第3話:遇恵而開
第3話:遇恵而開
どれほどの時間が経ったのだろうか。
激痛と刃物のような冷気で薄目を開けた恵太の視界に飛び込んできたのは、見慣れた林間学校のスギ林ではなかった。
歪んだ空間の底。崖崩れによって削り取られた苔むした急斜面の最奥に、異様な空間がぽっかりと暗い口を開けていた。
そこにあったのは、見慣れた木製ではなく、異質な黒墨石で削り出された傾いた鳥居だった。
神道様式でありながら、その表面には梵字とも古代の神代文字ともつかない禍々しい刻印が隙間なく穿たれている。鳥居の先にある縦穴洞窟の奥には、何重もの極太の鉄鎖と、幾重もの朱色の封印札で固く閉ざされた巨大な観音開きの鉄扉が鎮座していた。
上に掲げられた扁額には、怨嗟の酷烈な筆致で『伏魔殿』と刻まれている。
(ここ、どこだ......? 山の死角に、こんな場所が......)
泥と血に汚れた制服のまま、這うようにして洞窟を抜け、湿った山裾へ下ると、薄い靄の立ち込める小さな集落が見えた。
昭和初期のまま時が止まったかのような茅葺屋根と土蔵が立ち並ぶ集落。そこは、かつて奥出雲のたたらに仕え、現世の地図から抹消された「鉄穴守りの隠れ里」だった。
現世から滑落してきた恵太を、古い着物姿の村人たちは困惑しながらも温かく介抱し、傷口に薬草を塗ってくれた。だが、恵太が介抱の最中に何気なく「あの洞窟の伏魔殿」の名を口にした瞬間、長老の老人は顔色を粘土色に変え、手にしていた竹の杖を激しく震わせた。
「あれは......決して近づいてはならぬ神域、この国の地底の底に繋がる魔の檻じゃ!」
長老の震える口から語られたのは、平安の昔、天界からこの出雲の裏境へと封印された百八の魔星――三十六の天罡星と、七十二の地煞星の凄惨な伝承だった。かつてたたらの炎と鉄の呪力をもってしても滅ぼしきれず、観音の扉の奥に閉じ込めた太古の悪鬼悪神。ひとたび解き放たれれば、この国の地脈は狂い、世に未曽有の大災厄が吹き荒れるという。
「絶対に、あの扉の鎖に触れてはなりませぬ。あれはお人の踏み込んでよい領域ではないのじゃ」
恵太は静かに頷いた。頷いたはずだった。
だがその夜。里の土蔵の宿所で休んでいた恵太の耳に、山から吹き下ろす冷たい夜風に乗って、底知れぬ「声」が届いた。
『――痛いよ』
『――暗いよ』
『――助けて......どうして私を置いていくの......』
胸が、ドクンと嫌な跳ね方をした。
それは特定の誰の声でもなかった。タコ小路の少女の記憶も、過去に救った者たちの残響も、そしてまだ見ぬ誰かの絶望もがぐちゃぐちゃに混ざり合い、脳髄の奥を引っ掻き回すような無数の慟哭だった。
(誰かが......中に閉じ込められている......? あの鉄の扉の向こうで、冷たい闇に怯えている......!)
頭で考えるより先に、恵太の足は動き出していた。
困っている者、泣き声を上げている者を前にして背を向けることなど、松江恵太の十四年の人生において一度たりとも存在し得なかった。それが罠であろうと、世界の禁忌であろうと関係ない。「目の前の不条理を放置しない」――その歪んだ美学が、理性を完全に塗りつぶしていた。
翌朝、夜明けの蒼い光が山肌を洗う中、恵太は制止しようと集まってきた村人たちを力任せに振り切り、伏魔殿の扉の前に立っていた。
「やめろ、若者! 中におるのは人ではない! 世を滅ぼす悪魔なんじゃ!」
長老が絶叫する。
「でも......ッ! 中で泣いてるんだよ!」
恵太は村人たちに向き直り、血走った眼差しで言い放った。
「何百年も暗闇に閉じ込められて、助けてって泣いてるんだぞ! どんな化け物だろうと、泣いてる奴をそのままにして通り過ぎるなんて......俺には絶対できない! 後のことなんて、俺が全部背負うから!」
狂気とも言える「無償の善意」の暴走。
恵太は傍らの角石を拾い上げると、右腕の激痛も忘れ、狂ったように太い鉄鎖の結び目を叩き続けた。金属音が山にこだまし、古びた朱色の封印札がちぎれ飛ぶ。彼の掌から滲んだ鮮血が呪文のように鉄肌を伝い、封印の理を内側から食い破っていく。
ギギギギ......と重い地鳴りのような音を立てて観音扉が開き、薄暗い洞窟の内部が露わになる。
だが、そこに子どもたちの姿はなかった。ただ広大な石窟の中央に、一基の古びた巨大な黒墨石の石碑だけが鎮座していたのだ。
その表面には、鮮烈な朱の塗料で、こう刻まれていた。
『遇恵而開』
――恵に遇いて開く。
(恵......俺の名前だ。俺が......俺が、こいつらを救うためにここに導かれたんだ......!)
一切の疑いもなく、恵太はその手で石碑の頂部に刻まれた宝珠へ触れ、力任せに押し込んだ。
次の瞬間。
目も眩むような漆黒と黄金の閃光が、石碑の亀裂から爆発的に噴き上がった!
「ヒッ......うわああぁぁぁっ!?」
地響きが山全体を揺らし、洞窟の天井が崩落する。長老たちが崩れ落ちる鳥居の下で絶望の表情を浮かべる。
眩い光の柱が天を突き破り、その中心から、三十六の巨大な黒炎と、七十二の黄金の燐光――計百八つの怪球が、世界を揺るがす咆哮とともに、四方八方の夜空へと弾け飛んでいった。
東の空へ、西の都へ、そして日本全土の闇夜へと、吸い込まれるように散らばっていく魔星の群れ。
嵐のような光と風が収まり、静まり返った境内で。
恵太は泥の上にへたり込んだまま、自分の泥と血にまみれた両手を見つめていた。
救ったはずだった。助けたくて、あの悲痛な泣き声に手を伸ばしたはずだった。
しかし、空っぽになった洞窟に充満する圧倒的な邪気と、自らの「善意」が引き起こした世界規模の破滅の予感が、遅れて恵太の脳髄を打ちのめす。あの声は、封印された魔星が彼の「善性の隙」を突くために見せた幻聴に過ぎなかったのだ。
「......嘘、だろ......」
ぽつりと漏れたその一言だけが、無情にも朝の冷たい風に掻き消されていった。
出雲の空を赤く染めて飛び去った百八の魔星。それが、松江恵太という少年の「歪んだ正義」が世界に突きつけた、最悪の産声だった。