第6話 最高の夜
照明が落ちて、非常灯の色に切り替わるより先に、俺は受話器を取っていた。
監視画面が赤く染まる。基幹系ダウン。アラートが連鎖して積み上がっていく。
だが俺の手は、そのアラートを1件も読んでいなかった。読む必要がない。どれが本物で、どれが巻き添えかを、俺は知っている。
電源系統のステータス。UPS、正常稼働。全系統、給電継続。
落ちたのは外部回線と、壁から直で電気を取っていた周辺機器だけ。──のはずだった。
俺は周辺機器の一覧を開いて、そこで初めて手を止めた。
落ちていない。
3列目の検証用サーバも、8列目の予備機も、10列目の監視端末も、全部生きていた。1時間ほど前に、俺が全部差し替えたからだ。
夢で見た通りに先回りした結果が、目の前に出ていた。
◇
0時03分、切り分け完了。
0時09分、回線を副系統に切り替え。
0時14分、基幹系の主要サービス、応答を確認。
手が勝手に動いていた。手順書は開いてあったが、一度も見なかった。
0時17分。リモート会議に、シラカワ・ワークス側のインフラ担当が3名、自宅から参加してきた。城戸、宮下、瀬川。3人とも寝起きの声だった。
「すみません、遅くなりました。状況は」
「復旧済みです」
沈黙が3秒あった。
「......え?」
「0時14分に主要サービスの応答を確認しました。いま残ってるのは外部回線の副系統切り替えに伴う経路確認と、周辺機器のヘルスチェックだけです」
城戸さんが何か言いかけたので、俺は先に続けた。
「あと、バックアップジョブの再スケジュールがかかります。放っておくと2時に一斉に走って回線を食い潰すので、こちらで止めておきました」
また沈黙。今度は5秒くらいあった。
「......黒瀬さん、それ、うちが毎回やらかしてるやつです」
「知ってます」
俺は自分の声が少し弾んでいるのに気づいて、咳払いをした。
「経路確認、3人で手分けしてもらえますか。北系統を城戸さん、南を宮下さん、瀬川さんは監視の再有効化をお願いします。15分あれば終わります」
「......了解です」
誰も文句を言わなかった。
俺は、シラカワ・ワークスの社員に指示を出していた。
0時32分、全復旧。
夢の中の夜より、8分早い。被害はもっと小さい。落ちた機器はゼロ。データの欠損もゼロ。
俺は椅子の背にもたれて、天井を見上げた。
電話が鳴った。沼田課長だった。
「黒瀬くん! いま城戸さんから連絡来たんだけど、なんだこれ!」
まだ外にいるらしく、声の後ろで風の音がしていた。
「復旧しました」
「復旧しましたじゃないよ! 先に配線直してたって本当か!」
「本当です」
「お前......お前さあ......」
沼田課長は言葉を探していた。
「明日、本社に報告するからな。これ、契約更新の材料になるぞ」
結局そこか、と思った。
思ったが、今夜はその「結局そこ」が、耳に悪くなかった。
◇
1時。
事後処理に入った。ログを集めて、時系列を作って、影響範囲を確定させて、報告書の骨組みを作る。
いつもなら朝までかかる作業だ。今夜は明るくなる前に終わる目処が立っていた。
資料を作りながら、俺はふと、7列目のことを思い出した。
No.7ラックの背面。黒い箱。2本の線。
書かなかったな、と思った。
それだけだった。罪悪感も、引っかかりも、何もなかった。書いても消される1行を書かなかった。手間がひとつ減った。それ以上の意味は、どこにもないはずだった。
俺は報告書の続きに戻った。
◇
2時40分。報告書のために経路確認の結果を聞き取っているとき、城戸さんが遠慮がちに聞いてきた。
「あの、黒瀬さん。ひとつ聞いていいですか」
「どうぞ」
「なんで、言われる前に配線を直してたんですか。統括部の連絡、23時05分ですよね」
答えは用意していなかった。
「勘です」
「勘」
「雷が鳴りそうだったので」
城戸さんは少し笑った。笑って、それから言った。
「うちの社長みたいなこと言いますね」
俺は返事をしなかった。
画面の向こうで、3人が笑っていた。夜通し叩き起こされたのに、機嫌が悪そうな声はひとつもなかった。この会社の人たちは、こういうときでも笑う。
通話を切ったあと、俺はしばらく黙って座っていた。
うちの社長みたいなこと。
その言葉が、耳の裏側に妙に長く残った。
◇
3時ちょうど、コーヒーを取りに立った。
自販機の前の廊下は、非常灯の緑色に沈んでいる。
缶を取り出しながら、俺はふと、くだらないことを考えた。
この夢が本物なら、もっと使い道があるんじゃないか。
競馬。宝くじ。株。3日先が分かるなら、人生を変える方法はいくらでもある。
考えて、すぐにばかばかしくなった。
俺が見た3日分の夢には、そんなものはひとつも出てこなかった。台風と、業務連絡と、他人の名前が並んだお知らせと、月次のログ点検。それだけだ。
俺の脳が3日先まで作り込んで見せてくれたものが、全部仕事だった。
笑うところなんだろうな、と思いながら、うまく笑えなかった。
俺は缶を開けて、運用室に戻った。
◇
3時20分。廊下のエレベーターの階数表示が動いた。
3階、4階、5階。扉は開かない。そのまま1階まで下がって、止まる。
知ってる。
俺は視線をモニターに戻した。
この建物にはいろんな業者が入っている。夜中に動く設備もある。9年もいれば、いちいち気にしていられない。
......いや、正確に言えば、今夜の俺はそれを気にする気分ではなかった。
いま俺の頭を占めていたのは、まったく別のことだった。
社長は、1時間前に気づいた。
落雷の1時間足らず前にUPSの確認を出させて、7分前に待機を出させた。それがこの会社で「不敗の天才」と呼ばれる根拠だ。実際、たいしたものだと思う。
だが今夜の俺は、3日先まで知っていた。
この差はなんだ、と俺は思った。
もちろん、比べる話じゃない。あの人が見ているのは数字とデータで、俺が見ているのは、たぶん自分の頭のどこかがおかしくなって作った夢だ。同じ土俵ですらない。
それでも。
9年間、この現場で、俺は一度も誰かの先を歩いたことがなかった。指示されたことを、指示された通りに、期日までにやる。それだけの人間だった。
今夜だけは違った。
俺が一番、前にいた。
◇
4時30分、報告書完成。
読み返してみて、我ながら驚いた。時系列に穴がない。原因と対処が一対一で対応している。再発防止策まで書いてある。これまでで一番いい報告書だった。
送信ボタンを押して、俺は伸びをした。首の骨が鳴った。
窓の外は、まだ暗い。だが空の端のほうが、そろそろ白くなり始める頃だ。
台風は通り過ぎていったらしい。風の音がしなくなっていた。
◇
4時49分。
俺はモニターの隅の時計を見て、なんとなく笑った。
夜勤明けまで、あと1時間ちょっと。
帰ったら寝よう。今日は明け休みが潰れて遅番だから、寝られるのは昼までだ。それでもいい。
いい夜だった、と思った。
31年生きてきて、たぶん、一番いい夜だった。
時計の表示が、4時50分に変わった。