ホーム世界を加速させる爆薬残渣
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残渣

 故郷の町に到着したのは、退院から三日後、一月の終わりのことだった。
 病院からの退院手続きは簡素だった。医師は診断書を渡し、「定期的に通院してください。聴力回復の手術も検討しましょう」と筆談で告げた。首を縦に振っただけで、再診の予約は取らなかった。
 会社からの連絡は、退院前日に来ていた。人事部からの書類。退職金と補償金の振込通知。合計で二百万円弱。そして、簡潔な一文。
「貴殿の発破技士免許は永久剥奪となりました。長年のご勤務、ありがとうございました」
 書類を破り捨てた。
 現場近くに放置していた軽トラックを回収し、山道を走った。行く当てはなかった。身体は本能的に故郷を目指していた。二十年間、帰らなかった場所。父が死んだ場所。
 町は、記憶よりも遥かに小さく見えた。いや、町が小さくなったのではない。過疎化が進み、人が減り、建物が朽ちていったのだ。子供の頃には賑わっていた商店街は、今やシャッター街になっていた。八百屋、魚屋、洋品店、電気屋、文房具屋、すべて閉まっている。店の前には、雪が積もり、誰も歩いていない。シャッターには錆が浮き、看板は色褪せている。
 軽トラックを町の中心部に停め、エンジンを切った。外は雪が降っている。音のない雪。雪が地面に落ちる音も、風の音も、遠くの犬の鳴き声も耳に届かない。世界は完全に静かだった。この静寂はまだ慣れないものだった。慣れることもないだろう。
 車を降り、商店街を歩いた。見覚えのある風景。子供の頃に通った駄菓子屋は、もうない。建物は取り壊され、跡地には草が生い茂り、今は雪に覆われている。通った小学校は廃校になり、校舎の窓ガラスは割れ、校庭の遊具は錆びついていた。
 商店街を抜けて住宅地に入った。古い木造の家が並んでいる。その多くは空き家になっている。窓に板が打ち付けられ、庭は荒れ放題だ。たまに、住んでいる家がある。窓から煙突の煙が出ている。通り過ぎると、窓のカーテンが動き、老人が見ている。誰も外に出てきて声をかけることはない。
 誰ともすれ違わなかった。この町には、もう若い人間はいないのだろう。残っているのは、老人だけだ。彼らは、この町で生まれ、この町で育ち、この町で老いていく。そして、いつかこの町で死ぬ。
 ある場所に向かって歩き続けた。町の外れ、山の麓。そこに、父の石材店があった。石材店までの道は、雪に覆われていた。誰も通っていない道。雪を踏みしめながら、歩く。足跡が、雪の上に残る。後ろを振り返ると、歩いてきた道だけが、足跡で刻まれている。
 三十分ほど歩いて、石材店の跡地に到着した。鉄製の門は、片方が外れて地面に倒れている。もう片方も、傾いている。門をくぐる。
 建物は、ほとんど崩れかけていた。屋根は半分以上落ち、壁は傾き、柱は腐っている。看板は地面に倒れ、雪に埋もれている。雪を払い、看板を見た。「柊石材店」という文字が、かすかに読める。ペンキは剥がれ、木は腐っているが、文字は残っている。
 石材店の敷地に入る。かつては整然としていたであろう敷地は、今や草木に覆われている。雪の下に、草の枯れた茎が見える。作業場に向かった。作業場は、屋根がほとんどなくなっていた。梁が残っているだけだ。雪が降り込み、床は雪で覆われている。
 だが、機械は残っていた。石を切るための機械。大きな円盤状の刃がついた機械。モーターが錆びつき、刃は欠けている。機械の骨格は残っている。その機械に近づき、手で触れた。冷たい鉄。錆が、手に付く。
 作業場の中を見回す。壁際には、石材が積まれている。切り出された石。花崗岩。大小様々なサイズの石が、無造作に積み上げられている。二十年間、誰も触れていない石。雪に覆われ、苔が生え、表面は風化している。
 一つの石に近づく。手で雪を払う。冷たい雪。その下から、石の表面が現れる。白と黒の結晶が混ざり合っている。長石、雲母、石英。それらが、複雑に入り組んでいる。この石に触れた。冷たく、硬い。表面はざらざらしている。風化で、結晶が少し浮き出ている。
 父は、柊健三と言った。石工だった。この石材店で、父は石を切り、削り、磨いていた。墓石を作り、石垣を作り、庭石を加工していた。父の仕事をほとんど見たことがない。父は朝早く出て、夜遅く帰ってきた。学校から帰る頃、父はまだ仕事をしていた。休日も、父は石材店にいた。
 父のことをほとんど覚えていない。顔は、ぼんやりとしか思い出せない。声も、覚えていない。父と、どんな会話をしたのかも、覚えていない。父とは、ほとんど話さなかった。父は寡黙な男だった。
 十五歳の時、父は採石場の事故で死んだ。岩盤の崩落。父は、落ちてきた岩に押しつぶされた。父の葬儀のことを覚えている。棺の中の父。顔は、原形を留めていなかった。頭蓋骨が陥没し、顔の皮膚が裂けていた。その光景を見て、何も感じなかった。悲しみも、恐怖も、怒りも。ただ、父が岩に「吸収された」という印象だけが残った。
 父は、岩の一部になった。父の身体は、岩に押しつぶされて、岩と混ざり合った。父の血が、岩に染み込んだ。父の骨が、岩の下に埋もれた。父は、もう人間ではなくなった。父は、岩になった。
 その日から、爆発に惹かれるようになった。採石場で見た爆発。岩を破壊する爆発。その爆発に父の姿を見た気がした。爆発は、岩を破壊する。岩を、別のものに変える。父も、岩によって変えられた。その変容に魅了された。
 だが今、理解し始めていた。追っていたのは、爆発ではなかった。いや、爆発を追っていたのは確かだ。だが、その根源には父がいた。父の仕事。父の生き方。父の、石との関わり方。父を理解しようとして、爆発に辿り着いた。だが、それは間違った道だったのかもしれない。
 作業場の奥に進む。そこには、父の道具が残っていた。木箱が置かれている。雪を払い、箱を開けた。蓋が軋む。
 箱の中には、道具が入っていた。重い鉄のハンマー。柄は木でできている。二十年間、誰も触れていないハンマー。表面には錆が浮いているが、まだ使える。ハンマーを持ち上げてみた。重い。三キログラムはある。
 様々なサイズの楔が、箱の中に並んでいる。先端は尖っている。これを石の亀裂に差し込み、ハンマーで叩く。そうやって、石を割る。
 ノミ。石を削るための道具。幅が広いもの、狭いもの、先端が尖っているもの、平らなもの。用途に応じて、様々な形のノミがある。
 ハンマーを手に取った。柄を握る。木の感触が伝わってくる。柄には、使い込まれた痕がある。滑らかになっている。父が、何千回、何万回と握った跡。手が、父の手の痕に重なる。
 ハンマーを握りしめた。そして思った。このハンマーで、父は石を割っていた。このハンマーが、父の手だった。
 だが、内面には別の感情があった。虚無感。このハンマーは、爆発ではない。このハンマーで石を割っても、〇・三秒の陶酔は訪れない。轟音はない。衝撃波はない。世界を変える瞬間は、ない。
 ハンマーを置こうとした。だが、手が動かなかった。このハンマーを握り続けた。なぜか、分からなかった。
 石材の山から、手頃な大きさの石を選んだ。人間の頭ほどのサイズの花崗岩。その石を作業場の中央、雪のない場所に置いた。石を転がして運ぶ。重い。三十キログラムはある。
 ハンマーを握った。そして、石の上に立った。石を見下ろす。どこを叩くべきか。分からない。だが、叩く。ハンマーを振り上げた。そして、石を叩いた。
 鈍い音。だが、耳に入ってこない。振動だけが、ハンマーを通じて手に伝わる。石に、わずかな痕がついた。だが、割れない。石は、びくともしない。
 もう一度叩いた。また叩く。三回、五回、十回。手に痺れが走る。寒さで手がかじかむ。指先の感覚がなくなるまで叩き続けた。
 なぜ、こんなことをしているのか分からなかった。この作業は、爆発とは正反対だ。爆発は瞬間だ。だが、この作業は時間がかかる。永遠に続くような時間。最も嫌悪してきた、空白の時間。
 だが、手は止まらなかった。十五回、二十回、二十五回。ハンマーが石を叩く。振動が手に伝わる。その振動だけが、何かを伝えていた。
 三十回目の打撃で、石に亀裂が入った。細い亀裂。髪の毛ほどの太さ。だが、確かに入った。その亀裂を見つめる。
 楔を取り出した。一番小さい楔。亀裂に楔を差し込む。楔の先端が、亀裂に入る。だが、途中で止まる。亀裂が、まだ浅い。
 ハンマーで楔を叩いた。楔が、少しずつ石の中に入っていく。慎重に叩く。強く叩きすぎると、楔が曲がる。弱く叩くと、楔が入らない。適度な力で、叩く。
 十回、二十回。楔が、石の中に入っていく。亀裂が広がる。さらに叩く。三十回、四十回。手が痺れる。肩が痛む。それでも叩き続けた。
 そして、石が割れた。手に伝わる振動で、石が割れたことが分かった。楔を通じて、割れる瞬間の振動が伝わってきた。
 石は、二つに分かれた。楔を引き抜く。そして、割れた石を見た。断面が露出していて、結晶構造が見える。
 この断面を見つめた。爆発で割った石とは、違う断面だった。爆発で割った石は、破断面が不規則だ。結晶構造が破壊され、粉々になっている。破断面は、ざらざらしていて、結晶の形が分からない。
 だが、ハンマーと楔で割った石は、結晶の境界に沿って割れている。自然な割れ方。石の内部構造を尊重した割れ方。断面は、比較的滑らかで、結晶の形がはっきりと見える。
 その違いを感じた。爆発は、瞬間的だ。〇・三秒で、すべてが変わる。石の内部構造を無視して、力任せに破壊する。
 だが、この方法は違う。時間をかけて、石に働きかける。石の弱点を見つけ、そこに力を加える。
 戸川の言葉が、脳裏に浮かんだ。
「石は、割られたがっている場所がある。そこを見つけることだ。無理に割ると、石は壊れる。だが、正しい場所を見つければ、石は自ら開く」
 割れた石を手に取った。冷たい。表面は滑らかだ。結晶が光を反射している。この石を握りしめた。
 だが、内面は満たされなかった。この作業は、爆発の代わりにはならない。時間がかかりすぎる。一つの石を割るのに、三十分以上かかった。その三十分は、拷問だった。空白の時間。意味のない時間。
 もう一つの石を割り始めた。同じように、ハンマーで叩く。亀裂を作る。楔を打ち込む。時間をかけて、石を割る。
 だが、やはり満たされない。この緩やかな変化は、爆発の劇的な変化とは比較にならない。今もなお爆発を求めていた。
 何時間も石を割り続けた。太陽が傾き、作業場は暗くなった。作業を止めなかった。軽トラックから懐中電灯を取り出し、その光で石を割り続けた。
 周囲には、割れた石が散らばっていた。十個、十五個、二十個。黙々と石を割り続けた。手は痛み、腕は痺れ、肩は張っている。息が上がる。汗が流れる。寒いはずなのに、身体は熱い。
 午後九時、ようやく作業を止めた。もう、ハンマーを振る力が残っていなかった。全身が疲労していた。手のひらを見ると、豆ができている。皮が剥け、血が滲んでいて痛い。
 これは、労働の痕跡だった。自分の手で何かをした証だった。爆発は、瞬間だ。爆発の後には、何も残らない。破壊された岩塊だけが残る。
 だが、石を割る労働は、身体に痕跡を残す。豆、筋肉痛、疲労。それらは、時間を使った証だ。
 父がこの疲労を毎日感じていたことを理解した。父は、毎日、石を割っていた。爆薬を使わず、自分の手で。時間をかけて。そして、この疲労を感じていた。
 だが、それで何になる。そう思った。父は、この疲労に何の意味を見出していたのか。父は、なぜこの仕事を続けられたのか。
 分からなかった。
 作業場を出た。雪はまだ降っている。軽トラックに戻り、車内で自分の手を見た。血の滲んだ手。
 町の中心部に戻った。唯一の明かりが見える。民宿だ。「山田旅館」という看板。古い木造の建物。二階建て。軽トラックを停め、玄関に向かった。
 ドアを開けると、玄関に老婆が立っていた。七十代ぐらいで小柄な体格。割烹着を着て、白髪を後ろで束ねている。顔には深い皺が刻まれている。
 老婆は、口を動かした。何か言っている。だが、音は届かない。ポケットからノートとペンを取り出した。そして、ペンを走らせた。
「一泊、お願いします。耳が聞こえません」
 老婆は、ノートを見て承諾した。驚いた様子はない。そして、ノートを取り、返事を記す。字は震えているが、読める。
「一泊、五千円です。夕食と朝食、付けますか」
 了解の意を示した。
 老婆は、また紙に向かった。
「分かりました。部屋に案内します」
 老婆は、二階に案内した。階段は軋む。古い木の階段で、手すりも古い。二階の廊下を歩き、一番奥の部屋の前で止まった。
 老婆は、ドアを開けた。六畳間。古い畳、古い襖。だが、清潔だった。布団が敷かれている。部屋には、小さなテーブルと座布団がある。窓からは、町の景色が見える。暗闇の中に、いくつかの明かりが見える。
 老婆は、ノートに書き込んだ。
「夕食は、三十分後に持ってきます」
 承諾した。老婆は、部屋を出て行った。
 布団に横になり、天井を見上げた。古い木の天井には染みがある。雨漏りの跡だろう。その染みをぼんやり見つめながら、今日一日のことを思い返していた。
 石を割る行為。それは、新しい経験だった。爆発とは違う、緩やかな破壊。いや、破壊ではない。変容だ。石を、使える形に変える。時間をかけて、丁寧に。
 だが、満足できなかった。この作業は、爆発の代わりにはならない。求めているのは、瞬間の陶酔だ。〇・三秒の、圧倒的な変化だ。時間をかけた変化は、渇望を満たさない。
 三十分後、老婆が夕食を持ってきた。トレイに、米、味噌汁、焼き魚、煮物、漬物。座卓の前に座った。老婆は、トレイを置いて、部屋を出て行った。
 箸を取った。そして、米を口に運んだ。咀嚼する。そして、驚いた。味がする。米の甘み。さらに食べた。味噌汁を飲む。塩気と出汁の旨味。焼き魚を食べる。魚の脂と、塩の味。
 これまでの人生で、食事の味をほとんど感じたことがなかった。食事は、燃料の補給でしかなかった。
 だが今、味を感じている。なぜか。考えた。労働したからだ。石を割る労働。その労働で、身体はエネルギーを消費した。だから、身体が栄養を求めている。味覚が、鋭くなっている。
 だが、それだけだ。食事を楽しんでいるわけではない。味を感じても、それが喜びには繋がらない。内面は、相変わらず空虚だった。
 食事を食べ終えた。満腹感がある。胃が満たされている。だが、心は満たされていない。
 再び布団に横になった。身体中が痛む。筋肉痛だ。手のひらの豆も痛む。
 すぐに眠りに落ちた。だが、夢を見た。
 爆発の夢。
 ダムの最終発破。一・六五トンのダイナマイトが爆発する。轟音。衝撃波。粉塵。爆発の中にいて、身体が吹き飛ばされる。
 だが、音がない。夢の中でも、音が耳に入ってこない。無音の爆発。それは、悪夢だった。爆発が、沈黙の中で起きている。音のない世界で爆発を見ている。
 悲鳴を上げて目覚めた。だが、自分の悲鳴も耳には届かない。布団の中で震えていた。全身が冷や汗で濡れている。
 窓の外を見た。まだ暗い。時計を見ると、午前三時だった。もう眠れなかった。起き上がり、窓辺に座って暗闇を見つめる。
 自分が何を失ったのか、改めて理解した。聴覚を失った。それは、爆発の音を失ったということだ。轟音を失った。衝撃波の音を失った。爆発の核心を失った。
 涙を流した。悔しかった。爆発は、まだ存在する。世界のどこかで、今も爆発は起きている。だが、その音を聞けない。爆発の一部を永遠に失った。
 窓辺で朝を待った。
 翌朝、午前六時に目覚めた。いや、目覚めたというより、眠らずに朝を迎えた。身体中が痛む。特に、肩と腕と手。だが、起き上がった。
 午前七時、老婆が朝食を持ってきた。米、味噌汁、焼き海苔、納豆、卵焼き。食べた。今日も、味がする。だが、それが何だというのか。
 食事を終えると、再び石材店へ向かった。昨日と同じ道を、雪の中ゆっくり歩く。昨日の足跡はすでに新雪に隠れている。そこへ新しい足跡を刻みながら、前へ進んだ。
 石材店に到着すると、昨日の続きを始めた。石を割る。今日は、昨日よりも大きな石を選んだ。人間の胴体ほどのサイズ。五十キログラムはある。この石を作業場の中央に転がした。
 ハンマーを振るった。叩く。また叩く。昨日よりも、作業が速くなっている。石を割るコツを掴み始めていた。どこを叩けば亀裂が入りやすいか。どの角度で楔を打ち込めば効率的か。
 身体が、覚え始めていた。ハンマーの振り方。楔の打ち込み方。石の見方。すべてが、少しずつ自然になっていく。
 だが、内面は変わらなかった。石を割っても、満たされない。この作業は、時間がかかりすぎる。求めているのは、瞬間だ。爆発の瞬間だ。
 一つの石を割るのに、昨日の半分の時間しかかからなかった。そして、次の石に移った。また次の石に。丸一日、石を割り続けた。
 だが、何のためにこれをしているのか、分からなくなっていた。父を理解するため? だが、父は死んでいる。二十年前に、死んでいる。父を理解したところで、何になる。
 自分に問いかけた。お前は、何を求めているのか。
 答えは、明確だった。爆発だ。爆発を求めている。今も、これからも。
 夕方、作業を止めた。周囲を見回す。割れた石が、無数に散らばっていた。五十個以上。これらの石を見つめた。
 これは、二日間で作り出したものだ。労働の結果だ。
 だが、それが何だというのか。
 これらの石が何を意味するのか、理解できなかった。時間をかけて石を割った。その時間は、生きた時間だ。この世界に存在した時間だ。
 だが、その時間は、意味があるのか。時間を感じたくなかった。求めていたのは、時間の外にある瞬間だ。爆発の瞬間だ。
 民宿に戻り、夕食を食べた。やはり味がする。だが、それが何だというのか。
 布団に横になった。また、爆発の夢を見るのだろうかと考えながら目を閉じた。
 三日目も、石を割った。四日目も。五日目も。毎日、石材店に通い、石を割り続けた。民宿に泊まり、朝起きて、石材店に行き、石を割り、夕方に民宿に戻る。その繰り返し。
 手は、豆だらけになった。豆が潰れ、血が滲む。だが、やがて豆は硬くなり、たこになった。たこは、さらに硬くなり、手を守るようになった。手は、労働者の手になった。
 身体は、変わっていった。筋肉がつき、体力がついた。顔色も良くなった。民宿の鏡で自分の顔を見た。別人のような顔がそこにあった。頬に血色があり、目に力がある。
 だが、内面は変わらなかった。相変わらず、爆発を求めていた。夜、布団に横になると、爆発のことを考える。ダムの最終発破。あの爆発。その記憶を反芻する。轟音、衝撃波、粉塵。だが、音は耳に届かない。もう爆発の音は耳に入ってこない。
 それが、最大の苦痛だった。爆発は存在する。だが、その音を聞けない。爆発の核心を失った。
 七日目の夕方、作業を終えて、割れた石の山を見つめていた。数百個の石。すべて、自分が割ったものだ。
 これらの石を、大きさごとに分類し始めた。手のひらサイズのもの、両手で抱えられるサイズのもの、それ以上の大きなもの。作業場の端に、丁寧に積み上げていく。
 石を積み上げる作業にも、時間がかかった。二時間ほど。だが、急がなかった。
 積み上げが終わると、夕暮れになっていた。西の空が赤く染まっている。その空を見上げた。音のない夕暮れ。
 この静寂の中に何かを感じ始めていた。だが、それが何なのか、言葉にできなかった。存在? 時間? 分からなかった。
 民宿に戻ると、老婆が玄関で待っていた。老婆は、ノートを差し出した。
「明日で一週間になります。いつまで滞在されますか」
 ペンを取り、記す。
「あと一週間、お願いします」
 老婆は無言で応じた。そして、また文字を綴った。
「あなた、健三さんの息子さんですね。健三さんとそっくりになってきた」
 ノートを見つめる。そして、ペンを走らせた。
「父のことを覚えていますか」
 老婆は無言で肯き、書き込んだ。
「よく覚えています。寡黙な人でした。でも、石のことを話す時だけは、饒舌になった。石が好きだったんです。あの人は、石と会話していた」
 その言葉を読んだ。石と会話する。戸川も、同じことを言っていた。
「石の声が聞こえる」と。
 だが、石の声は耳に入ってこない。何も届かない。
 老婆は、さらにペンを動かした。
「健三さんは、あの事故の前の晩、ここに泊まっていったんです。採石場の近くで仕事があったから。夕食の時、健三さんは珍しく酒を飲んで、話してくれました」
 身を乗り出した。老婆は続けた。
「石は生きている、と健三さんは言いました。何億年も前に、マグマが冷えて固まったもの。その長い時間が、石の中に閉じ込められている。石を割ると、その時間が開放される。だから、石を割る時は、慎重にしなければならない、と」
 ノートを見つめた。父の言葉。父の声を覚えていない。だが、この言葉は、確かに父のものだった。
 老婆は、最後に紙に向かった。
「健三さんは、いつかあなたに石を教えたいと言っていました。でも、その前に、あの事故が起きてしまった」
 ノートを持つ手が震えるのを感じた。父は、石を教えたかった。だが、それは実現しなかった。父は死に、爆発に惹かれていった。
 だが今、父の仕事を追体験している。時間を超えて、父と繋がっている。
 だが、それが何になる。そう思った。父を理解したところで、渇望は消えない。爆発を求めている。石ではなく、爆発を。
 老婆に頭を下げた。老婆は微笑んだ。そして、夕食の準備に戻っていった。
 部屋に入り、窓辺に座った。町を見下ろす。いくつかの明かり。その一つ一つに、人の生活がある。老人たちの生活。
 他者の存在を感じた。老婆という他者。彼女には、彼女の人生がある。彼女の記憶がある。
 そして、自分もまた、他者として存在している。老婆から見た自分。健三の息子としての自分。
 だが、それが何だというのか。他者との繋がりを求めていない。求めているのは、爆発だ。
 翌日から、石の積み方を変えた。ただ分類して積むだけではなく、精密に組み合わせ始めた。
 モルタルは使わない。石と石を、隙間なく組み合わせる。
 これは、高度な技術を要する作業だった。石の形を正確に整えなければならない。少しでもずれると、石積みは崩れる。何度も失敗した。石積みが崩れる。また積み直す。
 だが、諦めなかった。なぜなのか、分からなかった。この作業は、爆発とは何の関係もない。だが、手は動き続けた。
 一週間かけて、小さな石積みを完成させた。高さ一メートル、幅一メートル。石だけで組み上げた石積み。
 この石積みを見つめた。これは、初めて「作った」ものだった。破壊ではない。創造だ。
 石積みに手を触れた。冷たい石。だが、確かに存在する石積み。時間をかけて作り上げた石積み。
 だが、内面には、満足感はなかった。むしろ、虚無感があった。
 この石積みは、何のために存在するのか。誰のために存在するのか。この石積みは、何年も、何十年も、ここに残るだろう。だが、それが何だというのか。
 爆発との違いを理解していた。爆発は、瞬間だ。すべてを破壊し、すべてを変える。だが、何も残らない。跡形もなく、消える。
 だが、石を積む行為は、残る。積んだ石積みは、死んだ後も、ここに残る。
 だが、それを望んでいるのか。何かを残したいのか。分からなかった。
 その夜、老婆と向かい合って食事をした。老婆は、ノートに文字を並べた。
「もうすぐ、二週間ですね」
 同意した。
「いつまで、ここにいるんですか」
 ペンを取り、しばらく考えてから、書き込んだ。
「もうすぐ、出発します」
 老婆は、驚いた表情を見せた。そして、返事を記した。
「どこへ行くのですか」
 ペンを走らせた。
「海外の鉱山に行きます。発破の仕事があるそうです」
 老婆は、しばらくノートを見つめていた。そして、手を動かした。
「また、爆発を見に行くのですね」
 その言葉を読んで、驚いた。老婆は、すべてを理解していた。
 老婆は、続けて紙に向かった。
「あなたは、健三さんとは違う道を選んだ。健三さんは石を愛していた。でも、あなたは爆発を愛している」
 何も答えられなかった。
 老婆は、最後に書き込んだ。
「それでも、いいと思います。人は、それぞれの道を行く。あなたは、あなたの道を行けばいい。でも、いつか、また戻ってきてください。この町は、あなたの故郷です」
 ノートを見つめた。そして、無言で了承した。
 三日後、民宿を出発した。軽トラックに荷物を積む。工具は、石材店に置いていく。いつか戻ってきた時に、また使うかもしれない。
 老婆が、玄関で見送ってくれた。深く頭を下げた。老婆も、頭を下げた。
 軽トラックに乗り込み、エンジンをかける。バックミラーに、笑顔の老婆が映っていた。静かに、手を振っている。
 町を抜けると、石材店の前に差しかかった。車を停めて降りる。
 作業場に入ると、自分が積んだ石が静かにそこにあった。父の道具も、昔のままだ。中央に立ち、深呼吸する。冷たい空気。冬の匂い。土と石の匂い。
 父の気配がした。ここにいる。この石の中に、この道具の中に。そして、自分の中に。
声には出さず、心の中で語りかける。
「父さん。俺は、ようやく分かりました。あなたが何をしていたのか。石は、生きている。石は、時間を含んでいる。石を割ることは、その時間と対話することです。でも、俺にはできません。俺は、あなたのようにはなれない。俺は、爆発を求めている。今も、これからも」
 作業場を出て車に戻る。エンジンをかけ、山道を下っていった。曲がりくねった道を、ゆっくりと進む。急がない。時間はある。だが、その時間はただの空白に思えた。
 山を抜けると、平野が広がる。遠くに海が見えた。その海へ向かって走った。
 着いて車を停める。波止場へ降り立つ。目の前には広い海がある。
 海を見つめる。波の音は聞こえないのに、波は確かに寄せては返す。打ち寄せて、また引いていく。永遠に続くようだった。
 車に戻った。そして、港に向かった。港には、貨物船が停泊している。その船に乗る予定だった。船は、東南アジアの鉱山に向かう。
 新聞の求人広告でその仕事を見つけていた。鉱山での発破作業。装薬技士募集。経験者優遇。ファックスで問い合わせた。
「聴覚障害があるが、それでもいいか」
 相手からの返信はこうだった。
「構わない。手が動けば問題ない。発破技士の免許は?」
「日本では剥奪された」
「こちらでは関係ない。来てくれ」
 乗船手続きを済ませた。そして、船に乗り込んだ。デッキに立ち、日本の海岸線を見つめる。故郷の町は、もう見えない。だが、確かにそこにある。
 船が出航した。エンジンが唸る。だが、その音は届かない。ただ、振動だけが足に伝わる。船は、ゆっくりと港を離れていく。
 デッキに立ち続けて、海を見つめる。水平線を見つめる。空を見つめる。
 内面では、まだ爆発が燃えている。爆発への渇望。それは、消えない。この渇望と一生付き合っていくだろう。父の石。それは、意味のあるものだった。父の仕事を学んだ。石を割る技術を学んだ。石が「自ら開く」場所を探す方法を学んだ。だが、それは渇望を満たさなかった。求めているのは、爆発だ。瞬間の陶酔だ。時間の外にある出来事だ。
 石を割る作業は、時間の中にある。緩やかで、持続的で、累積的だ。それは、本質とは相容れない。両方を知った。石と爆発。創造と破壊。時間と瞬間。だが、自分が選ぶのは、爆発だ。
 船は、大海原に出た。周囲には、海しかない。空と海の境界が、曖昧になる。その境界を見つめた。そして思った。世界は、加速などしていない。世界は、ただ存在している。ゆっくりと、だが確かに、存在している。石は、その世界の一部だ。時間をかけて形成され、時間をかけて風化する。だが、爆発は違う。爆発は、時間を超越する。爆発は、瞬間に世界を変える。その瞬間を求めている。
 これから何を見るのだろう。どんな爆発に出会うのだろう。音は耳に届かない。だが、見ることはできる。感じることはできる。衝撃波を、身体で感じることはできる。それで十分だった。いつか故郷に戻ることはあるだろう。何年後か、何十年後か。その時、再び石材店を訪れるかもしれない。父の道具を手に取るかもしれない。石を割るかもしれない。だが、それは遠い未来の話だ。今、爆発を求めている。
 船は、水平線に向かって進んでいく。冷たい風が吹く。海の彼方に、何があるのか。それを確かめに行く。鉱山。そこには、爆発がある。毎日、発破が行われている。その爆発を見る。音は耳に入ってこない。だが、見ることはできる。旅は、今、始まったばかりだった。爆発を求める旅。終わりのない旅。
 爆発なしでは生きられない。石を学んだ。父の仕事を知った。だが、それでも変わらなかった。依然として爆発に取り憑かれている。それが、本質だった。その本質から逃れることはできない。逃れようともしない。爆発とともに生きる。爆発とともに、世界を渡り歩く。
 水平線が、夕日に染まり始めた。オレンジ色の光が、海面を照らす。波が、光を反射する美しい光景。その光景を目に焼き付けた。そして思った。まだ見ぬ爆発がある。まだ見ぬ瞬間がある。その瞬間を求めて、航海していく。父の石は、故郷に残した。いつか戻る日のために。だが今、必要なのは、爆発だ。
 なおもデッキに立ち続けた。風が頬を打つ。その風の中で、爆発の夢を見ていた。聞こえない轟音。見えない衝撃波。だが、それでも求める。世界を加速させる爆薬を。内面で、その爆薬はまだ燃えている。消えることなく、燃え続けている。それが、生だった。
 船は、闇の中を進んでいく。その闇の中で、光を待っていた。爆発の光を。

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 書類を破り捨てた。
 現場近くに放置していた軽トラックを回収し、山道を走った。行く当てはなかった。身体は本能的に故郷を目指していた。二十年間、帰らなかった場所。父が死んだ場所。
 町は、記憶よりも遥かに小さく見えた。いや、町が小さくなったのではない。過疎化が進み、人が減り、建物が朽ちていったのだ。子供の頃には賑わっていた商店街は、今やシャッター街になっていた。八百屋、魚屋、洋品店、電気屋、文房具屋、すべて閉まっている。店の前には、雪が積もり、誰も歩いていない。シャッターには錆が浮き、看板は色褪せている。
 軽トラックを町の中心部に停め、エンジンを切った。外は雪が降っている。音のない雪。雪が地面に落ちる音も、風の音も、遠くの犬の鳴き声も耳に届かない。世界は完全に静かだった。この静寂はまだ慣れないものだった。慣れることもないだろう。
 車を降り、商店街を歩いた。見覚えのある風景。子供の頃に通った駄菓子屋は、もうない。建物は取り壊され、跡地には草が生い茂り、今は雪に覆われている。通った小学校は廃校になり、校舎の窓ガラスは割れ、校庭の遊具は錆びついていた。
 商店街を抜けて住宅地に入った。古い木造の家が並んでいる。その多くは空き家になっている。窓に板が打ち付けられ、庭は荒れ放題だ。たまに、住んでいる家がある。窓から煙突の煙が出ている。通り過ぎると、窓のカーテンが動き、老人が見ている。誰も外に出てきて声をかけることはない。
 誰ともすれ違わなかった。この町には、もう若い人間はいないのだろう。残っているのは、老人だけだ。彼らは、この町で生まれ、この町で育ち、この町で老いていく。そして、いつかこの町で死ぬ。
 ある場所に向かって歩き続けた。町の外れ、山の麓。そこに、父の石材店があった。石材店までの道は、雪に覆われていた。誰も通っていない道。雪を踏みしめながら、歩く。足跡が、雪の上に残る。後ろを振り返ると、歩いてきた道だけが、足跡で刻まれている。
 三十分ほど歩いて、石材店の跡地に到着した。鉄製の門は、片方が外れて地面に倒れている。もう片方も、傾いている。門をくぐる。
 建物は、ほとんど崩れかけていた。屋根は半分以上落ち、壁は傾き、柱は腐っている。看板は地面に倒れ、雪に埋もれている。雪を払い、看板を見た。「柊石材店」という文字が、かすかに読める。ペンキは剥がれ、木は腐っているが、文字は残っている。
 石材店の敷地に入る。かつては整然としていたであろう敷地は、今や草木に覆われている。雪の下に、草の枯れた茎が見える。作業場に向かった。作業場は、屋根がほとんどなくなっていた。梁が残っているだけだ。雪が降り込み、床は雪で覆われている。
 だが、機械は残っていた。石を切るための機械。大きな円盤状の刃がついた機械。モーターが錆びつき、刃は欠けている。機械の骨格は残っている。その機械に近づき、手で触れた。冷たい鉄。錆が、手に付く。
 作業場の中を見回す。壁際には、石材が積まれている。切り出された石。花崗岩。大小様々なサイズの石が、無造作に積み上げられている。二十年間、誰も触れていない石。雪に覆われ、苔が生え、表面は風化している。
 一つの石に近づく。手で雪を払う。冷たい雪。その下から、石の表面が現れる。白と黒の結晶が混ざり合っている。長石、雲母、石英。それらが、複雑に入り組んでいる。この石に触れた。冷たく、硬い。表面はざらざらしている。風化で、結晶が少し浮き出ている。
 父は、柊健三と言った。石工だった。この石材店で、父は石を切り、削り、磨いていた。墓石を作り、石垣を作り、庭石を加工していた。父の仕事をほとんど見たことがない。父は朝早く出て、夜遅く帰ってきた。学校から帰る頃、父はまだ仕事をしていた。休日も、父は石材店にいた。
 父のことをほとんど覚えていない。顔は、ぼんやりとしか思い出せない。声も、覚えていない。父と、どんな会話をしたのかも、覚えていない。父とは、ほとんど話さなかった。父は寡黙な男だった。
 十五歳の時、父は採石場の事故で死んだ。岩盤の崩落。父は、落ちてきた岩に押しつぶされた。父の葬儀のことを覚えている。棺の中の父。顔は、原形を留めていなかった。頭蓋骨が陥没し、顔の皮膚が裂けていた。その光景を見て、何も感じなかった。悲しみも、恐怖も、怒りも。ただ、父が岩に「吸収された」という印象だけが残った。
 父は、岩の一部になった。父の身体は、岩に押しつぶされて、岩と混ざり合った。父の血が、岩に染み込んだ。父の骨が、岩の下に埋もれた。父は、もう人間ではなくなった。父は、岩になった。
 その日から、爆発に惹かれるようになった。採石場で見た爆発。岩を破壊する爆発。その爆発に父の姿を見た気がした。爆発は、岩を破壊する。岩を、別のものに変える。父も、岩によって変えられた。その変容に魅了された。
 だが今、理解し始めていた。追っていたのは、爆発ではなかった。いや、爆発を追っていたのは確かだ。だが、その根源には父がいた。父の仕事。父の生き方。父の、石との関わり方。父を理解しようとして、爆発に辿り着いた。だが、それは間違った道だったのかもしれない。
 作業場の奥に進む。そこには、父の道具が残っていた。木箱が置かれている。雪を払い、箱を開けた。蓋が軋む。
 箱の中には、道具が入っていた。重い鉄のハンマー。柄は木でできている。二十年間、誰も触れていないハンマー。表面には錆が浮いているが、まだ使える。ハンマーを持ち上げてみた。重い。三キログラムはある。
 様々なサイズの楔が、箱の中に並んでいる。先端は尖っている。これを石の亀裂に差し込み、ハンマーで叩く。そうやって、石を割る。
 ノミ。石を削るための道具。幅が広いもの、狭いもの、先端が尖っているもの、平らなもの。用途に応じて、様々な形のノミがある。
 ハンマーを手に取った。柄を握る。木の感触が伝わってくる。柄には、使い込まれた痕がある。滑らかになっている。父が、何千回、何万回と握った跡。手が、父の手の痕に重なる。
 ハンマーを握りしめた。そして思った。このハンマーで、父は石を割っていた。このハンマーが、父の手だった。
 だが、内面には別の感情があった。虚無感。このハンマーは、爆発ではない。このハンマーで石を割っても、〇・三秒の陶酔は訪れない。轟音はない。衝撃波はない。世界を変える瞬間は、ない。
 ハンマーを置こうとした。だが、手が動かなかった。このハンマーを握り続けた。なぜか、分からなかった。
 石材の山から、手頃な大きさの石を選んだ。人間の頭ほどのサイズの花崗岩。その石を作業場の中央、雪のない場所に置いた。石を転がして運ぶ。重い。三十キログラムはある。
 ハンマーを握った。そして、石の上に立った。石を見下ろす。どこを叩くべきか。分からない。だが、叩く。ハンマーを振り上げた。そして、石を叩いた。
 鈍い音。だが、耳に入ってこない。振動だけが、ハンマーを通じて手に伝わる。石に、わずかな痕がついた。だが、割れない。石は、びくともしない。
 もう一度叩いた。また叩く。三回、五回、十回。手に痺れが走る。寒さで手がかじかむ。指先の感覚がなくなるまで叩き続けた。
 なぜ、こんなことをしているのか分からなかった。この作業は、爆発とは正反対だ。爆発は瞬間だ。だが、この作業は時間がかかる。永遠に続くような時間。最も嫌悪してきた、空白の時間。
 だが、手は止まらなかった。十五回、二十回、二十五回。ハンマーが石を叩く。振動が手に伝わる。その振動だけが、何かを伝えていた。
 三十回目の打撃で、石に亀裂が入った。細い亀裂。髪の毛ほどの太さ。だが、確かに入った。その亀裂を見つめる。
 楔を取り出した。一番小さい楔。亀裂に楔を差し込む。楔の先端が、亀裂に入る。だが、途中で止まる。亀裂が、まだ浅い。
 ハンマーで楔を叩いた。楔が、少しずつ石の中に入っていく。慎重に叩く。強く叩きすぎると、楔が曲がる。弱く叩くと、楔が入らない。適度な力で、叩く。
 十回、二十回。楔が、石の中に入っていく。亀裂が広がる。さらに叩く。三十回、四十回。手が痺れる。肩が痛む。それでも叩き続けた。
 そして、石が割れた。手に伝わる振動で、石が割れたことが分かった。楔を通じて、割れる瞬間の振動が伝わってきた。
 石は、二つに分かれた。楔を引き抜く。そして、割れた石を見た。断面が露出していて、結晶構造が見える。
 この断面を見つめた。爆発で割った石とは、違う断面だった。爆発で割った石は、破断面が不規則だ。結晶構造が破壊され、粉々になっている。破断面は、ざらざらしていて、結晶の形が分からない。
 だが、ハンマーと楔で割った石は、結晶の境界に沿って割れている。自然な割れ方。石の内部構造を尊重した割れ方。断面は、比較的滑らかで、結晶の形がはっきりと見える。
 その違いを感じた。爆発は、瞬間的だ。〇・三秒で、すべてが変わる。石の内部構造を無視して、力任せに破壊する。
 だが、この方法は違う。時間をかけて、石に働きかける。石の弱点を見つけ、そこに力を加える。
 戸川の言葉が、脳裏に浮かんだ。
「石は、割られたがっている場所がある。そこを見つけることだ。無理に割ると、石は壊れる。だが、正しい場所を見つければ、石は自ら開く」
 割れた石を手に取った。冷たい。表面は滑らかだ。結晶が光を反射している。この石を握りしめた。
 だが、内面は満たされなかった。この作業は、爆発の代わりにはならない。時間がかかりすぎる。一つの石を割るのに、三十分以上かかった。その三十分は、拷問だった。空白の時間。意味のない時間。
 もう一つの石を割り始めた。同じように、ハンマーで叩く。亀裂を作る。楔を打ち込む。時間をかけて、石を割る。
 だが、やはり満たされない。この緩やかな変化は、爆発の劇的な変化とは比較にならない。今もなお爆発を求めていた。
 何時間も石を割り続けた。太陽が傾き、作業場は暗くなった。作業を止めなかった。軽トラックから懐中電灯を取り出し、その光で石を割り続けた。
 周囲には、割れた石が散らばっていた。十個、十五個、二十個。黙々と石を割り続けた。手は痛み、腕は痺れ、肩は張っている。息が上がる。汗が流れる。寒いはずなのに、身体は熱い。
 午後九時、ようやく作業を止めた。もう、ハンマーを振る力が残っていなかった。全身が疲労していた。手のひらを見ると、豆ができている。皮が剥け、血が滲んでいて痛い。
 これは、労働の痕跡だった。自分の手で何かをした証だった。爆発は、瞬間だ。爆発の後には、何も残らない。破壊された岩塊だけが残る。
 だが、石を割る労働は、身体に痕跡を残す。豆、筋肉痛、疲労。それらは、時間を使った証だ。
 父がこの疲労を毎日感じていたことを理解した。父は、毎日、石を割っていた。爆薬を使わず、自分の手で。時間をかけて。そして、この疲労を感じていた。
 だが、それで何になる。そう思った。父は、この疲労に何の意味を見出していたのか。父は、なぜこの仕事を続けられたのか。
 分からなかった。
 作業場を出た。雪はまだ降っている。軽トラックに戻り、車内で自分の手を見た。血の滲んだ手。
 町の中心部に戻った。唯一の明かりが見える。民宿だ。「山田旅館」という看板。古い木造の建物。二階建て。軽トラックを停め、玄関に向かった。
 ドアを開けると、玄関に老婆が立っていた。七十代ぐらいで小柄な体格。割烹着を着て、白髪を後ろで束ねている。顔には深い皺が刻まれている。
 老婆は、口を動かした。何か言っている。だが、音は届かない。ポケットからノートとペンを取り出した。そして、ペンを走らせた。
「一泊、お願いします。耳が聞こえません」
 老婆は、ノートを見て承諾した。驚いた様子はない。そして、ノートを取り、返事を記す。字は震えているが、読める。
「一泊、五千円です。夕食と朝食、付けますか」
 了解の意を示した。
 老婆は、また紙に向かった。
「分かりました。部屋に案内します」
 老婆は、二階に案内した。階段は軋む。古い木の階段で、手すりも古い。二階の廊下を歩き、一番奥の部屋の前で止まった。
 老婆は、ドアを開けた。六畳間。古い畳、古い襖。だが、清潔だった。布団が敷かれている。部屋には、小さなテーブルと座布団がある。窓からは、町の景色が見える。暗闇の中に、いくつかの明かりが見える。
 老婆は、ノートに書き込んだ。
「夕食は、三十分後に持ってきます」
 承諾した。老婆は、部屋を出て行った。
 布団に横になり、天井を見上げた。古い木の天井には染みがある。雨漏りの跡だろう。その染みをぼんやり見つめながら、今日一日のことを思い返していた。
 石を割る行為。それは、新しい経験だった。爆発とは違う、緩やかな破壊。いや、破壊ではない。変容だ。石を、使える形に変える。時間をかけて、丁寧に。
 だが、満足できなかった。この作業は、爆発の代わりにはならない。求めているのは、瞬間の陶酔だ。〇・三秒の、圧倒的な変化だ。時間をかけた変化は、渇望を満たさない。
 三十分後、老婆が夕食を持ってきた。トレイに、米、味噌汁、焼き魚、煮物、漬物。座卓の前に座った。老婆は、トレイを置いて、部屋を出て行った。
 箸を取った。そして、米を口に運んだ。咀嚼する。そして、驚いた。味がする。米の甘み。さらに食べた。味噌汁を飲む。塩気と出汁の旨味。焼き魚を食べる。魚の脂と、塩の味。
 これまでの人生で、食事の味をほとんど感じたことがなかった。食事は、燃料の補給でしかなかった。
 だが今、味を感じている。なぜか。考えた。労働したからだ。石を割る労働。その労働で、身体はエネルギーを消費した。だから、身体が栄養を求めている。味覚が、鋭くなっている。
 だが、それだけだ。食事を楽しんでいるわけではない。味を感じても、それが喜びには繋がらない。内面は、相変わらず空虚だった。
 食事を食べ終えた。満腹感がある。胃が満たされている。だが、心は満たされていない。
 再び布団に横になった。身体中が痛む。筋肉痛だ。手のひらの豆も痛む。
 すぐに眠りに落ちた。だが、夢を見た。
 爆発の夢。
 ダムの最終発破。一・六五トンのダイナマイトが爆発する。轟音。衝撃波。粉塵。爆発の中にいて、身体が吹き飛ばされる。
 だが、音がない。夢の中でも、音が耳に入ってこない。無音の爆発。それは、悪夢だった。爆発が、沈黙の中で起きている。音のない世界で爆発を見ている。
 悲鳴を上げて目覚めた。だが、自分の悲鳴も耳には届かない。布団の中で震えていた。全身が冷や汗で濡れている。
 窓の外を見た。まだ暗い。時計を見ると、午前三時だった。もう眠れなかった。起き上がり、窓辺に座って暗闇を見つめる。
 自分が何を失ったのか、改めて理解した。聴覚を失った。それは、爆発の音を失ったということだ。轟音を失った。衝撃波の音を失った。爆発の核心を失った。
 涙を流した。悔しかった。爆発は、まだ存在する。世界のどこかで、今も爆発は起きている。だが、その音を聞けない。爆発の一部を永遠に失った。
 窓辺で朝を待った。
 翌朝、午前六時に目覚めた。いや、目覚めたというより、眠らずに朝を迎えた。身体中が痛む。特に、肩と腕と手。だが、起き上がった。
 午前七時、老婆が朝食を持ってきた。米、味噌汁、焼き海苔、納豆、卵焼き。食べた。今日も、味がする。だが、それが何だというのか。
 食事を終えると、再び石材店へ向かった。昨日と同じ道を、雪の中ゆっくり歩く。昨日の足跡はすでに新雪に隠れている。そこへ新しい足跡を刻みながら、前へ進んだ。
 石材店に到着すると、昨日の続きを始めた。石を割る。今日は、昨日よりも大きな石を選んだ。人間の胴体ほどのサイズ。五十キログラムはある。この石を作業場の中央に転がした。
 ハンマーを振るった。叩く。また叩く。昨日よりも、作業が速くなっている。石を割るコツを掴み始めていた。どこを叩けば亀裂が入りやすいか。どの角度で楔を打ち込めば効率的か。
 身体が、覚え始めていた。ハンマーの振り方。楔の打ち込み方。石の見方。すべてが、少しずつ自然になっていく。
 だが、内面は変わらなかった。石を割っても、満たされない。この作業は、時間がかかりすぎる。求めているのは、瞬間だ。爆発の瞬間だ。
 一つの石を割るのに、昨日の半分の時間しかかからなかった。そして、次の石に移った。また次の石に。丸一日、石を割り続けた。
 だが、何のためにこれをしているのか、分からなくなっていた。父を理解するため? だが、父は死んでいる。二十年前に、死んでいる。父を理解したところで、何になる。
 自分に問いかけた。お前は、何を求めているのか。
 答えは、明確だった。爆発だ。爆発を求めている。今も、これからも。
 夕方、作業を止めた。周囲を見回す。割れた石が、無数に散らばっていた。五十個以上。これらの石を見つめた。
 これは、二日間で作り出したものだ。労働の結果だ。
 だが、それが何だというのか。
 これらの石が何を意味するのか、理解できなかった。時間をかけて石を割った。その時間は、生きた時間だ。この世界に存在した時間だ。
 だが、その時間は、意味があるのか。時間を感じたくなかった。求めていたのは、時間の外にある瞬間だ。爆発の瞬間だ。
 民宿に戻り、夕食を食べた。やはり味がする。だが、それが何だというのか。
 布団に横になった。また、爆発の夢を見るのだろうかと考えながら目を閉じた。
 三日目も、石を割った。四日目も。五日目も。毎日、石材店に通い、石を割り続けた。民宿に泊まり、朝起きて、石材店に行き、石を割り、夕方に民宿に戻る。その繰り返し。
 手は、豆だらけになった。豆が潰れ、血が滲む。だが、やがて豆は硬くなり、たこになった。たこは、さらに硬くなり、手を守るようになった。手は、労働者の手になった。
 身体は、変わっていった。筋肉がつき、体力がついた。顔色も良くなった。民宿の鏡で自分の顔を見た。別人のような顔がそこにあった。頬に血色があり、目に力がある。
 だが、内面は変わらなかった。相変わらず、爆発を求めていた。夜、布団に横になると、爆発のことを考える。ダムの最終発破。あの爆発。その記憶を反芻する。轟音、衝撃波、粉塵。だが、音は耳に届かない。もう爆発の音は耳に入ってこない。
 それが、最大の苦痛だった。爆発は存在する。だが、その音を聞けない。爆発の核心を失った。
 七日目の夕方、作業を終えて、割れた石の山を見つめていた。数百個の石。すべて、自分が割ったものだ。
 これらの石を、大きさごとに分類し始めた。手のひらサイズのもの、両手で抱えられるサイズのもの、それ以上の大きなもの。作業場の端に、丁寧に積み上げていく。
 石を積み上げる作業にも、時間がかかった。二時間ほど。だが、急がなかった。
 積み上げが終わると、夕暮れになっていた。西の空が赤く染まっている。その空を見上げた。音のない夕暮れ。
 この静寂の中に何かを感じ始めていた。だが、それが何なのか、言葉にできなかった。存在? 時間? 分からなかった。
 民宿に戻ると、老婆が玄関で待っていた。老婆は、ノートを差し出した。
「明日で一週間になります。いつまで滞在されますか」
 ペンを取り、記す。
「あと一週間、お願いします」
 老婆は無言で応じた。そして、また文字を綴った。
「あなた、健三さんの息子さんですね。健三さんとそっくりになってきた」
 ノートを見つめる。そして、ペンを走らせた。
「父のことを覚えていますか」
 老婆は無言で肯き、書き込んだ。
「よく覚えています。寡黙な人でした。でも、石のことを話す時だけは、饒舌になった。石が好きだったんです。あの人は、石と会話していた」
 その言葉を読んだ。石と会話する。戸川も、同じことを言っていた。
「石の声が聞こえる」と。
 だが、石の声は耳に入ってこない。何も届かない。
 老婆は、さらにペンを動かした。
「健三さんは、あの事故の前の晩、ここに泊まっていったんです。採石場の近くで仕事があったから。夕食の時、健三さんは珍しく酒を飲んで、話してくれました」
 身を乗り出した。老婆は続けた。
「石は生きている、と健三さんは言いました。何億年も前に、マグマが冷えて固まったもの。その長い時間が、石の中に閉じ込められている。石を割ると、その時間が開放される。だから、石を割る時は、慎重にしなければならない、と」
 ノートを見つめた。父の言葉。父の声を覚えていない。だが、この言葉は、確かに父のものだった。
 老婆は、最後に紙に向かった。
「健三さんは、いつかあなたに石を教えたいと言っていました。でも、その前に、あの事故が起きてしまった」
 ノートを持つ手が震えるのを感じた。父は、石を教えたかった。だが、それは実現しなかった。父は死に、爆発に惹かれていった。
 だが今、父の仕事を追体験している。時間を超えて、父と繋がっている。
 だが、それが何になる。そう思った。父を理解したところで、渇望は消えない。爆発を求めている。石ではなく、爆発を。
 老婆に頭を下げた。老婆は微笑んだ。そして、夕食の準備に戻っていった。
 部屋に入り、窓辺に座った。町を見下ろす。いくつかの明かり。その一つ一つに、人の生活がある。老人たちの生活。
 他者の存在を感じた。老婆という他者。彼女には、彼女の人生がある。彼女の記憶がある。
 そして、自分もまた、他者として存在している。老婆から見た自分。健三の息子としての自分。
 だが、それが何だというのか。他者との繋がりを求めていない。求めているのは、爆発だ。
 翌日から、石の積み方を変えた。ただ分類して積むだけではなく、精密に組み合わせ始めた。
 モルタルは使わない。石と石を、隙間なく組み合わせる。
 これは、高度な技術を要する作業だった。石の形を正確に整えなければならない。少しでもずれると、石積みは崩れる。何度も失敗した。石積みが崩れる。また積み直す。
 だが、諦めなかった。なぜなのか、分からなかった。この作業は、爆発とは何の関係もない。だが、手は動き続けた。
 一週間かけて、小さな石積みを完成させた。高さ一メートル、幅一メートル。石だけで組み上げた石積み。
 この石積みを見つめた。これは、初めて「作った」ものだった。破壊ではない。創造だ。
 石積みに手を触れた。冷たい石。だが、確かに存在する石積み。時間をかけて作り上げた石積み。
 だが、内面には、満足感はなかった。むしろ、虚無感があった。
 この石積みは、何のために存在するのか。誰のために存在するのか。この石積みは、何年も、何十年も、ここに残るだろう。だが、それが何だというのか。
 爆発との違いを理解していた。爆発は、瞬間だ。すべてを破壊し、すべてを変える。だが、何も残らない。跡形もなく、消える。
 だが、石を積む行為は、残る。積んだ石積みは、死んだ後も、ここに残る。
 だが、それを望んでいるのか。何かを残したいのか。分からなかった。
 その夜、老婆と向かい合って食事をした。老婆は、ノートに文字を並べた。
「もうすぐ、二週間ですね」
 同意した。
「いつまで、ここにいるんですか」
 ペンを取り、しばらく考えてから、書き込んだ。
「もうすぐ、出発します」
 老婆は、驚いた表情を見せた。そして、返事を記した。
「どこへ行くのですか」
 ペンを走らせた。
「海外の鉱山に行きます。発破の仕事があるそうです」
 老婆は、しばらくノートを見つめていた。そして、手を動かした。
「また、爆発を見に行くのですね」
 その言葉を読んで、驚いた。老婆は、すべてを理解していた。
 老婆は、続けて紙に向かった。
「あなたは、健三さんとは違う道を選んだ。健三さんは石を愛していた。でも、あなたは爆発を愛している」
 何も答えられなかった。
 老婆は、最後に書き込んだ。
「それでも、いいと思います。人は、それぞれの道を行く。あなたは、あなたの道を行けばいい。でも、いつか、また戻ってきてください。この町は、あなたの故郷です」
 ノートを見つめた。そして、無言で了承した。
 三日後、民宿を出発した。軽トラックに荷物を積む。工具は、石材店に置いていく。いつか戻ってきた時に、また使うかもしれない。
 老婆が、玄関で見送ってくれた。深く頭を下げた。老婆も、頭を下げた。
 軽トラックに乗り込み、エンジンをかける。バックミラーに、笑顔の老婆が映っていた。静かに、手を振っている。
 町を抜けると、石材店の前に差しかかった。車を停めて降りる。
 作業場に入ると、自分が積んだ石が静かにそこにあった。父の道具も、昔のままだ。中央に立ち、深呼吸する。冷たい空気。冬の匂い。土と石の匂い。
 父の気配がした。ここにいる。この石の中に、この道具の中に。そして、自分の中に。
声には出さず、心の中で語りかける。
「父さん。俺は、ようやく分かりました。あなたが何をしていたのか。石は、生きている。石は、時間を含んでいる。石を割ることは、その時間と対話することです。でも、俺にはできません。俺は、あなたのようにはなれない。俺は、爆発を求めている。今も、これからも」
 作業場を出て車に戻る。エンジンをかけ、山道を下っていった。曲がりくねった道を、ゆっくりと進む。急がない。時間はある。だが、その時間はただの空白に思えた。
 山を抜けると、平野が広がる。遠くに海が見えた。その海へ向かって走った。
 着いて車を停める。波止場へ降り立つ。目の前には広い海がある。
 海を見つめる。波の音は聞こえないのに、波は確かに寄せては返す。打ち寄せて、また引いていく。永遠に続くようだった。
 車に戻った。そして、港に向かった。港には、貨物船が停泊している。その船に乗る予定だった。船は、東南アジアの鉱山に向かう。
 新聞の求人広告でその仕事を見つけていた。鉱山での発破作業。装薬技士募集。経験者優遇。ファックスで問い合わせた。
「聴覚障害があるが、それでもいいか」
 相手からの返信はこうだった。
「構わない。手が動けば問題ない。発破技士の免許は?」
「日本では剥奪された」
「こちらでは関係ない。来てくれ」
 乗船手続きを済ませた。そして、船に乗り込んだ。デッキに立ち、日本の海岸線を見つめる。故郷の町は、もう見えない。だが、確かにそこにある。
 船が出航した。エンジンが唸る。だが、その音は届かない。ただ、振動だけが足に伝わる。船は、ゆっくりと港を離れていく。
 デッキに立ち続けて、海を見つめる。水平線を見つめる。空を見つめる。
 内面では、まだ爆発が燃えている。爆発への渇望。それは、消えない。この渇望と一生付き合っていくだろう。父の石。それは、意味のあるものだった。父の仕事を学んだ。石を割る技術を学んだ。石が「自ら開く」場所を探す方法を学んだ。だが、それは渇望を満たさなかった。求めているのは、爆発だ。瞬間の陶酔だ。時間の外にある出来事だ。
 石を割る作業は、時間の中にある。緩やかで、持続的で、累積的だ。それは、本質とは相容れない。両方を知った。石と爆発。創造と破壊。時間と瞬間。だが、自分が選ぶのは、爆発だ。
 船は、大海原に出た。周囲には、海しかない。空と海の境界が、曖昧になる。その境界を見つめた。そして思った。世界は、加速などしていない。世界は、ただ存在している。ゆっくりと、だが確かに、存在している。石は、その世界の一部だ。時間をかけて形成され、時間をかけて風化する。だが、爆発は違う。爆発は、時間を超越する。爆発は、瞬間に世界を変える。その瞬間を求めている。
 これから何を見るのだろう。どんな爆発に出会うのだろう。音は耳に届かない。だが、見ることはできる。感じることはできる。衝撃波を、身体で感じることはできる。それで十分だった。いつか故郷に戻ることはあるだろう。何年後か、何十年後か。その時、再び石材店を訪れるかもしれない。父の道具を手に取るかもしれない。石を割るかもしれない。だが、それは遠い未来の話だ。今、爆発を求めている。
 船は、水平線に向かって進んでいく。冷たい風が吹く。海の彼方に、何があるのか。それを確かめに行く。鉱山。そこには、爆発がある。毎日、発破が行われている。その爆発を見る。音は耳に入ってこない。だが、見ることはできる。旅は、今、始まったばかりだった。爆発を求める旅。終わりのない旅。
 爆発なしでは生きられない。石を学んだ。父の仕事を知った。だが、それでも変わらなかった。依然として爆発に取り憑かれている。それが、本質だった。その本質から逃れることはできない。逃れようともしない。爆発とともに生きる。爆発とともに、世界を渡り歩く。
 水平線が、夕日に染まり始めた。オレンジ色の光が、海面を照らす。波が、光を反射する美しい光景。その光景を目に焼き付けた。そして思った。まだ見ぬ爆発がある。まだ見ぬ瞬間がある。その瞬間を求めて、航海していく。父の石は、故郷に残した。いつか戻る日のために。だが今、必要なのは、爆発だ。
 なおもデッキに立ち続けた。風が頬を打つ。その風の中で、爆発の夢を見ていた。聞こえない轟音。見えない衝撃波。だが、それでも求める。世界を加速させる爆薬を。内面で、その爆薬はまだ燃えている。消えることなく、燃え続けている。それが、生だった。
 船は、闇の中を進んでいく。その闇の中で、光を待っていた。爆発の光を。

(完)
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世界を加速させる爆薬作者:森本 凛
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