第11話 4回目の朝
4時50分。9月17日、火曜日。
俺は目を開けて、天井を見て、それから起き上がった。
汗も、胸の痛みも、前回と同じだけあった。慣れるものではないらしい。だが今回、俺はもう日付を確認しなかった。確認する必要がない。
4回目だ。黒瀬彰、31歳。同じ朝を、これで4回踏んでいる。
3回目の3日間は、決めたとおりに終えた。
18日の遅番も、19日の夜勤も、1回目と同じ順番で、同じことをした。守れる機器は守らず、先回りもせず、20日の4時40分に定例ログ点検を終えるまで、1回目をなぞっていた。
その先は、いつも通り霧の中だ。晴れるのは、明日の4時50分。
最初にやったのは、記録を作らないことだった。
前回、俺はファイルを2つ作った。障害報告書と、チケット。事象、再現性、前提条件。書いて保存して、そして消えた。
書くこと自体は無駄じゃない。頭が整理される。だが保存する意味がゼロだと分かった以上、時間の使い方を変えるべきだ。
だから俺は、書式だけを覚えることにした。
1. 今回の変更条件
2. 結果
3. 次の変更条件
この3行を、頭の中のフォーマットとして固定する。紙にもディスクにも残さない。残るのは俺の記憶だけなのだから、記憶に置く。
1. 今回の変更条件:医学的な対処を全部やる。夜勤に出ない。
2. 結果:これから
3. 次の変更条件:結果次第
8時。俺は総合病院の受付にいた。
初診の受付は8時30分からだったが、待っている時間が惜しかった。ロビーの椅子で30分、俺は自分の症状の説明を頭の中で組み立てていた。
真実は使えない。
「3日後に心臓が止まって死ぬので、それを止めてください」
これを言った瞬間に、行き先は循環器内科ではなくなる。
だから俺は、嘘ではないが本当でもない話を用意した。
◇
循環器内科の医師は、40代くらいの女性だった。名札に篠塚とあった。
「胸の症状、ですね」
「はい。夜中に、胸を締めつけられるような感じで目が覚めることがあって」
「痛みの続いた時間は」
「......1分か、2分くらいだと思います」
嘘は言っていない。俺が体験したのは、たしかにそれくらいの時間だった。
「頻度は」
「ここ数日で、3回」
篠塚医師はカルテを打ちながら聞いていった。喫煙は。しません。飲酒は。週に2回くらい。家族に心臓の病気の人は。いません。仕事は。夜勤があります。シフトは。
俺が答えた勤務表を聞いて、彼女はキーボードから手を離した。
「それ、月にどのくらい」
「毎月です」
「......検査しましょう」
心電図。採血。胸部のレントゲン。心臓の超音波。
やることは1日でだいたい終わった。ベッドに寝て、冷たいゼリーを胸に塗られて、モニターに自分の心臓が映った。
規則的に動いていた。
これが3日後に止まるのか、と思った。
◇
14時。診察室に呼ばれた。
「大きな異常は見つかりません」
篠塚医師は画面を俺に向けた。
「心電図、正常。心臓の動きも問題ありません。血液検査も、心筋のダメージを示す値は出ていません」
「そうですか」
「31歳で、喫煙もなく、家族歴もない。突然死につながるようなリスク因子は、いまのところ見当たりません」
俺は膝の上で手を組んだ。
これは朗報だ。医学的には。
「ただ」
篠塚医師は続けた。
「症状が出ているのは事実ですよね。であれば、症状が出ているそのときに記録を取りたい。ホルター心電図を貸します。24時間つけて、生活したまま記録します」
「24時間」
「はい。夜中に出るなら、それで捕まる可能性があります」
捕まえたところで、と俺は思った。
その記録も消える。
貸し出しの手続きをして、機械を胸に貼ってもらった。電極の冷たさが、妙にありがたかった。
誰かが、俺の心臓を記録しようとしている。
消えるとしても、いま、この瞬間には、それは存在する。
◇
16時。俺は沼田課長に電話をかけた。
「今夜の夜勤、休ませてください」
「え」
「病院で検査を受けました。胸の症状が出ていて、24時間の心電図をつけろと言われています」
沼田課長は3秒黙った。
「......それ、今夜じゃないとだめなの」
「今夜つけろと言われました」
「今夜、台風なんだけど」
「知ってます」
電話の向こうで、椅子が鳴る音がした。
「黒瀬くん、俺もね、体調のことを軽く見るつもりはないよ。ただ今夜は先方も神経を尖らせてる日でさ。うちが人を出せませんでしたって話になると──」
「角が立ちますか」
「......そう」
俺は受話器を握り直した。
この人を責める気にはならなかった。この人はずっとこの判断基準で生きてきて、それでこの現場を維持してきた。俺の給料は、その判断の上に乗っている。
「診断書、出せます」
嘘だった。まだ書いてもらっていない。だが明日には書いてもらえる。今夜の話をつけるには、それで足りる。
沼田課長は長く息を吐いた。
「......分かった。誰か捕まえる」
「すみません」
「いいよ。倒れられるほうが困る」
俺はその言い方を、頭の中で一度、聞き直した。
◇
17時40分。スマホが鳴った。芦原千種からだった。
> 黒瀬さん、今夜の夜勤、私が入ることになりました
> 大丈夫ですか?病院行ったって聞きましたけど
俺は画面を見たまま、しばらく指を動かせなかった。
当然だ。俺が抜けた穴は、誰かが埋める。この現場で、台風の夜に急に呼ばれて来られる人間は、そんなに多くない。
> 検査だけ。異常なしだった
> 悪い。急に代わってもらって
> いいですよ。貸しにしときます
> 落雷とか来たら泣きますけど
落雷は来る。23時55分に来る。
俺は打ちかけて、消した。
「UPSの結線を先に見ておけ」と書けば、彼女は間違いなくやる。被害は減る。2回目の俺がそれで褒められたことも知っている。
だが、なぜ知っているのかを説明できない。
彼女はこの3日間を初めて生きている。俺が異様な予言をすれば、彼女はそれを覚える。そして俺はまた3日前に戻って、彼女の記憶だけがリセットされる。
俺の言葉は、彼女には一度しか届かない。
> 気をつけて
> 何かあったら電話して
それだけ送った。
◇
23時55分。
俺は自宅のベッドで、胸に貼りついた機械の重みを感じながら、天井を見ていた。
窓の外で、白い光が走った。
一拍おいて、遠くで音がした。
あの瞬間、5階の運用室で監視画面が赤く染まっている。芦原が受話器を取っている。手順書を開いて、切り分けを始めている。
彼女は俺より手が早い。心配はしていない。
心配していないのに、俺は起き上がって、スマホを握っていた。
◇
4時50分。
目が覚めた。
いや、覚めたのではない。眠っていなかった。
来たのは痛みではなく、記憶だった。
◇
3回目の死。
4時50分。運用室。胸の万力。滑る指。傾ぐ椅子。床。
開いていたのは引き継ぎメモの画面だった。
あの夜、俺は何も変えなかった。守れる機器を守らずに、1回目とまったく同じ3日間をなぞって、まったく同じ時刻に死んだ。
実験は成功した。条件を固定すれば、結果は再現される。
1. 今回の変更条件:なし
2. 結果:9月20日 4時50分に死亡(再現性 3/3)
俺はベッドの上で、胸の機械に手を触れた。
いま、これは俺の心臓を記録している。俺が寝ていることも、脈が乱れていないことも、全部。
20日の4時50分。
俺はこのベッドにいる。運用室にはいない。夜勤に出ない。心臓は検査済みで、異常なしと言われている。
条件は、今回はっきり変えた。
それで結果が変わるなら、俺の死は過労と夜勤の産物だったということになる。
変わらなかったら。
その先を考える前に、窓の外が白み始めていた。