第30話 仮説5
■仮説5
白河透は、1時間後の未来を知ることができる
書いてから、俺はノートを閉じた。
手は、表紙に置いたままだった。
馬鹿げている。
9年間、俺は現実的な人間としてやってきた。オカルトの類を信じたことは一度もない。障害の原因は必ず物理か論理のどちらかにあって、説明のつかないものは、まだ説明できていないだけだと思ってきた。
だが、と思う。
俺は9回死んでいる。
死ぬたびに3日前に戻っている。
その俺が、「未来を知る人間がいる」という仮説を、非現実的だという理由で捨てるのか。
俺はノートを開き直した。
仮説の良し悪しは、それが何を説明できるかで決まる。
当てはめてみればいい。
■仮説5で説明がつくもの
1. 15件すべてが60分以内に収まる
→ 射程が1時間だから。それより前は視えない
2. 外れが1件もない
→ 予測ではなく、観測だから
3. 「臆病」と自称しながら、土壇場でだけ大胆になる
→ 結果を知っている賭けは、賭けではない
4. 「勘です」「データを見ているだけです」
→ 説明できないものを、説明可能な言葉に置き換えている
5. 事前アナウンスが常に「可能性もあるため」「念のため」という形
→ 断定できない。断定すれば、なぜ断定できるのかを問われる
6. M-08を31回読んだ
→ 自分の射程が数字で並んだ、唯一の物証だから
7. 深夜の23分間、記録を止めた
→ 未来は視えても、自分が動いた記録は消えない
8. 路地に、先にいた
8番を書いて、俺は紙から目を上げられなくなった。
順番に考える。
俺があの路地を選んだのは、9月20日の4時40分だ。硬貨を投げて決めた。
業者があの室外機の陰に立っていたのは、遅くとも4時47分。俺が見つけた時刻だ。
仮に白河が1時間前──3時50分に未来を視て、業者を動かしたとする。
だが3時50分の時点で、俺はまだあの街の別の場所にいた。あの路地を選ぶかどうかも決まっていない。決めるのは、50分後だ。
なのに、業者は先に立っていた。
つまり。
3時50分の時点で視えた「1時間後」の中に、俺はもう、あの路地に立っていた。
俺が硬貨を投げる前から。
7回目のネットカフェも、同じだ。
向こうは2日かけて俺を探したわけじゃない。3時50分に視て、そこから向かっただけだ。60キロなら、深夜の高速で1時間かからない。
俺は椅子の背にもたれた。黒瀬彰、31歳。10回目の3日間の、9月18日の朝だった。
これが何を意味するか、理解するのに少しかかった。
俺は、乱数を使えば逃げられると思っていた。俺の意思を排除すれば、俺の行動は予測不能になると思っていた。
その考えの前提は、「未来はまだ決まっていない」だ。
予測というのは、決まっていないものを当てにいく作業だ。だから、こちらが選択を変えれば、予測は外れる。
だが観測は違う。
1時間後を視るというのは、1時間後に実際に起きることを見るということだ。俺がその間に何を選ぼうと、選んだ結果まで含めて、そこに映る。
俺が硬貨を投げようが、投げまいが。
右を選ぼうが、左を選ぼうが。
その選択の結果まで含めて、視えている。
俺は口を押さえた。
9回だ。
9回、俺は必死に手を変えた。逃げて、隠れて、乱数を使って、告発して、他人を巻き込んで、彼女を死なせた。
全部、視られていた。
変えた後の未来ごと、視られていた。
ペンを置いて、顔を上げた。
窓の外は、もう白かった。
なぜ4時50分なのか。
それも、たぶん、説明がつく。
あの人が視られるのは1時間だ。24時間、視続けているわけじゃないだろう。人間の集中力にも限界がある。
なら、いつ視るか。
決まった時刻に処理を走らせておけば、確認は1回で済む。
毎晩、決まった時刻に走らせて、決まった時刻に結果を確認する。
俺がやってきた運用と、まったく同じ考え方だ。
4時50分は、俺の死の時刻じゃない。
あの人の、定時バッチの実行時刻なんじゃないか。
◇
朝、俺は自分の部屋で、これまでの9回を並べ直していた。
9月17日の23時05分、UPSの確認を出させた。その50分後に落雷。
23時48分、待機を出させた。その7分後に基幹系が落ちた。
あれは勘でも、データの読みでもない。
あの人は、見てきたものを言っていただけだ。
2回目と6回目、俺が先に結線を直していた周回でも、この通知は一字も変わらなかった。当然だ。俺が守ったのは周辺機器の3台で、あの人が視ていたのは、その先の落雷と基幹系ダウンだ。俺が何をしようが、そこは変わらない。
◇
「気象と設備の相関を、過去5年分見ているだけですよ」
給湯室でマグカップを洗いながら、俺はそれを聞いた。
あの立地は変電所が古い。風速がある値を超えると事故率が跳ね上がる。数字を並べれば、誰が計算しても同じ結論が出ます。
完璧に筋の通った説明だった。俺は感心して、その場を離れた。
あのとき、桐生紗英さんは、何も言わずに立っていた。
ずいぶん長く黙っているな、と一瞬だけ思った。
その沈黙のことを、俺は初めてまともに考えた。
◇
9月18日。
俺は会社に行った。
10回目にして初めて、「あの人を見に行く」ために出社した。
◇
16時、遅番。俺は普通に業務をこなした。チェックリストを埋めて、問い合わせを捌いて、ログを流し見た。
17時20分、社員食堂。
列の3つ前に、白河透がいた。
プラスチックのトレイを持って、券売機の前に立っている。テレビで見るのと同じ、皺のないシャツ。
誰も騒がない。それが日常だからだ。
その人を、俺は見ていた。
遠くから見てきた人だ。社員の資格試験の科目まで覚えている人。災害のたびに真っ先に社員を守る人。委託先の常駐要員にも、すれ違えば会釈をする人。
その人が、俺を殺している。
9回。
顔を見ても、何も分からなかった。
当たり前だった。
罪悪感のある顔をしていない。何かを隠している顔もしていない。ただ、疲れているようにも見えない、静かな顔で、券を選んでいる。
あの人にとって、俺は「案件」なんだろう。
あの人は、俺が繰り返していることを知らない。
巻き戻れば、世界ごと戻る。あの人の記憶も戻る。10回目の朝を迎えた瞬間も、あの人にとっては初めての9月17日だ。
だから、あの人はいつも、初めて俺を処理する。
毎回、初回だと思って。
白河透が券を取って、歩き出した。
俺の横を通る。
目が合った。
軽く、会釈をされた。
俺も、会釈を返した。
◇
その夜、俺は運用室で、ずっとそのことを考えていた。
◇
9月19日の夜勤も、俺は普通に働いた。
定例ログ点検の当番だった。9年分の手順で、淡々と流した。
4時10分に、桐生紗英名義の通知が来た。本日5階の設備巡回は不要です。
助かる、とは思わなかった。
◇
4時50分。
背後で床が鳴った。
俺は振り返らなかった。
後頭部の付け根が熱くなって、口の中にコインの味が広がって、膝が落ちた。
床に頬がついた。目の前に、机の脚。
(11回目)
視界の端から色が抜けていく間、俺は考えていた。
1時間先が視える。改変した後の未来まで視える。外れない。
こちらには、死んで3日前に戻る力しかない。何をしても、視られている。
勝てない。
どう考えても、勝てる筋がない。
(......いや)
最後に、ひとつだけ引っかかった。
15件だ。
4年で15件しかない。
1時間先が常に視えているなら、あの人の人生は「不敗」どころじゃないはずだ。毎日、毎時間、何かを当て続けられる。株でも、賭け事でも、なんでもできる。
だが記録に残っているのは、15件だけだ。
(あの人は)
(いつも視ているわけじゃない)
黒い革靴が一歩、下がった。
俺は目を閉じなかった。
覚えたまま、いくために。