第27話 乱数
> 寝る
> おやすみなさい
画面が暗くなるまで、そのままだった。
これが最後だ。
この3日間、俺は芦原千種に何も送らない。何も頼まない。会いにも行かない。
彼女を生かす方法は、それしかない。
◇
5時20分、俺はベッドから降りた。
9回目だ。黒瀬彰、31歳。8回死んだ。
整理する。
7回目、俺は逃げた。スマホを置いて、カードを断って、行き先を直前まで決めなかった。60キロ離れた街のネットカフェで、7時間足らずで見つかった。
8回目、俺は告発した。警察に装置を預けて、報道に電話して、証拠を積んだ。3日では何も動かなかった。そして彼女が死んだ。
どちらも、負けた。
だが負け方が違う。
8回目は、俺の手が届かないところで負けた。制度が遅い。それは俺にはどうにもならない。
7回目は、違う。
あれは、負けるはずのない負け方だった。
もう一度、考える。
俺が誰かを探すとしたら、方法は限られている。
■人を探す方法
1. 記録を追う(カード、ICカード、カメラ、通信)
2. 関係者に聞く
3. 行動の癖から予測する
7回目、俺は1と2を潰した。記録を残さず、誰にも言わなかった。
3は、潰していない。
人間は、自分で思っているほどランダムに動けない。
俺はログを読んできて、それをよく知っている。
人がどの経路を選ぶか、どの店に入るか、どの時間に休憩するかは、驚くほど繰り返す。本人は毎回「なんとなく」決めているつもりでいる。だが記録に落とすと、パターンが出る。
7回目の俺は、自分でも直前まで行き先を決めていないつもりだった。
だが、こうも考えていた。
「自宅から遠いほうがいい」「人が多いところに紛れよう」「現金で泊まれる場所」
それは全部、判断だ。
判断には癖が出る。
1. 今回の変更条件:俺の意思を、俺の行動から切り離す
2. 結果:これから
3. 次の変更条件:結果次第
俺は財布から100円玉を1枚、出した。
テーブルの上に置いた。
こんなもので、と思った。
だが理屈は通っている。
相手が俺の行動を予測できるとしたら、それは俺の中に「選ぶ理由」があるからだ。理由があれば、そこから逆算できる。
理由をなくせばいい。
俺の意思が入っていない選択なら、俺を分析しても出てこない。
ルールを決めた。
■規則
1. 分岐が来たら硬貨を投げる。表なら右、裏なら左
2. 事前に候補を考えない。分岐に立ってから投げる
3. 決定から実行までを最短にする
4. 誰にも言わない。書かない
5. 「なんとなくこっちがいい」と思ったら、必ず投げ直す
5番が一番大事だと思った。
人間は、乱数を使っているつもりで、都合のいい結果だけを採用する。テストデータの作り方でさんざん見てきた失敗だ。
3番についても、少し考えた。
決定から実行までの時間。
これを短くする理由は、自分でもうまく説明できなかった。ただ、7回目に見つかったことを思い返すと、そこが引っかかった。
俺があの街に着いたのは17日の昼前で、あの店に入ったのは19日の22時だった。決めてから入るまでに、2日以上あった。
もし相手が「これから俺がどこに行くか」を掴む手段を持っているなら。
その手段には、必ず、準備の時間が要る。
俺はスマホを机に置いた。今回も電源は入れたままにする。カードは抜く。現金は7回目と同じ額。
9時、家を出た。
◇
最初の分岐は、マンションの前だった。
右に行けば駅。左に行けばバス通り。
俺は硬貨を親指に載せて、弾いた。
空中で回って、手の甲に落ちた。手のひらを離す。
裏。
左だ。
俺はバス通りのほうへ歩き出した。
自分の足が、自分の決めていない方向に進んでいる。
9年間、俺の1日は全部決まっていた。何時に起きて、何時の電車に乗って、何時に入館して、何時にチェックリストを埋めるか。決まっていないのは、どのアラートが鳴るかだけだった。
いま、俺は次の角で右に行くか左に行くかも知らない。
自由だ、と一瞬思った。
思ってから、違うな、と思い直した。
これは自由じゃない。
自由というのは、自分で選ぶことだ。俺がやっているのは、選ぶのをやめることだ。
バスに乗った。
行き先は見なかった。硬貨で決めた。停留所を8つ数えたところで、また投げて、表が出たので降りた。
知らない住宅街だった。
そこから歩いて、大きな通りに出て、また投げて、駅に着いた。
券売機の前で投げた。表なら上り、裏なら下り。
下りだった。
電車が動き出した。
景色に見覚えがない。当然だ。俺は家と会社の間しか移動してこなかった。
この路線がどこへ向かっているのかも、正直、よく分かっていなかった。
それでいい。
俺が知らないなら、俺を分析しても出てこない。
◇
夕方、俺は名前も知らない駅で降りた。
5回投げて、5回分動いた結果、そこにいた。
どこかは分からない。駅名を見て、聞いたことがない、と思った。
商店街を歩いて、定食屋に入って、日替わりを食べた。
誰も俺を知らない。
俺も、自分がどこにいるのか、あまり分かっていない。
◇
夜、俺はカプセルホテルに入った。
受付で身分証を見せながら、これも痕跡だな、と思った。だが構わない。
7回目に負けたのは、痕跡のせいじゃない。
痕跡を追うには時間がかかる。7時間では追いつけない。
なら、あれは別の何かだ。
◇
9月18日、4時50分。
記憶が戻ってきた。
8回目の死。
開いたドア。無地の作業服。深い帽子。口元を覆う布。黒い手袋。
首の後ろに当たった、小さな器具。
俺が倒れてから、20秒待った足。
手袋の指が、俺の首筋に触れた。脈を取っていた。
それから、ポケットからスマートフォンを出して、片手で短く操作した。3秒か、4秒。文字を打つ動きじゃない。ボタンを1回か2回、押しただけ。
去り際に、軽く会釈をした。
カプセルの中で、俺は目を開けていた。
心臓が、遅れて速くなった。手のひらが湿っていた。
完了報告だ。
そう見えた。ただの記録かもしれない。だが、脈を確かめて、ボタンを1回か2回押して、去る。夜勤明けの俺と、順番まで同じだった。
報告だとすれば。
報告先がある、ということだ。
どこかに、結果を知りたがっている人間がいる。処理が終わったかどうかを、確認したがっている人間が。
俺は天井の低いプラスチックを見上げながら、それを何度か頭の中で転がした。
いまは使えない情報だ。だが、覚えておく価値はある。
◇
その日も、俺は乱数で動き続けた。
朝、硬貨で方角を決めて歩いた。昼、駅で投げて電車に乗った。午後、投げて降りた。
人と話したのは、店員だけだった。
「袋いりません」「日替わりで」「6時間で」
名前を呼ばれることは、一度もなかった。
◇
夕方、俺はベンチに座って、硬貨を手の中で転がしていた。
この2日で、俺は30回近く投げている。
30回分の分岐を、俺の意思なしで通り抜けた。
いま俺がここにいる理由は、この世界のどこにも書かれていない。俺の頭の中にもない。あるのは、硬貨が落ちた向きだけだ。
これで見つかるなら。
俺はそこで、考えるのをやめた。
やめたというより、その先を見ないようにした。
もし、これでも見つかるなら。
それは、記録を追われたわけでも、癖を読まれたわけでもないということだ。
残り時間、36時間。
俺は硬貨を握って、立ち上がった。
次の分岐まで、あと少し歩く。