第4話 3日前
息ができなくて、目が覚めた。
胸の真ん中に、太い縄を巻きつけられているような感覚だった。俺は上体を起こして、二度、三度と大きく呼吸をした。空気は普通に入ってきた。肺も、心臓も、ちゃんと動いている。
パジャマの背中が汗で冷たくなっていた。黒瀬彰、31歳。心臓が悪いという話は、健康診断で一度も出たことがない。
悪い夢を見た気がする。息が詰まる感触だけが残っていて、中身は出てこない。
枕元のスマホを掴んだ。画面が光る。
早朝の4時50分。
それはいい。夜勤明けの生活をしていると、身体は変な時間に勝手に起きる。
問題は、その下の日付だった。
9月17日、火曜日。
指で画面をこすった。数字は変わらなかった。
今日は20日の金曜のはずだった。
俺は部屋を見回した。
ゴミ箱の上に、コンビニ袋が3つ。流しには洗っていない皿が2枚。テーブルの上に、封を切っていない電気代の請求書。
全部、見覚えがある。3日前の部屋だ。
その請求書は、19日の夜に家を出るときも、封を切らないままそこに置いてあった。俺はそれを知っている。
ノートパソコンを開いた。画面の隅の時計も、スマホと同じ日付を表示していた。どちらもネットワークから時刻を取っている。2台そろって3日分ずれるようなことは、まず起こらない。
起こるとしたら、機械のほうじゃない。
◇
台風が来た。落雷があった。基幹系が落ちて、UPSが効いて、被害はほとんど出なかった。
翌日は明け休みが潰れて遅番に入った。食堂で社長と会釈を交わした。全社向けのお知らせが流れて、そこに3人の名前が並んでいて、俺の名前はなかった。沼田課長が来て、細かく書くなと言った。芦原千種が「寝てくださいね」と言った。
その次の日は夜勤で、月次の定例ログ点検をやった。先月起票した4件を確認して、点検を終えて、引き継ぎメモを書き始めたところで──
そこから先が、ない。
俺はベッドの縁に座って、指を組んではほどいた。
夢だな、と思った。
3日分の夢。台風から始まって、ログを読むところで終わる、なんの起伏もない夢。俺の人生の解像度からして、いかにも見そうな夢だった。
むしろ、そんな夢を見るくらい仕事のことしか頭にないのが問題だ。
俺は横になって、目を閉じた。
眠れなかった。
◇
7時50分。
インスタントコーヒーの粉をマグに落としているとき、後頭部の付け根が、じん、と熱くなった。
湯を注がれたような熱さだった。それが首の後ろから肩に広がって、両腕の内側を通って、指先まで下りていった。
同時に、口の中に味がした。
コインを舐めたときの味だ。金属の、酸っぱい味。
瞬きをした。
台所だった。ポットが、湯の沸いた音を立てている。マグの底に粉が溜まっている。
3秒か、4秒。それくらいだったと思う。
唾を飲み込んだ。味は、すぐには消えなかった。
寝不足だ、と俺は結論を出した。3日......いや、この3日は夢だから、実際には2週間くらいまともに寝ていない。31にもなると、こういう形で身体が請求書を送ってくる。
湯を注いだ。手は震えていなかった。
◇
昼のニュースが台風の話をしていた。
台風16号。今夜遅くから関東に最接近。ところによっては雷を伴う。
画面の下に流れるテロップを見ながら、俺は椅子の背に体重を預けた。
知っている。
この台風がどう進んで、何時ごろに一番荒れて、そのあと嘘みたいに晴れることを、俺は知っている。
当たり前だ。3日前から予報でやっていたんだから。俺が夢で見たのだって、その予報を寝る前に見たからだろう。人間の脳はそういう作り方をしている。見たものを、勝手に並べ直して物語にする。
そう自分に説明して、俺はテレビを消した。
◇
12時50分、スーパーの帰り道。
信号待ちをしているとき、2度目が来た。
今度は、光と音だった。
白い光。四角い、モニターの光だ。そこに数字が並んでいる。読もうとした瞬間に、その手前に自分の手が映った。キーボードの上に置かれた、爪の伸びかけた自分の指。打っている。何かを打っている。
声もした。誰かが何かを言っている、と思った。男の声とも女の声ともつかない、水の中で聞くような声。
違う、と分かった。言葉になっていない。自分の喉が鳴った音だ。
それから、心臓。右の耳だけが、それを拾っていた。速い。速すぎる。
信号が青になった。
周りの人間が歩き出して、俺だけがその場に立っていた。後ろから来た自転車がベルを鳴らした。
俺は歩き出した。レジ袋の持ち手が手のひらに食い込んでいた。
◇
18時。出勤の準備をしながら、スマホを開いた。
芦原とのトーク画面を出して、少し迷ってから打った。
> 変なこと聞くけど
> 月次の定例ログ点検の当番、今夜って俺だったっけ
既読はすぐについた。
> 明後日ですよ
> 今夜は台風対応でそれどころじゃないと思います
> 大丈夫ですか?寝てます?
俺は「寝てる」とだけ返した。
> ぜったい嘘
スマホを裏返して、机に置いた。
3日分、ずれている。
夢の中の俺は、たしかにログ点検をやっていた。あれは明後日の話らしい。つまり俺の頭は、これから起きる3日間を、勝手に先に作って上映したことになる。
悪くない話じゃないか、と思おうとした。予知夢というやつだ。当たったら儲けものだし、外れても誰にも言わなければ恥をかかない。
思おうとして、うまくいかなかった。
夢というのは、覚めた瞬間から溶けていくものだ。今朝の俺はそれを「3日分の夢」だと思った。なのに、時間が経つほど輪郭がはっきりしてくる。
沼田課長が肩を叩いたときの、手の軽さまで思い出せる。
◇
19時、家を出た。
風はもう強かった。マンションの外階段で、傘の骨が1本、内側にめくれた。舌打ちをして直した。
駅までの道で、コンビニののぼりが根元から倒れているのを見た。見た瞬間に、これも知っている、と思った。だが実際のところ、台風の日にのぼりが倒れるのは知っていて当然のことだ。何が知っていることで、何が当たり前のことなのか、その線が引けなくなっていた。
電車は走っていた。まだ止まる時間じゃない。
◇
19時50分。駅を出て、データセンターまでの5分。
傘は、そこで死んだ。
骨が3本まとめて折れて、生地が裏返って、雨が一気に顔にかかった。俺は折れた傘を畳んで、脇に抱えた。
その瞬間だった。
足が、動かなくなった。
理由はなかった。転びそうになったわけでも、何かが見えたわけでもない。ただ、身体の芯のあたりから、これまで感じたことのない種類の冷たさがせり上がってきた。
怖い、と思った。
何が、と自分に聞いた。答えはなかった。
目の前には、いつものビルがある。ロビーの明かりがついている。数えきれないほどくぐってきた自動ドアがある。この建物で怖い思いをしたことなんて、一度もない。残業と、寝不足と、理不尽な問い合わせがあるだけだ。
なのに、足が出ない。
雨が俺の首筋を流れていった。風が唸っていた。
俺は無理やり、右足を前に出した。それから左足を出した。
3歩目からは、普通に歩けた。
自動ドアが開いた。空調の効いたロビーの空気が、濡れた身体に触れて、皮膚が粟立った。
20時。入館。
東和システムズの社員証を提げて、俺は3日前の夜に足を踏み入れた。