第10話 トリガー
「おつかれさまです、黒瀬さん。びしょ濡れじゃないですか」
「傘が死んだ」
「かわいそうに」
芦原千種が申し送りの画面を開く。黒瀬彰、31歳。3回目の9月17日の夜だ。
定期バッチ、3番の誤検知、22時以降の外周点検。一字も違わない。
先に言うことはしなかった。
前回はそれをやって、彼女に気味悪がられた。あの数秒の顔を、俺はまだ覚えている。
「じゃあ、あとはお願いします。私、電車止まる前に帰ります」
「ああ」
ドアが閉まる。廊下の足音。エレベーターの到着音。
障害調査の手順は決まっている。
最初にやるのは、原因の推測でも、対策の検討でもない。現象を安定して再現させることだ。
再現できない障害は、直せない。直したかどうかも確かめられない。だから調査の一歩目は、いつも同じだ。条件を固定する。
今夜、俺が決めたのはそれだった。
何も変えない。
前回の俺は、先回りしてUPSの結線を直して回った。落ちるはずの機器を全部守って、復旧を8分縮めて、社長に名前を呼ばれた。
今回はやらない。
1回目と同じ順番で、1回目と同じことをする。それで1回目と同じ結果になるかを見る。
◇
23時05分。通知が鳴った。
>【業務連絡】本日夜間の荒天対応について
> 各位
> 雷の可能性もあるため、各ラックのUPS(無停電電源装置)への結線状況をご確認ください。
> 未結線の機器があった場合は対応の上、記録を残してください。念のため、早めにお願いします。
> シラカワ・ワークス インフラ統括部
沼田課長が画面を覗き込んで「ふうん」と言う。
「これ、社長発信だな」
「わかるんですか」
「わかるよ。あの人が言い出すときは、いつもこの書き方なんだ。『念のため』って必ず入る」
台本通りだった。俺は台本通りの返事をした。
前回、俺が先に結線を直していた夜も、この通知は一字も変わらずに来た。俺が何をしようが、雷は落ちるし、外部回線は一度切れる。
沼田課長がタクシーで帰る。俺は懐中電灯を取ってサーバルームに向かう。
3列目、壁直挿しの検証用サーバ。差し替えて、写真を撮って、記録に残す。
7列目、No.7ラックの黒い箱。写真を撮って、作業記録に1行足す。
※No.7ラック背面、台帳未記載の機器あり(先月も報告済)
8列目でケーブルタイが切れかけているのを見つけて、予備を取りに運用室まで往復する。10分。
全部、1回目と同じにした。
運用室に戻ったのは23時45分だった。
◇
23時55分、落雷。
照明が落ちて、監視画面が赤く染まる。
俺は手順書を開いて、1回目と同じ速度で処理した。速くもなく、遅くもなく。切り分けて、副系統に切り替えて、影響範囲を確定させる。
落ちた機器は、前回だけ余分に守ったものだった。8列目の予備機。10列目の古い監視端末。
守れたのに、守らなかった。
あれを差し替えるのに、1台3分もかからない。俺はそれを知っていて、やらなかった。会社の資産が2台死んだ。復旧に人の手が何時間か余分にかかる。誰も俺を責めない。誰も俺がやらなかったことを知らないからだ。
条件を固定するため、と自分に言った。
実験には対照が要る。前回の俺は変数を変えすぎた。今回は変えない。それでしか分からないことがある。
正しい判断のはずだった。
それでも、0時40分に復旧完了の記録を打ち込むとき、指が少し重かった。
◇
4時49分。
俺は報告書を書きながら、モニターの隅の時計を見ていた。
表示が4時50分に変わった。
その瞬間に、来た。
◇
胸が痛い。万力。息が吸えない。指が滑る。声が出ない。椅子が傾ぐ。床。
モニターの光。
机の上のスマホ。
開いたままの、健康診断の予約確認メール。
来週の水曜、9時30分。
(......行けない)
◇
俺は椅子に座ったまま、両手を膝の上に置いていた。
運用室は明るい。空調が回っている。窓の外は暗い。
全部、戻ってきた。
2回目の死。同じ時刻。同じ胸の痛み。同じ床。違うのは、最後に見ていた画面だけだった。
俺は長く息を吐いた。
整理する。
1回目。4時50分に死亡。直後、3日前の4時50分に巻き戻り。
2回目。4時50分に死亡。直後、3日前の4時50分に巻き戻り。
2回目は、1回目とはまったく違う3日間を過ごした。行動も、評価も、人間関係も変えた。UPSを先に直して、社長に名前を呼ばれて、芦原に夢の話までした。
それでも、同じ時刻に死んだ。
■トリガー:俺の死亡
■巻き戻り幅:72時間、固定
■再現性:2/2
確定だ。
俺は死ぬと、3日前のこの朝に戻る。
しばらく、何も考えられなかった。
考えられるようになってから最初に浮かんだのは、意外なほど実務的な問いだった。
──で、どうする。
対処は2つしかない。
ひとつ、死なない。
ふたつ、死ぬ原因を潰す。
1つ目は無理だ。前回、俺は健康診断を予約して、カフェインを減らして、それでも同じ時刻に倒れた。何もしないより多少マシという程度の対策は、この障害には効かない。
なら2つ目だ。
だが、ここで9年分の経験が口を挟んでくる。
原因が分からない障害には、対策が打てない。
俺の死因は何だ。心臓が止まった。それは結果であって、原因じゃない。なぜ止まった。過労か。心疾患か。あの部屋の何かか。
分からない。
分からないなら、調べるしかない。
◇
5時20分、城戸さんと宮下さんが始発で出社してきた。2人とも目が赤い。報告書の数字を突き合わせる。俺は普通に受け答えをした。自分でも驚くほど普通にできた。
5時50分、白河透が運用室に入ってきた。
「復旧、ありがとうございました。皆さんのおかげで助かりました」
深く頭を下げる。それから2人の社員の名前を呼んで、担当箇所を挙げて、労って、代休を取るようにと言う。
俺のほうを見て、軽く会釈をする。
出ていく。
名前は、呼ばれなかった。
当然だ。今回の俺は何もしていない。前回のあれは、俺が勝手に先回りしたからついてきたものだ。それも含めて、全部消えた。
消えた、というより、なかったことになった。
あの人の中に、俺の名前を覚えた記憶は存在しない。
俺はその背中を見送りながら、ひとつだけ確かなことを思った。
この3日間で起きたことは、全部やり直せる。
俺が死ぬことも含めて。
2人が報告会に上がっていって、運用室は静かになった。
俺は鞄からノートパソコンを出して、エディタを開いた。
「incident_0001.txt」は、まだ消えていない。昨日の朝に打った、■前提条件:不明、が埋まらないままのファイル。消えるのは2日後だ。
不明の欄が、ひとつ埋まった。
新しいファイルを作る。
少し考えて、今度は障害報告書ではなく、チケットの書式で打った。数えきれないほど書いてきた形だ。
件名:黒瀬彰の死亡について
優先度:最高
状態:調査中
発生日時:9月20日 4時50分(再現性 2/2)
現象:心停止と思われる。単独夜勤中、運用室にて発生。
原因:未特定
担当者:黒瀬彰
担当者の欄を打ち終えて、俺は少しだけ笑った。
9年間、他人の起こした障害ばかり追いかけてきた。
初めて、自分の名前が両方の欄に入った。
◇
6時10分。夜勤明け。
社内連絡ツールが「さすが社長」で流れている。俺はそれを見ずに、鞄を取った。
外に出ると、風は止んでいた。台風は何事もなかったように通り過ぎていったらしい。空は嫌になるくらい晴れていた。
残り時間を数える。
次に戻るまで、あと2日弱。戻れば、また丸1日が霧の中だ。
1周で使えるのは、実質2日。
工数としては、話にならない。
だが、こちらには回数がある。
俺は駅に向かって歩き出した。
まあ、そんなもんか、とは思わなかった。