第32話 8秒
9月18日、16時。俺は遅番で出社した。
いつも通り業務をこなした。チェックリスト。問い合わせの一次対応。バッチの監視。
手は動いていたが、頭は別のことを考えていた。
◇
実験の設計は、朝のうちに済ませていた。
■目的
1. 発動が任意かを確かめる
2. 発動した瞬間を、外から見分けられるかを確かめる
■方法
白河透に、最大の脅威を直接ぶつける。
脅威を認識すれば、判断のために必ず発動するはず。
その瞬間を観察する。
■リスク
なし。
リスクなし、と書いたとき、俺は自分で少し笑った。
正体を明かせば、以後の周回で警戒される──とは、ならない。
巻き戻れば、あの人の記憶ごと消える。
俺が今日何を言おうと、明後日の4時50分を過ぎれば、あの人にとってそれは一度も起きなかったことになる。
言い逃げができる。
11回目にして、俺はようやく、この能力の使い方を理解し始めていた。
◇
17時20分、社員食堂。
列の3つ前に、白河透がいた。
プラスチックのトレイを持って、券売機の前に立っている。
俺は列を抜けて、その隣に立った。
「白河社長」
彼は顔を上げた。
驚いた様子はなかった。声をかけられることに慣れている人の反応だった。
「はい」
「東和システムズの、黒瀬です」
「──黒瀬彰さん」
その一瞬で、背中が冷たくなった。
フルネームだった。
名前を呼ばれたことは、ある。2回目と6回目だ。どちらも、俺が連絡の前にUPSの結線を見て回って、機器を1台も落とさずに済ませた周回だ。何かをやったから、覚えられた。
今回の俺は、何もしていない。
なのに、この人は俺の下の名前まで知っている。
「ご存じでしたか」
「ええ」
白河透は、それ以上の説明をしなかった。
「少し、お話しできますか」
「構いませんよ」
彼はトレイをカウンターに置いた。
食堂の隅の、誰も座っていないテーブルのほうを目で示す。俺は頷いて、そちらに歩いた。
◇
向かい合って座った。
周りに人はいない。夕方の食堂は空いている。厨房の音だけが遠くで鳴っていた。
俺は、相手の手元と目を、同時に見られる位置に座った。
観察するためだ。
「文書番号M-08。覚えていますか」
俺はそこから始めた。
白河透は、少しだけ首を傾げた。
「文書番号を言われても、すぐには」
「8ヶ月前、私が書いた月次報告の別添です。事前アナウンス受領時の初動手順の見直しについて」
彼の表情は、動かなかった。
参照ログで分かるのは、7階から、というところまでだ。だが、ここでぼかす意味はない。
「あなたは、あれを31回開いています」
厨房で、皿が重なる音がした。
白河透は、静かに俺を見ていた。
瞬きは、普通にしていた。呼吸も変わらない。手はテーブルの上で組まれている。指も動いていない。
「......よく調べられましたね」
それだけだった。
否定しなかった。
言い訳もしなかった。「なぜそんなことを調べたのか」とも聞かなかった。
俺は続けた。
「あの表には、11件のデータが並んでいます。あなたの事前アナウンスと、実際に事象が発生した時刻の差です」
「覚えています」
「平均38.3分。最短7分。最長52分」
「そうでしたね」
「60分を超えたものが、1件もありません」
鞄からノートは出さなかった。数字は全部、頭に入っている。
「社外の記録も調べました。4年前のコンペ、3年前の入札、2年前の取引先の破綻、去年の他社障害。40分、38分、50分、45分」
「......」
「合計15件。全部、60分以内です。1件も外に出ません」
彼の目が、俺の顔から動かなかった。
俺は、最後の一手を置いた。
「白河社長。あなたは、1時間先が視えますね」
止まった。
言葉が止まったんじゃない。
全部が、止まった。
瞬きが、なくなった。
テーブルの上で組まれた指が、一切動かなくなった。人間は、じっとしているつもりでも、指先や肩がわずかに動く。それが完全に消えた。
視線は俺の顔に向いたままだ。だが、俺を見ていない。
焦点が、俺の顔の少し先にある。
呼吸が、浅くなった。止まってはいない。だが、胸の動きがほとんど分からないくらい小さい。
俺は、数えた。
1。
2。
3。
厨房の音が遠い。
4。
5。
6。
誰かが食堂に入ってきて、券売機の前で立ち止まった。
7。
8。
戻ってきた。
最初に動いたのは、まぶただった。
一度、深く瞬きをした。それから、肩が下がった。
そして、息を吸った。
深く。長く。
水に潜っていた人間が浮かび上がったときの、あの吸い方だった。
焦点が、俺の顔に戻った。
今度は、ちゃんと俺を見ていた。
「......そうですか」
それだけだった。
彼は、否定しなかった。
怒りもしなかった。慌てもしなかった。何かを言い繕おうともしなかった。
ただ、少し、悲しそうな顔をした。
「黒瀬さん」
「はい」
「今日は、もうお帰りになったほうがいい」
「なぜですか」
「お疲れのようだから」
白河透は立ち上がった。
トレイを取りに戻って、券を出して、日替わりを受け取った。
その動きに、乱れはなかった。
彼は歩き出す前に、片手をポケットに入れた。
スマートフォンを出した。
立ったまま、片手で短く操作した。
3秒か、4秒。
文字を打つ動きではなかった。ボタンを1回か2回、押しただけの動きに見えた。
見覚えがあった。
8回目の4時50分、俺の部屋に入ってきた人が、俺の脈を確認したあとにやったのと、同じ動きだった。
白河透はスマートフォンをしまって、食堂を出ていった。
振り返らなかった。
◇
テーブルに座ったまま、俺は動かなかった。
厨房の音が戻ってきた。券売機のボタンを押す音。トレイが滑る音。誰かの笑い声。
俺の手は、震えていなかった。
整理する。
■観測結果(11回目・9月18日17時27分ごろ)
1. 発動は任意である
根拠:脅威を提示した直後に、明らかな変化が起きた。
常時観測なら、この反応は出ない。
2. 発動中の外見的兆候
・完全な静止(瞬き・指先・肩、すべて停止)
・視線は正面のまま、焦点が対象より奥に外れる
・呼吸が極端に浅くなる
3. 継続時間
8秒。
4. 終了時の兆候
・深い瞬きが1回
・肩が落ちる
・大きく息を吸う(潜水から浮上したときのような吸い方)
5. 直後の行動
スマートフォンで短い操作。3〜4秒。ボタンを1〜2回押す動き。
→ 業者が完了報告に使った動きと、同一。
5番のところで、俺はペンを止めた。
◇
1回目のあの夜。
23時48分に、桐生紗英さんの名義で「まもなく基幹系に影響が出る可能性があります」という連絡が来た。
深夜に、技術系の連絡が、秘書室名義で。
俺はあのとき、統括部に人がいないんだろう、と思って流した。
20日の4時10分に来る「本日5階の設備巡回は不要です」も、同じだ。
いつも、秘書室名義。
いつも、深夜。
あの人は、視たあと、誰かに短い連絡を入れているはずだ。
視た内容を、そのまま伝えることはできない。だから、指示だけを出す。
受け取った側が、それを業務連絡の形に整えて、現場に流す。
◇
ノートに、6番目を書いた。
6. 発動の痕跡は、外部に残る
→ 視た直後、秘書室宛に短い連絡が飛んでいるはず(要検証)
→ 秘書室名義の連絡は、社内システムに記録される
あの人が未来を視た瞬間は、目の前にいれば分かる。
だが、目の前にいられる機会は多くない。
目の前にいなくても、分かる方法が、いま見つかった。