ホームデバッグ・ザ・フューチャー ―不敗の社長と、31歳限界SE―第2話 境界線
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第2話 境界線

 9月18日、水曜日。16時。黒瀬彰くろせあきら、再出勤。

 10時間前にここを出たばかりだった。夜勤明けの日は本来なら明け休みで、家で泥のように眠っていていいはずだ。だが今月は要員が2人抜けている。抜けた分の穴は、残った人間の睡眠時間で埋めるしかない。

 誰が悪いという話でもない。うちの会社は人を増やす金がなく、増やしたところで続かない。9年もいれば、そういうものとして受け入れられるようになる。

 俺はエレベーターで5階に上がり、ロッカーに鞄を放り込んだ。

  ◇

 夕方のシラカワ・ワークスは、静かに人が減っていく。

 17時を回ると、フロアのあちこちで椅子が引かれる音がして、「お先です」の声が重なる。誰も気まずそうにしていない。上司も一緒に帰る。残っている人間のほうが少数派で、その少数派も19時を回る頃にはほとんどいなくなる。

 初めてこの現場に入った日、俺はこの光景を見て、目を疑った。

 いまはもう慣れた。世の中にはこういう会社があって、こういう働き方をしている人たちがいる。それだけの話だ。

  ◇

 17時20分、社員食堂。

 遅番の日は、入って1時間ほどで休憩を取る。社食のラストオーダーが17時30分で、18時には閉まるからだ。外で食えば1回で1,000円近く飛ぶ。ここなら日替わりが450円で、しかも協力会社の人間も使える。数少ない、境目のない場所だ。

 俺は食券を買う列の最後尾に並んでいた。今日の日替わりは生姜焼き定食らしい。

 列の3つ前に、白河透しらかわとおるがいた。

 シラカワ・ワークスの社長。29歳。テレビの経済番組で「不敗の天才」と紹介されている男が、プラスチックのトレイを持って、券売機で食券を買っている。

 誰も騒がない。それが日常だからだ。

「社長、お疲れさまです」

 前に並んでいた若い女性社員が振り返って挨拶をした。白河社長は顔を上げて、名前を呼んだ。

羽鳥はとりさん。お疲れさま。......先週の資格試験、どうでした」

「あっ、受かりました!」

「よかった。おめでとう。あれ、範囲広いのに2ヶ月でよく詰めましたね」

 女性社員は、嬉しさを隠しきれない顔で頭を下げた。

 俺は列の後ろでそれを眺めていた。

 社員は300人以上いるはずだ。その一人一人の名前と、いつ何を受けたのかまで覚えている。演技でやれる量じゃない。あの人は本当に、社員のことを気にかけている。

 白河社長が食券を取って歩き出し、俺の横を通った。

 目が合った。

 彼は軽く会釈をした。俺も会釈を返した。それだけだった。

 当たり前だ。名前を呼ばれるほうがおかしい。

  ◇

 18時10分。社内連絡ツールに、全社向けのお知らせが流れた。

  >【お知らせ】昨夜の落雷対応について
  > 昨夜から未明にかけて基幹系の障害対応にあたった城戸きどさん、宮下みやしたさん、瀬川せがわさんの3名に、特別手当を支給します。
  > 3名は朝の報告会のあと、本日は代休としています。連絡が必要な場合は明日以降にお願いします。取れなかった代休が発生した場合は必ず申告してください。
  > また、協力会社の皆さまにも多大なご協力をいただきました。改めて御礼申し上げます。
  > シラカワ・ワークス 代表取締役 白河透

 3名の名前が並んでいた。

 俺は最後の1行を2度読んで、そこでようやく、それが自分のことだと気づいた。

 協力会社の皆さま。

 名前ではなく、区分で呼ばれている。

 当然だ、と思う。俺は東和とうわシステムズの人間で、この会社が手当を出す相手じゃない。うちの会社の頑張りを労うのはうちの会社の仕事で、そしてうちの会社にそんな予算はない。もし逆の立場だったら、うちだって同じ書き方をする。

 むしろ1行でも触れてくれた分、丁寧なほうだ。

 俺は運用室に戻って、マグにインスタントコーヒーを作った。

  ◇

 18時40分。5階の給湯室でマグカップを洗っていたときだった。

 廊下の角の向こうから、声が聞こえてきた。壁一枚を挟んだ位置で、こちらからは姿が見えない。

「社長。昨夜の件、少し伺ってもいいですか」

 女性の声。桐生紗英きりゅうさえさんだろう。秘書室長。連絡ツールで名前を見ない日はないが、実物を見たことは数えるほどしかない。

「どうぞ」

 白河社長の声。

「......どうして、あそこまで当たるんですか」

「気象と設備の相関を、過去5年分見ているだけですよ」

 白河社長の声は、いつもと同じ落ち着いた調子だった。

「あの立地は変電所が古い。風速がある値を超えると、周辺の事故率が跳ね上がるんです。数字を並べれば、誰が計算しても同じ結論が出ます」

「では、なぜ他の誰も言わないんでしょう」

「みんな忙しいからでしょう。それだけです」

 マグカップを洗い終えて、俺は蛇口を閉めた。

 そりゃそうだよな、と思った。

 頭のいい人間というのは、誰でも見られるはずのデータを、実際に見る。それだけの差だ。俺だってやろうと思えばできる。やらないだけで。──いや、たぶん、やってもあの精度にはならない。そこが違いというやつなんだろう。

 俺は給湯室を出て、運用室へ戻った。

 角を曲がるとき、まだ2人はそこにいた。桐生さんは何も言わずに立っていた。ずいぶん長く黙っているな、と一瞬だけ思ったが、俺も上司の話を聞いているときはだいたいそんな顔をしている。

  ◇

 19時。運用室で、沼田ぬまた課長に呼ばれた。

「黒瀬くん、ちょっといい」

 昨夜タクシーで帰ったはずの沼田課長は、なぜか今日も定時を過ぎてここにいる。うちの会社の管理職は、この現場に机を持っていない。だから来るときは、たいてい何か言いにくいことがあるときだ。

「昨夜の作業記録さ」

「はい」

「あの、台帳の件。ラックの、なんだっけ、7番の」

「台帳未記載の機器があったやつですね」

「そうそう。あれ、先方から問い合わせ来ちゃってさ」

 沼田課長は、困ったというより面倒くさいという顔をした。

「向こうの管理してる話なんだから、うちが記録に残すことじゃないでしょって」

「でも、見つけたら書くのがルールですよね」

「ルールはそうなんだけどさあ。あんまり細かく書かなくていいから。角が立つから」

 俺は「はあ」と返した。

 沼田課長は俺の肩を軽く叩いて、「じゃ、あとよろしく」と言って帰っていった。滞在時間、4分。

 角が立つ。この人の判断基準は、いつだってそれだけだ。契約を切られなければ何でもいい。

 俺はモニターに向き直って、作業記録のフォーマットを開いた。次からは書き方を変えよう、と思った。それだけのことだった。

  ◇

 19時30分、休憩室。

 自販機の前で、芦原千種あしはらちぐさと鉢合わせた。彼女は今日は日勤で、いま上がるところらしい。俺より3つ下で、この現場では俺より頼りにされている。

「あれ、黒瀬さん。今日、夜勤明けじゃなかったですっけ」

「遅番。応援。人が足りない」

「うわあ」

 芦原は心底嫌そうな顔をした。

「黒瀬さん、最近ちゃんと寝てます?」

「寝てる」

「目、真っ赤ですよ」

「これは寝不足じゃなくて加齢」

「31で言うことじゃないですよ、それ」

 芦原は笑って、缶のお茶を取り出した。

「明日も夜勤ですよね。じゃあ明後日はさすがに休みですか」

「明日の夜勤明けで、たぶん」

「じゃあ寝てくださいね。ほんとに」

 彼女は缶を軽く持ち上げて挨拶の代わりにして、休憩室を出ていった。

 俺はしばらく自販機の前に立っていた。

 悪くない職場だ、と思う。給料は安いし、シフトはめちゃくちゃだし、特別手当も代休も出ないけれど。

  ◇

 20時を過ぎると、シラカワ・ワークスのフロアからは完全に人が消えた。

 残っているのは、運用室にいる俺1人。

 監視画面は緑で埋まっている。異常はない。窓の外には、昨日の台風が嘘みたいに澄んだ夜空が広がっていた。

 作業依頼システムに、1件だけ新しい依頼が入っていた。3階給湯室の蛇口交換、明日の立ち会い。うちの現場では、作業依頼を略して「作依さいと呼んでいる。設備の修理や什器じゅうきの移動を頼むだけの、小さな箱だ。俺は受付のボタンを押して、閉じた。

 それから、月に1回の外部保管の媒体を書き出した。バックアップを媒体に落として、封をして、台帳に記録する。明日の朝、集荷の業者が取りに来る。一度も誰かに聞かれたことのない作業だった。

 俺はチェックリストを埋めながら、ぼんやり考えた。

 この会社の社員として生まれ変われたら、どんな人生だったんだろう。定時に帰って、名前で呼ばれて、代休を申告しろと怒られて。

 まあ、そんなもんか。

 線の内側にいる人と、外側にいる人がいる。それだけの話だ。

 俺はその線を、一度も疑ったことがなかった。
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デバッグ・ザ・フューチャー ―不敗の社長と、31歳限界SE―作者:黒い★彡彗星
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 9月18日、水曜日。16時。黒瀬彰くろせあきら、再出勤。

 10時間前にここを出たばかりだった。夜勤明けの日は本来なら明け休みで、家で泥のように眠っていていいはずだ。だが今月は要員が2人抜けている。抜けた分の穴は、残った人間の睡眠時間で埋めるしかない。

 誰が悪いという話でもない。うちの会社は人を増やす金がなく、増やしたところで続かない。9年もいれば、そういうものとして受け入れられるようになる。

 俺はエレベーターで5階に上がり、ロッカーに鞄を放り込んだ。

  ◇

 夕方のシラカワ・ワークスは、静かに人が減っていく。

 17時を回ると、フロアのあちこちで椅子が引かれる音がして、「お先です」の声が重なる。誰も気まずそうにしていない。上司も一緒に帰る。残っている人間のほうが少数派で、その少数派も19時を回る頃にはほとんどいなくなる。

 初めてこの現場に入った日、俺はこの光景を見て、目を疑った。

 いまはもう慣れた。世の中にはこういう会社があって、こういう働き方をしている人たちがいる。それだけの話だ。

  ◇

 17時20分、社員食堂。

 遅番の日は、入って1時間ほどで休憩を取る。社食のラストオーダーが17時30分で、18時には閉まるからだ。外で食えば1回で1,000円近く飛ぶ。ここなら日替わりが450円で、しかも協力会社の人間も使える。数少ない、境目のない場所だ。

 俺は食券を買う列の最後尾に並んでいた。今日の日替わりは生姜焼き定食らしい。

 列の3つ前に、白河透しらかわとおるがいた。

 シラカワ・ワークスの社長。29歳。テレビの経済番組で「不敗の天才」と紹介されている男が、プラスチックのトレイを持って、券売機で食券を買っている。

 誰も騒がない。それが日常だからだ。

「社長、お疲れさまです」

 前に並んでいた若い女性社員が振り返って挨拶をした。白河社長は顔を上げて、名前を呼んだ。

羽鳥はとりさん。お疲れさま。......先週の資格試験、どうでした」

「あっ、受かりました!」

「よかった。おめでとう。あれ、範囲広いのに2ヶ月でよく詰めましたね」

 女性社員は、嬉しさを隠しきれない顔で頭を下げた。

 俺は列の後ろでそれを眺めていた。

 社員は300人以上いるはずだ。その一人一人の名前と、いつ何を受けたのかまで覚えている。演技でやれる量じゃない。あの人は本当に、社員のことを気にかけている。

 白河社長が食券を取って歩き出し、俺の横を通った。

 目が合った。

 彼は軽く会釈をした。俺も会釈を返した。それだけだった。

 当たり前だ。名前を呼ばれるほうがおかしい。

  ◇

 18時10分。社内連絡ツールに、全社向けのお知らせが流れた。

  >【お知らせ】昨夜の落雷対応について
  > 昨夜から未明にかけて基幹系の障害対応にあたった城戸きどさん、宮下みやしたさん、瀬川せがわさんの3名に、特別手当を支給します。
  > 3名は朝の報告会のあと、本日は代休としています。連絡が必要な場合は明日以降にお願いします。取れなかった代休が発生した場合は必ず申告してください。
  > また、協力会社の皆さまにも多大なご協力をいただきました。改めて御礼申し上げます。
  > シラカワ・ワークス 代表取締役 白河透

 3名の名前が並んでいた。

 俺は最後の1行を2度読んで、そこでようやく、それが自分のことだと気づいた。

 協力会社の皆さま。

 名前ではなく、区分で呼ばれている。

 当然だ、と思う。俺は東和とうわシステムズの人間で、この会社が手当を出す相手じゃない。うちの会社の頑張りを労うのはうちの会社の仕事で、そしてうちの会社にそんな予算はない。もし逆の立場だったら、うちだって同じ書き方をする。

 むしろ1行でも触れてくれた分、丁寧なほうだ。

 俺は運用室に戻って、マグにインスタントコーヒーを作った。

  ◇

 18時40分。5階の給湯室でマグカップを洗っていたときだった。

 廊下の角の向こうから、声が聞こえてきた。壁一枚を挟んだ位置で、こちらからは姿が見えない。

「社長。昨夜の件、少し伺ってもいいですか」

 女性の声。桐生紗英きりゅうさえさんだろう。秘書室長。連絡ツールで名前を見ない日はないが、実物を見たことは数えるほどしかない。

「どうぞ」

 白河社長の声。

「......どうして、あそこまで当たるんですか」

「気象と設備の相関を、過去5年分見ているだけですよ」

 白河社長の声は、いつもと同じ落ち着いた調子だった。

「あの立地は変電所が古い。風速がある値を超えると、周辺の事故率が跳ね上がるんです。数字を並べれば、誰が計算しても同じ結論が出ます」

「では、なぜ他の誰も言わないんでしょう」

「みんな忙しいからでしょう。それだけです」

 マグカップを洗い終えて、俺は蛇口を閉めた。

 そりゃそうだよな、と思った。

 頭のいい人間というのは、誰でも見られるはずのデータを、実際に見る。それだけの差だ。俺だってやろうと思えばできる。やらないだけで。──いや、たぶん、やってもあの精度にはならない。そこが違いというやつなんだろう。

 俺は給湯室を出て、運用室へ戻った。

 角を曲がるとき、まだ2人はそこにいた。桐生さんは何も言わずに立っていた。ずいぶん長く黙っているな、と一瞬だけ思ったが、俺も上司の話を聞いているときはだいたいそんな顔をしている。

  ◇

 19時。運用室で、沼田ぬまた課長に呼ばれた。

「黒瀬くん、ちょっといい」

 昨夜タクシーで帰ったはずの沼田課長は、なぜか今日も定時を過ぎてここにいる。うちの会社の管理職は、この現場に机を持っていない。だから来るときは、たいてい何か言いにくいことがあるときだ。

「昨夜の作業記録さ」

「はい」

「あの、台帳の件。ラックの、なんだっけ、7番の」

「台帳未記載の機器があったやつですね」

「そうそう。あれ、先方から問い合わせ来ちゃってさ」

 沼田課長は、困ったというより面倒くさいという顔をした。

「向こうの管理してる話なんだから、うちが記録に残すことじゃないでしょって」

「でも、見つけたら書くのがルールですよね」

「ルールはそうなんだけどさあ。あんまり細かく書かなくていいから。角が立つから」

 俺は「はあ」と返した。

 沼田課長は俺の肩を軽く叩いて、「じゃ、あとよろしく」と言って帰っていった。滞在時間、4分。

 角が立つ。この人の判断基準は、いつだってそれだけだ。契約を切られなければ何でもいい。

 俺はモニターに向き直って、作業記録のフォーマットを開いた。次からは書き方を変えよう、と思った。それだけのことだった。

  ◇

 19時30分、休憩室。

 自販機の前で、芦原千種あしはらちぐさと鉢合わせた。彼女は今日は日勤で、いま上がるところらしい。俺より3つ下で、この現場では俺より頼りにされている。

「あれ、黒瀬さん。今日、夜勤明けじゃなかったですっけ」

「遅番。応援。人が足りない」

「うわあ」

 芦原は心底嫌そうな顔をした。

「黒瀬さん、最近ちゃんと寝てます?」

「寝てる」

「目、真っ赤ですよ」

「これは寝不足じゃなくて加齢」

「31で言うことじゃないですよ、それ」

 芦原は笑って、缶のお茶を取り出した。

「明日も夜勤ですよね。じゃあ明後日はさすがに休みですか」

「明日の夜勤明けで、たぶん」

「じゃあ寝てくださいね。ほんとに」

 彼女は缶を軽く持ち上げて挨拶の代わりにして、休憩室を出ていった。

 俺はしばらく自販機の前に立っていた。

 悪くない職場だ、と思う。給料は安いし、シフトはめちゃくちゃだし、特別手当も代休も出ないけれど。

  ◇

 20時を過ぎると、シラカワ・ワークスのフロアからは完全に人が消えた。

 残っているのは、運用室にいる俺1人。

 監視画面は緑で埋まっている。異常はない。窓の外には、昨日の台風が嘘みたいに澄んだ夜空が広がっていた。

 作業依頼システムに、1件だけ新しい依頼が入っていた。3階給湯室の蛇口交換、明日の立ち会い。うちの現場では、作業依頼を略して「作依さいと呼んでいる。設備の修理や什器じゅうきの移動を頼むだけの、小さな箱だ。俺は受付のボタンを押して、閉じた。

 それから、月に1回の外部保管の媒体を書き出した。バックアップを媒体に落として、封をして、台帳に記録する。明日の朝、集荷の業者が取りに来る。一度も誰かに聞かれたことのない作業だった。

 俺はチェックリストを埋めながら、ぼんやり考えた。

 この会社の社員として生まれ変われたら、どんな人生だったんだろう。定時に帰って、名前で呼ばれて、代休を申告しろと怒られて。

 まあ、そんなもんか。

 線の内側にいる人と、外側にいる人がいる。それだけの話だ。

 俺はその線を、一度も疑ったことがなかった。
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