第5話 知っている夜
ロビーの床は、俺が持ち込んだ雨で黒く濡れていた。
さっきの、あれはなんだったんだろう。
自動ドアの前で足が止まった、あの数秒。理由のない恐怖。心当たりを探しても、出てくるのは寝不足と、季節の変わり目と、31という数字だけだった。
入館記録の端末に、いつも通り名前を打ち込む。東和システムズ、黒瀬彰。9年間、一度も変わっていない。
エレベーターが5階に着いた。
◇
運用室のドアを開けると、芦原千種がヘッドセットを外しながら振り返った。
「おつかれさまです、黒瀬さん。びしょ濡れじゃないですか」
「傘が死んだ」
「かわいそうに」
同じだ。
一語一句、同じだった。
俺は自分の席に鞄を置きながら、口の中で続きを転がした。それから、先に言ってみた。
「申し送り。午後の定期バッチは全部通ってる。3番の監視エージェントがまた誤検知出してるけど無視でいい。22時以降の外周点検は、風速次第で中止判断。判断は沼田さんに投げろ」
芦原の手が止まった。
「......なんで知ってるんですか」
「日誌、先に見た」
嘘だった。日誌はまだ開いてもいない。
「ええ......」
芦原は納得のいかない顔で、開きかけた画面を閉じた。
「なんか、気持ち悪いですね。私が言おうとしてたことそのままでしたけど」
「よくあることだろ」
「ないですよ」
彼女はウインドブレーカーを掴んで立ち上がり、それからもう一度こちらを見た。
「私、電車止まる前に帰りますけど」
ドアの前で、芦原の足が止まった。
「黒瀬さん、ほんとに顔色悪いです。無理しないでくださいね」
「わかってる」
わかっていた。俺は、今夜がどれくらい荒れるのかを、正確に知っていた。
芦原が出ていく。ドアが閉まる。廊下の足音。エレベーターの到着音。
全部、順番通りだった。
◇
21時10分。3番の監視エージェントが誤検知を上げた。
俺はアラートが鳴る前からその画面を開いていたので、上がった瞬間にフラグを立てて閉じた。所要時間、4秒。
隅の席で報告書と格闘していた沼田課長が顔を上げた。
「え、もう終わったの」
「誤検知です」
「早いな。いつも5分くらい唸ってるだろ」
「今日は冴えてるんですよ」
沼田課長は「ふうん」と言って、書類に戻った。
俺はモニターの前で、少しだけ背筋を伸ばした。
冴えてる。自分で言っておいて、その言葉が妙にしっくりきた。
夢だ、と俺は思っていた。3日分の、やけに詳しい夢。だがその夢は、いま目の前で次々と当たっている。当たっているなら、それはもう夢と呼ぶ必要がないんじゃないか。
◇
22時30分。俺は懐中電灯を取って立ち上がった。
「どこ行くの」
「サーバルームです。UPSの結線、見てきます」
沼田課長が目を丸くした。
「言われてないだろ、まだ」
「言われますよ、そのうち」
「......なんで分かるんだよ」
「雷が鳴りそうだからです」
我ながら、うまい返しだった。実際、外はもうそういう音がしていた。
沼田課長は少し考えて、それから笑った。
「いいね、それ。先に動いたって記録に残しといて。うちが言われる前にやってましたって言えるから」
結局そこか、と思ったが、今日は腹も立たなかった。
◇
サーバルームの空気は、記憶と寸分違わず冷たかった。
俺は1列目から順に回った。だが、今夜の俺には答えがある。
3列目。去年入れた検証用サーバ。壁のコンセントに直挿しになっているやつ。開ける前から場所が分かっているので、迷わず背面に回って、差し替えて、写真を撮って、記録に残した。所要3分。前は10分近くかかった。
8列目のケーブルタイが切れかけていることも知っていたので、予備のタイを最初からポケットに入れてきた。往復10分の無駄が、ゼロになった。
時間が余ったので、そのまま残りのラックの電源系統を頭から見直した。すると、壁から直に取っている機器がもう2台出てきた。8列目の予備機と、10列目の古い監視端末。
夢の中の俺は、これを見落としていた。急いでいたからだ。
俺は2台とも差し替えた。
こんなに気持ちのいい仕事は、初めてだった。
いつも俺の作業は、探すことに時間の8割を使っている。どこに何があって、誰が何をやらかしたのかを、記録の海から掘り出す。掘り出したころにはもう疲れている。
今夜はそれが全部、省略されていた。
7列目は、最後に回した。
No.7ラックの背面を開ける。下段の隙間に、名刺入れくらいの黒い箱。そこから細い線が2本、配線束に沿って伸びている。
あった。
俺は懐中電灯の光をそこに当てて、しばらく眺めていた。
夢の中で、俺はこれを作業記録に書いた。台帳未記載の機器あり、先月も報告済、と。
そして翌日、沼田課長がわざわざこの現場まで来て、細かく書くなと言った。角が立つから、と。
......だったら、最初から書かなければいい。
どうせ翌日には、書くなと言われる1行だ。書いて、問い合わせが来て、上司に釘を刺されて、書き方を変える。その一往復をまるごと省略できるなら、そのほうが賢い。
俺はラックの扉を閉めた。
写真も撮らなかった。
指先に、なんの引っかかりも残らなかった。むしろ、足取りが軽い。
巡回を終えて運用室に戻ったのは、22時58分。夢の中の俺がここに戻ったのは、23時45分だった。47分、早い。
◇
23時05分。通知が鳴った。
>【業務連絡】本日夜間の荒天対応について
> 各位
> 雷の可能性もあるため、各ラックのUPS(無停電電源装置)への結線状況をご確認ください。
> 未結線の機器があった場合は対応の上、記録を残してください。念のため、早めにお願いします。
> シラカワ・ワークス インフラ統括部
鞄を肩にかけようとしていた沼田課長が、画面と俺を交互に見た。
「......お前、なんで知ってたんだ」
「言ったじゃないですか。雷が鳴りそうだったんですよ」
「いや、そうだけどさ」
沼田課長はしばらく口を開けたまま俺を見て、それから急に上機嫌になった。
「すごいじゃん。これ、報告書に書いとくわ。うちの人間が先に動いてましたって。先方の心証、めちゃくちゃ良くなるぞ」
「どうぞ」
「黒瀬くん、なんか今日、別人みたいだな」
俺は曖昧に笑って、モニターに向き直った。
別人。
悪くない響きだった。
沼田課長が出ていって、このフロアに残ったのは俺だけになった。
◇
23時40分。
俺は椅子に深く座って、手元に3つのウィンドウを並べていた。
左に電源系統のステータス。真ん中に基幹系の監視。右に、障害発生時の初動手順書。全部、開いてある。
コーヒーは淹れてある。適温になっている。
受話器の位置を確認する。エスカレーション先の連絡網を開いておく。回線の副系統への切り替え手順を、頭の中で2回なぞる。
準備が完了してから、まだ15分ある。
こんなに落ち着いた夜勤を、俺は知らなかった。
23時48分、通知。
>【業務連絡】基幹系の待機について
> 各位
> まもなく基幹系に影響が出る可能性があります。手空きの方は待機をお願いします。
> シラカワ・ワークス 秘書室 桐生紗英
知ってる、と俺は思った。
この連絡が来ることも、この7分後に何が起きるかも、俺は知っている。
社長が誰よりも早くこれを察知して、社員がそれを称えることも。そしてその輪の中に俺の名前が入らないことも、全部。
だが今夜は、少しだけ違う。
今夜、この建物の中で一番先に答えを持っているのは、社長じゃない。
俺だ。
◇
23時55分。
俺はモニターから目を離した。窓の外は暗いままだった。
3、2、1。
窓の外が、白く光った。