第3話 定例保守
9月19日、木曜日。3日連続の変則勤務だった。
17日が夜勤、18日が遅番、そしてまた夜勤。並べて書くと人間の扱いではないが、シフト表の上では合法らしい。黒瀬彰、31歳。9年やっていれば、これくらいでは死なないことを知っている。
20時、入館。今日は風もない。ロビーのガラスの向こうは、ただ黒いだけの夜だった。
◇
「おつかれさまです。......黒瀬さん、顔色やばくないですか」
運用室に入ると、芦原千種が眉をひそめた。
「褒められてる気がしない」
「褒めてないですもん」
彼女は申し送りの画面を開いた。
「日中は平和でした。バッチ全部通ってます。外部保管の媒体、朝の集荷に出しておきました。あと今夜、月次の定例ログ点検の当番、黒瀬さんですよ」
「知ってる」
「うわ、この体調で。代わりましょうか」
「いい。座ってやる仕事だから」
芦原はしばらく俺の顔を見て、それから小さく息を吐いた。
「明日の明けは、ほんとに休んでくださいね」
「休む」
「前も同じこと言ってましたけど」
「今度は本当に休む」
彼女は納得していない顔のまま、椅子の背にかけていた上着を取って運用室を出ていった。ドアが閉まる音。廊下を歩く足音。エレベーターの到着音。
それから、静かになった。
◇
月次の定例ログ点検というのは、要するに1ヶ月分の記録を頭から眺める作業だ。
自動でチェックできるものは自動でやる。だが「なんとなくおかしい」を見つけるのは、いまだに人間の目のほうが早い。うちの契約に含まれている数少ない、機械に置き換えられていない仕事だった。
俺は運用室の照明を一段落として、モニターを2枚並べた。
22時。左の画面にログ、右の画面にチェックリスト。コーヒーは3杯目。
流れていく行を目で追う。認証の成否。バッチの開始と終了。温度。湿度。電力。誰かがどこかの扉を開けた記録。落雷の夜の異常値の山。何度見ても、あの夜は綺麗に処理されている。
単調な作業だ。単調だが、嫌いじゃない。
誰かが残した記録を、誰かが読む。それだけのことに、俺は9年間、給料をもらってきた。
◇
23時40分。
先月分のチケット一覧を開いた。定例点検では、前月に自分が起票した案件のその後を確認することになっている。ほとんどは対応済みか、放置されたまま期限だけ延ばされているかのどちらかだ。
俺の起票は先月、4件あった。
1件目、対応済み。2件目、期限延長。3件目、対応済み。
4件目。
件名:No.7ラック背面 台帳未記載機器の確認依頼
状態:クローズ済/対応不要
対応者:(空欄)
最終更新:9月18日 0時31分
クローズ済。対応不要。
対応者が空欄なのは、たまにある。手順を知らない人がステータスだけ変えていくと、こうなる。
最終更新の日時のところで、指が止まった。
18日の0時31分。あの落雷の夜、俺が基幹系の復旧作業をしていた真っ最中だ。
監視のアラートが鳴った。
顔を上げる。3番の監視エージェント、また誤検知。芦原が言っていたやつだ。俺は舌打ちをして、対応不要のフラグを立てた。復旧を確認して、記録に残して、次の行に戻る。
チケットの画面に視線を戻した。
クローズ済/対応不要。
......まあ、向こうの管理してる話だ。沼田課長にも、細かく書くなと言われている。
俺はウィンドウを閉じた。
まあ、そんなもんか。
◇
1時を回った頃、遠くでドアの閉まる音がした。
運用室の外、廊下のずっと先。防火扉のあたりだと思う。
俺は顔を上げて、2秒くらいそちらを見た。
このフロアの入館記録には、今夜は俺の名前しかない。だがビルの設備業者や警備は別系統で入るし、この建物は俺たちだけのものじゃない。
見に行くのが面倒だった。正確には、椅子から立ち上がるのが。3日連続の変則勤務の1時に、廊下を見に行く元気のある人間はいない。
俺はモニターに視線を戻した。
ログの行が、静かに流れていく。
◇
3時が、一番きつい。
人間の身体は、この時間に起きているようにできていない。指先の反応が半拍遅れる。同じ行を3回読んでいることに気づいて、俺はコーヒーを取りに立った。
自販機の前の廊下は、非常灯の緑色に沈んでいた。
缶を持って運用室に戻る途中、エレベーターの階数表示が目に入った。
止まっていた。1階。動いていない。
当たり前だ、と思って、俺はドアを開けた。
◇
4時10分、通知。
>【業務連絡】本日早朝の巡回について
> 各位
> 本日5階の設備巡回は不要です。実施済みの扱いとしてください。
> シラカワ・ワークス 秘書室 桐生紗英
巡回不要。
助かる、と思った。巡回が入ると立ち会いのために手を止めなければならない。今夜はもう、点検を終わらせて座っていたかった。
これで朝まで、このフロアには誰も来ない。
◇
4時40分。定例ログ点検、完了。
俺は伸びをして、椅子の背もたれに体重を預けた。首の骨が鳴った。
あとは引き継ぎメモを書けば終わりだ。夜勤明けは6時。4時間眠って、起きて、明後日の夜勤に備える。芦原には休むと言ったが、たぶん半分くらいしか休めない。
新規メモ。
> 定例ログ点検 完了。特記事項なし。
> 3番監視エージェント、誤検知が継続。要調査(優先度低)。
> 昨夜からの
胸が、痛かった。
最初は、コーヒーの飲みすぎだと思った。3日で20杯は飲んでいる。口の中に金属の味が残っていたし、胃のあたりが焼けるのはいつものことだ。首の後ろが熱いのは、さっき伸びをしすぎたからだろう。
だが、それは胃ではなかった。
胸の真ん中を、太い万力でゆっくり締め上げられていくような感覚だった。息を吸おうとして、吸えない。肺が動いていないわけじゃない。空気が入ってこないわけでもない。ただ、締まっていく。
視界が、白く滲んだ。
俺はキーボードから手を離して、机の縁を掴んだ。掴んだつもりだった。指は縁を滑って、そのまま落ちた。
(──なんだ、これ)
声を出そうとした。誰かを呼ぼうとした。
このフロアには誰もいない。
誰も来ないことを、俺は40分前に知っていた。
左の耳から音が消えた。空調の音も、ファンの音も。右の耳だけが、自分の心臓の音を拾っていた。速い。速すぎる。それが不規則になって、途中でつまずいて、また走り出して、また、つまずいた。
椅子が傾いだ。
床が近づいてくるのが、やけにゆっくり見えた。肩から落ちた衝撃も、痛みとしては届かなかった。
視界の端から、色が抜けていく。
モニターの光だけが、白く残っていた。書きかけのメモのカーソルが、点滅を続けている。
(......引き継ぎ、書けてない)
それが、はっきりした形をとった最後の考えだった。
芦原になんて言われるだろう、と思った。ちゃんと寝てくださいって、あんなに言われたのに。
明日、誰が3番の誤検知を見るんだろう。あれは優先度を上げたほうがいい。書いておけばよかった。
3日間。
台風が来て、他人の名前が並んだお知らせを読んで、ログを読んだ。それだけの3日間だった。
特記事項なし。
カーソルが、点滅している。
点滅して、いる。