第25話 貸し2
9月19日、木曜日の朝から、俺は動いていた。
新聞社の窓口に電話をかけた。地方版の担当につながって、話を聞いてもらった。10分ほど。相手は熱心にメモを取ってくれた。そして最後にこう言った。
「──ありがとうございます。ただ、こちらでも裏取りが必要になりますので、すぐに記事にというのは」
「どのくらいかかりますか」
「内容によりますが、早くて数週間かと」
同じだ。
この社会にあるどの窓口も、同じ速度で動いている。それは怠慢ではない。裏を取らずに人を告発しないための、正しい設計だ。
正しい設計に、俺だけが間に合わない。
◇
昼、俺は芦原千種にメッセージを送った。
> 今朝はありがとう
> あの写真、しばらく消さないでおいてくれ
> あと、あの機器のことは誰にも言わないでほしい
既読はつかなかった。
夜勤明けだ。寝ているんだろう、と思った。
◇
14時。まだ既読がつかない。
俺は自分の部屋で、床に座っていた。
やることは、もう思いつかなかった。
警察には装置を預けた。相談記録も残っている。新聞社にも話した。写真は俺のスマホの中にある。あと15時間、生き延びればいい。
生き延びれば、これが全部、明日に繋がる。
俺は目を閉じて、その15時間の過ごし方を考えていた。
◇
17時20分、着信。
沼田課長だった。
俺は出た。休みが長引いていることを怒られるんだろうと思った。何を言われても、今日は流そうと決めていた。
「黒瀬くん」
声が、おかしかった。
「はい」
「あのさ」
電話の向こうで、誰かが早口で何かを言っている。人が多い場所にいるらしい。
「芦原さんが」
「亡くなった」
俺は、聞き返さなかった。
聞き返せなかった、という言い方のほうが正しい。声が出なかった。
「今朝、夜勤明けで帰って。それで昼過ぎに、実家のお母さんがたまたま来てたらしいんだ。合鍵持ってるから、開けて入って。それで、お母さんから会社に電話があって」
沼田課長の話し方は、いつもと違って、順番がめちゃくちゃだった。
「部屋で倒れてたって。もう、その時点で」
「......死因は」
「わからん。まだわからんよ。若いのに。まだ28だぞ」
沼田課長の声が、途中で崩れた。
「心臓じゃないかって、救急の人が言ってたらしい。持病もないのに、そんなことあるかよ。うちの現場、あいつが一番ちゃんとしてたんだぞ。あいつが一番──」
そこから先は、言葉になっていなかった。
俺は電話を持ったまま、床に座っていた。
沼田課長が何度か鼻をすする音がして、それから、少し落ち着いた声で言った。
「黒瀬くん。お前、体調悪いんだよな」
「はい」
「休んでろ。今日は、来なくていい」
「はい」
「......あのさ」
「はい」
「あいつ、昨夜の夜勤で、なんか変なことしてなかったか」
俺は、目を閉じた。
「変なことって」
「いや、入退室の記録見てたらさ。深夜2時半に、サーバルームの入室記録があるんだよ。あの時間、あいつがサーバルームに入る用事ないんだ。落雷対応はとっくに終わってるし、点検の当番でもない」
「......そうですか」
「なんかあったのかな」
「分かりません」
電話が切れた。
俺はスマホを床に置いて、しばらく動かなかった。
◇
深夜2時40分。
> 撮れましたよ
> ほんとにありましたね、これ
写真が3枚。No.7ラックの背面。下段の隙間。黒い箱。細い線が2本。
> で、これ何なんですか
> まだ分からない
> 分かったら話す
> 焼肉のときに聞きます
俺は立ち上がって、トイレに行って、吐いた。
昼に食べたものが全部出て、そのあとは胃液しか出なかった。それでも身体が勝手に動いた。
水を流して、洗面台で口をゆすいだ。
鏡に、目の充血した男が映っていた。黒瀬彰、31歳。8回目の3日間の、最後の夜だった。
7回死んだ。
その全部を、俺は自分の問題として処理してきた。痛い。怖い。理不尽だ。だが俺の身体で起きていることだ。
今回、死んだのは俺じゃない。
俺が頼んだから、彼女はあのラックの前に立った。
5分の作業だ。写真を3枚撮っただけだ。
深夜2時30分にサーバルームに入った記録が残って、その朝、28歳の彼女は自分の部屋で死んだ。
◇
警察に電話をかけた。
一昨日の担当につないでもらうまでに、何度か回された。
繋がってから、俺は早口で話した。同じ現場の同僚が今日亡くなったこと。彼女は昨夜、俺に頼まれて職場の機器の写真を撮ったこと。一昨日預けた装置と同じものが、彼女の部屋にもあるかもしれないこと。
だから、彼女の部屋の天井を見てほしい、と言った。
相手の声は、一昨日より慎重だった。
「そのお話は、記録しました。ご遺体の件については、こちらから所轄に確認します」
「天井です。火災報知器の隣を見てください」
「承知しました」
「今日中に見てもらえますか」
「......黒瀬さん」
彼は少し間を置いた。
「一昨日お預かりした機器の件も含めて、我々は真剣に扱っています。ただ、今日中に、というのは約束できません」
「分かってます」
「ご心配だとは思いますが、憶測で動くと、かえって捜査が」
「分かってます」
俺は礼を言って、電話を切った。
分かっていた。
彼女の部屋には、たぶん何もない。
あの装置は、8ヶ月前に決められて、半年かけて準備されたものだ。俺の非番の日を選んで、記録を止めて、天井裏に線を引いて設置された。
彼女は今朝の2時30分に、初めて対象になった。
そんな準備をする時間はない。
だから、別の方法が使われた。
準備のいらない方法。
夜勤明けの、一人暮らしの部屋。玄関の鍵。あるいはその手前で。
俺は7回目のことを思い出していた。
鍵のかからない個室のドアが開いて、黒い革靴が入ってきた。相手は迷わなかった。番号も確認しなかった。
あれと同じことが、彼女の部屋で起きた。
俺は床に座り込んだ。
声は出なかった。涙も出なかった。
出たのは、計算だった。
いま、俺の目の前には2つの道がある。
ひとつ。今夜4時50分を越えて、生き延びる。
そうすれば、この3日間は消えない。警察に預けた装置は残る。相談記録も残る。新聞社に話した内容も残る。俺の証言に日付がつく。
積み上がる。
そして。
芦原千種が死んだという事実も、そのまま残る。
ふたつ。今夜、死ぬ。
そうすれば、全部が3日前に戻る。
警察の記録は消える。装置は俺の部屋の天井に戻る。新聞社との通話もなかったことになる。これまでの7回と同じように、この3日の積み上げが全部ゼロになる。
そして。
彼女は、生きている。
その2つを、俺は何度も並べ直した。
並べ直すたびに、答えは同じだった。
答えが同じなのに、俺は何度も並べ直していた。
◇
窓の外が、暗くなっていった。
部屋の照明はつけなかった。
俺は床の上で、膝を抱えて座っていた。31歳の男が、そんな座り方をするのは、たぶん小学生のとき以来だった。
スマホの画面を、もう一度つけた。
> シフトの分と合わせて、貸し2です
> 焼肉な
> 高いですよ
22時。
俺は立ち上がって、部屋の明かりをつけた。
やることを決めた。