第26話 おはよう
22時。俺は部屋の明かりをつけて、テーブルの前に座った。
やることは3つある。
ひとつ目。
この3日間で分かったことを、持ち帰れる形にする。
紙には書かない。頭の中で、いつもの書式に落とす。
■8回目で得た結論
1. 司法は間に合わない。鑑定に数週間。3日で人は救えない
2. 報道も同じ。裏取りに数週間
3. 「見られていれば安全」は誤り。警察に預けても、向こうは止まらなかった
4. 他人を巻き込むと、その人間が処理対象になる
5. 対象になった人間には、準備なしの方法が使われる
4番を頭の中で読み上げて、俺はしばらく動けなかった。
これは、彼女の命で買った1行だ。
二度と忘れないだろう、と思った。忘れないことしか、俺にはできない。
ふたつ目。
今夜の死に方を、決める。
装置はもう部屋にない。警察が持っている。天井には線が2本、垂れ下がっているだけだ。
副系統は、ない。
つまり今夜は、人が来る。
7回目のネットカフェと同じだ。あのとき俺は暴れた。荷物を投げて、腕を振り回して、壁に当てただけで終わった。
あの40秒を、無駄にした。
今回は、抵抗しない。
抵抗すれば、視界が揺れる。呼吸が乱れる。観測の精度が落ちる。
俺に残された武器は、記憶だけだ。持ち帰れるのは、俺が見たものと聞いたものだけだ。
だから、見る。
◇
俺は玄関に行って、チェーンを外した。鍵も開けて、ドアノブを一度回して、外から押せば開くことを確かめた。
部屋に戻って、椅子をドアのほうに向けて置いた。座った。
入り口が、まっすぐ見える位置だ。
みっつ目。
これが、一番時間がかかった。
◇
俺は芦原千種のトーク画面を開いた。
最後のやり取りは、深夜2時40分で止まっている。
> 撮れましたよ
> ほんとにありましたね、これ
> で、これ何なんですか
> 焼肉のときに聞きます
その下に、昼に俺が送った3行が、既読のつかないまま並んでいる。
俺は指を画面に置いて、何度か文字を打っては消した。
「ごめん」と打って、消した。
「俺のせいだ」と打って、消した。
どれも送れなかった。送っても届かない。彼女のスマホは、いま、警察か家族のところにある。
それに、あと7時間で、この画面ごと消える。
俺は画面を閉じた。
代わりに、覚えることにした。
彼女の声。「かわいそうに」と言うときの、まったく同情していない声。「ぜったい嘘」と打つときの速さ。死ぬ夢だと言ったとき、笑わずに黙った、2秒か3秒の間。缶を軽く持ち上げて挨拶の代わりにする、あの手つき。
「焼肉がいいです」と打ってきたときの顔は、見ていない。
たぶん、少しだけ得意そうだったんだろうと思う。
目、真っ赤ですよ。
31で言うことじゃないですよ、それ。
明日の明けは、ほんとに休んでくださいね。
巻き戻ったあと、彼女は生きている。
俺が今夜死ねば、彼女は自分の部屋で目を覚まして、いつも通り出勤して、いつも通り俺に「顔色悪いですよ」と言う。
昨夜のことは、彼女の中に存在しない。
俺に写真を頼まれたことも、深夜2時30分にサーバルームに入ったことも、自分が一度死んだことも。
誰も知らない。
俺だけが覚えている。
それは、悪くない役割だと思った。
俺は誰かの残した記録を読む仕事をしてきた。
今度は、記録が残らないもののほうを、俺が持つ。
◇
1時。
ドアは、閉まったままだった。
2時。
3時。
部屋は静かだった。冷蔵庫の音がしている。それ以外は何も聞こえない。
4時。
俺は水を一口飲んだ。手は震えていなかった。
自分でも意外だった。7回目のときは、あんなに怖かったのに。
たぶん、選んだからだ。
4時40分。
俺は姿勢を正した。
背筋を伸ばして、両手を膝に置いた。
4時45分。
4時48分。
4時49分。
◇
4時50分。
ドアが、開いた。
ノックはなかった。今日は鍵が開いていることを、向こうも分かっていたのかもしれない。
黒い革靴。左のつま先に、小さな傷。
俺は椅子に座ったまま、そちらを見上げた。
初めて、上まで見た。
濃い色の作業服。よくある形。名前も社名も入っていない。
手袋。薄い、黒いやつ。
顔は、見えなかった。
深く被った帽子と、口元を覆う布。目のあたりだけが暗く空いている。うっすら見えるのは、俺の知らない目元だった。
立てば、俺と同じくらいの背に見えた。
「あんた、誰だ」
声が出た。
自分でも驚くほど、落ち着いた声だった。
返事はなかった。
相手は部屋に入って、ドアを閉めた。それから、まっすぐこちらに歩いてきた。
「7階だろ」
止まらなかった。
「なぜ俺を狙う。それとも誰かに」
言い終わる前に、後ろに回られた。
俺は振り返らなかった。
抵抗しないと決めていた。
首の後ろに、何かが触れた。
小さい。指2本分くらいの幅。冷たくもなく、痛くもない。ただ、当たっただけだった。
後頭部の付け根が、じん、と熱くなった。
口の中に、コインの味。
俺は椅子から滑り落ちて、床に横向きに倒れた。
目は、開けたままにした。
視界の中に、その人の足があった。
動かない。俺が倒れてから、一歩も動いていない。
待っている。
効くのを、確認している。
20秒ほどして、その人はしゃがんだ。
手袋の指が、俺の首筋に触れた。
脈を、取っている。
まだ、ある。俺の右の耳が、それを拾っている。速くて、不規則で、つまずいている。
その人は10秒ほど指を置いて、離した。止まるまで待つ手つきではなかった。どう止まるかを、知っている手つきだった。
それから立ち上がって、ポケットから何かを出した。
視界が狭くなっていて、はっきりとは見えなかった。だが、小さくて、四角くて、光っていた。
スマートフォンだ。
片手で、短く操作した。3秒か、4秒。
文字を打つ動きではなかった。ボタンを1回か2回、押しただけの動きに見えた。
(──報告してる)
この人は、いま、完了報告を送っている。
どこかにいる誰かが、それを受け取る。受け取って、たぶん、確認する。
9年間、俺が夜勤明けに送り続けてきたものと、同じだ。
作業完了。特記事項なし。
その人はスマートフォンをしまって、ドアのほうを向いた。
出ていく直前、こちらを振り返った。
そして。
軽く、頭を下げた。
深くはない。挨拶くらいの、浅い会釈だった。
礼儀正しい人なんだな、と思った。
ドアが閉まる音がした。
視界の端から色が抜けていく。
右の耳だけが、自分の心臓を拾っている。速い。不規則。つまずいて、また走って、また、つまずいた。
俺は覚えることを並べた。
(作業服、無地)
(手袋、黒)
(脈を確認する)
(スマホで報告、ボタン1〜2回)
(去り際に会釈)
照明が白く広がって、細くなった。
(それから)
(芦原)
4時50分。9月17日、火曜日。
◇
目を開けた。
天井。線が2本。その隣に、白い箱。
戻っている。
俺は起き上がって、床に足をつけた。
手が震えていた。
スマホを掴んだ。トーク画面を開くのに、指がうまく動かなかった。何度か失敗して、やっと開いた。
最後のやり取りは、この3日間より前のものだった。
> 明けはちゃんと寝てくださいね
彼女が普通に生きていた頃の、なんでもない言葉だ。
俺は打った。
> おはよう
4時51分だ。彼女は寝ている。既読なんかつくわけがない。
分かっていた。分かっていて、俺は画面を見ていた。
◇
5分ほどして、既読がついた。
> は?
> なんですか急に
> 誤送信ですか?
俺は画面を見たまま、口を押さえた。
声が出た。
> 起きてたのか
> トイレです
> 寝ますよ私は
> わるい
> 黒瀬さんこそ寝てくださいね
> 今日夜勤でしょ
俺は、しばらく返せなかった。
画面の中で、彼女が普通に生きて、普通に呆れている。
前の周回の19日に、彼女は死んだ。
俺の頼んだ写真のせいで、28歳で、自分の部屋で。
それを知っているのは、この世界で俺だけだ。
> 寝る
> おやすみなさい
俺はスマホを胸の上に置いて、天井を見上げた。
もう、誰も巻き込まない。