ホーム世界を加速させる爆薬殉爆
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殉爆

 戸川の葬儀から三日後、聡子から電話を受けた。
「一成、離婚届、受理されたわ」
 聡子の声は静かだった。感情を抑えているように聞こえた。
「そうか」
 窓の外では雪が降り始めていた。冬の雪だった。
「これで私たち、他人よ。正式に」
 聡子は言った。数秒の静寂。電話の向こうで、聡子が息を吸う音が聞こえた。
「元気でね。本当に、気をつけて」
 離婚が成立した。十年間の結婚生活が、正式に終わった。窓の外の雪を見つめる。白い雪が、静かに降り積もっている。内面に、変化はなかった。聡子は、すでに遠い存在だった。記憶の中の影。もう、人生には関係のない人物。
 今、行く場所がなかった。会社は辞めた。ダムの現場も追い出された。アパートは引き払った。全財産は、軽トラックと工具箱、そして僅かな貯金だけだった。通帳の残高は十五万円を切っていた。
 車中泊をしながら、各地の建設現場を回った。発破技士の求人を探して。山間部の道路工事、トンネル工事、ダム工事。現場を訪れ、求人について尋ねた。どの現場も雇わなかった。前科があった。規則違反、無断での装薬量変更。その噂は、狭い業界内で急速に広まっていた。
「柊一成という発破技士には気をつけろ。あいつは危険だ」
 二週間が経過した。年が明け、山はさらに深い雪に覆われた。車中で夜を過ごす。エンジンをかけて暖を取るが、燃料が減っていく。ガソリン代を節約するため、毛布にくるまって寒さに耐えた。食事はコンビニの弁当。一日一食。時には二日に一食。貯金が底をつき始めていた。
 身体は衰弱していった。体重が減り、顔色が悪くなった。鏡を見ると、目の下に深い隈ができている。髭は伸び放題だ。だが、自分の外見に関心を持たなかった。重要なのは、次の爆発を見つけることだけだった。
 ある夜、道の駅の駐車場で寝ていた。午前三時、携帯電話が鳴った。凍えるような寒さの中で目を覚まし、震える手で電話に出た。
「もしもし」
「柊か。俺だ、吉田だ」
 ダムの現場監督、吉田の声だった。驚いた。吉田は解雇した人物だ。なぜ今、電話をかけてくるのか。
「何の用ですか」
 声が掠れていた。
「お前に、仕事を頼みたい」
 吉田の声には、緊張と躊躇いがあった。
「ダムの最終発破だ。ダムの本体を完全に破壊する。大規模な発破になる。だが、発破技士が足りない。戸川が死んで、経験のある技士がいない。他の技士たちは、この規模の発破を怖がってる」
 沈黙した。最終発破。ダムの完全破壊。
「お前、まだ発破技士をやる気はあるか」
「あります」
 即答した。声に力が戻った。
「じゃあ、来てくれ。明日から来れるか。いや、今日からでもいい」
「行きます」
「ただし」
 吉田の声が厳しくなった。
「勝手なことはするな。絶対に、規則を守れ。装薬量の変更は一切認めない。分かったな」
「分かりました」
 応じた。その約束を守るつもりはなかった。内面では、既に計画が始まっていた。
 翌日、ダム現場に戻った。現場は深い雪に覆われていた。ダム堤体の半分以上が、すでに破壊されている。巨大な構造物は、無数の穴と亀裂で覆われ、崩壊寸前の姿を晒していて、まるで巨大な骸骨のようだった。
 吉田が迎えた。
「よく来たな。お前の技術が必要だ。これが最後の仕事になる。頼むぞ」
 吉田は顔を見て、わずかに眉をひそめた。
「やつれたな。大丈夫か」
「大丈夫です」
 吉田は現場に案内した。
「今日から、最終発破の準備を始める。これは、今までで最大の発破になる。装薬量は一トン半だ。千五百キログラムのダイナマイトを使う」
 一トン半。今までで扱った最大の量の二倍だった。心臓が高鳴った。全身に、久しぶりに熱が戻ってくるのを感じた。
「装薬孔は五百本。深度は十メートル。作業は一週間かかる。いや、お前が来てくれたから、五日で終わるかもしれない」
 首を縦に振る。五日。その間に、準備をする。最後の、最大の爆発のための準備を。
 装薬作業が始まった。他の技士たち三人と共に、ダム堤体に装薬孔を開けた。電動ドリルが唸りを上げ、コンクリートの粉塵が宙を舞う。雪の中での作業は過酷だった。手がかじかみ、足が凍える。黙々と作業を続けた。他の技士たちが休憩を取る中、ただひたすら作業を続けた。
「柊さん、あんた、休まなくていいのか」
 若手の技士が心配そうに声をかけた。
「大丈夫だ」
 休むことなど考えられなかった。この作業こそが、生きる理由だった。
 夜、現場近くの安宿に泊まった。六畳一間の和室。畳は古く、壁は薄い。隣の部屋の物音が聞こえる。布団に横にならず、畳の上に座った。そして、ノートを開いた。最終発破の計画を立て始める。鉛筆を手に取り、数字を書き込んでいく。装薬量、一トン半。五百本の装薬孔。その配置図を描く。ダム堤体の断面図。五百本の孔が、規則正しく並んでいる。図を見つめた。そして考えた。装薬量を増やせば、どうなるか。
 計算を始める。三十パーセント増やせば、約二トンになる。五百キログラムの追加。それは可能なのか。装薬孔の深度を考える。十メートル。公式の装薬では、一つの孔に三キログラムのダイナマイトを入れる。孔の容量には余裕がある。計算では、一つの孔に四キログラム入る。五百本の孔に、それぞれ一キログラム追加すれば、合計五百キログラムの追加装薬が可能だ。
 計画を詳細に描く。どの孔に、どれだけ追加するか。追加装薬をどう隠すか。手は止まらなかった。鉛筆が紙の上を走る。数式、図、メモ。ノートのページが埋まっていく。この計画に狂気的なまでに没頭した。時計を見ると、午前三時だった。六時間、計画を練り続けていた。疲労は感じなかった。むしろ、興奮で身体が震えていた。
 ダイナマイトを調達する方法を考える。現場には、ダイナマイトが大量に保管されている。資材置き場には、数トンのダイナマイトがある。管理は杜撰だ。毎晩少しずつ盗み出すことができる。完璧な計画を完成させた。誰にも気づかれない。そして、史上最大の爆発を生み出す。
 ノートを閉じる。そして、初めて布団に横になった。眠れなかった。明日からの作業のことを考えている。興奮で、目が冴えている。
 三日間、装薬作業は続いた。他の技士たちよりも速く、正確に作業をこなした。吉田は働きぶりを見て、満足そうに首を縦に振った。
「さすがだな、柊。お前がいてくれて助かる」
 内面では、別の計画が進行していた。毎晩、現場に忍び込んだ。午前二時。誰もいない現場。月明かりだけが、雪に覆われたダムを照らしている。懐中電灯を持ち、資材置き場に向かう。資材置き場には、ダイナマイトの箱が積まれている。慎重に、五十箱を軽トラックに積み込んだ。一箱に十本のダイナマイト。五百本、百五十キログラム。箱を、毛布で覆って隠す。
 三晩、同じことを繰り返した。合計百五十箱、千五百本のダイナマイト。四百五十キログラム。計画では五百キログラムが必要だったが、これで十分だった。誰も気づかなかった。在庫管理は杜撰で、数百本のダイナマイトが消えても、誰も疑問を持たなかった。
 五日目、装薬作業が完了した。五百本の装薬孔すべてに、公式の装薬が完了した。一つの孔に三キログラム。合計一トン半のダイナマイトが、ダム堤体に装填されている。仕事はまだ終わっていなかった。
 その夜、一人で現場に戻った。午前一時。盗み出したダイナマイトを持って、ダム堤体に向かう。
 追加装薬を始める。狙うのは百本の装薬孔――堤体中央下部、構造上もっとも致命的な位置だ。
 一本ずつ、五本ずつ、慎重に。
 公式の装薬の陰に紛れ込むように、盗んだダイナマイトを押し込んでいく。装薬棒で奥へ、さらに奥へ。孔の底が見えない闇に、火薬が沈んでいった。
 作業は三時間かかった。百本の孔に、五百本のダイナマイト。百五十キログラムの追加装薬。これで、総装薬量は一・六五トンになった。公式発表の一・五トンより、一割増し。作業を終え、現場を後にする。誰にも見られなかった。宿に戻り、布団に横になる。眠れなかった。明日の爆発のことを考えている。一・六五トンのダイナマイト。その爆発は、今まで見たどの爆発よりも大きい。
 それだけでは足りなかった。
 もっと近くで、爆発を見たかった。爆炎の中心で。だから決めた。明日は退避しない。ダムのすぐそばに残る。
 肉眼で、世界が砕ける瞬間を見る。自殺行為だと分かっていた。退避距離は一キロ。そこまで下がれば助かる。一歩でも内側にいれば、死ぬ。
 ......それでも恐ろしくなかった。むしろ、胸が高鳴った。爆発の中に入りたい。触れたい。できるなら、あれと同化したい。
 翌日――最終発破の日。一月十五日。雲ひとつない青空。氷点下五度の空気が肺を刺す。
 午前七時、現場に着くと、三十人の作業員がすでに集まっていた。皆が緊張した顔をしている。今日が最後で、最大の発破だ。
 吉田が全員を集めた。
「今日、最終発破を実行する。これで、このダムは完全に破壊される。長い工事だったが、今日で終わる」
 吉田は見た。
「柊のおかげで、予定より早く終わらせることができる。感謝してる」
 何も言わなかった。
「発破の規模は、今までで最大だ。退避距離は一キロメートル。絶対に、近づくな。爆発の威力は、想像を絶する」
 吉田は真剣な表情で言った。
「もし、退避距離内にいたら、死ぬ。死ぬだけじゃない。身体が粉々になる。それを忘れるな」
 作業員たちが首を縦に振る。
「発破は午前十時に実行する。全員、午前九時までに退避地点に集合しろ。点呼を取る。全員の安全を確認してから、発破を実行する」
 会議が終わった後、最終確認のため、ダム堤体に向かった。装薬孔を確認する。結線を確認する。すべて正常だ。追加で装填したダイナマイトは、孔の奥深くに隠されている。誰も気づかない。主線を確認した。五百本の雷管が、一本の主線で結ばれている。明日、この主線に電流が流れる。そして、一・六五トンのダイナマイトが一斉に爆発する。ダムは完全に破壊される。そして、自分もまた、破壊される。
 午前九時、作業員たちが退避を始めた。一キロメートル先の退避地点へと車で移動する。丘の上の駐車場が、退避地点になっている。他の作業員たちと一緒に車に乗った。心の中では、既に計画が固まっていた。退避地点に着いたら、そっと抜け出す。そして、ダムに戻る。
 退避地点に到着した。丘の上の駐車場。そこからは、ダム全体が見下ろせる。作業員たちが車から降りる。吉田が点呼を始める。
「全員、揃ってるな。名前を呼ぶ」
 作業員たちの名前が呼ばれる。
「柊」
「はい」
 点呼が終わった。吉田が腕時計を確認する。
「午前九時三十分。発破まで、あと三十分だ」
 作業員たちは、思い思いに時間を過ごし始めた。煙草を吸う者、雑談をする者。人混みから離れるが、誰も気づかない。駐車場の端に行き、そっと丘を下り始めた。誰も、見ていなかった。丘を下り、軽トラックが停めてある場所に向かう。事前に、軽トラックを退避地点ではなく、ダムに近い場所に停めておいた。
 軽トラックに乗り込み、エンジンをかける。雪道をゆっくりと進む。ダムまでは一キロほど。三分も走れば着く距離だ。
 午前九時四十五分。ダムに到着した。
 堤体を真正面に見据えながら、車を降りた。
 ダムは、巨大だった。半分破壊されているが、まだ立っている。穴だらけの構造物。その存在感は圧倒的だった。あと十五分で、この構造物は完全に破壊される。そして、歴史から消える。ダムから三十メートルの位置に立った。吉田が言った退避距離は一キロメートル。その三十三分の一の距離にいる。致命的に危険だ。この距離にいれば、確実に死ぬ。爆風で吹き飛ばされる。コンクリートの破片が身体を貫く。粉塵で窒息する。
 動かなかった。ここで見る。至近距離で、爆発の中心を。
 午前九時五十分。あと十分。
 深呼吸をすると、氷のような空気が肺に沈んだ。心臓が暴れている。血が巡るたびに熱が上がる。
 震える手は恐怖ではない。......期待だ。
 死を前にして、ようやく生を掴んだような感覚。九時五十五分。あと五分。
 ダムを凝視する。穴だらけのコンクリートの向こうに、一・六五トンの火薬が眠っている。もうすぐ、目を覚ます。世界を組み替える。
 九時五十八分。あと二分。
 目を閉じる。人生が、逆再生するように脳裏を流れていく。
 十五歳の時に見た、初めての爆発。父が働いていた採石場。あの日、爆発に魅了された。二十歳で発破技士になった。それから十五年間、爆発を見続けてきた。何千回という爆発。田代の事故。戸川との出会い。聡子との離婚。すべてが、この瞬間のためだった。
 午前九時五十九分。あと一分。目を開けてダムを見る。そして思った。これで、いい。これで、終わりだ。
 午前十時。遠くから、サイレンの音が聞こえた。発破の合図だ。ダムを見つめる。数秒の静寂。世界が、息を止めている。そして。
 爆発。
 瞬間、世界は光に包まれた。白い光。すべてを覆う光。目を開けていることができなかった。瞼を閉じても、光は消えない。光が、頭蓋骨を貫通してくる。次の瞬間、衝撃波が身体を襲った。目に見えない壁。巨大な、透明な壁。それが、秒速数百メートルで迫り、身体を打った。
 肺の中の空気が、一瞬で押し出された。呼吸ができない。口を開けても、空気が入ってこない。身体は、衝撃波によって持ち上げられた。足が地面から離れる。宙を舞った。時間が引き延ばされた。意識の中では、一秒が永遠だった。自分の身体が空中にあることを認識した。回転している。空と地面が、交互に視界に入る。
 そして、地面に叩きつけられた。背中から落ちた。激痛が走る。背骨が軋む音が聞こえた。いや、聞こえた気がした。聴覚は、既に機能していなかった。地面に倒れたまま、目を開ける。青い空が見える。そこに、巨大な雲が立ち上っていく。白い雲。粉塵の雲。それは、高さ数百メートルまで上昇している。
 横を向き、ダムがあった方向を見る。ダムが、崩壊していく。内側から、外側へ。コンクリートの塊が、無数に飛び散る。それらは、まるで花火のように空中に広がる。美しい光景だった。轟音。それが耳には届かなかった。鼓膜は、衝撃波で破れていた。感じるのは、空気の振動だけだった。骨を通じて伝わる振動。内臓が共鳴する振動。
 粉塵が、こちらの方向に流れてきた。白い霧。それが身体を覆い、視界が白く染まる。粉塵の中にいた。呼吸ができない。口を開けても、粉塵が入ってくる。咳き込んだ。咳をしても、粉塵は出ていかない。肺の中に、粉塵が入り込んでいく。このまま窒息するのかと思った。数十秒後、風が吹いた。粉塵が流れていく。視界が戻る。
 再びダムがあった方向を見た。ダムは、消えていた。巨大な構造物は、完全に破壊されていた。残っているのは、瓦礫の山だけだった。コンクリートの破片が、無数に散乱している。その光景を見つめる。動くことができなかった。身体中が痛む。背中、腕、脚。すべてが痛む。痛みを感じながらも、満足していた。
 これが、求めていたものだった。完全な破壊。完全な消滅。そして、その中にいた。爆発の中に入った。そして、生き残った。自分がまだ生きていることに、奇妙な驚きを感じた。死ぬと思っていた。いや、死にたいと思っていた。生きている。
 立ち上がろうとした。身体が動かない。腕に力が入らない。脚が動かない。地面に倒れたまま、空を見上げた。青い空。白い雲。そして、静寂。音が耳に入ってこなかった。鼓膜が破れ、聴覚を失っていた。世界は、完全に静かだった。生まれて初めて、本当の静寂を経験していた。爆発のない静寂。音のない世界。
 そして気づいた。この静寂が、恐ろしいことに。爆発のない世界。それは、死んだ世界だった。涙を流した。なぜ涙が出るのか、分からなかった。悲しいのか。嬉しいのか。自分の感情が理解できなかった。ただ、涙が流れ続けた。
 遠く、人影が揺れた。作業員たちがこちらへ走ってくる。
 叫び声が見えるのに、耳には何も届かない。
 吉田が目の前に来て、口を動かす。唇だけで返した。
「......聞こえない」
 吉田の表情が揺れ、仲間たちに指示が飛ぶ。無線の声も、きっと響いているのだろう。
 届かない静かな世界。
 担架に乗せられる感覚だけがある。身体が浮いて、雪の匂いが鼻に残る。
 救急車のドアが閉まる。サイレンが鳴っているはずだが、空気は無音のまま震えない。
 病院。光。白衣。動く口。意味を持たない言葉。診断だけが聞こえた気がした。
 全身打撲、肋骨の骨折、右腕骨折、鼓膜の損傷......生きている。
 内臓は無事。命は、まだ途切れていない。
「奇跡的ですね」
 医師が看護師に言った。音は届かないが、医師の唇の動きから、そう言っていることが分かった。
「その距離で爆発に遭遇して、生きているなんて」
 病室のベッドに横たわっていた。静寂の中で、白い天井を見つめている。生き残った。爆発の中に入った。死ななかった。それを幸運だと思うべきだった。内面には、別の感情があった。失望。爆発の中で死ぬことを、どこかで期待していた。爆発と一体になることを。生き残った。まだ人間だった。
 そして、音が耳に届かない。爆発の音が耳に入ってこない。初めて静寂の中にいた。爆発のない世界。それは、耐え難い世界だった。涙を流した。なぜ泣いているのか、自分でも分からなかった。悲しいのか。嬉しいのか。安堵なのか。絶望なのか。感情が混沌としていた。ただ、涙が止まらなかった。
 看護師が様子に気づき、近づいてきた。看護師は手を取り、何か言った。その声は届かない。看護師は筆談用のボードを持ってきた。そこに書き込む。
「大丈夫ですか? 痛いところはありますか?」
 首を横に振った。痛みはある。全身が痛む。それは問題ではない。看護師は、また書き込んだ。
「聴力は、回復する可能性があります。諦めないでください」
 そのメッセージを読んだ。回復を望んでいるのか、自分でも分からなかった。
 三日間、病室で過ごした。ベッドから起き上がることができず、天井を見つめ続けた。医師や看護師が定期的に来て、状態を確認する。彼らは筆談でコミュニケーションを取った。
 二日目、吉田が見舞いに来た。吉田は病室に入り、ベッドの横に立った。吉田の表情は複雑だった。怒り、困惑、心配。すべてが混ざっている。吉田は筆談ボードを取り、書き始めた。
「お前、何を考えていた?」
 応じなかった。答えようがなかった。吉田は続けて書いた。
「お前のせいで、工事は大混乱だ。警察が来た。労働基準監督署も来た。お前がなぜあの場所にいたのか、説明しろと言われている」
 ボードを見つめる。そして、ペンを取った。震える手で、書き込む。
「すみません」
 吉田は、その文字を見て、ため息をついた。吉田はまた手を動かした。
「すまないで済む問題じゃない。お前は、死ぬところだった。いや、死んでいてもおかしくなかった。なぜ、あんなことをした」
 答えられなかった。なぜ、あんなことをしたのか。自分自身、明確には分からなかった。吉田は立ち上がった。そして、最後にボードに書き込んだ。
「もう、お前と関わりたくない。退院したら、二度と俺の前に現れるな」
 吉田は病室を出て行った。吉田の背中を見送る。
 三日目、警察が来た。二人の警官。彼らは事情聴取をした。筆談で。
「なぜ、退避しなかったのか」
 ペンを取る。
「爆発を、近くで見たかった」
「自殺しようとしたのか」
 首を横に振った。
「では、なぜ」
 長い間考えた。そして、書き込んだ。
「分からない」
 警官たちは、見つめる。そして、互いに顔を見合わせた。彼らは、理解できないようだった。結局、警察は起訴しなかった。自殺未遂ではない。規則違反ではあるが、刑事罰を科すほどではない。ただし、発破技士としての免許は、永久に剥奪されることになった。
 四日目、医師が告げた。筆談で。
「聴力について。右耳の鼓膜は完全に破れています。左耳も損傷していますが、右耳よりは軽度です。手術で、ある程度回復する可能性はあります。ただし、完全には戻らないでしょう」
 無言で了承した。
「入院は、あと一週間で終わります。その後、リハビリが必要になります」
 また無言で了承した。
 五日目、初めてベッドから起き上がった。身体は痛むが、歩くことはできた。病室の窓から外を見た。雪が降っていた。静かに降る雪。音のない雪。雪が地面に落ちる音も、風の音も耳に入ってこない。世界は、完全に静かだった。その静寂の中で、自分の人生を振り返る。三十五年間の人生。そのほとんどを、爆発とともに過ごしてきた。爆発だけが、生きる理由だった。
 今、爆発がない。聴覚を失い、発破技士の資格も失った。もう爆発を起こす手段がない。これからどう生きればいいのか、分からなかった。
 六日目の夜、病室で一人、考え続けていた。窓の外は暗い。雪は止んでいた。自分が求めていたものが何だったのか、ようやく理解し始めていた。爆発そのものを求めていたわけではない。求めていたのは、変容だった。爆発は、世界を変える。固体を気体に変え、構造を破壊し、すべてを別のものに変える。その変容に魅了されていた。そして、自分自身の変容を求めていた。空虚な自分を、何か別のものに変えたかった。爆発の中に入れば、変容できると信じていた。
 生き残った。変容しなかった。まだ同じ自分だった。涙を流した。今度は、なぜ泣いているのか分かった。絶望だ。変われなかったことに、絶望していたのだ。
 七日目、医師が退院の許可を出した。
「身体の回復は順調です。退院できます。ただし、定期的に通院してください。聴力の回復のため、手術を検討しましょう」
 了承の意を示した。病院から退院した。軽トラックは、現場近くに放置されていた。タクシーで現場に向かい、軽トラックを回収した。車は損傷していたが、まだ動いた。エンジンをかけ、現場を離れる。
 どこに行けばいいのか、分からなかった。本能的に、ある場所に向かっていた。故郷。生まれ育った町。二十年間、帰っていない町。山道を走り、雪の中をゆっくりと進む。音のない世界の中を、走り続けた。
 そして決めていた。故郷で、何かを見つける。爆発以外の、何かを。それが何なのか、まだ分からない。探す。探し続ける。まだ生きている。爆発の中で死ななかった。ならば、生き続けるしかない。爆発のない世界で。静寂の世界で。ハンドルを握りしめる。そして、故郷に向かって、車を走らせ続けた。
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世界を加速させる爆薬作者:森本 凛
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 戸川の葬儀から三日後、聡子から電話を受けた。
「一成、離婚届、受理されたわ」
 聡子の声は静かだった。感情を抑えているように聞こえた。
「そうか」
 窓の外では雪が降り始めていた。冬の雪だった。
「これで私たち、他人よ。正式に」
 聡子は言った。数秒の静寂。電話の向こうで、聡子が息を吸う音が聞こえた。
「元気でね。本当に、気をつけて」
 離婚が成立した。十年間の結婚生活が、正式に終わった。窓の外の雪を見つめる。白い雪が、静かに降り積もっている。内面に、変化はなかった。聡子は、すでに遠い存在だった。記憶の中の影。もう、人生には関係のない人物。
 今、行く場所がなかった。会社は辞めた。ダムの現場も追い出された。アパートは引き払った。全財産は、軽トラックと工具箱、そして僅かな貯金だけだった。通帳の残高は十五万円を切っていた。
 車中泊をしながら、各地の建設現場を回った。発破技士の求人を探して。山間部の道路工事、トンネル工事、ダム工事。現場を訪れ、求人について尋ねた。どの現場も雇わなかった。前科があった。規則違反、無断での装薬量変更。その噂は、狭い業界内で急速に広まっていた。
「柊一成という発破技士には気をつけろ。あいつは危険だ」
 二週間が経過した。年が明け、山はさらに深い雪に覆われた。車中で夜を過ごす。エンジンをかけて暖を取るが、燃料が減っていく。ガソリン代を節約するため、毛布にくるまって寒さに耐えた。食事はコンビニの弁当。一日一食。時には二日に一食。貯金が底をつき始めていた。
 身体は衰弱していった。体重が減り、顔色が悪くなった。鏡を見ると、目の下に深い隈ができている。髭は伸び放題だ。だが、自分の外見に関心を持たなかった。重要なのは、次の爆発を見つけることだけだった。
 ある夜、道の駅の駐車場で寝ていた。午前三時、携帯電話が鳴った。凍えるような寒さの中で目を覚まし、震える手で電話に出た。
「もしもし」
「柊か。俺だ、吉田だ」
 ダムの現場監督、吉田の声だった。驚いた。吉田は解雇した人物だ。なぜ今、電話をかけてくるのか。
「何の用ですか」
 声が掠れていた。
「お前に、仕事を頼みたい」
 吉田の声には、緊張と躊躇いがあった。
「ダムの最終発破だ。ダムの本体を完全に破壊する。大規模な発破になる。だが、発破技士が足りない。戸川が死んで、経験のある技士がいない。他の技士たちは、この規模の発破を怖がってる」
 沈黙した。最終発破。ダムの完全破壊。
「お前、まだ発破技士をやる気はあるか」
「あります」
 即答した。声に力が戻った。
「じゃあ、来てくれ。明日から来れるか。いや、今日からでもいい」
「行きます」
「ただし」
 吉田の声が厳しくなった。
「勝手なことはするな。絶対に、規則を守れ。装薬量の変更は一切認めない。分かったな」
「分かりました」
 応じた。その約束を守るつもりはなかった。内面では、既に計画が始まっていた。
 翌日、ダム現場に戻った。現場は深い雪に覆われていた。ダム堤体の半分以上が、すでに破壊されている。巨大な構造物は、無数の穴と亀裂で覆われ、崩壊寸前の姿を晒していて、まるで巨大な骸骨のようだった。
 吉田が迎えた。
「よく来たな。お前の技術が必要だ。これが最後の仕事になる。頼むぞ」
 吉田は顔を見て、わずかに眉をひそめた。
「やつれたな。大丈夫か」
「大丈夫です」
 吉田は現場に案内した。
「今日から、最終発破の準備を始める。これは、今までで最大の発破になる。装薬量は一トン半だ。千五百キログラムのダイナマイトを使う」
 一トン半。今までで扱った最大の量の二倍だった。心臓が高鳴った。全身に、久しぶりに熱が戻ってくるのを感じた。
「装薬孔は五百本。深度は十メートル。作業は一週間かかる。いや、お前が来てくれたから、五日で終わるかもしれない」
 首を縦に振る。五日。その間に、準備をする。最後の、最大の爆発のための準備を。
 装薬作業が始まった。他の技士たち三人と共に、ダム堤体に装薬孔を開けた。電動ドリルが唸りを上げ、コンクリートの粉塵が宙を舞う。雪の中での作業は過酷だった。手がかじかみ、足が凍える。黙々と作業を続けた。他の技士たちが休憩を取る中、ただひたすら作業を続けた。
「柊さん、あんた、休まなくていいのか」
 若手の技士が心配そうに声をかけた。
「大丈夫だ」
 休むことなど考えられなかった。この作業こそが、生きる理由だった。
 夜、現場近くの安宿に泊まった。六畳一間の和室。畳は古く、壁は薄い。隣の部屋の物音が聞こえる。布団に横にならず、畳の上に座った。そして、ノートを開いた。最終発破の計画を立て始める。鉛筆を手に取り、数字を書き込んでいく。装薬量、一トン半。五百本の装薬孔。その配置図を描く。ダム堤体の断面図。五百本の孔が、規則正しく並んでいる。図を見つめた。そして考えた。装薬量を増やせば、どうなるか。
 計算を始める。三十パーセント増やせば、約二トンになる。五百キログラムの追加。それは可能なのか。装薬孔の深度を考える。十メートル。公式の装薬では、一つの孔に三キログラムのダイナマイトを入れる。孔の容量には余裕がある。計算では、一つの孔に四キログラム入る。五百本の孔に、それぞれ一キログラム追加すれば、合計五百キログラムの追加装薬が可能だ。
 計画を詳細に描く。どの孔に、どれだけ追加するか。追加装薬をどう隠すか。手は止まらなかった。鉛筆が紙の上を走る。数式、図、メモ。ノートのページが埋まっていく。この計画に狂気的なまでに没頭した。時計を見ると、午前三時だった。六時間、計画を練り続けていた。疲労は感じなかった。むしろ、興奮で身体が震えていた。
 ダイナマイトを調達する方法を考える。現場には、ダイナマイトが大量に保管されている。資材置き場には、数トンのダイナマイトがある。管理は杜撰だ。毎晩少しずつ盗み出すことができる。完璧な計画を完成させた。誰にも気づかれない。そして、史上最大の爆発を生み出す。
 ノートを閉じる。そして、初めて布団に横になった。眠れなかった。明日からの作業のことを考えている。興奮で、目が冴えている。
 三日間、装薬作業は続いた。他の技士たちよりも速く、正確に作業をこなした。吉田は働きぶりを見て、満足そうに首を縦に振った。
「さすがだな、柊。お前がいてくれて助かる」
 内面では、別の計画が進行していた。毎晩、現場に忍び込んだ。午前二時。誰もいない現場。月明かりだけが、雪に覆われたダムを照らしている。懐中電灯を持ち、資材置き場に向かう。資材置き場には、ダイナマイトの箱が積まれている。慎重に、五十箱を軽トラックに積み込んだ。一箱に十本のダイナマイト。五百本、百五十キログラム。箱を、毛布で覆って隠す。
 三晩、同じことを繰り返した。合計百五十箱、千五百本のダイナマイト。四百五十キログラム。計画では五百キログラムが必要だったが、これで十分だった。誰も気づかなかった。在庫管理は杜撰で、数百本のダイナマイトが消えても、誰も疑問を持たなかった。
 五日目、装薬作業が完了した。五百本の装薬孔すべてに、公式の装薬が完了した。一つの孔に三キログラム。合計一トン半のダイナマイトが、ダム堤体に装填されている。仕事はまだ終わっていなかった。
 その夜、一人で現場に戻った。午前一時。盗み出したダイナマイトを持って、ダム堤体に向かう。
 追加装薬を始める。狙うのは百本の装薬孔――堤体中央下部、構造上もっとも致命的な位置だ。
 一本ずつ、五本ずつ、慎重に。
 公式の装薬の陰に紛れ込むように、盗んだダイナマイトを押し込んでいく。装薬棒で奥へ、さらに奥へ。孔の底が見えない闇に、火薬が沈んでいった。
 作業は三時間かかった。百本の孔に、五百本のダイナマイト。百五十キログラムの追加装薬。これで、総装薬量は一・六五トンになった。公式発表の一・五トンより、一割増し。作業を終え、現場を後にする。誰にも見られなかった。宿に戻り、布団に横になる。眠れなかった。明日の爆発のことを考えている。一・六五トンのダイナマイト。その爆発は、今まで見たどの爆発よりも大きい。
 それだけでは足りなかった。
 もっと近くで、爆発を見たかった。爆炎の中心で。だから決めた。明日は退避しない。ダムのすぐそばに残る。
 肉眼で、世界が砕ける瞬間を見る。自殺行為だと分かっていた。退避距離は一キロ。そこまで下がれば助かる。一歩でも内側にいれば、死ぬ。
 ......それでも恐ろしくなかった。むしろ、胸が高鳴った。爆発の中に入りたい。触れたい。できるなら、あれと同化したい。
 翌日――最終発破の日。一月十五日。雲ひとつない青空。氷点下五度の空気が肺を刺す。
 午前七時、現場に着くと、三十人の作業員がすでに集まっていた。皆が緊張した顔をしている。今日が最後で、最大の発破だ。
 吉田が全員を集めた。
「今日、最終発破を実行する。これで、このダムは完全に破壊される。長い工事だったが、今日で終わる」
 吉田は見た。
「柊のおかげで、予定より早く終わらせることができる。感謝してる」
 何も言わなかった。
「発破の規模は、今までで最大だ。退避距離は一キロメートル。絶対に、近づくな。爆発の威力は、想像を絶する」
 吉田は真剣な表情で言った。
「もし、退避距離内にいたら、死ぬ。死ぬだけじゃない。身体が粉々になる。それを忘れるな」
 作業員たちが首を縦に振る。
「発破は午前十時に実行する。全員、午前九時までに退避地点に集合しろ。点呼を取る。全員の安全を確認してから、発破を実行する」
 会議が終わった後、最終確認のため、ダム堤体に向かった。装薬孔を確認する。結線を確認する。すべて正常だ。追加で装填したダイナマイトは、孔の奥深くに隠されている。誰も気づかない。主線を確認した。五百本の雷管が、一本の主線で結ばれている。明日、この主線に電流が流れる。そして、一・六五トンのダイナマイトが一斉に爆発する。ダムは完全に破壊される。そして、自分もまた、破壊される。
 午前九時、作業員たちが退避を始めた。一キロメートル先の退避地点へと車で移動する。丘の上の駐車場が、退避地点になっている。他の作業員たちと一緒に車に乗った。心の中では、既に計画が固まっていた。退避地点に着いたら、そっと抜け出す。そして、ダムに戻る。
 退避地点に到着した。丘の上の駐車場。そこからは、ダム全体が見下ろせる。作業員たちが車から降りる。吉田が点呼を始める。
「全員、揃ってるな。名前を呼ぶ」
 作業員たちの名前が呼ばれる。
「柊」
「はい」
 点呼が終わった。吉田が腕時計を確認する。
「午前九時三十分。発破まで、あと三十分だ」
 作業員たちは、思い思いに時間を過ごし始めた。煙草を吸う者、雑談をする者。人混みから離れるが、誰も気づかない。駐車場の端に行き、そっと丘を下り始めた。誰も、見ていなかった。丘を下り、軽トラックが停めてある場所に向かう。事前に、軽トラックを退避地点ではなく、ダムに近い場所に停めておいた。
 軽トラックに乗り込み、エンジンをかける。雪道をゆっくりと進む。ダムまでは一キロほど。三分も走れば着く距離だ。
 午前九時四十五分。ダムに到着した。
 堤体を真正面に見据えながら、車を降りた。
 ダムは、巨大だった。半分破壊されているが、まだ立っている。穴だらけの構造物。その存在感は圧倒的だった。あと十五分で、この構造物は完全に破壊される。そして、歴史から消える。ダムから三十メートルの位置に立った。吉田が言った退避距離は一キロメートル。その三十三分の一の距離にいる。致命的に危険だ。この距離にいれば、確実に死ぬ。爆風で吹き飛ばされる。コンクリートの破片が身体を貫く。粉塵で窒息する。
 動かなかった。ここで見る。至近距離で、爆発の中心を。
 午前九時五十分。あと十分。
 深呼吸をすると、氷のような空気が肺に沈んだ。心臓が暴れている。血が巡るたびに熱が上がる。
 震える手は恐怖ではない。......期待だ。
 死を前にして、ようやく生を掴んだような感覚。九時五十五分。あと五分。
 ダムを凝視する。穴だらけのコンクリートの向こうに、一・六五トンの火薬が眠っている。もうすぐ、目を覚ます。世界を組み替える。
 九時五十八分。あと二分。
 目を閉じる。人生が、逆再生するように脳裏を流れていく。
 十五歳の時に見た、初めての爆発。父が働いていた採石場。あの日、爆発に魅了された。二十歳で発破技士になった。それから十五年間、爆発を見続けてきた。何千回という爆発。田代の事故。戸川との出会い。聡子との離婚。すべてが、この瞬間のためだった。
 午前九時五十九分。あと一分。目を開けてダムを見る。そして思った。これで、いい。これで、終わりだ。
 午前十時。遠くから、サイレンの音が聞こえた。発破の合図だ。ダムを見つめる。数秒の静寂。世界が、息を止めている。そして。
 爆発。
 瞬間、世界は光に包まれた。白い光。すべてを覆う光。目を開けていることができなかった。瞼を閉じても、光は消えない。光が、頭蓋骨を貫通してくる。次の瞬間、衝撃波が身体を襲った。目に見えない壁。巨大な、透明な壁。それが、秒速数百メートルで迫り、身体を打った。
 肺の中の空気が、一瞬で押し出された。呼吸ができない。口を開けても、空気が入ってこない。身体は、衝撃波によって持ち上げられた。足が地面から離れる。宙を舞った。時間が引き延ばされた。意識の中では、一秒が永遠だった。自分の身体が空中にあることを認識した。回転している。空と地面が、交互に視界に入る。
 そして、地面に叩きつけられた。背中から落ちた。激痛が走る。背骨が軋む音が聞こえた。いや、聞こえた気がした。聴覚は、既に機能していなかった。地面に倒れたまま、目を開ける。青い空が見える。そこに、巨大な雲が立ち上っていく。白い雲。粉塵の雲。それは、高さ数百メートルまで上昇している。
 横を向き、ダムがあった方向を見る。ダムが、崩壊していく。内側から、外側へ。コンクリートの塊が、無数に飛び散る。それらは、まるで花火のように空中に広がる。美しい光景だった。轟音。それが耳には届かなかった。鼓膜は、衝撃波で破れていた。感じるのは、空気の振動だけだった。骨を通じて伝わる振動。内臓が共鳴する振動。
 粉塵が、こちらの方向に流れてきた。白い霧。それが身体を覆い、視界が白く染まる。粉塵の中にいた。呼吸ができない。口を開けても、粉塵が入ってくる。咳き込んだ。咳をしても、粉塵は出ていかない。肺の中に、粉塵が入り込んでいく。このまま窒息するのかと思った。数十秒後、風が吹いた。粉塵が流れていく。視界が戻る。
 再びダムがあった方向を見た。ダムは、消えていた。巨大な構造物は、完全に破壊されていた。残っているのは、瓦礫の山だけだった。コンクリートの破片が、無数に散乱している。その光景を見つめる。動くことができなかった。身体中が痛む。背中、腕、脚。すべてが痛む。痛みを感じながらも、満足していた。
 これが、求めていたものだった。完全な破壊。完全な消滅。そして、その中にいた。爆発の中に入った。そして、生き残った。自分がまだ生きていることに、奇妙な驚きを感じた。死ぬと思っていた。いや、死にたいと思っていた。生きている。
 立ち上がろうとした。身体が動かない。腕に力が入らない。脚が動かない。地面に倒れたまま、空を見上げた。青い空。白い雲。そして、静寂。音が耳に入ってこなかった。鼓膜が破れ、聴覚を失っていた。世界は、完全に静かだった。生まれて初めて、本当の静寂を経験していた。爆発のない静寂。音のない世界。
 そして気づいた。この静寂が、恐ろしいことに。爆発のない世界。それは、死んだ世界だった。涙を流した。なぜ涙が出るのか、分からなかった。悲しいのか。嬉しいのか。自分の感情が理解できなかった。ただ、涙が流れ続けた。
 遠く、人影が揺れた。作業員たちがこちらへ走ってくる。
 叫び声が見えるのに、耳には何も届かない。
 吉田が目の前に来て、口を動かす。唇だけで返した。
「......聞こえない」
 吉田の表情が揺れ、仲間たちに指示が飛ぶ。無線の声も、きっと響いているのだろう。
 届かない静かな世界。
 担架に乗せられる感覚だけがある。身体が浮いて、雪の匂いが鼻に残る。
 救急車のドアが閉まる。サイレンが鳴っているはずだが、空気は無音のまま震えない。
 病院。光。白衣。動く口。意味を持たない言葉。診断だけが聞こえた気がした。
 全身打撲、肋骨の骨折、右腕骨折、鼓膜の損傷......生きている。
 内臓は無事。命は、まだ途切れていない。
「奇跡的ですね」
 医師が看護師に言った。音は届かないが、医師の唇の動きから、そう言っていることが分かった。
「その距離で爆発に遭遇して、生きているなんて」
 病室のベッドに横たわっていた。静寂の中で、白い天井を見つめている。生き残った。爆発の中に入った。死ななかった。それを幸運だと思うべきだった。内面には、別の感情があった。失望。爆発の中で死ぬことを、どこかで期待していた。爆発と一体になることを。生き残った。まだ人間だった。
 そして、音が耳に届かない。爆発の音が耳に入ってこない。初めて静寂の中にいた。爆発のない世界。それは、耐え難い世界だった。涙を流した。なぜ泣いているのか、自分でも分からなかった。悲しいのか。嬉しいのか。安堵なのか。絶望なのか。感情が混沌としていた。ただ、涙が止まらなかった。
 看護師が様子に気づき、近づいてきた。看護師は手を取り、何か言った。その声は届かない。看護師は筆談用のボードを持ってきた。そこに書き込む。
「大丈夫ですか? 痛いところはありますか?」
 首を横に振った。痛みはある。全身が痛む。それは問題ではない。看護師は、また書き込んだ。
「聴力は、回復する可能性があります。諦めないでください」
 そのメッセージを読んだ。回復を望んでいるのか、自分でも分からなかった。
 三日間、病室で過ごした。ベッドから起き上がることができず、天井を見つめ続けた。医師や看護師が定期的に来て、状態を確認する。彼らは筆談でコミュニケーションを取った。
 二日目、吉田が見舞いに来た。吉田は病室に入り、ベッドの横に立った。吉田の表情は複雑だった。怒り、困惑、心配。すべてが混ざっている。吉田は筆談ボードを取り、書き始めた。
「お前、何を考えていた?」
 応じなかった。答えようがなかった。吉田は続けて書いた。
「お前のせいで、工事は大混乱だ。警察が来た。労働基準監督署も来た。お前がなぜあの場所にいたのか、説明しろと言われている」
 ボードを見つめる。そして、ペンを取った。震える手で、書き込む。
「すみません」
 吉田は、その文字を見て、ため息をついた。吉田はまた手を動かした。
「すまないで済む問題じゃない。お前は、死ぬところだった。いや、死んでいてもおかしくなかった。なぜ、あんなことをした」
 答えられなかった。なぜ、あんなことをしたのか。自分自身、明確には分からなかった。吉田は立ち上がった。そして、最後にボードに書き込んだ。
「もう、お前と関わりたくない。退院したら、二度と俺の前に現れるな」
 吉田は病室を出て行った。吉田の背中を見送る。
 三日目、警察が来た。二人の警官。彼らは事情聴取をした。筆談で。
「なぜ、退避しなかったのか」
 ペンを取る。
「爆発を、近くで見たかった」
「自殺しようとしたのか」
 首を横に振った。
「では、なぜ」
 長い間考えた。そして、書き込んだ。
「分からない」
 警官たちは、見つめる。そして、互いに顔を見合わせた。彼らは、理解できないようだった。結局、警察は起訴しなかった。自殺未遂ではない。規則違反ではあるが、刑事罰を科すほどではない。ただし、発破技士としての免許は、永久に剥奪されることになった。
 四日目、医師が告げた。筆談で。
「聴力について。右耳の鼓膜は完全に破れています。左耳も損傷していますが、右耳よりは軽度です。手術で、ある程度回復する可能性はあります。ただし、完全には戻らないでしょう」
 無言で了承した。
「入院は、あと一週間で終わります。その後、リハビリが必要になります」
 また無言で了承した。
 五日目、初めてベッドから起き上がった。身体は痛むが、歩くことはできた。病室の窓から外を見た。雪が降っていた。静かに降る雪。音のない雪。雪が地面に落ちる音も、風の音も耳に入ってこない。世界は、完全に静かだった。その静寂の中で、自分の人生を振り返る。三十五年間の人生。そのほとんどを、爆発とともに過ごしてきた。爆発だけが、生きる理由だった。
 今、爆発がない。聴覚を失い、発破技士の資格も失った。もう爆発を起こす手段がない。これからどう生きればいいのか、分からなかった。
 六日目の夜、病室で一人、考え続けていた。窓の外は暗い。雪は止んでいた。自分が求めていたものが何だったのか、ようやく理解し始めていた。爆発そのものを求めていたわけではない。求めていたのは、変容だった。爆発は、世界を変える。固体を気体に変え、構造を破壊し、すべてを別のものに変える。その変容に魅了されていた。そして、自分自身の変容を求めていた。空虚な自分を、何か別のものに変えたかった。爆発の中に入れば、変容できると信じていた。
 生き残った。変容しなかった。まだ同じ自分だった。涙を流した。今度は、なぜ泣いているのか分かった。絶望だ。変われなかったことに、絶望していたのだ。
 七日目、医師が退院の許可を出した。
「身体の回復は順調です。退院できます。ただし、定期的に通院してください。聴力の回復のため、手術を検討しましょう」
 了承の意を示した。病院から退院した。軽トラックは、現場近くに放置されていた。タクシーで現場に向かい、軽トラックを回収した。車は損傷していたが、まだ動いた。エンジンをかけ、現場を離れる。
 どこに行けばいいのか、分からなかった。本能的に、ある場所に向かっていた。故郷。生まれ育った町。二十年間、帰っていない町。山道を走り、雪の中をゆっくりと進む。音のない世界の中を、走り続けた。
 そして決めていた。故郷で、何かを見つける。爆発以外の、何かを。それが何なのか、まだ分からない。探す。探し続ける。まだ生きている。爆発の中で死ななかった。ならば、生き続けるしかない。爆発のない世界で。静寂の世界で。ハンドルを握りしめる。そして、故郷に向かって、車を走らせ続けた。
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世界を加速させる爆薬作者:森本 凛
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