ホームデバッグ・ザ・フューチャー ―不敗の社長と、31歳限界SE―第1話 嵐が来る
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第1話 嵐が来る

 うちの現場の社長は、失敗しない。

 それは社内では、天気の話をするのと同じくらい当たり前の共通認識だった。だから誰も、その理由を考えたことがない。

 俺もそうだった。

  ◇

 9月17日、火曜日。20時。東和とうわシステムズ 黒瀬彰くろせあきらと印字された社員証を提げて、俺はシラカワ・ワークスのデータセンターに入館した。

 自動ドアの向こうで、風が唸っている。台風16号。関東直撃コースだと、朝のニュースが騒いでいた。駅からここまでの数分で、傘の骨が折れた。

「おつかれさまです、黒瀬さん。びしょ濡れじゃないですか」

 運用室に入ると、芦原千種あしはらちぐさがヘッドセットを外しながら振り返った。日勤からの申し送り。彼女とは週に3回、この時間だけ顔を合わせる。

「傘が死んだ」

「かわいそうに」

 芦原はまったく同情していない声でそう言って、モニターに向き直った。

「じゃ、申し送りいきます。午後の定期バッチ、全部通ってます。3番の監視エージェント、また誤検知出てるんで無視でいいです。あと22時以降の外周点検、風速次第で中止判断。判断は沼田ぬまたさんに投げてください」

「わかった」

「じゃあ、あとはお願いします。私、電車止まる前に帰ります」

 芦原はウインドブレーカーを掴んで、5秒で運用室を出ていった。手が早い。仕事も、帰るのも。

 ドアが閉まる。廊下の足音。エレベーターの到着音。

 残ったのは俺と、隅の席で本社への報告書と格闘している沼田課長と、24時間動き続ける空調の音だけだった。

  ◇

 夜勤の前半は、たいてい何も起きない。

 監視画面は緑で埋まっている。ログの流れを眺めて、定型のチェックリストを埋めて、コンビニのおにぎりを食べる。窓ははめ殺しだが、それでもガラスが低く鳴っているのがわかる。

 こういう夜は嫌いじゃない。誰にも話しかけられないし、誰にも期待されない。

 31歳、独身、彼女なし。貯金は100万をわずかに超えたところで止まっている。この会社に入って9年、俺がやってきたのは、こういう夜を延々と積み重ねることだけだった。

 まあ、そんなもんか。

  ◇

 23時05分。社内連絡ツールに通知が入った。

  >【業務連絡】本日夜間の荒天対応について
  > 各位
  > 雷の可能性もあるため、各ラックのUPS(無停電電源装置)への結線状況をご確認ください。
  > 未結線の機器があった場合は対応の上、記録を残してください。念のため、早めにお願いします。
  > シラカワ・ワークス インフラ統括部

 鞄を肩にかけようとしていた沼田課長が、画面を覗き込んで「ふうん」と言った。

「これ、社長発信だな」

「わかるんですか」

「わかるよ。あの人が言い出すときは、いつもこの書き方なんだ。『念のため』って必ず入る」

 沼田課長は肩をすくめた。

「先月もあっただろ。同じやつ」

「ありましたね。変電所がどうこうって日の」

 言いながら思い出した。あの日も同じ文面が飛んできて、俺は面倒がりながら電源系の確認に回った。そして──

「あれ、連絡来てから1時間も経たないうちに、本当に停電しましたよね」

「したした。ニュースになるくらいのやつな」

 沼田課長は満足そうに頷いた。

「だからみんな素直に従うんだよ、この会社。理屈じゃない。当たるんだから」

 当たるんだから。

 その一言で全部片付くのが、白河透しらかわとおるという男の凄みだった。

「じゃ、俺タクシー呼んだから出るわ。外周点検はこの風だと無理だから、中止でいいって記録に残しといたよ。あと、それ今のうちに見といて。うちが言われて動かなかったって話になるのが一番まずいから」

「はい」

 結局そこか、と思ったが、口には出さない。契約が全て。それがうちの会社の唯一の行動原理だった。

 沼田課長が出ていき、このフロアに残ったのは俺だけになった。

 俺は懐中電灯を取って立ち上がった。

 運用室の奥の扉を開けると、そのままサーバルームに続いている。廊下に出る必要はない。9年間、俺はこの扉を1日に何度も往復してきた。

  ◇

 サーバルームは寒い。摂氏22度に保たれた空気が、常に足元を流れていく。ラックの列が、視界の奥まで整然と続いている。

 やることは単純だ。各ラックの背面に回って、機器の電源ケーブルがUPS側の系統に繋がっているかを目視で確認する。壁のコンセントに直挿しされているものがあれば、それは雷が落ちた瞬間に死ぬ。

 外の風が強くなっていた。厚い壁越しでも、時々ビル全体が低く軋む。俺は懐中電灯を握り直した。

 1列目、異常なし。2列目、異常なし。

 3列目で、去年入れた検証用サーバが壁直挿しになっていた。誰だこれ。作業記録を確認すると、案の定、担当者名が「(協力会社)」としか書かれていない。俺は差し替えて、写真を撮って、記録に残した。

 7列目。No.7ラックの背面を開けたとき、下段の隙間に小さな黒い箱があった。名刺入れくらいの大きさで、そこから細い線が2本、ラック内の配線束に沿って伸びている。

 資産管理台帳を開く。No.7ラックの搭載機器一覧に、この箱はない。

 俺は写真を撮って、作業記録に1行だけ足した。

  ※No.7ラック背面、台帳未記載の機器あり(先月も報告済)

 保存。次のラックへ。

 8列目で今度はケーブルタイが切れかけているのを見つけて、俺は舌打ちをした。予備のタイは運用室に置いてきていた。往復で10分。無駄な10分だ。

 全ラックを見終えて運用室に戻ったのは、23時45分だった。40分弱で回りきった計算になる。指先が冷えきっていた。

  ◇

 椅子に座って、缶コーヒーを開けた。3分も経たないうちに、通知が鳴った。

  >【業務連絡】基幹系の待機について
  > 各位
  > まもなく基幹系に影響が出る可能性があります。手空きの方は待機をお願いします。
  > シラカワ・ワークス 秘書室 桐生紗英きりゅうさえ

 秘書室からか、と思った。深夜に技術系の連絡が秘書室名義で飛んでくるのは珍しい。まあ、この時間だと統括部に人がいないんだろう。

 手空きも何も、俺1人だ。

 俺は椅子に座り直して、コーヒーを一口飲んだ。

  ◇

 23時55分。

 窓の外が、白く光った。

 一拍おいて、腹の底に響く音。近い。かなり近い。

 照明が一度落ちて、0コンマ何秒かの闇のあと、非常灯の色に切り替わった。同時に、監視画面が赤く染まった。

 基幹系ダウン。連鎖してアラートが積み上がっていく。俺は受話器を取りながら、もう片方の手で電源系統のステータスを開いた。

 ──UPS、正常稼働。全系統、給電継続。

 サーバは落ちていなかった。落ちたのは外部との回線と、壁から直で電気を取っていた周辺機器だけだ。3列目の検証用サーバは、40分前に俺が差し替えたおかげで生きていた。

 そこからは早かった。手順書通りに切り分けて、回線を副系統に切り替えて、影響範囲を確定させる。0時17分、シラカワ・ワークス側のインフラ担当が3名、自宅からリモートで参加してきた。0時40分、基幹系の復旧完了。

 被害はほぼゼロだった。

 3時を回った頃、最後の確認作業をしている途中で、ふと視線を上げた。運用室のガラス越しに、廊下のエレベーターが見える。

 階数表示が、動いていた。

 3階、4階、5階。ここは5階だ。

 俺はしばらく見ていたが、扉は開かなかった。表示はそのまま1階まで下がって、止まった。

 空調か何かの点検だろう。この時間、このフロアにいるのは俺だけのはずだが、ビル側の設備業者なら入館記録が別系統になる。

 視線をモニターに戻した。ログの吐き出しが終わるまで、あと4分。

  ◇

 5時20分。空が白み始めていた。

 運用室のドアが開いて、シラカワ・ワークスのインフラ担当が2人、入ってきた。夜通しリモートで対応していた面々だ。朝一番の報告会に備えて、始発で出社してきたらしい。2人とも目が赤い。

「黒瀬さん、夜通しすみません」

「いえ。こっちは仕事なので」

 実際、俺の仕事だった。俺が朝までここにいるのは、雷が落ちたからではなく、単にシフトがそうなっているからだ。

 3人で報告書の数字を突き合わせていると、5時50分、運用室にもう1人入ってきた。

 白河透だった。

 シラカワ・ワークスの社長。29歳。世間が「不敗の天才」と呼ぶ男。テレビで見るときと同じ、皺のないシャツを着ていた。台風の夜を越えたようには、まるで見えない。

「復旧、ありがとうございました。皆さんのおかげで助かりました」

 彼はそう言って、頭を下げた。深く。

 それから顔を上げて、2人の社員に順番に声をかけた。名前を呼び、担当した箇所を正確に挙げて、労い、代休を取るように言って、「今日は昼までに帰ってください」と付け加えた。1人が照れくさそうに笑った。

 それから白河社長は俺のほうを見て、軽く会釈をして、出ていった。

 名前は呼ばれなかった。

 当然だ。俺は東和システムズの人間で、この会社の社員じゃない。社長がいちいち協力会社の常駐要員の名前を覚えている理由がない。

  ◇

 6時10分。夜勤明け。

 社内連絡ツールが、シラカワ・ワークスの社員たちの投稿で流れていた。

  > 昨夜の事前アナウンス、神すぎませんか
  > UPS確認しといてって連絡来て、1時間も経たずに落雷って何なんですか
  > ほんとにあの人、失敗しないな

 俺は自販機の缶コーヒーを開けて、それを眺めていた。

 すごい人ってのは、本当にいるんだな、と思う。同じ人間なのに、見えている世界の解像度が違うんだろう。俺には一生わからない側の景色だ。

 まあ、そんなもんか。

 缶を捨てて、鞄を取った。

 外に出ると、風は完全に止んでいた。台風は俺たちの上を、何事もなかったように通り過ぎていったらしい。

 空は、嫌になるくらい晴れていた。
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デバッグ・ザ・フューチャー ―不敗の社長と、31歳限界SE―作者:黒い★彡彗星
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第1話 嵐が来る

 うちの現場の社長は、失敗しない。

 それは社内では、天気の話をするのと同じくらい当たり前の共通認識だった。だから誰も、その理由を考えたことがない。

 俺もそうだった。

  ◇

 9月17日、火曜日。20時。東和とうわシステムズ 黒瀬彰くろせあきらと印字された社員証を提げて、俺はシラカワ・ワークスのデータセンターに入館した。

 自動ドアの向こうで、風が唸っている。台風16号。関東直撃コースだと、朝のニュースが騒いでいた。駅からここまでの数分で、傘の骨が折れた。

「おつかれさまです、黒瀬さん。びしょ濡れじゃないですか」

 運用室に入ると、芦原千種あしはらちぐさがヘッドセットを外しながら振り返った。日勤からの申し送り。彼女とは週に3回、この時間だけ顔を合わせる。

「傘が死んだ」

「かわいそうに」

 芦原はまったく同情していない声でそう言って、モニターに向き直った。

「じゃ、申し送りいきます。午後の定期バッチ、全部通ってます。3番の監視エージェント、また誤検知出てるんで無視でいいです。あと22時以降の外周点検、風速次第で中止判断。判断は沼田ぬまたさんに投げてください」

「わかった」

「じゃあ、あとはお願いします。私、電車止まる前に帰ります」

 芦原はウインドブレーカーを掴んで、5秒で運用室を出ていった。手が早い。仕事も、帰るのも。

 ドアが閉まる。廊下の足音。エレベーターの到着音。

 残ったのは俺と、隅の席で本社への報告書と格闘している沼田課長と、24時間動き続ける空調の音だけだった。

  ◇

 夜勤の前半は、たいてい何も起きない。

 監視画面は緑で埋まっている。ログの流れを眺めて、定型のチェックリストを埋めて、コンビニのおにぎりを食べる。窓ははめ殺しだが、それでもガラスが低く鳴っているのがわかる。

 こういう夜は嫌いじゃない。誰にも話しかけられないし、誰にも期待されない。

 31歳、独身、彼女なし。貯金は100万をわずかに超えたところで止まっている。この会社に入って9年、俺がやってきたのは、こういう夜を延々と積み重ねることだけだった。

 まあ、そんなもんか。

  ◇

 23時05分。社内連絡ツールに通知が入った。

  >【業務連絡】本日夜間の荒天対応について
  > 各位
  > 雷の可能性もあるため、各ラックのUPS(無停電電源装置)への結線状況をご確認ください。
  > 未結線の機器があった場合は対応の上、記録を残してください。念のため、早めにお願いします。
  > シラカワ・ワークス インフラ統括部

 鞄を肩にかけようとしていた沼田課長が、画面を覗き込んで「ふうん」と言った。

「これ、社長発信だな」

「わかるんですか」

「わかるよ。あの人が言い出すときは、いつもこの書き方なんだ。『念のため』って必ず入る」

 沼田課長は肩をすくめた。

「先月もあっただろ。同じやつ」

「ありましたね。変電所がどうこうって日の」

 言いながら思い出した。あの日も同じ文面が飛んできて、俺は面倒がりながら電源系の確認に回った。そして──

「あれ、連絡来てから1時間も経たないうちに、本当に停電しましたよね」

「したした。ニュースになるくらいのやつな」

 沼田課長は満足そうに頷いた。

「だからみんな素直に従うんだよ、この会社。理屈じゃない。当たるんだから」

 当たるんだから。

 その一言で全部片付くのが、白河透しらかわとおるという男の凄みだった。

「じゃ、俺タクシー呼んだから出るわ。外周点検はこの風だと無理だから、中止でいいって記録に残しといたよ。あと、それ今のうちに見といて。うちが言われて動かなかったって話になるのが一番まずいから」

「はい」

 結局そこか、と思ったが、口には出さない。契約が全て。それがうちの会社の唯一の行動原理だった。

 沼田課長が出ていき、このフロアに残ったのは俺だけになった。

 俺は懐中電灯を取って立ち上がった。

 運用室の奥の扉を開けると、そのままサーバルームに続いている。廊下に出る必要はない。9年間、俺はこの扉を1日に何度も往復してきた。

  ◇

 サーバルームは寒い。摂氏22度に保たれた空気が、常に足元を流れていく。ラックの列が、視界の奥まで整然と続いている。

 やることは単純だ。各ラックの背面に回って、機器の電源ケーブルがUPS側の系統に繋がっているかを目視で確認する。壁のコンセントに直挿しされているものがあれば、それは雷が落ちた瞬間に死ぬ。

 外の風が強くなっていた。厚い壁越しでも、時々ビル全体が低く軋む。俺は懐中電灯を握り直した。

 1列目、異常なし。2列目、異常なし。

 3列目で、去年入れた検証用サーバが壁直挿しになっていた。誰だこれ。作業記録を確認すると、案の定、担当者名が「(協力会社)」としか書かれていない。俺は差し替えて、写真を撮って、記録に残した。

 7列目。No.7ラックの背面を開けたとき、下段の隙間に小さな黒い箱があった。名刺入れくらいの大きさで、そこから細い線が2本、ラック内の配線束に沿って伸びている。

 資産管理台帳を開く。No.7ラックの搭載機器一覧に、この箱はない。

 俺は写真を撮って、作業記録に1行だけ足した。

  ※No.7ラック背面、台帳未記載の機器あり(先月も報告済)

 保存。次のラックへ。

 8列目で今度はケーブルタイが切れかけているのを見つけて、俺は舌打ちをした。予備のタイは運用室に置いてきていた。往復で10分。無駄な10分だ。

 全ラックを見終えて運用室に戻ったのは、23時45分だった。40分弱で回りきった計算になる。指先が冷えきっていた。

  ◇

 椅子に座って、缶コーヒーを開けた。3分も経たないうちに、通知が鳴った。

  >【業務連絡】基幹系の待機について
  > 各位
  > まもなく基幹系に影響が出る可能性があります。手空きの方は待機をお願いします。
  > シラカワ・ワークス 秘書室 桐生紗英きりゅうさえ

 秘書室からか、と思った。深夜に技術系の連絡が秘書室名義で飛んでくるのは珍しい。まあ、この時間だと統括部に人がいないんだろう。

 手空きも何も、俺1人だ。

 俺は椅子に座り直して、コーヒーを一口飲んだ。

  ◇

 23時55分。

 窓の外が、白く光った。

 一拍おいて、腹の底に響く音。近い。かなり近い。

 照明が一度落ちて、0コンマ何秒かの闇のあと、非常灯の色に切り替わった。同時に、監視画面が赤く染まった。

 基幹系ダウン。連鎖してアラートが積み上がっていく。俺は受話器を取りながら、もう片方の手で電源系統のステータスを開いた。

 ──UPS、正常稼働。全系統、給電継続。

 サーバは落ちていなかった。落ちたのは外部との回線と、壁から直で電気を取っていた周辺機器だけだ。3列目の検証用サーバは、40分前に俺が差し替えたおかげで生きていた。

 そこからは早かった。手順書通りに切り分けて、回線を副系統に切り替えて、影響範囲を確定させる。0時17分、シラカワ・ワークス側のインフラ担当が3名、自宅からリモートで参加してきた。0時40分、基幹系の復旧完了。

 被害はほぼゼロだった。

 3時を回った頃、最後の確認作業をしている途中で、ふと視線を上げた。運用室のガラス越しに、廊下のエレベーターが見える。

 階数表示が、動いていた。

 3階、4階、5階。ここは5階だ。

 俺はしばらく見ていたが、扉は開かなかった。表示はそのまま1階まで下がって、止まった。

 空調か何かの点検だろう。この時間、このフロアにいるのは俺だけのはずだが、ビル側の設備業者なら入館記録が別系統になる。

 視線をモニターに戻した。ログの吐き出しが終わるまで、あと4分。

  ◇

 5時20分。空が白み始めていた。

 運用室のドアが開いて、シラカワ・ワークスのインフラ担当が2人、入ってきた。夜通しリモートで対応していた面々だ。朝一番の報告会に備えて、始発で出社してきたらしい。2人とも目が赤い。

「黒瀬さん、夜通しすみません」

「いえ。こっちは仕事なので」

 実際、俺の仕事だった。俺が朝までここにいるのは、雷が落ちたからではなく、単にシフトがそうなっているからだ。

 3人で報告書の数字を突き合わせていると、5時50分、運用室にもう1人入ってきた。

 白河透だった。

 シラカワ・ワークスの社長。29歳。世間が「不敗の天才」と呼ぶ男。テレビで見るときと同じ、皺のないシャツを着ていた。台風の夜を越えたようには、まるで見えない。

「復旧、ありがとうございました。皆さんのおかげで助かりました」

 彼はそう言って、頭を下げた。深く。

 それから顔を上げて、2人の社員に順番に声をかけた。名前を呼び、担当した箇所を正確に挙げて、労い、代休を取るように言って、「今日は昼までに帰ってください」と付け加えた。1人が照れくさそうに笑った。

 それから白河社長は俺のほうを見て、軽く会釈をして、出ていった。

 名前は呼ばれなかった。

 当然だ。俺は東和システムズの人間で、この会社の社員じゃない。社長がいちいち協力会社の常駐要員の名前を覚えている理由がない。

  ◇

 6時10分。夜勤明け。

 社内連絡ツールが、シラカワ・ワークスの社員たちの投稿で流れていた。

  > 昨夜の事前アナウンス、神すぎませんか
  > UPS確認しといてって連絡来て、1時間も経たずに落雷って何なんですか
  > ほんとにあの人、失敗しないな

 俺は自販機の缶コーヒーを開けて、それを眺めていた。

 すごい人ってのは、本当にいるんだな、と思う。同じ人間なのに、見えている世界の解像度が違うんだろう。俺には一生わからない側の景色だ。

 まあ、そんなもんか。

 缶を捨てて、鞄を取った。

 外に出ると、風は完全に止んでいた。台風は俺たちの上を、何事もなかったように通り過ぎていったらしい。

 空は、嫌になるくらい晴れていた。
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