第29話 不敗の記録
4時50分。9月17日、火曜日。
10回目だ。黒瀬彰、31歳。9回死んだ。
起き上がって、俺はまず頭の中を探った。
9回目の最後。
硬貨。左右に、路地が2本。
そこまでは、ある。
その先に、何かがあった。決定的な何かを見て、それを最後まで数えていた記憶がある。
だが、中身がない。
いつもの霧だ。
24時間、待つしかない。
俺はベッドの縁に座って、その24時間をどう使うかを考えた。
逃げるのは、やった。隠れるのも、乱数も、やった。告発も、他人を頼るのも、やった。
全部、負けた。
残っているのは、ひとつだけだ。
俺は、相手のことを何も知らない。
7階だと分かった。装置のことも、23分の空白のことも分かった。おそらく、M-08が動機だ。
手を下しに来る人間のことも、少しは分かった。作業服を着て、決まった時刻に来て、処理して、報告らしきものを送って帰る。俺の現場の言葉で言えば、『業者』だ。
だが、肝心の7階に誰がいるのかを、俺はほとんど知らない。
名前を知っているのは2人だけだ。秘書室長の桐生紗英と、社長の白河透。
M-08は、白河社長の事前アナウンスを並べた表だった。調べるなら、まずはそちらからだ。
同じ建物にいて、俺があの人について知っているのは、年に数回の会釈の角度くらいだ。
1. 今回の変更条件:白河透を調べる
2. 結果:これから
3. 次の変更条件:結果次第
朝のうちに、会社に休みの連絡を入れた。今夜の夜勤は、代わりを立ててもらうことになった。
9時、俺は図書館に行った。
ネットでも調べられる。だが図書館には過去の紙面がある。ネットに残っていない地方紙の記事や、業界誌のバックナンバーがある。
俺が障害調査で学んだことがひとつある。
同じ事象でも、記録の残り方は媒体によって違う。片方に書かれていないことが、もう片方には書かれている。
◇
白河透。29歳。
大学在学中に起業。最初は数人の受託開発から始めて、いまは社員300人。財務は健全。上場はしていない。
いま俺が常駐しているデータセンターは、もともと別の会社のものだった。シラカワ・ワークスがその運営会社を買ったのは、俺がここに来て何年かたった頃だ。東和システムズの常駐契約は、そのときにはもう続いていた。社員証を下げる相手の社名が変わって、連絡ツールのロゴが変わって、俺の仕事は何ひとつ変わらなかった。運営が変わっても、常駐している人間は変わらない。よくある話だ。
「不敗の天才」という呼び名は、たしかに複数の記事に出てきた。
その根拠として挙げられているのは、経営判断の的中率だった。
俺はノートを開いて、書き出し始めた。
紙に書くのは久しぶりだった。どうせ消えるから、いつもは頭の中でやる。
だが今回は量が多い。手を動かさないと、整理できない。
■記事に残っている「不敗」の逸話(時刻の記載があるものだけ)
1. 4年前・大手インフラ企業の基幹刷新コンペ
業界誌の特集「無名からの逆転」
白河氏が提案書の中核を全面差し替えた:13時40分
審査委員会が評価軸を「価格重視」から「運用継続性重視」に急遽変更:14時20分
→ 40分前
2. 3年前・同業他社の事業買収入札
経済誌
白河氏が提示額を再提出:16時12分
開札:16時50分(競合との差、1円)
→ 38分前
3. 2年前・主要取引先の資金繰り破綻
地方紙経済面
白河氏が決済を保留させた時刻:10時40分(記事が引用した社内会議録より)
先方の事実上の破綻発表:11時30分
→ 50分前
4. 去年・基幹システムの大規模障害(同業他社)
業界誌
白河氏が自社の接続を切り離した:21時47分
他社の障害発生:22時32分
→ 45分前
1番の記事が、最も長かった。
4年前、シラカワ・ワークスは社員30人の無名の会社だった。そこが、業界最大手を含む6社のコンペに手を挙げた。誰も勝つと思っていなかった。
プレゼンの当日、開始の1時間半前に、白河透は提案書の中核を差し替えると言い出した。
社内は反対した。当然だ。差し替えれば、事前に提出した資料と食い違う。形式不備で失格になる可能性もある。記事には、当時の役員の言葉が引用されていた。
「あれは、正気の沙汰じゃなかった」
白河は押し切った。
その40分後、審査委員会は評価軸を変更した。価格ではなく、運用の継続性を最重視すると。
差し替えられていた提案書は、ちょうどそこに合わせて作り直されていた。
受注額は、当時の年商の3倍あった。
この案件のあと、シラカワ・ワークスは社員30人から120人になった。
いまの会社があるのは、この日のこの1時間半のおかげだ、と記事は締めていた。
2番のほうは、記事の書き方が違った。
経済誌の記者は、明らかに気味悪がっていた。
入札の提示額を、白河は開札の38分前に、一度だけ書き換えている。
開札の結果、競合との差は1円だった。
「なぜその額だったのか」という問いに、白河氏はこう答えている。
「勘です」
その3文字の上で、ペン先が止まった。
勘です。
どこかで聞いた。
俺自身が、言った。落雷の夜、城戸さんに「なんで、言われる前に配線を直してたんですか」と聞かれて、俺はそう答えた。
うちの社長みたいなこと言いますね、と笑われた。
4件。
40分。38分。50分。45分。
俺はペンを置いた。
図書館の天井は高くて、蛍光灯が等間隔に並んでいた。
◇
8ヶ月前、俺は同じことをやっている。
M-08。11件。平均38.3分。最短7分。最長52分。
あのときは、社内の事前アナウンスだけを対象にした。俺の仕事の範囲だったからだ。
いま集めたのは、社外に出た経営判断だ。まったく別の話のはずだった。
同じところに収まっている。
15件。
M-08の11件と、いま見つけた4件。合計15件。
全部、60分以内。
外に、1件も出ない。
俺は机の前で、しばらく動かなかった。
インタビュー記事も読んだ。
同じ質問が、何度も出てくる。なぜそんなに当たるのか。
白河透の答えも、だいたい同じだった。
「データを見ているだけです」
「数字を並べれば、誰でも同じ結論になります」
「たまたま、続いているだけだと思います」
「私は臆病なんです。最悪の想定を先に置いておく癖があって」
どれも、まっとうな答えだった。
実際、そういう経営者はいる。データを見て、慎重で、最悪を想定する。それで判断の精度が上がるのは、当たり前のことだ。
俺だって、8ヶ月前はそう思った。
すごい人だな、と思った。
だが、記事を読み進めるほど、ひとつ引っかかることがあった。
白河透は、インタビューのたびに「臆病だ」と言っている。最悪を想定する癖がある、と。
その一方で、記事に書かれている実際の行動は、どれも正気の沙汰じゃない。
プレゼンの1時間半前に提案書の中核を捨てる。役員が全員反対しても押し切る。入札額を締切間際に書き換えて、1円差で競り勝つ。取引先の破綻を、誰も気づいていない段階で決済を止める。
臆病な人間のやることじゃない。
どの記事も、そこを「大胆な決断力」と書いていた。臆病を自称する彼の謙遜と、実際の大胆さのギャップが、この経営者の魅力なのだと。
俺は、そうは思わなかった。
臆病な人間が大胆な賭けに出るのは、勝ちが見えているときだけだ。
慎重な人間ほど、確信があるときには一切ためらわない。迷うのは、分からないからだ。
白河透は、迷っていない。
一度も。
100%外れないと分かっている賭けは、賭けじゃない。
それは、ただの作業だ。
だが、データを見て慎重に判断する人間の予測は、ばらつく。
3日前に気づくこともあれば、5分前にようやく気づくこともある。半年前から警告し続けて、結局起きないこともある。
外れることもある。
この15件には、外れがひとつもない。
そして、60分より前が、ひとつもない。
◇
俺は図書館を出た。
外はまだ明るかった。
◇
その日の夜、台風が来た。
俺は自宅で、23時55分の雷を聞いた。
あの5階で、誰かが受話器を取っている。秘書室の名前で連絡が出て、7分後にアラートが鳴る。
7分。
あれも、60分以内だ。
◇
9月18日、4時50分。
記憶が戻ってきた。
路地。
室外機の陰。
人が、立っていた。
俺がその道を選んだのは、あの人影を見る7分前だ。硬貨が落ちた向きで決めた。誰も知らない。俺も知らなかった。
なのに、先にいた。
「──いつから、そこにいた」
返事はなかった。10メートルを、普通の速度で歩いてきた。
◇
俺はベッドの上で、両手を顔に当てた。
落ち着け。
順番に潰す。いつも、そうやってきた。
■なぜ路地にいられたか
仮説1:記録を追跡した
→ 不可。俺があの路地を選んだのは7分前。追跡には時間が要る
仮説2:行動の癖を読んだ
→ 不可。硬貨で決めた。俺の意思が入っていない
仮説3:内通者がいた
→ 不可。誰にも言っていない。誰にも会っていない
仮説4:発信機を付けられていた
→ 位置は分かるかもしれない。だが「先にいる」ことはできない
位置が分かるだけでは、7分前に決めた場所に先回りできない
4つとも潰れた。
俺はノートに、5番目の行を書こうとして、ペンを止めた。
書けなかったのは、思いつかなかったからじゃない。
思いついていた。
書いたら、自分がおかしくなったと認めることになる気がした。
俺は立ち上がって、水を飲んだ。
台所の窓の外が、少し白んでいた。
俺は障害調査で、こう言われ続けてきた。
「その仮説は無理があるでしょう」
言われるたびに、俺は引っ込めた。角が立つからだ。ありえない話をする人間だと思われたくなかったからだ。
そうやって引っ込めた仮説が、後になって正解だったことが、何度かある。
ログは嘘をつかない。
嘘をつくのは、ログを読む側の常識のほうだ。
俺はノートに戻った。
1から4まで、全部潰れている。
残っているものが、ひとつある。
相手は、俺がどこにいるかを知ったんじゃない。
俺がどこに、いることになるかを、知っていた。
ペンの先が、紙の上で止まっていた。
それは、予測じゃない。
予測は外れる。15件のうち1件も外れないものを、予測とは言わない。
俺は、書いた。
■仮説5