第8話 同じ夜
9月18日、水曜日。16時。黒瀬彰、再出勤。
10時間前にここを出たばかりだった。4時間しか眠っていない。それなのに、階段を上がる足が軽かった。
5階のフロアに入ると、通りかかったシラカワ・ワークスの社員が足を止めた。
「あ、黒瀬さん。昨夜はありがとうございました」
知らない人だった。名札を見ても部署が分からない。
「いえ」
「うちの部でも話題になってましたよ。連絡来る前に動いてたって」
俺は曖昧に頭を下げて、その場を離れた。
3歩進んで、口の端が勝手に上がっているのに気づいた。
◇
17時20分、社員食堂。
日替わりの列に並んでいると、3つ前に白河透がいた。券売機で食券を買っている。
白河社長は振り返って、俺に気づいた。
「黒瀬さん。おつかれさまです」
「......おつかれさまです」
「ちゃんと寝られましたか」
「4時間ほど」
「足りないですね」
白河社長は少し困ったような顔をした。
「東和さんのシフト、こちらからも一度お願いしてみます。あの人数で24時間回すのは、無理があると思っていました」
俺は何と答えていいか分からなかった。
結局、「ありがとうございます」と言った。
白河社長はトレイを持って、先に行った。
線の内側にいる人と、外側にいる人がいる。俺はそう思って、ここにいた。
今日、その線が少し動いた気がした。
◇
18時10分。社内連絡ツールに、全社向けのお知らせが流れた。
>【お知らせ】昨夜の落雷対応について
> 昨夜から未明にかけて基幹系の障害対応にあたった城戸さん、宮下さん、瀬川さんの3名に、特別手当を支給します。
> 3名は朝の報告会のあと、本日は代休としています。連絡が必要な場合は明日以降にお願いします。取れなかった代休が発生した場合は必ず申告してください。
> また、東和システムズの黒瀬彰さんには、当社からの連絡に先んじてUPSの結線確認を実施いただきました。今回の被害が最小で済んだのは黒瀬さんの判断によるものです。東和システムズ様には別途、正式に御礼を申し上げます。
> シラカワ・ワークス 代表取締役 白河透
俺は自分の名前を、3回読んだ。
名前で呼ばれていた。
区分じゃなく、名前で。
◇
19時。沼田課長から電話が来た。
「見たか、あれ!」
「見ました」
「本社の部長が飛び上がってたぞ。名指しで褒められるなんて、この現場が始まって以来だ」
沼田課長の声は完全に上ずっていた。
「黒瀬くん、お前、なんかやったのか。悟りでも開いたか」
「勘です」
「勘で契約が伸びるなら苦労しないよ」
沼田課長は笑って、それから急に真面目な声になった。
「あのさ、来月の要員の件、本社に掛け合ってみるわ。2人抜けたまんまじゃ、さすがにお前が潰れる」
受話器を持った手が、耳から少し離れた。
9年間、この人にそんなことを言われたのは初めてだった。
◇
19時30分、休憩室。
自販機の前で、芦原千種と鉢合わせた。彼女は日勤で、いま上がるところらしい。
「黒瀬さん、なんかもう、時の人ですね」
「やめろ」
「うちの現場、あんな名指しされたことないですよ」
芦原はお茶の缶を取り出した。
「で、なんだったんですか。あれ」
「なにが」
「なんで連絡来る前に分かったんですか」
俺はカフェインレスのコーヒーを買って、プルタブを開けた。
言うつもりはなかった。
言うつもりはなかったのに、機嫌がよすぎたんだと思う。
「これ笑い話なんだけどさ」
「はい」
「昨日の朝さ、変な夢を見て目が覚めたんだよ。台風が来て、雷が落ちて、その先の3日分が全部入ってるやつ。起きたら日付が3日戻ってて」
「はあ」
「で、実際その通りになってる。だから俺、いま夢の答え合わせしながら仕事してるみたいなもんで」
芦原の缶が、口の手前で止まっていた。
「あとさ」
俺は笑いながら続けた。
「その夢の最後で、俺、死ぬんだよ」
休憩室の空気が、止まった。
芦原は笑わなかった。
自販機の低い唸りが、2秒か、3秒か、続いた。
「......どんな夢ですか」
声が、いつもと違った。
「え?」
「どんなふうに、死ぬんですか」
俺は少し面食らって、それから肩をすくめた。
「夜勤中に、オフィスで倒れるんだよ。心臓が止まる感じの。まあ、働きすぎってことだろ。脳が警告出してるんだよ」
「......その夢、いつの話ですか」
「明後日の朝。4時50分」
言ってから、自分でおかしくなって笑った。
「な、笑い話だろ。だから健康診断も予約したし、コーヒーもこれにした」
俺はカフェインレスの缶を掲げてみせた。
芦原は缶を掲げ返さなかった。
「黒瀬さん」
「ん」
「明日の夜勤、代わりましょうか」
冗談を言っている顔ではなかった。
「いや、いいよ」
俺は笑った。
「夢だぞ」
「そうですけど」
「それに、代わってもらったら俺、明日1日なにするんだよ。寝るだけだぞ」
「寝てください」
「寝るよ、明けたら」
芦原はしばらく俺を見て、それから小さく息を吐いた。
「......分かりました」
彼女は缶を軽く持ち上げて、挨拶の代わりにして、休憩室を出ていった。
その背中が、いつもより少しゆっくりだったような気がしたが、たぶん気のせいだった。
その夜の遅番は、何事もなく終わった。
◇
翌日、19日。20時、入館。
3日連続の変則勤務。俺の機嫌はまだよかった。
運用室に入って、いつも通り監視画面を並べる。今夜は月次の定例ログ点検の当番だ。それも知っている。
ただ、今夜は余計な仕事が増えていた。落雷の夜の対応が評価されたおかげで、本社から追加の資料を出せと言われている。褒められると仕事が増えるのは、どこの会社でも同じらしい。
22時から点検を始めた。
ログを頭から流し見る。認証。バッチ。温度。湿度。電力。誰かがどこかの扉を開けた記録。
23時40分、先月分のチケット一覧を開いた。
1件目、対応済み。2件目、期限延長。3件目、対応済み。
4件目──。
俺はそこで、時計を見た。
資料の締め切りが朝一番だった。まだ半分も書けていない。
1件目から3件目まで確認したなら、4件目も似たようなものだろう。というより、4件目が何かは知っている。No.7ラックの台帳未記載機器の件だ。あれはもう、今回は記録にも書いていない。
開く理由がなかった。
俺はチケット一覧を閉じて、資料の作成に戻った。
所要時間、4秒。
◇
1時を回った頃、遠くでドアの閉まる音がした。
俺は顔を上げなかった。
◇
4時10分、通知。
>【業務連絡】本日早朝の巡回について
> 各位
> 本日5階の設備巡回は不要です。実施済みの扱いとしてください。
> シラカワ・ワークス 秘書室 桐生紗英
助かる、と思った。
◇
4時40分。定例ログ点検、完了。資料も、なんとか形になった。
俺は伸びをして、椅子の背もたれに体重を預けた。
スマホで、クリニックからの健康診断の予約確認メールをもう一度開いた。来週の水曜、9時30分。持ち物と注意事項が丁寧に書いてある。前日の21時以降は飲食を控えてください、と。
俺はそれを開いたまま、少し笑った。
夢の中の俺は、こんなメールを受け取っていなかった。
つまり、この3日間はもう、夢とは違う道を歩いている。
夜勤明けに白河社長に会ったら、今度こそちゃんとお礼を言おう、と思った。18日の朝は「いえ」しか言えなかった。31にもなって、あれはない。
シフトの件でも動いてくれるらしい。沼田課長も要員を掛け合うと言っていた。
スマホを机に置いて、キーボードに手を戻した。
何かが、変わり始めている。
9年かかったが、変わり始めている。
胸が、痛かった。
太い万力が、締まった。
息を吸おうとして、吸えない。指がキーボードから滑る。声が出ない。
椅子が傾いだ。
床が近づいてくる。
左の耳から音が消えて、右の耳だけが自分の心臓を拾っていた。速い。不規則。つまずいて、走り出して、また、つまずいた。
視界の端から色が抜けていく。
モニターの光だけが白く残っていた。
机の上で、スマホの画面が点いたままだった。開いたままの、健康診断の予約確認メール。
来週の水曜、9時30分。
(......行けない)
時計の表示は、4時50分だった。