第14話 棚卸し
残り時間、48時間。
俺はノートに書いた数字を見ながら、コーヒーを飲んでいた。黒瀬彰、31歳。5回目の3日間、9月18日の朝にいる。
5回目の3日間。そのうち1日は霧に食われる。だから毎回、実際に使えるのは2日弱しかない。今回はもう、その1日が終わっている。
いまが一番、頭が動く時間だ。
仮説を洗い直す。
■仮説E:外部から投与された何か(4回目の結論)
→ 血液検査は正常。少なくとも一般的な検査で出る種類のものではない。
■仮説E':投与ではなく、「その場で作用させられている」
→ 密室でも発生する。ならば作用源は室内にある。
俺はペンを止めた。
4回目の俺は、部屋を見回して「何も変わっていない」と結論した。
あれが間違いだった。
変わっていないものは、疑われない。それだけの話だ。
毎月、俺はそれをやってきた。資産管理台帳と、実際にラックに載っている機器を突き合わせる作業。あれで見つかるのは、いつも「ずっとそこにあって、誰も気にしていなかったもの」だ。
変化を探すのは監視の仕事。
台帳と現物を突き合わせるのは、棚卸しの仕事だ。
◇
9時。沼田課長に電話をかけた。
「今日と明日、休ませてください」
「......はあ?」
「すみません」
「黒瀬くん、昨日も休んだよね。いや、休んだっていうか」
沼田課長は言葉に詰まった。
「なんかもう、様子がおかしいよ。何があった」
何があったか。
4回死にました、と言えたらどんなに楽だろう。
「体調です」
「診断書は」
「今回は取っていません」
沈黙が長かった。
「......黒瀬くん。俺、お前のこと9年見てるけどさ。無断で穴を開けるタイプじゃなかったよな」
「はい」
「今からでも診断書取れないの」
「取れません」
もう一度、沈黙。
「わかった。今日はなんとかする。明日は分からない」
「ありがとうございます」
「ありがとうございますじゃないよ」
電話が切れた。
9年かけて積み上げた信用が、削れていく音がした。
だが、それでいい。
どうせ明後日の朝には全部戻る。沼田課長の記憶からも、この会話は消える。削れているのは俺の側だけだ。
俺は少しずつ、この現場に何も残さない人間になっていく。
◇
10時。棚卸しを始めた。
方法は決まっている。
■手順
1. 部屋にあるものを全部、ひとつ残らず書き出す
2. それぞれについて「いつからあるか」を答える
3. 答えられないものに印をつける
3番だけが目的だ。
1と2は、そこに至るための作業でしかない。
俺は玄関から始めた。時計回りに、床から天井まで。
傘立て。3年前に買った。靴が4足。全部、いつ買ったか言える。傘が2本。1本は先月コンビニで買ったビニール傘。
廊下。ブレーカーの箱。入居時からある。開けて中を見た。配線に見覚えのないものはない。ホコリの積もり方が均一だった。誰かが最近触った形跡はない。
風呂場。洗面台。歯ブラシ。シャンプー。全部、自分で買ったものだ。
台所。冷蔵庫。3年前。電子レンジ。5年前。炊飯器はもう使っていない。流しの下の収納を開けて、洗剤の類を全部出した。並べて、1本ずつ手に取った。
鍋。フライパン。皿。
やっているうちに、これが何時間かかる作業か分かってきた。
人間の部屋には、思っているより物がある。
◇
12時。まだ台所が終わっていなかった。
俺は床に座って、乾麺の袋を一つずつ確認していた。賞味期限。買った覚えがあるか。封が開いているか。
途中で、手が止まった。
馬鹿げている、という考えが、また来た。
乾麺を疑って何になる。俺は素人だ。毒物の知識も、鑑識の技術もない。仮に何かが混ざっていても、見て分かるわけがない。
時間だけが減っていく。
だが、と俺は思い直した。
9年間、俺がやってきた障害調査で、原因が「格好いい場所」にあったことは一度もない。だいたいは、誰も見ていなかった設定ファイルの1行か、誰も気にしていなかった古い機器か、その程度のところにある。
地味な全数調査でしか出てこないものが、この世にはある。
俺は袋を開けて、中身を確認して、また次の袋を取った。
◇
14時。芦原千種からメッセージが来た。
> 今日も休みなんですね
> 沼田さん、本社に電話してましたよ
> 悪い
> 謝るのは私にじゃないです
> 黒瀬さん、何かあるなら言ってください
> 私、口は堅いほうですよ
俺は画面を見たまま、しばらく親指を止めていた。
言ったところで、彼女は明後日の朝には忘れる。忘れるというより、その会話自体が発生しなかったことになる。俺が9年分の信用を削って、彼女に打ち明けて、彼女が本気で心配してくれたとして、それは2日と持たずに消える。
消えるのに、彼女はそれまで、本気で心配する。
それをやらせるのは、たぶん、俺の都合だ。
> たいしたことじゃない
> 落ち着いたら飯おごる
> 焼肉がいいです
> 高い
> 命がけで働いてる人間の相場です
俺は少し笑って、スマホを裏返した。
打ちかけて消した文章が、ひとつある。
「もし俺が急にいなくなったら」
その先を、どう続けていいか分からなかった。
◇
15時。居間。
テレビ台の裏に手を突っ込んで、配線を引っ張り出した。埃の塊が一緒に出てきた。
電源タップ。テレビ。レコーダー。もう見ていないゲーム機。
全部、俺のものだった。
カーテンレールを見た。エアコンを見た。踏み台に乗って、上面を手でなぞった。埃。均一。
照明のカバーを外した。中に虫の死骸が溜まっていた。それだけだった。
◇
17時。寝室。
ベッドを壁から離して、裏側を見た。マットレスを持ち上げた。ベッド下の収納ケースを全部出して、中身を床に広げた。
冬物の服。古い年賀状。会社の健康診断の結果が5年分。
5年分の健康診断。
俺はそれを手に取って、床に並べた。
血圧。血液。心電図。すべて「異常なし」または「経過観察」。去年も、一昨年も。心臓については、一度も何も言われていない。
やはり、俺の身体は正常だ。
正常な身体が、20日の4時50分から、毎回同じように壊れる。
俺は健康診断の結果を封筒に戻した。
戻しながら、指が止まった。
この部屋には、俺が知らないものはひとつもなかった。
玄関から寝室まで、全部見た。まだ残っているのは、天井裏でもなければ壁の中でもない。
残っているのは。
俺は顔を上げた。
天井の隅。
白い円盤。火災報知器だ。
入居時からついている。マンションの共用設備で、部屋ごとに設置されている。俺が触ったことは一度もない。中を見たこともない。
その隣。
20センチほど離れたところに、もうひとつ、白いものがついていた。
俺は椅子を運んで、その下に立った。
見上げる。
円盤より小さい。手のひらに載るくらいの、四角い箱。白い。天井と同じ色だから、下から見上げても目立たない。これまで一度も、俺はそれを見ていなかった。
いや。
見ていた。目には入っていた。
入っていたが、認識していなかった。台帳に載っていない機器と同じだ。ずっとそこにあるものは、風景になる。
俺は椅子に乗った。
手を伸ばす前に、一度、深く息を吸った。
箱の側面に、細い線が2本、天井に沿って伸びていた。