第9話 またこの日か
息ができなくて、目が覚めた。
汗。冷たい背中。胸の真ん中に残る、縄で締められたような感触。
俺は上体を起こす前に、枕元のスマホを掴んでいた。
画面が光る。
4時50分。9月17日、火曜日。
「......またか」
声が出た。
部屋を見回す。コンビニ袋が3つ。洗っていない皿が2枚。封を切っていない電気代の請求書。
全部、知っている光景だ。前も見た。
前も、というのが問題だった。
1回なら夢で済む。
2回は済まない。
俺は立ち上がって、台所で水を飲んだ。黒瀬彰、31歳。巻き戻ったのは、これで2回目だ。手は震えていない。心臓も普通に動いている。パジャマを着替えて、床に落ちていたタオルを拾って、洗濯機に放り込んだ。
やることを順番にやると、頭が落ち着く。9年やってきて身についた、唯一の技術だった。
ノートパソコンを開いて、テキストエディタに新しいファイルを作った。
名前を付ける。何と付けるべきか少し考えて、結局いつもの癖で「incident_0001.txt」と打った。障害報告書と同じ命名規則だ。
書き出す。
■事象
4時50分に起床すると、日付が3日前に戻っている。
発生回数:2回。
■再現性
2/2。100%。
■前提条件
不明。
カーソルが、その行の後ろで点滅を続けた。
不明。これが一番まずい。
現象が起きることは分かっている。だが何をトリガーにして起きているのかが分からない。原因が分からない障害は、対処もできない。祈るしかない。俺はこの9年で、祈って直った障害を1件も見たことがない。
続けた。
■引き継がれるもの
・俺の記憶
■引き継がれないもの
・記録(作業記録、チケット、メール、通知)
・他人の記憶
・物(買ったもの、書いたもの)
最後の行を打ったところで、指が止まった。
前回、俺は健康診断を予約した。カフェインレスのコーヒーを買った。9年分の評価をひっくり返して、社長に名前を呼ばれて、社内連絡ツールに自分の名前が載った。
スマホでメールを開く。クリニックからの予約確認メールは、当然、なかった。
冷蔵庫を開ける。カフェインレスの缶は、ない。
残っているのは、俺の頭の中だけだ。
■証明可能性
なし。
7時50分。
インスタントコーヒーを淹れているとき、来た。
後頭部の付け根の熱。首から肩へ、両腕の内側を通って、指先まで。そのあとに、コインの味。
3秒ほどで消えた。
マグを持った手が、そのまま動かなかった。
これも、知っている。
前回もこの時間に、同じものが来た。あのときは寝不足の幻覚だと思った。
違う。
これは思い出しているんだ。俺の頭は、何かを1日かけて解凍している。前回は夜まで断片が続いて、朝方になってようやく全部つながった。
つながったとき、何が出てきたか。
俺は覚えている。
1回目のとき、俺は死んだ。
夜勤中の運用室で、胸を締められて、床に倒れて、引き継ぎメモを書きかけたまま。あの記憶は、いまも頭の中にはっきり残っている。
あれを夢だと思ったのは、前回の俺だ。
◇
エディタに戻る。
■仮説A:精神疾患・記憶障害
俺の頭が壊れていて、3日分の偽の記憶を作っている。
→ 反証:予知が的中する。偽記憶なら未来は当たらない。
→ ただし「的中した」という記録も毎回消えるため、第三者による検証は不可能。
■仮説B:時間が3日巻き戻っている
→ 現状、最も無理のない説明。
■仮説Bを前提とした場合の疑問
1. 何をきっかけに巻き戻るのか
2. なぜ3日なのか
3. なぜ死の記憶だけが遅れて戻るのか
4. 何回まで繰り返せるのか
1番のところに、俺はカーソルを置いた。
仮説はある。口に出したくないほど単純な仮説が、ひとつある。
1回目、俺は死んだ。そして3日前に戻った。
2回目の最後の記憶は、4時40分に定例ログ点検を終えて、健康診断の予約確認メールを開いたところまでだ。そこから先が、ない。
1回目とまったく同じ切れ方をしている。
■仮説C:巻き戻りのトリガーは「俺の死」
→ 検証には、記憶の復元を待つ必要がある(所要:約24時間)。
打ち終えて、保存した。
このファイルも、3日後には消える。
◇
12時50分。
スーパーの帰り道、信号待ちで2度目が来た。白い光。四角い。モニターだ。数字が並んでいる。読めない。キーボードの上の自分の指。水の中で聞くような、自分の喉が鳴る音。耳の奥で、遠くの心臓が速く打っている。
今度は驚かなかった。
スマホを出して、時刻をメモした。
+3時間:感覚(後頭部の熱、口の中の金属味)
+8時間:映像・音(モニター、数字、自分の手、心音)
前回も、コーヒーを淹れているときと、スーパーの帰り道だった。時刻を控えていたわけじゃない。だが、順番も場所も同じだ。
俺は歩きながら考えた。
この霧が晴れるまで24時間かかる。3日のうちの1日が、それで潰れる。残りは2日だ。
2日。
仕事の見積もりなら、俺はこう言う。要件が固まっていない状態で、実質2日の工数。
無理です、と言う。
◇
18時。
俺は出勤の準備をしながら、芦原千種のトーク画面を開いた。
少し迷って、前回と一字も変えずに打った。
> 変なこと聞くけど
> 月次の定例ログ点検の当番、今夜って俺だったっけ
既読がついた。
> 明後日ですよ
> 今夜は台風対応でそれどころじゃないと思います
> 大丈夫ですか?寝てます?
一字も違わなかった。
俺は「寝てる」と返した。
> ぜったい嘘
スマホを裏返す。
同じテープが、同じ順番で回っている。
彼女はこの3日間を初めて生きている。前回のことも、その前のことも、何ひとつ覚えていない。俺だけが、3回目の9月17日の夜に向かっている。
◇
19時、家を出た。
風は強い。外階段で傘の骨が1本めくれる。駅までの道で、コンビニののぼりが倒れている。
全部、順番通りだ。
電車の中で、手のひらを開いて、閉じた。
もし仮説Cが正しいなら。
俺は、20日の4時50分に死ぬ。そしてまた、この朝に戻る。
......それは、悪い話なのか。
一瞬、そう考えた。死んでもやり直せるなら、それは不死に近い。前回の俺は、その全能感でいい気分になっていた。社長より先に答えを持っていると思って、笑っていた。
だが、と俺は思った。
1回目の死は、心臓が止まった。
あれは、痛かった。
◇
19時50分。駅を出て、データセンターまでの5分。
傘が死ぬ。骨が3本まとめて折れて、雨が顔にかかる。
そして、来た。
足が動かなくなる。身体の芯から、冷たいものがせり上がってくる。
前回と同じだ。同じ場所で、同じ時刻に、同じ恐怖が来る。
だが今回、俺はそれを分析できた。
これは記憶の復元の一部だ。+15時間で、感情が戻ってくる。つまり俺は今、20日の朝に感じた恐怖を、先に受け取っている。
説明がついた。ついたのに、膝は震えていた。
目の前に、いつものビルがある。ロビーの明かりがついている。毎日くぐってきた自動ドアがある。
その中で、俺は2回死んでいる。
俺は右足を出した。左足を出した。3歩目からは歩けた。
自動ドアが開く。
20時。入館。
この夜がどう転ぶかは、全部知っている。
知らないのは、20日の4時50分に、俺の身体で何が起きるのかだけだ。