第7話 4時50分
最初に戻ってきたのは、痛みではなく、匂いだった。
空調で乾ききった、埃と機械の匂い。いま吸っているものと同じ匂いだ。だから最初は、それが記憶だと気づかなかった。
次に、音。ファンの回る音。自分の心臓の音。速い。速すぎる。
それから。
◇
胸の真ん中を、太い万力でゆっくり締め上げられていく。
息を吸おうとして、吸えない。机の縁を掴もうとした指が、滑って落ちる。声を出そうとする。出ない。左の耳から音が消える。椅子が傾いで、床が、やけにゆっくり近づいてくる。
視界の端から色が抜けていって、モニターの光だけが白く残っている。
書きかけの引き継ぎメモ。カーソルが点滅している。
(......引き継ぎ、書けてない)
◇
俺は運用室で、椅子に座ったまま固まっていた。
両手は、キーボードの上に置いたままだった。
息を吸った。ちゃんと吸えた。もう一度吸った。吸えた。俺は自分の胸に手を当てた。心臓は動いていた。速いが、それは今しがた驚いたからだ。
部屋は明るい。空調は静かに回っている。床は遠い。俺は座っている。
何も起きていない。
何も起きていないのに、指先が氷みたいに冷たかった。
夢の続きを、思い出しただけだ。
俺は自分にそう説明した。
3日分の夢のうち、最後の部分が抜けていた。引き継ぎメモを書き始めたところで途切れていた。その先が、いま埋まった。それだけのことだ。
夢の中で、俺は死んだ。
言葉にしてみると、驚くほど間抜けな話だった。夢の中で死ぬなんて、誰でも一度はある。落ちる夢、追われる夢、歯が抜ける夢。人間の脳が疲れているときに勝手に流す映像の、ありふれた一種だ。
目が、勝手にモニターの隅へ動いた。
4時51分。
夢の中で、俺が床を見ていたのは、たぶん4時50分ごろだった。点検を終えたのが4時40分で、メモを書き始めて、いくらも経っていなかった。
いま、同じ時刻だ。
......偶然だ。
夜勤の作業は毎日同じ順番で流れる。同じ時間に同じことをしていれば、夢もその時間で作られる。むしろ当たり前だ。
俺は水を飲みに立った。
立ったとき、膝が笑っているのに気づいた。
◇
5時20分。運用室のドアが開いた。
「おつかれさまです、黒瀬さん!」
城戸さんと宮下さんだった。2人とも目が赤い。始発で出てきたらしい。
「寝てないでしょう」
「寝ましたよ、2時間くらい」
城戸さんは笑った。
「でも黒瀬さんのほうがひどい顔してます」
2人は鞄も置かずに椅子に座って、俺の作った報告書を開いた。
「うわ、もう出来てる」
「めちゃくちゃ丁寧じゃないですか。うちの誰よりちゃんとしてる」
俺は「どうも」とだけ言って、モニターに向き直った。
2人の声が、部屋の温度を戻していった。人間が2人いる。話している。笑っている。
さっきまで俺の指先を凍らせていたものが、少しずつ薄くなっていくのが分かった。
◇
5時50分、ドアが開いた。
白河透だった。
シラカワ・ワークスの社長。皺のないシャツ。徹夜明けの人間が3人いる部屋に、その人だけが違う時間から歩いてきたみたいに見えた。
「復旧、ありがとうございました。皆さんのおかげで助かりました」
深く頭を下げる。それから顔を上げて、城戸さんと宮下さんに順番に声をかけた。名前を呼び、担当した箇所を挙げ、代休を取るようにと言った。
いつも通りだった。
俺はモニターを見ていた。次に来るのは会釈だ。それで終わる。いつも、そうだった。
「黒瀬さん」
俺は顔を上げた。
白河社長が、こちらを見ていた。
「黒瀬彰さん、でしたね。東和システムズの」
「......はい」
「ありがとうございました。統括部から連絡を出す前に、UPSの結線を確認して回ってくださったと聞きました。3列目の検証用サーバと、8列目の予備機と、10列目の監視端末」
名前も、ラックの番号も、正確だった。
「あなたが先に動いてくださったおかげで、今回は1台も落とさずに済みました。落ちていたら、復旧はもっとかかっていたと思います」
声が出なかった。
「本当に、助かりました」
白河社長はもう一度、頭を下げた。
城戸さんに向けたのと同じ角度で、同じ長さだけ。
俺は慌てて立ち上がって、椅子を鳴らして、頭を下げ返した。何か言おうとして、口から出たのは「いえ」だけだった。
白河社長は少し笑って、部屋を出ていった。
◇
6時10分。夜勤明け。
社内連絡ツールが流れていた。
> 昨夜の事前アナウンス、神すぎませんか
> UPS確認しといてって連絡来て、1時間も経たずに落雷って何なんですか
> ほんとにあの人、失敗しないな
> 今回、東和さんの黒瀬さんが連絡前に全部確認してくれてました
> え、何それすごい
> 黒瀬さんも予知能力者では?
自販機の前で、缶が落ちたあとも、俺はその画面を読んでいた。
自分の名前が、他人の会話の中にあった。
それだけのことだった。それだけのことなのに、缶コーヒーを開ける指がうまく動かなかった。
外に出ると、風は完全に止んでいた。
台風は俺たちの上を、何事もなかったように通り過ぎていったらしい。空は、嫌になるくらい晴れていた。
駅までの道を歩きながら、俺は一度だけ、声を出して笑った。
通りかかった人がこちらを見た。それでもよかった。
◇
電車の座席で、俺は目を閉じた。
整理しよう、と思った。
俺は3日分の夢を見た。その夢は、いま次々と当たっている。今日1日で、俺は9年分の評価をひっくり返した。夢の最後で、俺は死んだ。
最後の1行だけが、明らかに種類が違う。
......いや、違わない。
全部同じだ。全部、俺の頭が作ったものだ。作ったものの中に、疲れた人間が見る典型的な悪夢が1つ混ざっていた。それだけの話で、そこに意味を見つけようとするほうがどうかしている。
もし本当にもうすぐ死ぬなら、こんなに気分よく過ごしている俺は、間抜けにもほどがある。
俺は目を開けて、スマホを取り出した。
検索して、近所のクリニックの健康診断のページを開いた。空きは来週の水曜にあった。予約を入れた。確認メールがすぐに届いた。
それから、電車を降りてコンビニに寄って、いつも買う缶コーヒーの棚の前で少し迷って、カフェインレスのやつを買った。
こういうのでいい、と思った。
夢に振り回されるんじゃなくて、夢をきっかけに生活を整える。31の大人がやることは、それくらいがちょうどいい。
◇
部屋に戻って、カーテンを閉めた。
テーブルの上には、封を切っていない電気代の請求書が置いてあった。
俺はそれを見て、少しだけ手を止めた。
それから、見なかったことにして、ベッドに倒れ込んだ。
よく眠れた。