第28話 最後の分岐
9月19日。
黒瀬彰、31歳。9回目の3日間の、最後の1日だ。
俺は朝から硬貨を投げ続けた。
起きて、硬貨。駅まで歩いて、硬貨。改札の前で、硬貨。
昼までに12回投げた。気づいたら、また知らない街にいた。
この日、俺が考えていたのは1点だけだった。
最後の分岐を、いつ引くか。
乱数で動くこと自体は、たいして難しくない。
難しいのは、4時50分だ。
俺が明日の4時50分にどこにいるかを、どこまで遅く決められるか。
早く決めれば、それだけ相手に時間を与える。7回目は17日の昼前に街を決めて、19日の22時に店に入って、7時間足らずで見つかった。決めてから捕まるまでに、ずいぶん余裕があった。
なら、最後まで決めない。
4時50分の直前に、硬貨で決める。
問題は、深夜4時台に選択肢のある場所が限られていることだった。
住宅街に立っていても、分岐がない。道が2本あっても、どちらも同じような暗い道だ。
選択肢のある場所。深夜でも人と店が動いている場所。
そこまで考えて、俺は手を止めた。
それは判断だ。
俺は硬貨を投げた。
表なら、そのまま乱数に任せる。裏なら、繁華街のある方角に移動してから乱数に戻す。
表だった。
◇
結果として、俺は19時過ぎに、それなりに大きい駅の周りにいた。
偶然だ。硬貨が5回、そちらを向いただけだ。
チェーンの居酒屋。カラオケ。24時間のファストフード。細い路地が何本も伸びていて、その奥に古い雑居ビルが並んでいる。
深夜も、たぶん、動いている街だった。
◇
22時。ファストフードの2階に座った。
窓際ではなく、階段から一番遠い席を選んだ。──選んでから、それも判断だな、と思った。
だが席の選び方までは、乱数にしなくていいはずだ。
どこまでを乱数にして、どこからを自分で決めるか。その線引き自体が判断で、そこに癖が出る。
完全な乱数など、人間には作れない。
テストデータを作ってきた人間として、それはよく知っている。
◇
0時。まだ何も起きない。
1時。店の客が減った。
2時。店員が床を掃き始めた。
◇
3時。俺は店を出た。
街は、思ったより明るかった。ネオンはだいぶ消えているが、コンビニがある。タクシーが停まっている。酔った人が歩いている。
俺は硬貨を投げた。
表。右へ。
4時00分。
交差点で投げた。裏。左へ。
4時20分。
三叉路で投げた。三択は決めていなかったので、表なら真ん中、と決めてから投げた。表。そのまま直進した。
4時30分。
俺は自分の心臓が速くなっているのに気づいた。
残り20分。
この20分で、あと何回投げられるか。
4時40分。
細い通りに出た。
両側に古い建物が並んでいて、シャッターが下りている。奥のほうに、まだ明かりのついた窓がひとつだけあった。
左右に、路地が2本。
俺は硬貨を親指に載せた。
残り10分。
この一投で、決める。
4時50分に俺がどこにいるかは、いま、この世界の誰も知らない。
俺も知らない。
硬貨が落ちるまで、決まらない。
弾いた。
回転する。街灯の下で、一瞬光った。
手の甲に落ちた。
手のひらを、離す。
表。
右だ。
◇
俺は右の路地に入った。
4時42分。
人ひとりがやっと通れるくらいの幅で、両側はビルの壁だった。室外機が並んでいる。上を見ると、細長い空が見えた。まだ暗い。
突き当たりまで、20メートルくらい。
その先に、また道がある。
4時45分。
俺は路地の真ん中で立ち止まった。
息を吸った。
勝った、とは思わなかった。7回目でそれをやって、12秒後に負けている。
だが、今回は違う。
仮に負けても、今回は分かることがある。
俺がここにいる理由は、この世界のどこにも存在しない。
記録にも、俺の癖にも、他人の証言にも、何ひとつ残っていない。硬貨が50回近く落ちた向きの積み重ねで、俺はここに立っている。
最後の一投は、5分前だ。
もしここに誰かが来るなら。
5分では、間に合わない。
4時47分。
突き当たりの手前、右側の壁に、室外機がひとつ突き出している。その陰が、他より少し濃い。
目が慣れるのに、数秒かかった。
人が、立っていた。
俺は動けなかった。
叫ぼうとして、息だけが漏れた。
その人は、動かなかった。
こちらを見ているのかどうかも分からない。ただ、そこに立っている。壁に背をつけるでもなく、しゃがむでもなく、普通に、立っている。
待っている姿勢ですらなかった。
もう、そこにいるのが当たり前という立ち方だった。
4時48分。
路地の入り口は、10メートル後ろにある。走れば、5秒かからない。
走れば。
走らなかった。
走っても意味がないからじゃない。
いま走ったら、この2分を無駄にすると思ったからだ。
その人を、俺は見た。
濃い色の作業服。深く被った帽子。口元を覆う布。黒い手袋。
足元。
黒い革靴。左のつま先に、小さな傷。
「──いつから、そこにいた」
声が出た。
返事はなかった。
「いつから、ここにいるのか聞いてる」
その人は動かない。
「俺がこの道を選んだのは、8分前だ」
風が、路地を抜けた。
室外機の音がしている。それだけだった。
4時49分。
その人が、こちらに歩き出した。
急いでいなかった。走りもしなかった。10メートルを、普通の速度で歩いてくる。
俺は動かなかった。
動けなかったのではない。動かないと決めた。
どうやってここを知ったのか。その手がかりを、最後の1分で拾いたかった。
距離が縮まる。
5メートル。3メートル。
スマートフォンを出さない。耳にも何も当てていない。暗い路地で画面が光れば、すぐに分かるはずだった。何も光らなかった。
1メートル。
◇
4時50分。
首の後ろに、手が回った。
後頭部の付け根が、じん、と熱くなった。
口の中に、コインの味が広がった。
膝が落ちた。
アスファルトが冷たかった。頬をつけた。
室外機。壁。細長い空。
(10分前だ)
(10分前に、硬貨が落ちた向きで決めた)
視界の端から色が抜けていく。
俺は、それでも数えていた。
この人が、あの室外機の陰に立つまでに、何が必要だったかを。
俺が硬貨を投げてから、あの陰を見つけるまでは、7分だ。
ここに来るまでの移動時間。この街に来るまでの時間。俺がこの街にいることを知る時間。
どれも、7分では足りない。
(──先に、いた)
俺は目を閉じなかった。
黒い革靴が、一歩、下がった。