることができなくなり始めていた。
ある日、装薬作業中に手を止めた。五十番目の装薬孔。通常なら二本のダイナマイトを入れる。三本目のダイナマイトを手に取った。三本。九百グラム。通常の一・五倍。三本目を孔に挿入しようとした。手が止まった。これは、規則違反だ。装薬量は厳密に計算されている。勝手に変更すれば、事故につながる。三本目のダイナマイトを木箱に戻した。その欲望は消えなかった。
昼休み、一人で昼食を食べていた。他の作業員たちは雑談している。参加しない。神谷が近づいてくる。
「柊、ちょっといいか」
顔を上げる。
「お前、最近また様子がおかしいぞ」
神谷は隣に腰を下ろす。
「田代の事故以来、お前の目が変わった」
何も言わない。
「お前、何を考えてる」
弁当の蓋を閉じた。
「何も考えていません」
「嘘だ。お前は何か考えてる。そしてそれは、危険なことだ」
神谷は視線を注ぐ。
「柊、お前に忠告する。変なことは考えるな。発破は危険な仕事だ。一つ間違えれば、人が死ぬ」
立ち上がる。
「仕事に戻ります」
神谷は呼び止めなかった。
午後、発破が行われた。いつも通りの発破。百二十八本のダイナマイト。完璧な爆発。満足できなかった。爆発が、物足りない。予定通りの爆発。計算通りの爆発。求めているのは、そうではない。予測不能な爆発。制御を超えた爆発。その欲望が自分を蝕んでいることを理解したが、止められなかった。
その夜、アパートで一人、ビールを飲んでいた。三本のビール。いつもと同じ。いつもと違うことが一つだけあった。ノートを開いていた。ノートには、数式と図が描かれている。装薬量の計算、雷管の配置図、爆発の伝播速度。実験的な発破を計画していた。装薬量を三十パーセント増やす。雷管の配置を変更する。どんな結果になるのか。それを知りたかった。ノートを閉じる。窓の外を眺めると暗闇が遥か彼方まで続いている。自分がどこに向かっているのか、理解していた。破滅へ。それを恐れなかった。むしろ、期待していた。爆発の中に入る日。それが、いつか来ることを理解し、その日を待っていた。