第21話 消える
4時50分。9月17日、火曜日。
目を開けた。
最後の記憶は、8ヶ月前の自分の文書を、端から順に開いているところだ。4時40分。そこから先は、いつも通り霧の中。
何かを見つけた。それだけは分かる。何を見つけたのかは、明日の4時50分まで戻ってこない。
その手前は、残っている。
7階。214件。8ヶ月前。
言えた。
7回目だ。
黒瀬彰、31歳。6回死んだ。
布団の中で天井を見た。線が2本、そこにある。箱もある。手つかずのままの。
俺はそれを見上げながら、昨日までの結論を並べ直した。
原因は8ヶ月前にある。7階からの参照が始まった月だ。手は届かない。
装置は2ヶ所にある。自宅と職場。
実行者がいる。黒い革靴。左のつま先に傷。
時刻は動かない。4時50分。
原因を潰せないなら、結果を避ける。
障害対応でも、それはよくある話だ。根本原因が他社の製品の中にあって手が出せないとき、俺たちは回避策を組む。美しくない。恒久対策ではない。だが動く。
俺に必要なのは、恒久対策ではない。
20日の4時50分に、生きていることだ。
1. 今回の変更条件:消える
2. 結果:これから
3. 次の変更条件:結果次第
俺はベッドから降りた。
まず、自分がどうやって追跡され得るかを書き出した。
紙には書かない。頭の中で。
■俺を捕捉できる経路
・スマートフォン(位置情報、基地局、アプリ)
・交通系ICカード(乗降履歴)
・クレジットカード(決済履歴)
・銀行のATM(利用店舗と時刻)
・防犯カメラ(駅、コンビニ、街頭)
・入館記録(会社)
・自宅(見張られている可能性)
9年間、俺は他人の行動をログから追う仕事をしてきた。
人がどこにいたかを知るのに、尾行はいらない。記録を読めばいい。何時に扉を通って、何時に端末にログインして、何時にネットワークに繋いだか。それだけで、その人間の一日はだいたい再現できる。
俺が追う側だったら、どうやって俺を探すか。
それを考えれば、消し方が分かる。
◇
7時。俺は部屋の中を見回した。
持っていくものを決める。
着替えを一組。充電器はいらない。スマホを持っていかないからだ。財布から、カードを全部抜いた。交通系ICカードも抜いた。残したのは現金だけ。家にあった分と、通帳から下ろす分。
ATMは一度だけ使う。使えば記録に残る。だが下ろさなければ動けない。
どうせ一度は足跡がつく。なら、つける場所を選ぶ。
俺は自宅から一番遠い、逆方向の駅のATMを選んだ。
◇
9時、家を出た。
スマホは、部屋の机の上に置いていった。
電源は入れたままにした。切ると、切ったこと自体が記録に残る。置いていけば、俺はまだ部屋にいることになる。
鍵をかけて廊下を歩きながら、俺は何度も、空っぽのポケットに手を入れた。
この9年、俺は一度もこれを手放したことがなかった。夜勤の呼び出しがあるからだ。風呂にも持ち込んでいた。
いま、誰も俺を呼べない。
電車を3回乗り継いだ。
切符は現金で買った。券売機で金額を選ぶとき、俺は毎回、直前まで決めなかった。ホームに立って、先に来たほうに乗った。
1時間半ほどで、名前しか知らない街に着いた。
駅前は、どこにでもある駅前だった。
チェーンの居酒屋。ドラッグストア。潰れたテナント。ロータリーでタクシーが3台並んでいる。
俺はそこを歩きながら、防犯カメラの位置を数えていた。
数えたところで、避けようがない。この国で、カメラに一度も映らずに移動するのは不可能だ。
だが、映ることと、見つかることは違う。
カメラの映像を探すには、まず「どこを探すか」を決めなければならない。全国のカメラを総当たりできる人間はいない。
だから俺がやるべきなのは、透明になることじゃない。
探す範囲を、広げることだ。
◇
昼過ぎ、俺は商店街の食堂に入った。
カツ丼を頼んだ。現金で払った。
食べながら、店のテレビを見ていた。台風のニュースをやっていた。今夜から関東は荒れるらしい。
知っている。
23時55分に、あの建物のすぐそばに雷が落ちる。UPSが効く。城戸さんたちが叩き起こされる。翌朝、社内連絡ツールが「さすが社長」で埋まる。
今夜、あそこに俺はいない。
誰かが穴を埋める。たぶん芦原だ。
◇
午後、俺はネットカフェに入った。
会員登録に身分証が要ると言われて、一瞬迷ってから、出した。
迷ったのは意味がない。俺は自分の顔と名前を持って歩いている。完全に消えることはできない。できるのは、探す手間を増やすことだけだ。
個室に入って、俺はリクライニングの椅子に沈んだ。
ここで一つ、考えなければならないことがあった。
もし今回、俺が死ななかったら。
俺は巻き戻らない。
この3日間は、なかったことにならない。
無断欠勤した記録が残る。9年分の信用が、本当に失われる。沼田課長は本社に頭を下げ、契約が揺れ、俺は現場を外される。芦原は俺の穴を埋めさせられ続ける。
スマホを置いて消えた男を、誰かが心配して、警察に連絡するかもしれない。
それが、俺の望んだ結果だ。
死ななければ、それでいい。
それでいい、と思ってから、俺は少し笑った。
7回目にして、初めて「4時50分の先」を考えている。
これまでの俺は、3日後に全部リセットされることを前提に動いていた。何をしても消えるから、何をしてもいいと思っていた。越境も、無断欠勤も、そう思ってやった。
消えないかもしれない、と考えた瞬間に、その全部が重さを持って戻ってきた。
俺は椅子の中で目を閉じた。
重いほうがいい。
重さがあるということは、明日があるということだ。
◇
23時55分。
個室のブースの中で、俺は目を開けていた。
遠くで、雷の音がした。ここからでも聞こえた。同じ雲の下にいるらしい。
あの建物の監視画面が、いま赤くなっている。
俺はそれを、初めて、知らない街で聞いた。
あの部屋の中と、自分の部屋の天井の下でしか、聞いたことのない音だった。
◇
4時50分。
来た。
画面の白い光。11行の表。平均38.3分。最短7分。最長52分。
参照履歴。31回。起票の17分後。
7階。
覚えろ、と自分に言った声。
後頭部の熱。金属の味。届かなかった首。背後で鳴った床。黒い革靴が一歩下がる音。
目を閉じなかったこと。
M-08。31回。7階。
24時間遅れで、言えた。
俺はブースの中で、両手で顔を覆っていた。
全部、持って帰れた。
欠けているところがない。今回はきれいに戻った。
息を整えて、俺は顔を上げた。
残り時間、48時間。
◇
朝になって、俺はネットカフェを出た。
街を歩きながら、俺は自分の姿を確認した。
スマホなし。カードなし。会社に連絡なし。自宅から60キロ以上離れている。行き先は自分でも直前まで決めていなかった。
装置は2ヶ所にしかない。自宅と、あの5階。
俺はいま、そのどちらからも遠い。
実行者がいるとしても、俺の居場所を知る手段がない。
論理的には、詰みはない。
俺は初めて、そう思えた。
空は晴れていた。台風は通り過ぎたらしい。知らない街の、知らない交差点で、俺は信号を待っていた。
あと2日、ここで生きていればいい。
そう思いながら顔を上げたとき、視界の端で、何かが動いた。
振り返った。
人が歩いていた。朝の駅に向かう人たちだ。スーツ。制服。買い物袋。誰も俺を見ていない。
俺は少し笑って、また前を向いた。
神経質になっている。当たり前だ。6回殺されている。
信号が青になった。
歩き出してから、10メートルほどして、足が止まった。
いま、視界の端で動いたもの。
あれは、人じゃなかった。
建物の壁の、高いところ。
カメラが、こちらを向いた。