第12話 観測者
ホルター心電図の記録は、きれいなものだった。
9月18日。返却しに行った病院で、篠塚医師は画面をスクロールしながら「夜間も含めて、不整脈は出ていませんね」と言った。
「症状が出た時間帯は」
「昨夜は、出ませんでした」
嘘ではない。昨夜の俺は自宅のベッドで天井を見ていただけだ。胸は痛くならなかった。
「そうですか」
篠塚医師は少し考えて、それからこう言った。
「黒瀬彰さん。ひとつ伺いますが、最近、眠れていますか」
来た、と思った。
「眠れています」
「勤務表を拝見した限りでは、まともに眠れる組み方ではないように見えました」
「慣れてます」
「慣れというのは、負荷がなくなることではありません。感じなくなることです」
俺は返事をしなかった。
篠塚医師の、カルテを打つ手が止まった。
「循環器としては、いまのところ緊急性のある所見はありません。ただ、心療内科でも一度診てもらったほうがいいかもしれません。紹介状を書きます」
俺は礼を言って、それを受け取った。
使うことはない。あと2日で、その紙も消える。
◇
その足で、俺はホームセンターに寄った。
■環境要因の潰し込み
・一酸化炭素チェッカー
・ガス漏れ検知器
・電池式の火災報知器(既設のものが動作しているか不明なため)
カゴに放り込みながら、自分でも間抜けだと思った。
だが手順としては正しい。原因不明の障害を追うとき、まずやるのは「疑わしいものを一つずつ切り離す」ことだ。
俺の死は、いつも同じ時刻に、いつも同じビルの、同じ部屋で起きていた。
だから最初に切り離すべきは、あの場所だった。
今回、俺はあそこに行かない。
◇
16時。沼田課長から電話が来た。
「今日の遅番も、明日の夜勤も休むって、本気で言ってる?」
「本気です」
「診断書、異常なしって書いてあるんだよね」
「書いてあります」
「じゃあ、なんで休むの」
答えられなかった。
説明できる言葉が、この世に存在しない。
「......体調が戻りません」
「黒瀬くん」
沼田課長の声から、いつもの軽さが抜けていた。
「これ以上は、俺も庇いきれないよ。今月ずっと人が足りてないのは、お前が一番知ってるだろ」
「知ってます」
「先方に、うちは人を出せない会社だと思われたら終わりなんだよ。9年やってきて、それで終わるのか」
9年。
その数字だけが、耳に残った。
「すみません」
電話は、それで切れた。
◇
17時40分。芦原千種からメッセージが来た。
> 昨夜、落雷やばかったですよ
> 社長が事前にUPS見ろって連絡くれてたから助かりました
> ほんとあの人なんなんですかね
> 無事でよかった
> 黒瀬さん、明日も休みなんですよね
> 沼田さんがピリピリしてました
> 大丈夫ですか
彼女は無事だった。俺の代わりに入って、落雷対応をやって、そして今も生きている。
当たり前のことだ。俺以外の人間は、この3日間を普通に生きて、普通に21日を迎える。
死ぬのは、俺だけだ。
◇
夜、俺は部屋の床に座って、ノートに手書きで書き出していた。
パソコンは使わなかった。打つより書くほうが、頭が遅くなって、その遅さがちょうどよかった。
■これまでに分かっていること
・死亡時刻:9月20日 4時50分(3回とも)
・死因:心停止と思われる(3回とも同じ経過)
・場所:シラカワ・ワークス5階 運用室(3回とも)
書いてから、俺は1行目の下に線を引いた。
時刻。
これが引っかかっていた。
過労で心臓が止まるのは、あり得る。31歳でも起こる。それは篠塚医師も否定しなかった。
だが、3回とも4時50分というのは、なんだ。
4時台に多い、なら分かる。明け方は心臓の事故が増える。実際にそういう統計がある。
4時50分ちょうどが3回。
これは統計じゃない。
これはスケジュールだ。
俺はペン先を紙に押しつけたまま、しばらく動かなかった。
毎日決まった時刻に走る処理のことを、俺たちは何と呼んでいるか。
定時実行、という。
馬鹿げている、と自分に言った。
人間の心臓は、時刻を指定して止まったりしない。俺の生活リズムが毎日同じで、夜勤の作業が毎日同じ順番で流れて、疲労のピークが毎回同じ時間に来る。それで説明はつく。つくはずだ。
つくはずだが、ログを読み続けてきた人間として、俺はもうひとつのことを知っていた。
偶然にしては綺麗すぎる数字が出たとき、それはたいてい偶然じゃない。
■仮説D:外部要因
→ 検証には、死の瞬間の状況を観測する必要がある。
書いて、俺は手を止めた。
観測。
できるわけがない、と最初は思った。
死んだら巻き戻る。録画は消える。書いたメモも消える。誰かに立ち会ってもらっても、その人の記憶ごとリセットされる。
証拠は何ひとつ残らない。
残らない。
──記憶以外は。
俺は顔を上げた。
俺の記憶は、消えない。
死ぬ直前までの記憶は、24時間かけて、必ず戻ってくる。3回とも戻ってきた。胸の痛みも、指が滑ったことも、モニターに何が映っていたかも、全部だ。
つまり。
俺は、自分が死ぬ瞬間まで、ログを取り続けられる。
鳥肌が立った。
これまで俺は、自分を被害者だと思っていた。何度も殺される、何もできない側の人間だと思っていた。
違う。
俺は、この現象の内側に置かれた、唯一のセンサーだ。
カメラは消える。メモは消える。証言も消える。だが俺の目と耳と皮膚が拾ったものだけは、次の周回に持ち越せる。
9年間、俺がやってきた仕事はなんだった。
誰かが残した記録を読むことだ。ログの海から、たった一行の異常を掘り出すことだ。
今回は、記録が残らない。
なら、俺が記録装置になればいい。
俺はノートを閉じて、書き方を変えた。
■観測方針(9月20日 4時50分)
1. 起きていること。眠ったまま死ぬと、観測できる情報がゼロになる
2. 明かりをつけておくこと。暗いと視覚情報が取れない
3. 音を止めること。テレビ、音楽、換気扇。聴覚を空けておく
4. 部屋の見取りを頭に入れておくこと。何かが変わったら気づけるように
5. 痛みが来たら、目を閉じないこと
5番のところで、ペンが止まった。
目を閉じないこと。
3回とも、俺は最後にモニターの光を見ていた。視界の端から色が抜けていくのを、なすすべもなく見ていた。
次は、見る側になる。
痛みが来ても、床に倒れても、意識が切れるまで、部屋を見る。何が起きているかを見る。
そして次の朝、それを思い出す。
◇
19日の夜が来た。
俺は部屋の真ん中に椅子を置いて、そこに座っていた。
照明は全部つけた。テレビは消した。冷蔵庫の音がやけに大きく聞こえる。一酸化炭素チェッカーは緑のランプ。ガス検知器も緑。窓は閉めて、鍵をかけた。玄関も施錠して、チェーンもかけた。
スマホは充電したまま手元に置いた。誰かを呼べるように。
水を飲んだ。トイレも済ませた。
1時。異常なし。
2時。異常なし。
3時。眠気が来た。頬を叩いた。
4時。心臓は普通に動いていた。
4時30分。
俺は部屋を見回した。
カーテン。テーブル。ゴミ箱の上のコンビニ袋。流しの皿。封を切っていない電気代の請求書。
何も変わっていない。誰も入ってきていない。この部屋には、俺以外に何もない。
4時45分。
両手を膝に置いて、俺は呼吸を数えた。
4時49分。
目を、開けたままにする。