装薬
午前四時三十分、現場に到着した。軽トラックのエンジンを切ると、山の静寂が押し寄せてくる。標高八百メートル。北陸の山間部、この季節の明け方は氷点下に近い。作業服の上から防寒着を羽織り、トラックの荷台から工具箱を引き出す。
ヘッドライトを点け、坑口に向かう。トンネルの入口は巨大な口のように開いている。コンクリートで補強された坑口の上部には「北陸中央自動車道・第三工区」の看板。その文字を見ることなく、暗闇の中へ入っていく。
坑内の空気は外よりも暖かい。地熱のためだ。足音が壁に反響する。坑口から切羽面まで三百メートル、歩数で言えば四百二十三歩。数えることなく、身体が自動的に歩を進める。
切羽面に到着すると、ヘッドライトの光が岩盤を照らし出す。昨夜の発破で露出した花崗岩の結晶が、光を反射している。高さ八メートル、幅十二メートルの岩壁に、削岩機が穿った装薬孔がV字型に並んでいる。
作業灯のスイッチを入れる。千ワットのハロゲンランプが全体を白く照らす。装薬孔の配置を確認する。孔の直径は四十五ミリメートル、深度は三メートル。六十センチメートル間隔で配置された総数は百二十八。
工具箱を開ける。装薬棒、ダイナマイトの木箱、雷管ケース、結線用の銅線、絶縁テープ。すべてが定位置に収まっている。まず装薬棒。ステンレス製で長さ八十センチメートル、重量一・二キログラム。手に馴染む重さだ。
次に、ダイナマイトの木箱。桐材の蓋を持ち上げると、軽い軋み音。箱の内部には、カートリッジ式ダイナマイトが整然と並んでいる。一本三百グラム、赤と黄色のストライプ模様の防水紙に包まれている。
最初の一本を手に取る。室温より低い。指先が紙の表面の微細な凹凸を感知する。ニトログリセリンを珪藻土に染み込ませた円筒形の物体。この感触を、十五年間、毎日確認してきた。重量、硬度、温度。それらはすべて、身体に刻まれている。
最初の装薬孔の前に立つ。孔は目の高さにある。内部を覗き込むと、ヘッドライトの光は深度を完全には照らさない。奥は闇だ。
ダイナマイトを孔に挿入する。防水紙が岩盤と擦れる音。装薬棒で押し込む。棒の先端がダイナマイトの底面に当たる。体重をかける。ダイナマイトが奥へ滑り込んでいく。
抵抗がある。岩盤の表面は完全に平滑ではない。削岩機のドリルビットが残した螺旋状の溝が、わずかな摩擦を生む。力を加減しながら、孔底まで押し込む。装薬棒を通じて、到達の感触が伝わってくる。
装薬棒を引き抜く。二本目を同じ孔に挿入し、一本目の上に重ねる。ひとつの孔には、二本のダイナマイト。合計六百グラムの爆薬。
二本目を押し込み終えると、呼吸は規則正しいリズムを刻んでいる。装薬作業のリズム。それは心拍と同期している。
次の孔へ。身体は同じ動作を繰り返すが、飽きるということを知らない。挿入、押し込み、引き抜き。挿入、押し込み、引き抜き。
リズムが生まれる。意識は作業の中に沈んでいく。思考が消える。過去も未来も消える。残るのは、目の前の装薬孔と、手の中のダイナマイトだけ。
装薬という行為は、瞑想に近い。手が自動的に動く間、意識は空白になる。それは無ではない。爆発への予感に満たされた空白。
十本目を装薬し終えた時、初めて時計を見る。午前四時三十六分。六分で十本。平均三十六秒。標準的な速度。
作業を続ける。下段から上段へ、左から右へ。順番に埋めていく。木箱が空になると、新しいものを開ける。二箱目、三箱目。赤と黄色のストライプが、作業灯の光を反射する。
二十本目を装薬している時、手を止める。孔の奥から、わずかな水滴が滲み出ている。地下水だ。装薬棒で拭い、ダイナマイトを慎重に挿入する。水分があると、爆薬の威力が低下する可能性がある。経験では、この程度の湿気なら問題ない。
三十本目、四十本目。手は機械のように正確に動き続ける。疲労は感じない。筋肉が記憶に従って動作する。思考は不要。
五十番目を装薬している時、背後から足音が聞こえた。
「早いな、柊」
振り返らない。声の主は分かっている。現場監督の神谷だ。装薬棒を押し続ける。
神谷が横に立つ。五十代半ば、頭頂部が薄くなり始めている。作業服のポケットに両手を突っ込み、切羽面を見上げている。
「今日の発破で、あと二十メートル進む予定だ」
装薬棒を引き抜き、次の孔へ移る。予定は決まっている。仕事は、その予定通りに発破すること。
「工期が遅れてる」
神谷の声が続く。
「本社が騒いでる。あと三ヶ月で貫通させないと、違約金が発生する」
次のダイナマイトを孔に挿入する。神谷の話は関係ない。発破技士であって、工程管理者ではない。
「地質が予想より硬い。切羽面の進行速度が、当初の計画より二割遅い」
独り言のような口調。こちらからの返答を期待していないのだろう。
「まあ、お前に言っても仕方ないか」
装薬を続ける。
「柊」
呼び止める声。手を止めない。
「お前、最近様子がおかしいぞ」
装薬棒がダイナマイトを押し込む。孔の奥で、わずかな抵抗。力を込める。
「前からおかしいって言われてたけどな」
神谷が揶揄するように笑う。
「お前は何も喋らない。飯も一人で食う。休憩時間も一人だ」
次のダイナマイトを挿入する。神谷の言葉は耳に入っているが、意識はそれを処理しない。
「まあ、それは構わない。人付き合いが悪いだけだ」
神谷は横顔を見つめている。その視線を感じるが、目を合わせない。
「だがな。お前は何も考えていない。そう見える」
装薬棒を押し込む。ダイナマイトが孔底に達する。
「何も考えていない人間が、こんなに正確な仕事ができるわけがない」
神谷は煙草を取り出そうとして、坑内は火気厳禁だったことを思い出す。
「お前の発破は完璧だ。孔の配置、装薬量、雷管の番号、すべて計算されている」
そこで言葉を切る。
「だから、お前は何か考えている。だが、それが何なのか、俺には分からない」
装薬棒を引き抜く。
「それが怖い」
神谷は肩をすくめる。
「まあ、いい。仕事さえきちんとやってくれれば、俺は文句は言わない」
踵を返す。
「だが、変なことは考えるなよ」
神谷の足音が遠ざかっていく。再び、トンネル内部は作業音だけに支配される。
作業を続ける。神谷の言葉は、意識に何の影響も与えない。確かに何も考えていない。少なくとも、神谷が理解できるような形では。
考えているのは、爆発。ただそれだけ。
六十本目、七十本目、八十本目。手は止まらない。作業灯の光が、汗で濡れた顔を照らす。汗を拭わない。装薬を続ける。
九十本目を装薬し終えた時、他の作業員たちが現場に到着し始める。削岩工、運搬作業員、重機オペレーター。彼らは挨拶するが、わずかに頷くだけ。
百本目、百十本目。残りが減っていく。動きに迷いはない。十五年間の経験が、身体を導いている。
百二十本目。
百二十五本目。
そして、百二十八本目。
最後のダイナマイトを孔底まで押し込む。装薬棒を引き抜く。
装薬完了。
時刻は午前七時三分。二時間三十三分。二百五十六本のダイナマイト、合計七十六・八キログラムの爆薬。
深呼吸をする。これから、雷管の装着と結線が始まる。
雷管の箱を開ける。電気雷管、八号。銅製のカプセルに二本の脚線が伸びている。長さ五センチメートル、直径七ミリメートル。内部には起爆薬、アジ化鉛が充填されている。
雷管は繊細だ。落下させれば暴発する可能性がある。静電気でも起爆する。摩擦、衝撃、熱。すべてが危険因子。
最初のひとつを慎重に手に取る。重さは十五グラム。指先が表面を撫でる。銅の冷たい感触。この小さな物体の中に、巨大なエネルギーが封じ込められている。
雷管を最初の装薬孔に挿入する。先端が、孔の中のダイナマイトに触れる。押し込み、脚線をダイナマイトから伸びる導爆線に接続する。
導爆線は、雷管からの爆発をダイナマイト本体に伝えるための索状火薬。導爆線と雷管の脚線を、絶縁テープで固定する。接続部分に隙間があれば、起爆が失敗する。指は正確に、素早く動く。
次の孔へ。同じ作業の繰り返しだが、緊張感は変わらない。百二十八本すべてに、雷管を装着していく。作業は機械的だが、神経を使う。ひとつのミスが、不発や殉爆につながる。
手は迷わない。十五年間、何千本の雷管を扱ってきた。指は、扱い方を完全に体得している。
二十本目を装着している時、若手の発破技士、田代が近づいてくる。二十八歳、資格を取って三年目。痩せ型で、神経質そうな顔立ちをしている。
「おはようございます、柊さん」
声をかけてくる。わずかに頷く。
「今朝の装薬、見学させてもらいました」
手を止めない。雷管の装着を続ける。
「完璧でしたね。無駄な動きが一つもない」
田代は興奮気味だ。声のトーンが上ずっている。
「俺、いつか柊さんみたいな発破技士になりたいんです」
田代に視線を向ける。その目には、純粋な憧憬がある。その視線を受け止めることができず、目を逸らす。
「田代」
短く言う。
「邪魔だ。離れてろ」
田代は驚いた表情を見せるが、すぐに後退していく。
「すみません」
雷管の装着を続ける。田代の視線を背中に感じるが、気にしない。他者の存在は作業の障害でしかない。
四十本目、六十本目、八十本目。雷管の装着は淡々と進む。指は正確に動き続ける。
百本目を装着している時、手を止める。脚線に、わずかな傷がある。被覆が剥がれかけている。このまま使えば、漏電の可能性がある。
雷管を取り外し、新しいものと交換する。作業は一分遅れる。安全には代えられない。
百十本目、百二十本目。残りが少なくなる。
そして、百二十八本目。
最後の雷管を装着する。脚線を導爆線に接続し、絶縁テープで固定する。
雷管装着完了。
時刻は午前九時十二分。二時間九分。平均一分。
次の作業、結線に移る。
起爆用の主線を、切羽面の中央から引き出す。赤い被覆で覆われた銅線、直径二ミリメートル。この銅線を通じて、発破機からの電流が雷管に送られる。
主線を最初の雷管の脚線に接続する。銅線同士を撚り合わせ、絶縁テープで巻く。次の雷管の脚線を主線に接続する。三番目、四番目。雷管は直列に接続されていく。
結線は、装薬や雷管装着以上に神経を使う作業。接触不良があれば、その先に電流が流れない。配線を間違えれば、想定外の順序で爆発が起き、殉爆の危険がある。
手は素早く動く。赤い銅線が切羽面に張り巡らされていく。百二十八本の雷管が、一本の主線で結ばれていく。
結線作業中、集中力は最高潮に達する。他のすべてが消える。切羽面と、雷管と、銅線だけが存在する。
三十本目を接続している時、主線が絡まる。慎重に絡まりをほどく。焦らない。急がない。確実に。
五十本目を過ぎた頃、田代が再び近づいてくる。
「柊さん、手伝いましょうか」
黙って首を横に振る。田代は立ち去る。
結線は自分だけの仕事。他者の介入は許さない。
七十本目、九十本目、百本目。赤い銅線が、切羽面を覆っていく。
百二十本目。残りわずか。
そして、百二十八本目。
最後の雷管の脚線を主線に接続する。撚り合わせる。絶縁テープを巻く。
結線完了。
時刻は午前十時三十八分。一時間二十六分。
導通試験機を取り出す。小型の電子機器で、回路の抵抗値を測定する。試験機のプローブを主線に接続する。
デジタル表示が数値を示す。四百二十オーム。正常値。百二十八本の雷管すべてに電流が流れることが確認される。
主線を発破機まで延長する。坑口方向へ、主線を引き回していく。壁に沿って這わせ、数メートルごとに固定する。
主線の延長作業は、単純だが重要。主線が切断されれば、発破は失敗する。他の物体と接触すれば、漏電の危険がある。
黙々と作業を続ける。主線を巻き取り、壁に固定し、また延ばす。後ろ向きに歩く。
主線が退避所まで到達した時、時刻は午前十一時二十分。
主線の末端を発破機の接続端子に固定する。発破機は木製の箱で、上部にレバーと赤いボタンが付いている。内部には手回し式の発電機が入っている。レバーを倒すと、発電機が回転し、主線に電流が流れる仕組みだ。
接続端子を確認する。緩みはない。接触は良好。
すべての準備が整う。
切羽面に戻り、最終確認を行う。装薬孔の位置、雷管の配置、結線の状態。すべて正常。
切羽面を見上げる。二百五十六本のダイナマイトが、岩盤の内部で眠っている。合計七十六・八キログラムの爆薬。それらはあと数分で、化学エネルギーを熱エネルギーと運動エネルギーに変換する。
切羽面に手を触れる。岩盤は冷たい。硬い。
手を離し、退避所に向かう。
午前十一時四十五分、発破の時刻が近づく。作業員たちが退避所に集まってくる。二十人ほどの男たち。削岩工、運搬作業員、重機オペレーター。彼らは発破を見慣れている。誰も緊張した様子はない。
違う。発破は日常ではない。生における唯一の「出来事」。
田代が隣に立つ。
「柊さん、今日の発破も楽しみです」
田代の方を向く。「楽しみ」という言葉に、違和感を覚える。爆発は楽しむものではない。爆発は、体験するもの。
「田代」
低い声で問いかける。
「お前は、爆発を見たことがあるか」
田代は戸惑いの表情を浮かべる。
「発破なら、毎日見てますけど」
「そうじゃない」
視線を切羽面の方向へ向ける。
「爆発の内部を、見たことがあるか」
田代は首を傾げる。
「内部って、どういうことですか」
黙って目を閉じる。説明できない。言葉にできない。
神谷が拡声器を手に取る。
「これより発破を開始する。全員、退避確認」
作業員たちが応答する。神谷は腕時計を確認する。
「十秒前」
カウントダウンが始まる。
「九」
意識は、切羽面へ向かう。暗闇の先。そこに、二百五十六本のダイナマイトがある。
「八」
呼吸が深くなる。心拍が遅くなる。
「七」
時間が引き延ばされていく。感覚では、一秒が永遠に感じられる。
「六」
爆発を待っている。この瞬間のために、生きている。
「五」
神谷の声が遠くなる。
「四」
意識は、雷管の内部に入っていく。
「三」
起爆薬の結晶構造が見える。分子の配列。化学結合。
「二」
電流が主線を流れ始める。銅線の中を、電子が移動する。
「一」
電流が最初の雷管に到達する。
「発破」
神谷がレバーを倒す。
瞬間、世界は変容する。
電流が主線を駆け抜ける。光速の三分の二、秒速二億メートル。距離を、百万分の一・五秒で通過する。
電流が最初の雷管に達する。雷管内部の起爆薬、アジ化鉛の分子が反応する。
窒素と鉛の化学結合が切断される。エネルギーが解放される。温度が瞬時に三千度を超える。圧力が数万気圧に達する。
起爆薬が爆発する。
爆発は雷管からダイナマイトに伝播する。ダイナマイトの主成分、ニトログリセリンが連鎖的に分解される。
C3H5N3O9 → 3CO2 + 2.5H2O + 1.5N2 + 0.25O2
固体が気体に変わる。体積が一万倍に膨張する。膨張速度は秒速七千メートル。
衝撃波が岩盤を貫く。圧力は一瞬で十万気圧に達する。岩盤内部に亀裂が走る。亀裂が拡大する。岩石の結晶構造が破壊される。
最初の爆発から〇・〇一秒後、隣接する雷管が誘爆する。
二番目の爆発。
三番目。
四番目。
爆発は連鎖する。百二十八本のダイナマイトが、〇・三秒の間に次々と爆発する。
切羽面の岩盤は、内側から粉砕される。数トンの岩石が、重力に従って落下する。
意識は、この〇・三秒の中にある。
爆発の内部。それは光でも音でもない。純粋なエネルギーの奔流。化学結合の切断。分子の崩壊。物質の変容。
その奔流の中で、時間の流れを感じない。過去も未来もない。あるのは、ただ爆発という出来事だけ。
そしてこの瞬間こそが、生における唯一の「現在」であることを知っている。
衝撃波が退避所に到達する。
目を開いた瞬間、空気が圧縮される。目に見えない壁が、身体を押す。鼓膜が内側に押される。耳の奥で、小さな骨が震える。
次の瞬間、轟音。
それは音というより、物理的な圧力。空気そのものが振動している。コンクリートの壁が震える。床が揺れる。天井から粉塵が落ちる。
轟音は単一ではない。百二十八回の爆発が重なり合い、一つの音になっている。耳は、その中に個々の爆発を聞き分けることができる。
最初の爆発。〇・〇一秒後の二番目。さらに〇・〇一秒後の三番目。
轟音は五秒間続く。やがて低い唸りに変わり、最後は砂が落ちるような音になって消える。
目を開けたまま、動かない。身体は退避所にあるが、意識はまだ爆発の内部にある。〇・三秒という時間が、感覚では永遠になる。
「よし、換気開始」
神谷の声が聞こえる。現実に引き戻される。換気扇が回り始める。低い唸り音。坑内の空気が動き出す。
発破後の空気は有毒。火薬の燃焼で発生した一酸化炭素、窒素酸化物、硫黄酸化物。それらが坑内に充満している。換気扇はそれらを坑外に排出し、新鮮な空気を送り込む。
作業員たちは退避所で十五分間待機する。壁に背を預けたまま、目を閉じる。爆発の残響が、まだ頭蓋骨の内側で響いている。
田代が声をかけてくる。
「すごかったですね、今の発破」
目を開けたまま、黙っている。
「柊さんの発破は、いつも正確です。切羽面の進行が、毎回予定通りです」
田代の顔が見える。若く、希望に満ちた顔。
何も言わない。
神谷が立ち上がる。
「換気完了。切羽面に移動する」
作業員たちが動き出す。立ち上がる。ヘルメットのライトを点け、切羽面に向かう。
通路を歩く。粉塵がまだ空気中に漂っている。ライトの光が粉塵に反射し、空間が白く煙っている。粉塵の中を歩く。火薬の臭いが鼻腔を刺激する。硫黄の臭い、焦げた臭い。
切羽面に到達した時、足を止める。
切羽面は変貌していた。爆発前まで存在していた岩盤は、完全に消失している。代わりに、数千の岩塊が堆積している。大きなものは人間の胴体ほど、小さなものは拳大。それらが切羽面の前に山を成している。
岩塊の山を見つめる。この光景を、何千回と見てきた。毎回、新鮮な驚きがある。数分前まで一体だった岩盤が、完全に別の存在に変わっている。
爆発は、世界を書き換える。
岩塊のひとつを拾い上げる。白と黒の結晶が混ざり合った破断面が、鋭角に光を反射している。
この岩石は、数億年前、地下深くで形成された。マグマがゆっくりと冷却され、結晶化した。長い時間をかけて、地殻変動で地表近くまで押し上げられた。
その歴史を、〇・三秒で終わらせた。
岩塊を地面に置く。まだ温かい。爆発の熱が残っている。
重機のオペレーターたちが、油圧ショベルを動かし始める。岩塊を掬い上げ、ダンプトラックに積み込む。トラックは岩塊を坑外に運び、破砕機でさらに細かく砕く。
仕事は、ここまで。工具を片付け、主線を巻き取る。雷管のケースを回収し、使用済みの木箱を片付ける。
午後一時、作業は終了する。更衣室に向かう。
更衣室には、すでに何人かの作業員がいた。彼らは昼食を食べている。コンビニの弁当、カップラーメン。ロッカーを開け、タオルを取り出す。
「柊さん」
田代が声をかけてくる。手には弁当を持っている。
「一緒に飯食いませんか」
タオルで顔を拭う。粉塵と汗が混ざり、タオルが灰色に汚れる。
「いや」
短く答える。田代は少し寂しそうな表情を見せるが、すぐに笑顔に戻る。
「そうですか。じゃあ、また今度」
タオルをロッカーに戻し、作業服を脱ぐ。シャツに着替え、ジーンズを履く。
田代はまだそこに立っている。何か言いたげな様子だ。
「あの、柊さん」
田代が切り出す。
「俺、発破技士になって三年ですけど、まだ柊さんみたいにはできません」
ベルトを締めながら、田代の言葉に耳を傾けているのか、いないのか。表情は変わらない。
「何が違うんでしょうか。技術ですか、それとも経験ですか」
田代の方を向く。その目は真剣だ。この若者は、本気で答えを求めている。
「経験だ」
そう答える。
「ただ、数をこなすだけだ」
田代は頷く。その顔には納得していない様子が浮かんでいる。何か言葉を探しているようだ。
「でも、経験だけじゃないような気がするんです」
ロッカーの扉を閉める。金属音が更衣室に響く。
「柊さんの発破には、何か特別なものがある」
何も言わずに更衣室を出る。田代の視線を背中に感じるが、振り返らない。
午後二時、現場を離れる。軽トラックに乗り込み、山道を下る。左右には杉林が続いている。十月の終わり、木々は紅葉し始めている。赤、黄、橙。色彩が目に入るが、意識はそれを認識しない。
三十分ほど走ると、町に出る。人口五千人ほどの山間の町。商店街は寂れ、シャッターを閉めた店が目立つ。八百屋、魚屋、洋品店。すべて過去のもの。
コンビニに立ち寄る。自動ドアが開き、チャイムが鳴る。店内には客が一人もいない。弁当の棚に向かう。幕の内弁当、唐揚げ弁当、カツ丼。唐揚げ弁当を手に取る。どれを選んでも同じだが、習慣として唐揚げ弁当を選ぶ。
冷蔵ケースからビールを三本取り出す。レジに向かう。店員は若い女性。二十代前半、地元の高校を出てこのコンビニでアルバイトをしているのだろう。
「いらっしゃいませ」
機械的な声。弁当とビールをカウンターに置く。
「八百二十円です」
千円札を出す。店員が釣り銭を渡す。受け取り、店を出る。
アパートに到着したのは午後三時。部屋は、町の外れにある木造アパートの二階、角部屋。「サンハイツ」という名前のアパート。築三十年。外壁の塗装は剥がれ、階段の手すりは錆びている。
階段を上がる。鉄製の階段が、体重で軋む。二階の廊下に出る。部屋は203号室。ドアは薄い緑色に塗装されているが、塗装は所々剥がれている。
鍵を開けてドアを押すと、蝶番が軋む音がする。室内に入り、背後でドアを閉める。
カーテンを開けていないため、部屋の中は薄暗い。靴を脱ぐ。六畳一間。窓際にテーブル、壁際に布団。それ以外には何もない。
弁当をテーブルに置く。冷蔵庫を開けると、中には何もない。空の冷蔵庫。買ってきたビールを三本並べ、一本だけ取り出してプルタブを開ける。
窓の外に目を向ける。隣のアパートの壁。灰色のモルタルに雨染みが黒く広がっている。壁の上、その向こうに、山の稜線がかすかに覗いている。
ビールを口に運ぶと、苦味が舌に広がる。喉を通過する時の冷たさ、胃に達する時の重み、アルコールは思考に影響を与えない。習慣としてビールを飲むだけだ。
弁当の蓋を開ける。米、鶏の唐揚げ、キャベツの千切り、煮物。箸を取り、米を口に運ぶ。咀嚼する。飲み込む。味を感じない。食事は燃料の補給に過ぎない。
食べながら、今日の爆発を反芻する。〇・三秒の出来事。記憶の中では、それは引き延ばされている。雷管が起爆する瞬間。ダイナマイトが爆発する瞬間。岩盤が破砕される瞬間。
その瞬間を何度も再生する。爆発の光。衝撃波の圧力。轟音の質感。それらはすべて、感覚に刻み込まれている。
唐揚げを口に運ぶ。油の味。衣の食感。肉の繊維。意識は食事にない。爆発の記憶が、すべてを覆っている。
弁当を食べ終えた時、時刻は午後三時半。容器を捨て、二本目のビールを開ける。
部屋を見回す。壁には何も掛かっていない。絵も、カレンダーも、時計もない。本棚もない。テレビは部屋の隅にあるが、電源コードが抜かれたまま。二年前に買ったが、ほとんど見たことがない。何を見ればいいのか分からない。
壁には染みがある。雨漏りの跡。染みは天井から壁を伝い、床近くまで達している。染みの形は、川の流域図に似ている。本流があり、支流が分岐している。時々、その染みを眺める。何を考えるわけでもなく。
天井にも染みがある。円形の染みが、いくつも重なっている。仰向けになり、天井の染みを見上げる。
染みの中心。そこから外側に向かって、同心円が広がっている。爆発の衝撃波に似ている。中心から外側へ。エネルギーの伝播。
目を閉じる。
隣の部屋から、生活音が聞こえてくる。足音、水の音、テレビの音。誰が住んでいるのか、知らない。このアパートに引っ越してきて三年になるが、隣人と顔を合わせたことは一度もない。
朝出る時、隣の部屋はまだ静かだ。夜、帰る時、隣の部屋からはテレビの音が聞こえる。ただそれだけだ。
床に座り、壁に背を預けながらビールを飲む。窓の外が少しずつ暗くなっていく。
世界は爆発の前と後に分かれている。爆発の前、準備する。装薬し、結線する。爆発の後、結果を確認する。岩塊を見る。
爆発そのものの中にいる時だけ、「現在」を生きている。
それ以外の時間は、すべて空白。
三本目のビールを開ける。午後五時。秋の日没は早い。カーテンを閉めない。暗闇が部屋に侵入してくるのを、ただ見ている。
部屋の中の物体が、次第に輪郭を失っていく。テーブル、テレビ、布団。すべてが闇に溶けていく。
ただ残る。暗闇の中で、ビールを飲む。
午後六時、完全に暗くなる。電気をつけない。暗闇の中で、ビールを飲み続ける。
三本目のビールを飲み終えた時、立ち上がる。トイレに行く。用を足し、手を洗う。鏡に目を向ける。暗闇の中で、鏡には何も映らない。
部屋に戻る。布団を敷く。
隣の部屋のテレビから、ニュースの音声が聞こえてくる。政治、経済、事件。アナウンサーの声が壁を透過してくる。
「本日、東京都内で発生した爆発事故について、警察は......」
耳を澄ます。「爆発」という言葉。
「ガス管の老朽化が原因とみられ......」
布団に横になる。暗闇で天井は見えないが、あの染みの位置だけは記憶している。目を閉じると、そこに意識が吸い寄せられる。
爆発の音が、頭蓋骨の内側で反響する。轟音が次第に小さくなり、やがて静寂に変わる。
眠りに落ちる。
夢は見ない。睡眠は、爆発と爆発の間の空白に過ぎない。意識が途切れ、時間が飛ぶ。
午前三時五十分、アラームが鳴る。
思考より先に身体が起き上がる。洗面所に行き、顔を洗う。鏡の中の自分は三十五歳の顔をしている。無精髭、隈、疲れた目。
だが、その数字だけが自分と結びつかない。鏡の中の男は、名前を借りただけの別人に思えた。
歯を磨き、作業服に着替える。時計を確認すると、午前四時五分。
部屋を出て階段を下りる。外気は冷たく、吐く息が白い。
軽トラックに乗り込み、エンジンをかける。暖機運転の低い振動が身体に伝わる。稜線だけが、夜と朝の境界に浮かんでいる。
その上空には、星が散らばっている。発破の残響を引きずった頭は、自然とそこへ結びつける。恒星の核融合、超新星爆発。
世界も宇宙も、結局は爆発の連鎖でできている。
ビッグバン──宇宙の始まりの爆発。すべてはそこから始まった。
アクセルを少し強く踏み込み、山道を登る。ヘッドライトが道を照らす。左右には杉林が続いている。暗闇の中で、木々は黒い影に過ぎない。
途中、コンビニに寄る。昨日と同じコンビニだ。缶コーヒーを二本買う。店員は昨日とは別の中年の男性で、眠そうな顔をしている。
「いらっしゃいませ」
無言で缶コーヒーを差し出すと、店員が眠たげな目でバーコードを読み取る。支払いを済ませる。店員と目は合わないまま、店を出る。
山道を再び登る。標高が上がるにつれ、気温が下がり、窓ガラスが曇る。デフロスターを入れると、曇りがゆっくりと引いていく。
午前四時三十五分、現場の駐車場に到着する。軽トラック以外、車はない。いつも通り、一番に現場入りだ。
トラックを降り、工具箱を取り出す。ヘッドライトを点け、坑口に向かう。暗闇の中を歩く。足元の砂利を踏む音が、静寂を破る。
坑口に到着する。躊躇なく、暗闇の中へ入っていく。
トンネルの中は外よりも暖かい。足音が壁に反響する。四百二十三歩。数えることなく、切羽面に到達する。
切羽面には、昨日の発破で掘り進んだ跡がある。岩塊は撤去され、新しい岩盤が露出している。削岩機が穿った装薬孔が並んでいる。
作業灯のスイッチを入れる。切羽面が白く照らされる。岩盤に近づき、手を触れる。冷たい。
この岩盤を、今日破壊する。
工具箱を開け、装薬の準備を始める。ダイナマイトの木箱、雷管のケース、結線用の銅線。すべてが定位置にある。
最初のダイナマイトを手に取る。赤と黄色のストライプ。三百グラム。手に馴染む重さ。
最初の装薬孔の前に立つ。そして、装薬を始める。
これが、生。
装薬し、結線し、発破する。その繰り返し。それ以外の時間は存在しない。
人生は、爆発の連続。それ以外の生を望まなかった。いや、望む能力を失っていた。
爆発だけが、生を支えていた。
爆発の〇・三秒だけが、「現在」。
それ以外のすべては、空白だった。