ホーム›デバッグ・ザ・フューチャー ―不敗の社長と、3日前に戻る限界SE―›第16話 23分
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第16話 23分

 休むと言った翌日、9月19日。俺は会社へ行った。

 14時、私服で入館した。

 受付の警備員は顔を上げて、いつも通り会釈をした。黒瀬彰くろせあきら、東和とうわシステムズ。長年この建物に通っている男だ。休みの日に忘れ物を取りに来ることくらい、珍しくもない。

 入館記録の端末に、名前が残る。

 残していい、と思った。

 どうせ明日の朝には消える。

  ◇

 サーバルームは、いつもと同じ温度だった。

 7列目。No.7ラックの背面を開ける。

 下段の隙間。名刺入れくらいの、黒い箱。細い線が2本、配線束に沿って伸びている。

 俺は箱の裏側に指を回した。

 昨夜と同じだ。四角い凹み。その中に、黒いカートリッジ。

 抜いた。

 振ると、音がした。

 昨夜と同じ音だ。同じ重さ。同じ大きさ。

 中身が何かは、まだ分からない。だが同じものが、同じ形の箱に、同じ向きで差さっている。

 両方だ。自宅の天井にも、この7列目にも。

 俺は9年間、この2つの場所を往復して生活してきた。夜勤と、自宅。運用室と、ベッド。俺の人生は、ほぼその2点でできている。

 その両方に、置いてある。

 どちらで死んでも構わないように。

 いや、と俺は思った。

 4回目の朝を思い出す。あの部屋は密室だった。玄関はチェーンまでかけた。窓は全部閉めて鍵をかけた。誰も入ってこなかった。俺は目を開けたまま、それを最後まで確認していた。

 誰も入ってこられなかったから、天井のあれが動いた。

 順番が、逆だ。

 閉じこもったから、使われた。裏を返せば、閉じこもらなかった1回目から3回目に、これが使われたという証拠は何もない。

 2ヶ所にあるのは、どちらか片方が使えなくなっても足りるようにだ。俺が家に閉じこもったとき。俺が家に帰らなかったとき。

 俺が報告書に書き続けてきた言葉が出てきた。

 冗長構成、という。

 主系統が落ちたときに、副系統が引き継ぐ。落ちても止まらないように、同じものを2つ用意しておく。まっとうな設計だ。俺はその設計の面倒を見てきた。

 なら、これは副系統だ。

 主系統は、まだ見ていない。

 俺はカートリッジを元に戻した。

 持ち去りたかった。持ち去って、どこかに分析に出したかった。だが分析には日数がかかる。俺には明日の朝までしかない。

 それに、抜いたことがばれる。

 自宅の分は外した。あれはもう向こうに知られているかもしれない。だからこそ、こちらは触っていないように見せておきたかった。

 扉を閉める前に、俺は箱の側面をもう一度見た。

 細いスリットが、下ではなく横を向いている。ラックの背面の、排気側だ。

 この列の排気は、天井側から空調機に戻る。戻った空気は、同じ系統で運用室にも回る。俺はその温度を毎晩監視画面で見てきた。摂氏22度。ラックの背面から運用室の足元まで、同じ空気が流れている。

 つまり、この1つでこの階が全部入る。サーバルームでも、運用室でも。

 自宅に1つ、この階に1つ。

 それで、俺の生活は全部覆われている。

 ラックの扉を閉めて、俺は運用室に向かった。

  ◇

 運用室には誰もいなかった。

 今日の日勤は芦原あしはらじゃない。俺が17日に開けた穴で、シフトが組み直されている。日勤の担当が誰であっても、この時間は午後の設備立ち会いに出ている。戻るのは16時30分だ。立ち会いの時間を頭に入れているのは、こういうときに役に立つ。

 俺は自分のアカウントで端末に入った。

 最初に開いたのは、今夜のシフトだった。

 昨夜、沼田ぬまた課長は留守番電話に「明日の夜勤、本社から人を出すことになった」と残していた。誰が来るのかを知っておきたかった。

  > 9/19 夜勤 応援要員 ── 手配取消
  > 当夜は遠隔監視対応とする(先方要請)

 その2行を、俺は2回読んだ。

 遠隔監視対応。

 この現場でそれをやったことは一度もない。契約書に有人当直と書いてある。書いたのは先方だ。人を置けと言い続けてきたのも先方だ。

 その先方が、今夜だけ要らないと言っている。

 助かる、と思った。

 思ってから、自分がいまその言葉を使ったことに、少し引っかかった。

 権限の範囲は分かっている。運用保守の要員として、俺は入退館システムのログと、共用部の監視カメラの記録に、参照権限を持っている。障害調査に使うためだ。

 俺はこの権限で、他人の記録を読んできた。

 今日は、自分のために読む。

 探すのは、先月だ。

 No.7ラックの黒い箱を最初に見つけて、俺がチケットを起票した月。

 あの箱は、その前から存在していた。だから設置されたのは、それよりさらに前になる。

 入退館ログを、3ヶ月分引き出した。

 5階の扉を通った記録が、日付と時刻と、社員証のIDで並んでいる。膨大な行だ。だが読むのは慣れている。俺の仕事は、これを読むことだった。

 深夜帯だけに絞る。日付が変わってから、朝の5時まで。

 俺の名前。芦原の名前。たまにシラカワ側の担当者。それだけだ。この建物の深夜は、そういう場所だ。

 1時間ほど読んで、俺は手を止めた。

 穴があった。

 このシステムは、人が通らなくても記録を吐く。1分ごとに、各扉の施錠状態と通信の死活を1行。深夜のログの9割はそれだ。俺はその行を、ずっと読み飛ばしてきた。

 2ヶ月前の、ある日の深夜。

 1時47分から、2時10分まで。

 その23分間だけ、その行がない。入館も、退館も、扉の開閉も、1分ごとの生存確認も。1件も。

 最初に疑うべきは、自分の読み間違いだ。

 俺は抽出条件を変えて、3回引き直した。同じだった。

 次に疑うのは、システム障害。だが障害があれば記録が残る。その日の障害報告を確認した。何もなかった。停電もない。ネットワークの断もない。

 監視カメラを開いた。

 5階エレベーターホール。同じ日。同じ時間帯。

 録画ファイルの一覧が並んでいる。10分単位で区切られたファイルが、延々と。

 1時40分から1時50分。ある。

 1時50分から2時00分。──ない。

 2時00分から2時10分。──ない。

 2時10分から2時20分。ある。

 俺は椅子の背にもたれた。

 削除ではない。

 ファイルを消したなら、シーケンス番号に断裂が残る。ディスクの空き領域にも痕跡が出る。俺はそれを確認した。断裂はなかった。

 最初から、記録されていない。

 つまり、消したんじゃない。

 止めたんだ。

 記録する側を、23分だけ止めた。

 これができる人間は、限られている。

 外から侵入した誰かではない。侵入者は、記録を止められない。止めようとすればログに残る。ログに残らずに止めるには、システムを管理する側に立つしかない。

 この建物の中の人間だ。

 しかも、権限を持っている側の。

 俺はもう一つ、確認した。

 その日、俺はどこにいたか。

 シフトの記録を引く。2ヶ月前の、その日。

 非番だった。

 休みだ。俺はその夜、自宅で眠っていた。

 自宅の天井に、あの箱がついている部屋で。

 手が冷たくなった。

 俺は震える指で、その23分をメモに書き写した。日付。時刻。カメラの欠落範囲。

 書きながら、分かっていた。

 このメモも消える。端末に残した検索履歴も消える。俺が今日ここに来た入館記録も、明日の朝には存在しなかったことになる。

 だから、覚えるしかない。

 俺は数字を声に出して読んだ。3回。目を閉じて、もう一度言えるかを試した。言えた。

 9年間、他人の記録を読んできた男の頭に、初めて自分のための数字が入った。

  ◇

 16時30分に日勤の担当が戻ってきて、俺を見て、「あれ、休みじゃなかったですか」と言った。

 「忘れ物です」と答えた。

 それで終わりだった。20時に彼が上がって、フロアに残ったのは俺だけになった。

 誰も、俺が何を見ているのかを聞きに来なかった。この現場はいつもそうだった。人が足りない場所には、余計なことを聞く余裕がない。

  ◇

 その夜、俺は帰らなかった。

 勤務ではない。誰にも頼まれていない。運用室の隅の椅子に座って、俺はただログを読み続けた。

 3ヶ月分を読み終えて、さらに前へ遡った。

 穴は、他にもあった。

 4ヶ月前に1回。半年前に1回。どれも深夜の20分前後。どれも、俺が非番の日だった。

  ◇

 4時10分、通知が鳴った。

  >【業務連絡】本日早朝の巡回について
  > 各位
  > 本日5階の設備巡回は不要です。実施済みの扱いとしてください。
  > シラカワ・ワークス 秘書室 桐生紗英きりゅうさえ

 毎回、来る。

 俺が夜勤の日も、夜勤じゃない今日も。

 巡回不要。実施済みの扱い。つまり、朝までこのフロアに人は来ない。

 これまで俺は、この連絡を見るたびに「助かる」と思っていた。

 4時40分。

 俺はログを閉じて、椅子を回した。

 窓の外はまだ暗い。空調が回っている。運用室には俺以外に誰もいない。

 天井を見た。ここには白い箱はない。この部屋にはない。あるのはサーバルームの7列目だ。

 だが、あれは副系統だ。

 今夜、この部屋に人はいないことになっている。有人当直が取り消されて、巡回も止められている。閉じこもってもいない。鍵もかけていない。

 副系統に切り替える理由が、ひとつもない。

 つまり今夜は、主系統が来る。

 それがどういう形をしているのか、俺は知らなかった。

  ◇

 4時49分。

 俺は立ち上がった。

 座っていたくなかった。倒れるにしても、立って倒れたかった。

 4時50分。

 背後で、床が鳴った。

 廊下側のドアは閉まっていた。閉まる音は、しなかった。

 俺は振り返ろうとした。

 振り返る途中で、首の後ろに、何かが触れた。

 冷たくもなく、痛くもない。ただ、触れた。

 後頭部の付け根が、じん、と熱くなった。

 口の中に、コインの味が広がった。

 (──ああ)

 同じだ。

 同じ順番で、同じものが来る。装置を使わなくても、来る。

 人の、手で。

 膝が落ちた。俺は床に手をついて、それでも顔を上げようとした。

 視界の隅に、靴が見えた。

 黒い。何の変哲もない、革靴。サイズも形も、どこにでもあるやつだ。

 顔を上げようとした。

 首が動かなかった。

 視界の端から色が抜けていく。

 床。椅子の脚。モニターの光。

 そして、黒い革靴が一歩、下がった。

 (見た)

 (俺は、いま、見た)

 これは事故じゃない。過労でもない。心臓の病気でもない。

 誰かが、俺を、殺している。

 (覚えろ)

 俺は最後の力で、その靴を見た。

 左のつま先に、小さな傷があった。
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デバッグ・ザ・フューチャー ―不敗の社長と、3日前に戻る限界SE―作者:黒い★彡彗星
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第16話 23分

 休むと言った翌日、9月19日。俺は会社へ行った。

 14時、私服で入館した。

 受付の警備員は顔を上げて、いつも通り会釈をした。黒瀬彰くろせあきら、東和とうわシステムズ。長年この建物に通っている男だ。休みの日に忘れ物を取りに来ることくらい、珍しくもない。

 入館記録の端末に、名前が残る。

 残していい、と思った。

 どうせ明日の朝には消える。

  ◇

 サーバルームは、いつもと同じ温度だった。

 7列目。No.7ラックの背面を開ける。

 下段の隙間。名刺入れくらいの、黒い箱。細い線が2本、配線束に沿って伸びている。

 俺は箱の裏側に指を回した。

 昨夜と同じだ。四角い凹み。その中に、黒いカートリッジ。

 抜いた。

 振ると、音がした。

 昨夜と同じ音だ。同じ重さ。同じ大きさ。

 中身が何かは、まだ分からない。だが同じものが、同じ形の箱に、同じ向きで差さっている。

 両方だ。自宅の天井にも、この7列目にも。

 俺は9年間、この2つの場所を往復して生活してきた。夜勤と、自宅。運用室と、ベッド。俺の人生は、ほぼその2点でできている。

 その両方に、置いてある。

 どちらで死んでも構わないように。

 いや、と俺は思った。

 4回目の朝を思い出す。あの部屋は密室だった。玄関はチェーンまでかけた。窓は全部閉めて鍵をかけた。誰も入ってこなかった。俺は目を開けたまま、それを最後まで確認していた。

 誰も入ってこられなかったから、天井のあれが動いた。

 順番が、逆だ。

 閉じこもったから、使われた。裏を返せば、閉じこもらなかった1回目から3回目に、これが使われたという証拠は何もない。

 2ヶ所にあるのは、どちらか片方が使えなくなっても足りるようにだ。俺が家に閉じこもったとき。俺が家に帰らなかったとき。

 俺が報告書に書き続けてきた言葉が出てきた。

 冗長構成、という。

 主系統が落ちたときに、副系統が引き継ぐ。落ちても止まらないように、同じものを2つ用意しておく。まっとうな設計だ。俺はその設計の面倒を見てきた。

 なら、これは副系統だ。

 主系統は、まだ見ていない。

 俺はカートリッジを元に戻した。

 持ち去りたかった。持ち去って、どこかに分析に出したかった。だが分析には日数がかかる。俺には明日の朝までしかない。

 それに、抜いたことがばれる。

 自宅の分は外した。あれはもう向こうに知られているかもしれない。だからこそ、こちらは触っていないように見せておきたかった。

 扉を閉める前に、俺は箱の側面をもう一度見た。

 細いスリットが、下ではなく横を向いている。ラックの背面の、排気側だ。

 この列の排気は、天井側から空調機に戻る。戻った空気は、同じ系統で運用室にも回る。俺はその温度を毎晩監視画面で見てきた。摂氏22度。ラックの背面から運用室の足元まで、同じ空気が流れている。

 つまり、この1つでこの階が全部入る。サーバルームでも、運用室でも。

 自宅に1つ、この階に1つ。

 それで、俺の生活は全部覆われている。

 ラックの扉を閉めて、俺は運用室に向かった。

  ◇

 運用室には誰もいなかった。

 今日の日勤は芦原あしはらじゃない。俺が17日に開けた穴で、シフトが組み直されている。日勤の担当が誰であっても、この時間は午後の設備立ち会いに出ている。戻るのは16時30分だ。立ち会いの時間を頭に入れているのは、こういうときに役に立つ。

 俺は自分のアカウントで端末に入った。

 最初に開いたのは、今夜のシフトだった。

 昨夜、沼田ぬまた課長は留守番電話に「明日の夜勤、本社から人を出すことになった」と残していた。誰が来るのかを知っておきたかった。

  > 9/19 夜勤 応援要員 ── 手配取消
  > 当夜は遠隔監視対応とする(先方要請)

 その2行を、俺は2回読んだ。

 遠隔監視対応。

 この現場でそれをやったことは一度もない。契約書に有人当直と書いてある。書いたのは先方だ。人を置けと言い続けてきたのも先方だ。

 その先方が、今夜だけ要らないと言っている。

 助かる、と思った。

 思ってから、自分がいまその言葉を使ったことに、少し引っかかった。

 権限の範囲は分かっている。運用保守の要員として、俺は入退館システムのログと、共用部の監視カメラの記録に、参照権限を持っている。障害調査に使うためだ。

 俺はこの権限で、他人の記録を読んできた。

 今日は、自分のために読む。

 探すのは、先月だ。

 No.7ラックの黒い箱を最初に見つけて、俺がチケットを起票した月。

 あの箱は、その前から存在していた。だから設置されたのは、それよりさらに前になる。

 入退館ログを、3ヶ月分引き出した。

 5階の扉を通った記録が、日付と時刻と、社員証のIDで並んでいる。膨大な行だ。だが読むのは慣れている。俺の仕事は、これを読むことだった。

 深夜帯だけに絞る。日付が変わってから、朝の5時まで。

 俺の名前。芦原の名前。たまにシラカワ側の担当者。それだけだ。この建物の深夜は、そういう場所だ。

 1時間ほど読んで、俺は手を止めた。

 穴があった。

 このシステムは、人が通らなくても記録を吐く。1分ごとに、各扉の施錠状態と通信の死活を1行。深夜のログの9割はそれだ。俺はその行を、ずっと読み飛ばしてきた。

 2ヶ月前の、ある日の深夜。

 1時47分から、2時10分まで。

 その23分間だけ、その行がない。入館も、退館も、扉の開閉も、1分ごとの生存確認も。1件も。

 最初に疑うべきは、自分の読み間違いだ。

 俺は抽出条件を変えて、3回引き直した。同じだった。

 次に疑うのは、システム障害。だが障害があれば記録が残る。その日の障害報告を確認した。何もなかった。停電もない。ネットワークの断もない。

 監視カメラを開いた。

 5階エレベーターホール。同じ日。同じ時間帯。

 録画ファイルの一覧が並んでいる。10分単位で区切られたファイルが、延々と。

 1時40分から1時50分。ある。

 1時50分から2時00分。──ない。

 2時00分から2時10分。──ない。

 2時10分から2時20分。ある。

 俺は椅子の背にもたれた。

 削除ではない。

 ファイルを消したなら、シーケンス番号に断裂が残る。ディスクの空き領域にも痕跡が出る。俺はそれを確認した。断裂はなかった。

 最初から、記録されていない。

 つまり、消したんじゃない。

 止めたんだ。

 記録する側を、23分だけ止めた。

 これができる人間は、限られている。

 外から侵入した誰かではない。侵入者は、記録を止められない。止めようとすればログに残る。ログに残らずに止めるには、システムを管理する側に立つしかない。

 この建物の中の人間だ。

 しかも、権限を持っている側の。

 俺はもう一つ、確認した。

 その日、俺はどこにいたか。

 シフトの記録を引く。2ヶ月前の、その日。

 非番だった。

 休みだ。俺はその夜、自宅で眠っていた。

 自宅の天井に、あの箱がついている部屋で。

 手が冷たくなった。

 俺は震える指で、その23分をメモに書き写した。日付。時刻。カメラの欠落範囲。

 書きながら、分かっていた。

 このメモも消える。端末に残した検索履歴も消える。俺が今日ここに来た入館記録も、明日の朝には存在しなかったことになる。

 だから、覚えるしかない。

 俺は数字を声に出して読んだ。3回。目を閉じて、もう一度言えるかを試した。言えた。

 9年間、他人の記録を読んできた男の頭に、初めて自分のための数字が入った。

  ◇

 16時30分に日勤の担当が戻ってきて、俺を見て、「あれ、休みじゃなかったですか」と言った。

 「忘れ物です」と答えた。

 それで終わりだった。20時に彼が上がって、フロアに残ったのは俺だけになった。

 誰も、俺が何を見ているのかを聞きに来なかった。この現場はいつもそうだった。人が足りない場所には、余計なことを聞く余裕がない。

  ◇

 その夜、俺は帰らなかった。

 勤務ではない。誰にも頼まれていない。運用室の隅の椅子に座って、俺はただログを読み続けた。

 3ヶ月分を読み終えて、さらに前へ遡った。

 穴は、他にもあった。

 4ヶ月前に1回。半年前に1回。どれも深夜の20分前後。どれも、俺が非番の日だった。

  ◇

 4時10分、通知が鳴った。

  >【業務連絡】本日早朝の巡回について
  > 各位
  > 本日5階の設備巡回は不要です。実施済みの扱いとしてください。
  > シラカワ・ワークス 秘書室 桐生紗英きりゅうさえ

 毎回、来る。

 俺が夜勤の日も、夜勤じゃない今日も。

 巡回不要。実施済みの扱い。つまり、朝までこのフロアに人は来ない。

 これまで俺は、この連絡を見るたびに「助かる」と思っていた。

 4時40分。

 俺はログを閉じて、椅子を回した。

 窓の外はまだ暗い。空調が回っている。運用室には俺以外に誰もいない。

 天井を見た。ここには白い箱はない。この部屋にはない。あるのはサーバルームの7列目だ。

 だが、あれは副系統だ。

 今夜、この部屋に人はいないことになっている。有人当直が取り消されて、巡回も止められている。閉じこもってもいない。鍵もかけていない。

 副系統に切り替える理由が、ひとつもない。

 つまり今夜は、主系統が来る。

 それがどういう形をしているのか、俺は知らなかった。

  ◇

 4時49分。

 俺は立ち上がった。

 座っていたくなかった。倒れるにしても、立って倒れたかった。

 4時50分。

 背後で、床が鳴った。

 廊下側のドアは閉まっていた。閉まる音は、しなかった。

 俺は振り返ろうとした。

 振り返る途中で、首の後ろに、何かが触れた。

 冷たくもなく、痛くもない。ただ、触れた。

 後頭部の付け根が、じん、と熱くなった。

 口の中に、コインの味が広がった。

 (──ああ)

 同じだ。

 同じ順番で、同じものが来る。装置を使わなくても、来る。

 人の、手で。

 膝が落ちた。俺は床に手をついて、それでも顔を上げようとした。

 視界の隅に、靴が見えた。

 黒い。何の変哲もない、革靴。サイズも形も、どこにでもあるやつだ。

 顔を上げようとした。

 首が動かなかった。

 視界の端から色が抜けていく。

 床。椅子の脚。モニターの光。

 そして、黒い革靴が一歩、下がった。

 (見た)

 (俺は、いま、見た)

 これは事故じゃない。過労でもない。心臓の病気でもない。

 誰かが、俺を、殺している。

 (覚えろ)

 俺は最後の力で、その靴を見た。

 左のつま先に、小さな傷があった。
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