第13話 密室
スマホの画面に、秒まで出る時計を表示させておいた。
4時49分40秒。
41、42、43。
部屋は静かだった。冷蔵庫のコンプレッサーが低く鳴っている。窓の外はまだ暗い。玄関は施錠、チェーンもかけた。窓は全部閉めて鍵をかけた。一酸化炭素チェッカー、緑。ガス検知器、緑。
57、58、59。
4時50分00秒。
最初に来たのは、痛みではなかった。
後頭部の付け根が、じん、と熱くなった。
湯を注がれたような熱さだった。それが首の後ろから肩に広がって、両腕の内側を通って、指先まで下りていった。
(──熱い)
同時に、口の中に味がした。
コインを舐めたときの味だ。金属の、酸っぱい味。唾を飲み込んでも消えなかった。
視野の周辺が、一度だけ白く飛んだ。カメラのフラッシュを横目で受けたときのように、視界の縁だけが抜けた。すぐ戻った。
俺は椅子の上で、自分の胸に手を当てた。
心臓は、まだ普通に動いていた。
3秒。
それくらいの間があった。
それから、胸が来た。
万力だ。何度も味わったやつだ。だが今回は、初めて始まりに立ち会えた。
締めつけは、いきなり最大では来ない。ゆっくり、確実に、締め上げられていく。ネジを回しているみたいに。段階がある。
息を吸った。吸えた。
肺は動いている。空気は入ってくる。それなのに、酸素がどこにも届いていない感じがした。溺れているのに、水がないような。
心拍が乱れた。
順番があった。まず速くなった。次に、一拍飛んだ。それからつまずいて、走り出して、また、つまずいた。
俺は椅子から床に降りた。倒れる前に、自分から降りた。
打ちどころで意識を失いたくなかった。
目を、開けている。
床に横向きになった。
テーブルの脚。その向こうにゴミ箱。コンビニ袋が3つ。
見えない場所も、言える。流しには皿が2枚。テーブルの上に、封を切っていない電気代の請求書。
何も変わっていない。
カーテンは動いていない。玄関のチェーンは掛かったままだ。窓のクレセント錠も、俺が下ろしたままの向きで止まっている。
誰もいない。
誰も、入ってきていない。
右手を伸ばした。
スマホは床の上、40センチくらい先にあった。画面が光っている。4時50分22秒。
指を動かそうとした。
動かなかった。
肩から先が、自分のものではなくなっていた。命令は出ている。届いていない。ずっと、俺は指示が現場に届かない状況にうんざりしてきたが、それが自分の腕で起きるのは初めてだった。
声を出そうとした。
喉が鳴っただけだった。
左の耳から、音が消えた。
冷蔵庫の音も、外を走る車の音も、全部。右の耳だけが、自分の心臓を拾っていた。速い。不規則。つまずいて、また走って、間隔が開いて、また、つまずいた。
視界の端から色が抜けていく。
俺は天井を見上げた。
照明がついている。全部つけておいた。だからよく見えた。カバーの内側に、去年から掃除していない埃が溜まっているのが見えた。
部屋には、何も起きていない。
窓は閉まっている。鍵はかかっている。ガスは漏れていない。一酸化炭素も出ていない。誰も入ってこない。何も落ちてこない。火も出ていない。
それでも俺は死ぬ。
(......場所じゃない)
それが、はっきりした形をとった最後の考えだった。
(俺だ。もう、俺の中に入ってる)
照明の光が白く広がって、それから、細くなった。
◇
4時50分。9月17日、火曜日。
俺は目を開けた。
汗。冷たい背中。胸に残る縄の感触。
5回目だ。黒瀬彰は、これで4回死んだ。
起き上がってすぐ、俺は自分の頭の中を探った。
昨夜のことを。いや、20日の朝のことを。
何もなかった。
霧だ。真っ白な霧が、いつもの場所にかかっている。
俺は床に座り込んだ。
観測はした。目を開けたまま、意識が切れる直前まで、部屋を見ていた。あれは確実にやり遂げた。やり遂げたという手応えだけが、なぜか残っている。
だが中身がない。
24時間。
俺の頭は、24時間かけないと、それを返してくれない。
◇
その日は、何もできなかった。
病院にも行かなかった。会社にも連絡しなかった。ただ部屋にいた。
7時50分、断片。金属の味。舌の上に、それだけが唐突に戻ってきた。俺は流しで何度も口をゆすいだ。味は消えなかった。実際には存在しない味だからだ。
12時50分、断片。白い光。天井の照明だと分かった。冷蔵庫のコンプレッサーの音も一緒に戻ってきて、それで、自分がどこで倒れたのかが分かった。
19時50分、恐怖。今回のそれは、これまでで一番濃かった。俺は玄関の前で座り込んで、20分ほど動けなかった。
どこにも行かないのに、恐怖だけが定刻に来る。
20時を回ると、裏返しにしておいたスマホが光り始めた。
朝のうちにサイレントにしてある。音は鳴らない。画面だけが、数分おきに白くなる。沼田課長だ。夜勤の穴を、いま誰かが埋めている。台風の夜に。
分かっていて、手を伸ばさなかった。
23時55分、窓の外が白く光った。スマホは、それからも何度か光った。
◇
翌朝の4時50分、全部戻ってきた。
俺はノートを開いて、書いた。手が震えていたが、書けないほどではなかった。
■4回目の死(観測記録)
場所:自宅(施錠済み・単独)
開始:4時50分00秒
1. 後頭部の付け根に熱感。首→肩→両腕の内側→指先へ拡散
2. 口腔内に金属味
3. 視野周辺が一瞬白飛び
4. (約3秒後)胸部の締めつけ開始。段階的に増強
5. 呼吸は可能。だが酸素が届いていない感覚
6. 心拍:頻脈→期外収縮→不整
7. 4時50分22秒、上肢の随意運動が消失
8. 意識消失まで、およそ40秒
■環境
異常なし。施錠状態に変化なし。侵入者なし。ガス・CO検知器、いずれも正常。
書き終えて、俺はペンを置いた。
場所でもない。物でもない。ガスでも、一酸化炭素でも、侵入者でもない。
なら、原因はない、という答えもある。
寿命だ。9月20日の4時50分に死ぬと最初から決まっていて、順番が来ただけ。理由を探すほうが間違っている。
これが正しいなら、俺のやることは何もない。残りの2日を好きに使って、4時50分に座って待つ。それで終わりだ。
原因不明のまま「そういうものだ」で閉じられた障害を、俺は何件も見てきた。閉じても直らない。同じ条件が揃えば、同じように落ちる。
消す材料はまだない。だから消さなかった。後ろに回した。原因のある仮説を先に全部潰して、それでも残ったら、戻ってくる。
◇
1番と2番には、覚えがあった。
巻き戻った日の朝、湯を沸かしているときに来る熱。それから、コインの味。俺はそれを寝不足だと思っていた。
1回目の夜も、そう思っていた。コーヒーの飲みすぎで、伸びをしすぎたからだと。
名前をつけずに、置いていた。
◇
1番から3番。
これは、心臓の症状じゃない。
心筋梗塞で最初に来るのは胸だ。あるいは肩や顎に放散する痛みだ。後頭部から始まって、腕の内側を通って、指先まで下りていくものではない。金属の味もしない。
医学の知識があるわけじゃない。だが9年間、俺は「症状の出る順番」でトラブルの切り分けをしてきた。
症状の順番は、原因の位置を教える。
胸から始まっていないなら、原因は胸にない。
全身に、上から下へ、神経の通り道に沿って広がっていったなら。
俺はノートの余白に、一行だけ書いた。
■仮説E:外部から投与された何か
書いた瞬間、指先が冷たくなった。
部屋は密室だった。誰も入ってこなかった。
なのに死んだということは、その時点でもう、俺の中に入っていたということだ。
4時50分に発動するように。
俺は顔を上げて、部屋を見回した。
流しの皿。ゴミ箱の上のコンビニ袋。冷蔵庫。3日前に戻るたびに、この部屋はいつもこの状態から始まる。
つまり。
仕込まれたのは、3日前より、前だ。
巻き戻せる範囲の、外側。
俺がどれだけやり直しても、絶対に手が届かない場所に、それは既に置かれている。
俺はノートを閉じた。閉じてから、もう一度開いて、さっき書いた行の下に、震える字で付け足した。
■つまり
これは事故ではない。