第31話 仕様書
4時50分。9月17日、火曜日。
11回目だ。黒瀬彰、31歳。10回死んだ。
◇
起きて、水を飲んで、俺は机の前に座った。
今日は、逃げない。隠れない。誰にも頼らない。警察にも行かない。
やることが、変わった。
10回目までの俺は、被害者だった。
降ってくるものをどう避けるかを考えていた。避け方は思いつく限り試して、全部失敗した。
もう、避けない。
◇
朝のうちに、会社に休みの連絡を入れた。今夜の夜勤は、代わりが立つ。
9年間、俺は他人の作ったシステムのお守りをしてきた。
仕様書を読んで、ログを読んで、動きを観察して、そこに書かれていない挙動を見つける。それが仕事だった。
いま、俺の前にあるのは、仕様書のないシステムだ。
なら、書けばいい。
◇
俺はノートを開いた。
いつもの3行の書式ではなく、数えきれないほど書いてきた、別の形式で始めた。
■機能仕様(推定)
対象:白河透
機能名:未来観測
1. 射程
発動時点から60分後まで。
根拠:確認できた15件すべてが60分以内。60分を超える事例はゼロ。
最長は52分(M-08のNo.7)。連絡は発動より必ず後に出る。文面になって現場に届くまでの手間を数分とみれば、発動起点でも60分には届かない。
→ 境界は60分で仮確定していい。※遅れの実測は未
2. 精度
100%。外れなし。
特記:対象が行動をランダムにしても、最終的な結果が観測されている。
根拠:9回目の路地。俺があの場所に行くと決まったのは観測時点より後。
3. 発動
任意と推定。常時ではない。
根拠:4年で確認できた事例が15件のみ。常時観測が可能なら、この程度で済むはずがない。
※未検証。ここが外れていたら、以下すべて無意味になる。
4. 発動条件
不明。
5. 回数制限
不明。
6. 副作用・コスト
不明。
7. 巻き戻り時の記憶
保持されないと推定。
根拠:毎周回、同じ日に同じ業務連絡が同じ文面で出る。行動に修正が入らない。
8. 観測範囲
視た1時間の全部が見えているのか、注意を向けた対象しか見えないのか。不明。
※未検証。ここが「全部」なら、この先どんな設計を組んでも意味がない。
1と2は、ほぼ確定でいい。15件のデータと、路地の一件がある。
問題は、3から8だ。
全部、不明か推定だ。
俺はこういう仕様書を何度も渡されてきた。
肝心なところが「不明」のまま運用に回ってくるシステム。仕様書に書かれていない挙動が、本番で出る。そのたびに深夜に叩き起こされる。
俺はいつも、こう思っていた。
書いた人間は、たぶん、そこを調べる時間をもらえなかったんだろうな、と。
俺には、時間がある。
時間だけは、いくらでもある。
次に、自分の仕様を書いた。
対称に並べないと、比較にならない。
■機能仕様(実測)
対象:黒瀬彰
機能名:巻き戻り
1. 発動
本人の死亡。任意発動は不可。
2. 幅
72時間固定。9月20日4時50分 → 9月17日4時50分。ぶれなし。
3. 引き継がれるもの
記憶のみ。
4. 引き継がれないもの
物、記録、他人の記憶、この世のすべて。
5. ペナルティ
直近の死の記憶が、巻き戻り後24時間かけて復元される。
→ 3日のうち1日が使えない。実働は実質2日。
6. 回数制限
不明。10回まで確認済み。
7. 致命的制約
死ななければ戻れない。
→ 生き延びて失敗した場合、やり直せない。
書き終えて、並べてみた。
まるで対称になっていなかった。向こうは8項目で、こっちは7項目。見出しも揃っていない。レビューに出されたら、俺は真っ先に差し戻す。
だが、揃えようがなかった。向こうについて分かることと、自分について分かることが、そもそも違う。
2枚を並べたまま、俺はしばらく眺めていた。
向こうは、未来が視える。100%外れない。改変した後の未来まで視える。
こちらは、未来が視えない。死んで3日戻るだけ。物も記録も持ち越せない。
性能では、話にならない。
だが、7番だ。
向こうの、7番。致命的制約。
巻き戻ったとき、白河透の記憶は残らない。
あの人にとって、9月17日はいつも初めての9月17日だ。10回目の朝も、11回目の朝も、まっさらな状態で始まる。
同じ判断をして、同じ連絡を出して、同じ時刻に同じ処理を発注する。
毎回、初見でやっている。
俺は、10回分の記憶を持って、11回目の同じ3日間に立っている。
あの人が次に何をするか、俺は全部知っている。
何時に業務連絡が出るか。文面がどうなるか。何時に落雷が来るか。誰が代休を取るか。桐生さんの名義でいつ巡回不要の通知が来るか。
あの人は、俺が何を知っているかを知らない。
性能で負けているのは事実だ。
だが、情報では、こちらが勝っている。
俺は顔を上げた。
火災報知器から、線が2本。その先に、白い箱がある。手つかずのままのやつが。
完璧な仕様だ、と思った。
射程1時間。精度100%。改変後の未来も視える。回避不能。
これを設計した誰かがいるとしたら、その人はよくやったと思う。穴がない。
だが、この仕事で俺が学んだことを、ひとつだけ言わせてもらう。
完璧な仕様なんて、この世に存在しない。
仕様が完璧に見えるときは、たいてい、2つのうちどちらかだ。
まだ全部読んでいないか。
あるいは、仕様には書かれていない前提が、どこかにあるか。
3番の行に、丸をつけた。
3. 発動
任意と推定。常時ではない。
ここだ。
常時視えているなら、何をしても無駄だ。俺が何を考えても、その1時間後は全部見られている。詰みだ。
だが、任意なら。
視ていない時間が、存在する。
◇
俺は新しいページを開いて、検証項目を書き出した。
■検証すべきこと
A. 本当に任意発動か
B. どういうときに発動するか(癖)
C. 発動に回数や間隔の制限はあるか
D. 発動していることを、外から見分けられるか
Dが一番大事だ、と思った。
いくら「視ていない時間がある」と分かっても、それがいつなのかを外から判別できなければ、使えない。
視ているか、視ていないか。
それが分かる方法が要る。
検証には、実験が要る。
実験には、被験者が要る。
俺は自分の手のひらを見た。
10回死んだ。
1回死ぬのに、痛みは40秒。そのあと3日前に戻る。失うのは、その周回で積み上げたものだけだ。
普通の人間なら、絶対にできない実験がある。
命を賭けないと確かめられないことは、この世にいくらでもある。誰もやらないのは、失敗したら終わりだからだ。
俺は終わらない。
俺の命は、実質、無料の試行回数だ。
その考えが頭に浮かんだとき、俺は少し、自分が怖くなった。
怖くなったが、消さなかった。
9年間、俺は自分の時間を安く売ってきた。夜勤も、休日出勤も、明け休みが潰れることも、そういうものだと思って受け入れてきた。安い、と分かっていて売っていた。
いま、俺が持っているのは、命そのものだ。
それも、たぶん、安い。
だが安いものには、安いものの使い道がある。
大量に投入できる。
◇
俺はノートを閉じて、立ち上がった。
最初の実験を決めた。
一番手っ取り早くて、一番危ない方法だ。
明日、あの人に会いに行く。