第15話 台帳未記載
触る前に、写真を撮った。
真下から1枚。斜めから2枚。線の伸びている方向が分かるように、火災報知器と一緒に入るアングルで1枚。
この写真も、明後日には消える。
それでも撮った。撮りながら見ると、目だけで見るより多くのことに気づく。9年やっていれば、それくらいは身体が覚えている。
白い箱だった。
手のひらに載るくらい。厚みは2センチほど。角は丸い。天井と同じ白で、汚れ方まで天井に馴染んでいた。
表面に、型番も、メーカー名も、シールの跡もない。
固定は皿ネジが2本。プラスの1番。よくあるサイズだ。
側面に、細いスリットがあった。
スピーカーの穴にしては細すぎる。放熱にしては数が足りない。
レンズはなかった。マイクらしき穴もない。
カメラでもなく、センサーでもなく、音を出すものでもないなら、これは、何かを外に出すためのものだ。
線は2本。
箱の側面から出て、天井を20センチほど走り、火災報知器の台座の陰に消えていた。
わざわざ独立した電源を引かずに、既にあるものに寄生している。
工事としては、うまい。
天井裏に入れば、火災報知器の配線は生きている。そこから細い線を2本引いて、隣に箱をネジで留める。作業は1人で、30分もかからない。住人が留守の時間さえ分かっていれば、何の痕跡も残さずに終わる。
俺は椅子から降りて、床に座った。
膝が笑っていた。黒瀬彰、31歳。9年住んだ部屋の天井に、知らないものがある。
落ち着け、と自分に言った。
いきなり結論に飛ぶな。それで何度も恥をかいてきた。原因に見えたものが、ただの無関係だったことなんて山ほどある。
まず、公式の説明があるかを潰す。
俺はスマホで管理会社の番号を調べて、かけた。
「──はい、恐れ入ります。天井の火災報知器の、すぐ隣についている機器のことでお伺いしたいのですが」
「隣、ですか」
「白い、手のひらくらいの箱です。線が2本、報知器のほうに伸びています」
保留音。1分半ほど待たされた。
「お待たせしました。図面を確認しましたが、そちらのお部屋にそういった設備の記載はございません」
「無線の中継器のようなものではなく」
「うちの物件は感知器も含めて有線ですので、中継器は入れておりません」
「入居後に管理会社さんが追加した設備、という可能性は」
「ございません。追加工事があれば、必ず入居者様にご案内が行きます」
声が丁寧な分、内容が冷たかった。
「お心当たりのない機器でしたら、一度お立ち会いのうえで確認させていただきましょうか。担当を手配します」
「......いえ。もう少し自分で調べます」
礼を言って切った。
■天井の白い箱
・型番、メーカー名なし
・管理会社の図面に記載なし
・共用設備の電源に寄生
・排出用と思われるスリットあり
ノートに書き出して、俺は最後の行に手を止めた。
台帳に載っていない機器。
その言い回しを、俺は先月も書いている。
◇
No.7ラックの背面。
下段の隙間。名刺入れくらいの、黒い箱。そこから細い線が2本、ラック内の配線束に沿って伸びていた。
俺は目を閉じて、記憶の中のそれと、いま天井についているものを並べた。
色が違う。あちらは黒、こちらは白。
だが、サイズがほぼ同じだ。角の丸みが同じだ。線が2本なのも同じだ。既存の配線に寄生しているのも同じだ。
そして。
どちらも、台帳に載っていない。
◇
俺は床に座ったまま、天井を見上げていた。
この箱がいつからそこにあるのかは分からない。だが少なくとも、俺はその真下で、何百回も眠っている。
職場のサーバルームにも、同じものがある。
俺が夜勤で一人になる、あの5階に。
共通しているものは、ひとつしかない。
俺だ。
◇
夜、会社から着信が3回あった。全部、沼田課長だった。
俺は取らなかった。
留守番電話に、短いメッセージだけが残った。
「黒瀬くん。明日の夜勤、本社から人を出すことになった。......電話くらい出ろよ」
声に、怒りより疲れが混ざっていた。
俺はスマホを裏返した。頭の上には、まだあの箱がある。
いま俺の頭の中には、9年分の信用より優先すべきものがある。
それが正しいのかどうかは、分からない。
ただ、明後日の朝には、俺は死んでいる。
◇
21時。
俺は机の引き出しから、精密ドライバーのセットを出した。
方針は決まっていた。
1. 今回の変更条件:天井の箱を取り外す
2. 結果:これから
3. 次の変更条件:結果次第
外せば、相手に気づかれるかもしれない。
相手、という言葉を頭の中で使ったのは、これが初めてだった。
これまで俺は「原因」を探していた。原因には意思がない。ただそこにあって、条件が揃えば発動する。バグと同じだ。
だが、意思のあるものを相手にするなら、話が変わる。
外したら、向こうも次の手を打つ。
それでいい、と俺は思った。
こちらの操作に対して向こうが反応するなら、それは向こうが「見ている」という証拠になる。反応がなければ、ただの設備だ。
どちらに転んでも、情報が手に入る。
椅子に乗った。
ドライバーの先を、1本目のネジに当てる。
手が震えていた。震えを止めようとして、余計に震えた。
俺は一度手を下ろして、深呼吸を3回した。
それから、回した。
ネジは、あっけないほど軽く回った。
2本とも外すと、箱は自重で少し傾いだ。
俺は手のひらで受けた。
軽い。100グラムもない。
線を切るのはやめておいた。引っ張ると、天井裏で何かが動く音がした。奥で固定されているらしい。
線は箱の側面に差し込まれているだけだ。抜けば、箱は外れる。だが、抜いた瞬間に何が起きるかは分からない。
だから箱だけを、ぶら下がった状態のまま、線のたわむ分だけ下ろした。
裏面を見る。
天井に接していた面に、四角い凹みがあった。
その中に、小さな黒いカートリッジが1本、差さっていた。
俺は指でそれを抜いた。
振ると、かすかに音がした。
何かが入っている。液体か、粉か、それとも使い切ったあとの殻の中で何かが転がっているだけなのか。振っただけでは分からない。
これが俺を殺したものだという証拠も、まだない。
ただ、ひとつだけ言えることがある。4回目の朝、この部屋で俺を殺したのがこれだったとしても、その4回目はもう消えている。世界は9月17日の4時50分から始め直されている。
俺が持ち越せるのは記憶だけだ。使われた痕跡があったとしても、使われる前の状態に戻る。
だから、いま手の中にあるのは、毎回ここにある、最初の状態だ。
もしこれが原因なら、いつでも使える状態で、ここにある。
カートリッジを握ったまま、俺はその場に立っていた。
考えたのは、7列目のことだった。
あっちの箱も、裏を開ければ同じ凹みがあるのか。カートリッジは入っているのか。あっちも、同じ音がするのか。
確かめる方法はひとつしかない。
あの5階に、行くことだ。
俺は9年間、あの部屋に通ってきた。今日は行かないと決めた。明日も行かないと沼田課長に言った。
行けば、たぶん死ぬ。
行かなくても、死ぬ。
俺はカートリッジを机の上に置いて、そこに立てた。3センチほどの、黒い、なんの変哲もない筒だった。
これも明後日には消える。俺の記憶の中にしか残らない。
だからせめて、形を覚えておこうと思った。
箱をぶら下げたままの線が2本、切られないまま、火災報知器の台座の陰から垂れ下がっていた。