第17話 権限
4時50分。9月17日、火曜日。
目を開けて、俺が最初にやったのは、頭の中の数字を読み上げることだった。
2ヶ月前の日付。1時47分から2時10分。23分。
言えた。黒瀬彰、31歳。6回目の朝。
4ヶ月前と、半年前。どちらも深夜の20分前後。どちらも俺の非番の日。
言えた。
俺はベッドの上で息を吐いた。
持って帰れた。記録は全部消えたが、数字は残っている。
ただし、穴があった。
最後の記憶が欠けている。
5回目の夜、俺は運用室でログを読んでいた。そこまでは覚えている。だがそこから先が霧だ。いつもの、24時間かけて解凍される部分。
妙な手応えだけがあった。
何かを見た。
見て、それを覚えようとした。その「覚えようとした」という意志の感触だけが残っていて、中身が入っていない。
件名だけ書いて、本文が空のチケットみたいだ、と思った。
6回目の3日間の、方針を決める。
1. 今回の変更条件:仕事を休まない
2. 結果:これから
3. 次の変更条件:結果次第
4回目は休んで時間を作ろうとした。5回目は休んだまま、私服で入った。あれで23分の穴は見つけた。だが、どちらも続かない。
俺が欲しいのは時間じゃない。権限だ。
あの建物の中で、入退館ログと監視カメラの記録を正面から読める人間は、そう多くない。そのうちの1人が、常駐の運用保守要員である俺だ。
休みのまま入れば、一晩が限界だ。日勤に顔を見られて、次はない。夜勤に入っていれば、朝まで誰にも聞かれずに端末の前にいられる。
休めば沼田課長が怒り、契約が揺れ、その分俺は建物から遠ざかる。
働きながら調べるのが、一番早い。
そう思ったことは、一度もなかった。
◇
20時、入館。
「おつかれさまです、黒瀬さん。びしょ濡れじゃないですか」
「傘が死んだ」
「かわいそうに」
芦原千種の申し送りを、俺は黙って聞いた。
定期バッチ。3番の誤検知。外周点検の中止判断。
全部、4回目だ。2回は、この場にいなかった。
彼女の声の高さも、途中で一度モニターに視線を落とす動きも、記憶と完全に一致していた。
「じゃあ、あとはお願いします。私、電車止まる前に帰ります」
「ああ」
「......黒瀬さん」
ドアの前で、彼女が立ち止まった。
「顔色、悪いですよ」
「知ってる」
彼女は何か言いかけて、やめて、出ていった。
◇
22時30分、俺はUPSの確認に回った。23時05分の通知が来たときには、もう戻っていた。
守れるものは守った。3列目の検証用サーバ。8列目の予備機。10列目の監視端末。全部、差し替えた。
3回目の俺は、実験のためにそれをやらなかった。あのときは会社の資産が2台死んだ。
もうその実験は済んでいる。だから今回は守る。
7列目の黒い箱には、触らなかった。写真も撮らなかった。
こちらが気づいていることを、向こうに教える必要はない。
◇
23時55分、落雷。
俺は手を動かした。
切り分け。副系統への切り替え。影響範囲の確定。0時17分に城戸さんたちがリモートで入ってきて、俺が状況を説明して、0時30分には全部終わった。
速すぎて、誰も何も言わなかった。
褒められることにも、驚かれることにも、もう興味がなかった。
これはただの作業だ。
◇
1時。事後処理を30分で片付けて、俺は本題に入った。
入退館ログを引く。前回と同じ手順で、同じ場所に、同じ穴があった。
2ヶ月前。1時47分から2時10分。
やはり、ある。
俺は少しだけ手を止めた。
当たり前のことだ。それでも、その行から目を離すのに、少しかかった。
この世界は、俺が3日前に戻っても、同じ状態で用意されている。俺が前回見つけたものは、今回も同じ場所にある。壊れて消えるのは、俺が「やったこと」だけだ。
既にそこにあるものは、何度でも掘り出せる。
それが、この繰り返しで唯一こちらに有利な性質だった。
次に知りたいのは、誰がそれをやったかだ。
記録が「消された」のではなく「止められた」のなら、止めるための操作がどこかに存在する。
入退館システムも、監視カメラも、勝手に止まらない。誰かがどこかの管理画面から、設定を変えるか、サービスを停止するか、記録先を切り替えるかしている。
その操作は、必ずログに残る。
残るはずだ。
俺は管理サーバの操作ログにアクセスを試みた。
権限がありません。
予想通りだった。
運用保守の委託先に、そこまでの権限は渡らない。俺たちは「見る」ことは許されているが、「誰が設定を変えたか」を見ることは許されていない。
当然の設計だ。俺が管理側なら、同じようにする。
俺はキーボードから手を離した。
ここから先は、越える。
俺は一度も、それをやったことがない。
与えられた権限の内側で、与えられた作業をしてきた。範囲外のものを見たくなったことは何度もある。障害の原因が明らかに向こう側にあるのに、こちらから見えなくて、何時間も足踏みしたことも。
それでも越えなかった。
越えたら、契約が切れる。会社に迷惑がかかる。沼田課長が頭を下げることになる。俺の9年が終わる。
いま、そのどれも意味を持たない。
契約は3日で戻る。会社の記憶も戻る。沼田課長が頭を下げた事実も、3日で消える。
俺が越境した記録も、消える。
残るのは、俺の頭の中にコピーした情報だけだ。
完全犯罪だな、と思った。
思ってから、その言葉が自分に向いていることに気づいた。
俺は、この3日間の中でなら、何をやってもいい人間になっている。
人を殴っても、金庫を開けても、他人の家に入っても、3日後には全部なかったことになる。罰は執行されない。被害者の記憶も残らない。
そんな人間のことを、社会は普通、なんと呼ぶか。
5回目まで、俺はただの社畜だった。
やることは決まっている。
この建物のシステム構成は、9年分頭に入っている。どこに何があって、どの経路がどこに繋がっているか。保守の人間は、それを知っていないと仕事にならない。
弱いところも、知っている。
更新されていない機器。使われていないアカウント。引き継ぎのときに消し忘れられた設定。確認してから実行するまでの、誰も気にしない隙間。
9年間、俺はそれを「直したほうがいい」と報告し続けてきた。
直らなかった。角が立つから。予算がないから。動いているものは触るなと言われたから。
俺が上げて、握りつぶされてきた不備の一覧が、いま、そのまま使える道具の一覧になっている。
◇
3時。
俺は手を止めて、コーヒーを取りに廊下へ出た。
自販機の前の廊下は、非常灯の緑色に沈んでいた。缶を取り出して、戻る途中で足が止まった。
階数表示が動いていた。3階、4階、5階。扉は開かず、1階まで下がって止まった。
設備業者だろう、と思って、運用室のドアを開けた。
◇
4時50分。
その瞬間に、来た。
痛みじゃない。記憶だ。
背後で床が鳴る。廊下側のドアは開いていない。振り返る途中で、首の後ろに何かが触れる。熱。金属の味。膝が落ちる。床に手をつく。
視界の隅に、靴。
黒い革靴。どこにでもある形。
一歩、下がる。
(覚えろ)
左のつま先に、小さな傷。
◇
俺は運用室で、椅子に座ったまま、両手をキーボードの上に置いていた。
息を吐いた。
空だった本文に、中身が入った。
5回目の夜、俺は人を見た。
顔は見ていない。声も聞いていない。だがあれは人間だった。人間が、俺の後ろに立って、俺の首に何かを当てた。
副系統を1つ潰したところで、関係がなかった。
主系統は、人だ。
場所を変えても、来る。
時刻だけは、絶対に動かない。
1回目の夜も、あの人はそこにいたんじゃないか。
◇
3時の階数表示を、もう一度思い出した。
扉は開かなかった。誰も乗り降りしていない。籠だけが5階まで上がって、降りていった。
呼んだんじゃない。動かしたんだ。
このフロアに人がいるかどうかは、それで分かる。出てくるか、顔を上げるか、どちらかをする。
俺はあのとき、缶を持って廊下に立っていた。
1回目の19日の夜、同じ時刻の階数表示は1階で止まっていた。確かめる必要が、もう無かったからだ。
9年間、俺はあれを点検だと思ってきた。
確かめられていたのは、俺だ。
俺は机に向かって、引き継ぎメモを書きかけて、胸を押さえて床に落ちた。振り返っていない。誰もいないと思っていた。このフロアに人はいないと、40分前に確認したつもりでいた。
2回目も、3回目も、同じだ。
振り返らなかったから、いなかったことになっていた。
運用室の奥の扉は、サーバルーム側からも開く。俺は廊下側のガラスばかり見ていた。
俺は端末に向き直った。
欲しいものが、はっきりした。
あの23分に、誰が記録を止めたのか。
その人間は、俺が非番の日を知っている。俺の自宅の間取りを知っている。俺が夜勤で一人になる時間を知っている。
そして、黒い革靴を履いて、あの奥の扉から入ってくる。
次は、顔を見る。
誰かが分かれば、それで終わる。9年分のログを掘る必要もない。
だが前回、俺は振り返ろうとして、首が動かなくなった。振り返れる状態で来る相手じゃない。
だから、両方やる。顔は見にいく。見えなかったときのために、手も動かしておく。
俺はキーボードに指を置いた。
9年分の、握りつぶされてきた不備の一覧を、頭の中で開いた。