第22話 何も起きない
俺は交差点を渡り直して、そのカメラの下に立った。
電柱を挟んだ向かいのビル。3階の外壁。黒い半球型のケースの中で、細長い筐体が突き出している。
見上げたまま、頭の中で秒を数えた。
20秒ほどで、カメラが動いた。
右に首を振って、そこで15秒止まり、また左へ戻る。
4分ほど見ていて、周期が分かった。左端で15秒、中央で20秒、右端で15秒。それを延々と繰り返している。
自動旋回だ。
俺は息を吐いた。
監視カメラの設定は何度も触ってきた。旋回のパターンを見れば、それが人の操作か自動かは分かる。人が動かしているカメラは、止まる位置がばらつく。追う対象がいるからだ。
これは、ばらついていない。
偶然、俺が渡ろうとした瞬間に、こちらを向いた。それだけだ。
安心した、と自分に言った。
言ってから、安心しきれていないことに気づいた。
俺はログを読む側だった。誰かが何かを疑って調べ始めたとき、その人間が最初にぶつかるのは「たぶん偶然だろう」という判断だ。そしてその判断は、たいてい正しい。
たいてい正しいから、たまに間違える。
◇
その日、俺は一度だけ移動した。
同じ街に3日いれば、店の人間が顔を覚える。だが移動するたびに、切符と、カメラと、店の記憶が増える。
どちらも痕跡だ。ならば少ないほうを選ぶ。
電車で2駅。降りてから、駅を背にして30分歩いた。似たような、名前しか知らない街に移った。
その街で、俺は誰とも話さなかった。
いや、話した。コンビニで「袋いりません」と言った。食堂で「カツ丼ください」と言った。ネットカフェの受付で「6時間で」と言った。
それだけだ。
名前を呼ばれることは、一度もなかった。
カツ丼を頼んだあとで、思った。どうせ3日で戻るなら、いちばん高いものを頼めばいい。金も腹も、戻る。
思っただけだった。口が勝手に、いつもの値段のものを選んでいた。それに、目立つ注文は店の人間の記憶に残る。カツ丼を頼む男は、誰の記憶にも残らない。
◇
夕方、公園のベンチに座っていた。
子どもが2人、遊具のところで走り回っていた。母親らしい人が、少し離れたところでスマホを見ている。
平和だった。
この街の人たちは、明後日も明々後日も、普通に生きている。俺のいる3日間の外側で、ずっと続いていく人生がある。
俺は3日ごとに、同じ場所に戻される。
7回目だ。黒瀬彰、31歳。
俺の人生は、いま、72時間の長さしかない。
公園の隅に、公衆電話があった。
俺はベンチから動かなかった。
番号は覚えている。芦原千種の携帯番号は、彼女がこの現場に来てからの6年で2回変わって、いまのは3つ目だ。夜勤の緊急連絡先として、頭に入っている。
かけたら、彼女は出る。
「黒瀬さん、どこにいるんですか」と言う。「みんな探してますよ」と言う。「沼田さんが、家まで行くって言ってます」と言う。
俺は「大丈夫だ」と言う。
それで、何が変わる。
通話記録が残る。
どこの公衆電話から、何時に、何分間かけたか。それは間違いなく記録される。俺を探している人間がいるなら、それは道しるべになる。
彼女に何も言えない。言えばこちらの位置が漏れる。言わなければ、ただ彼女を不安にさせるだけだ。
そして明後日の朝、彼女はそれを全部忘れる。
いや。
忘れない、かもしれない。
俺が今回死ななければ、この3日間は消えない。彼女は心配して、その記憶を持ったまま来週も再来週も生きる。
眠れない夜を過ごして、とまで考えて、やめた。同僚が1人、連絡もなしに消えた。心配はするだろう。だが眠れなくなるほどかは、俺には分からない。そう思いたいだけかもしれない。
俺は受話器から手を離した。
どちらに転んでも、いま彼女の声を聞くのは、俺の都合だ。
◇
その夜、俺はネットカフェの個室で目を開けていた。
残り時間、約28時間。
考えることは、ひとつしかなかった。
相手は、どうやって俺を殺すか。
俺は自分が相手の立場だったらを考えた。障害調査でやってきたことと同じだ。攻撃側の手順を書き出して、それぞれに対策を当てる。
■手段1:実行者(黒い革靴)
主系統。俺の居場所を知る必要がある。
→ 現状、俺の位置に届く記録は、この店の会員登録だけだ。追うには時間がかかる。
■手段2:装置
副系統。自宅と職場に設置済み。俺はどちらにもいない。
→ 新たに設置するには、俺の居場所を知り、その部屋に入る必要がある。
■手段3:事故を装う
仕込みには準備時間が要る。準備するには、俺がどこを通るかを知る必要がある。
→ 俺自身、明日どこにいるか決めていない。
全部、同じ壁にぶつかる。
俺の居場所。
これは、悪くない。
俺はブースの天井を見ながら、少しだけ口の端を上げた。
相手は強い。金があって、権限があって、記録を止められて、8ヶ月前から準備している。
だがその全部は、「俺がどこにいるか分かっている」ことを前提にしている。
自宅の天井に箱を付けられるのは、俺があの部屋に帰るからだ。ラックの背面に箱を置けるのは、俺があの5階に出勤するからだ。俺が9年間、同じ2点を往復してきたからだ。
今回、俺はその線から降りた。
もし生き延びたら。
俺は初めて、その先を具体的に考えた。
1. まず、生き延びる
2. 現金が尽きる前に、どこかで身の振り方を決める
3. 会社には連絡する。首になるかもしれない。それでもいい
4. M-08の表は、俺の頭の中にある。もう一度、同じものを作れる
5. 装置は、まだ2ヶ所にある。現物がある。それが証拠になる
5番のところで、指が止まった。
現物。
いままで俺は、装置を「殺される仕組み」としてしか見ていなかった。
だがあれは、証拠でもある。
台帳に載っていない機器が、俺の自宅と、あの会社のラックの中にある。同じ形で。同じ細工で。
誰かに見せられれば、それは動かない。
俺が死ななければ、20日の朝を越えても、それはそこにある。
俺は身体を起こした。
初めて、勝ち筋らしきものが見えた気がした。
死ななければいい。
1回でいい。1回だけ、4時50分を越えればいい。越えた瞬間に、この3日間は「消えない3日間」になる。装置は現物として残り、俺の証言に日付がつき、記録が積み上がり始める。
そこからは、普通の戦いになる。
◇
9月19日、木曜日。
俺は何もしなかった。
朝、パンを買って食べた。昼、また食堂でカツ丼を食べた。午後、図書館に入って、閉館まで座っていた。
誰にも会わない。何にも触らない。どこにも予約を入れない。
何も起きなかった。
◇
夕方、俺は駅前を歩きながら、自分が何度も背後を見ていることに気づいた。
何も起きない。
これまで6回、必ず何かがあった。装置があった。人がいた。あるいはその両方が。
今回は、何もない。
何もないまま、時間だけが4時50分に近づいている。
◇
22時、ネットカフェのブースに入った。
俺は椅子を倒さなかった。
背もたれを立てたまま、壁に背を預けて座った。ドアは閉めた。荷物は膝の上。靴は脱がなかった。
ここは3階だ。窓はない。空調の吹き出し口は天井にある。俺は入るときにそれを確認した。ダクトの格子に、見慣れないものは付いていなかった。
部屋の中に、俺の知らないものはない。
◇
0時。何も起きない。
1時。何も起きない。
2時。眠気が来た。俺は立ち上がって、その場で足踏みをした。
3時。廊下を誰かが歩く音。隣のブースの客が出ていった。それだけだった。
4時。
心臓が速くなっているのが分かった。
これは薬でも装置でもない。ただの恐怖だ。
6回死んだ。全部覚えている。1回目の万力も、4回目に床から見上げた天井の照明も、6回目に見た11行の表も。
もう死にたくない、と思った。
はっきり、言葉になった。
これまでの俺は、死ぬのは怖いが仕方ないと思っていた。どうせ戻る。痛いのは40秒だ。何度も経験すれば慣れる。
慣れなかった。
4時40分。
俺は壁に背をつけたまま、両手を膝の上で組んでいた。
この部屋には誰もいない。ドアは閉まっている。廊下に足音はない。天井に箱はない。俺の居場所を知っている人間は、この世に1人もいない。
4時45分。
俺は口の中を確かめた。金属の味はしない。
後頭部に手を当てた。熱くない。
4時48分。
何も起きていない。
4時49分。
俺は、笑いそうになった。