第20話 始まる前に
文書番号 M-08/月次報告 別添
件名:事前アナウンス受領時の初動手順の見直しについて(提案)
起票者:黒瀬彰
8ヶ月前の、俺の提案書だった。
開いた瞬間、内容を思い出した。
あの頃、俺は真面目だった。いや、いまも真面目なつもりだが、あの頃はまだ、書いたものが何かを変えると思っていた。
◇
きっかけは、単純な不満だった。
白河社長からの事前アナウンスが来る。たいていは統括部の名前で、業務連絡として。雷が来るから電源を見ろ。回線に影響が出るかもしれないから待機しろ。
そして本当に、そうなる。
だが現場としては、毎回ぎりぎりだった。連絡が来てから実際に事が起きるまでの間に、確認作業が終わらないことがある。人手が足りないからだ。
だから俺は提案した。
連絡を受けてから何分で動き出すべきかを決めて、手順として標準化しませんか、と。
そのために、過去の実績を調べた。
【別表】事前アナウンスと事象発生の実績(過去2年・11件)
No. 事前連絡 事象発生 差
1 22:30 23:20 50分
2 14:12 14:39 27分
3 02:40 03:28 48分
4 18:55 19:02 7分
5 09:20 10:09 49分
6 21:33 22:14 41分
7 11:08 12:00 52分
8 16:45 17:29 44分
9 04:02 04:35 33分
10 13:50 14:22 32分
11 20:11 20:49 38分
平均:38.3分/最短:7分/最長:52分
【所見】
事前連絡から事象発生までは、いずれも60分以内に収まっている。
現行の初動手順(受領後、担当者判断で着手)では、着手が事象発生に間に合わない例がある。
受領後15分以内の着手を標準とすれば、11件中10件は事象発生前に着手できる。
残る1件(No.4/7分)は、どの標準を置いても間に合わない。受領と同時に動く以外に手がない。
書いたときのことを覚えている。
11件を並べ終えたとき、俺は素直に感心した。新しい予測システムでも入れているのか、すごい人だな、と思った。40分前後で当ててくる。データを見る力というのは、ここまで差が出るものなのか、と。
だから所見にも、そう書きたかった。
書かなかったのは、報告書に感想を書くなと沼田課長に言われていたからだ。
◇
いま、同じ表を見ている。
平均38.3分。最短7分。最長52分。
11件。11件とも、60分以内。
俺は椅子の上で、動かなかった。
優秀な人間が、データを見て、経験で判断して、それで当てているのなら。
なぜ、外側に1件も出ない。
人間の予測なら、外れる。早すぎる警告も、遅すぎる警告もある。3時間前に気づくことも、5分前にようやく気づくこともある。外に出るのが普通だ。
この表は、ばらついてはいる。7分から52分まで散っている。散っているのに、60分の外に1件もない。
俺は数字を見て仕事をしてきた。こういう分布を見たとき、俺たちが何を疑うか、決まっている。
偶然じゃない。
仕様だ。
俺はその考えを、いったん脇に置いた。いまは、そこじゃない。
いま確かめるべきは、この文書が誰にどう読まれたかだ。参照ログを開いた。
文書 M-08 参照履歴
起票日 17:41 参照元:7階
起票日 17:43 参照元:7階
起票日 17:58 参照元:7階
翌日 08:12 参照元:7階
翌日 22:30 参照元:7階
......
総参照回数:31
31回。
4,000件のうち3,700件が誰にも開かれなかった9年間で、この1件だけが、31回開かれている。
最初の参照は、俺が起票した17分後。
そして17時43分。17時58分。同じ日に3回。
誰かが、この表を、繰り返し見ている。
俺は自分の手が震えているのを、遠くのことのように眺めていた。
時系列を、頭の中で並べた。
8ヶ月前 この提案書を起票。7階から31回参照される
半年前 深夜の記録に、20分の空白(俺は非番)
4ヶ月前 同じく空白(俺は非番)
2ヶ月前 同じく23分の空白(俺は非番)
先月 No.7ラックの箱を発見、起票。11分後に7階から参照
落雷の夜 0時31分、7階から当該チケットをクローズ
9月20日 4時50分、俺が死ぬ
線になった。
◇
俺は、8ヶ月前に、書いてはいけないものを書いた。
書いた本人は、それが何なのか分かっていなかった。褒めるつもりだった。手順を良くしたかっただけだ。
だが7階の誰かは、それを31回読んだ。
読んで、青くなったか、赤くなったか。
自分の内側にあるものが、他人の作った表の上に、数字として並んでいるのを見て。
そこから先は、順番通りだ。
半年前から、深夜の記録が止められるようになった。俺のいない夜に。
俺の部屋の天井に、箱が取り付けられた。俺の職場のラックの背面にも、同じものが置かれた。
先月、俺はそのうちの片方を見つけて、律儀にチケットを起票した。11分後に、それは読まれた。落雷の夜に、それは消された。
そして20日の朝、俺は死んだ。
7階の誰か。黒い革靴。
同じ人間だ。顔は見ていないが、そうとしか考えなかった。M-08を31回読んだやつが、降りてきて、自分の手で動かしている。
◇
俺は椅子の背にもたれた。天井の照明が、やけに白かった。
分かったのは、動機だ。
分かってしまったのは、期限だ。
俺が巻き戻れるのは、3日。72時間。それが上限で、それ以外の設定はない。5回試して、5回とも同じ朝に戻った。
だが、俺を殺すと決めた瞬間は、8ヶ月前にある。
装置が付けられたのも、記録が止められたのも、全部、3日より前だ。どれだけやり直しても、俺の手はそこに届かない。
これまで俺は、自分に持ち時間があると思っていた。
実質2日。たぶん何度でも。回数の上限はまだ見えていない。だから、いつかは何とかなると思っていた。
違った。
俺が繰り返している3日間は、もう全部が終わったあとの3日間だ。
準備は済んでいる。判断は下されている。装置は設置され、記録は消され、あとは手を下すだけになっている。
俺が目を覚ますのは、いつも、そのあとだ。
声が出た。
笑い声だった。自分でも驚いた。
俺はもう、始まる前に死んでいる。
◇
4時49分。
あと1分で消える画面に、頭に入れるべき数字がある。文書番号。参照回数。参照元の階。
覚えろ、と自分に言った。
M-08。
31回。
7階。
◇
4時50分。
後頭部の付け根が、じん、と熱くなった。
口の中に、コインの味。
今回は、待っていた。
待っていて、それでも先に来た。
俺は振り返った。今度は、途中でやめなかった。
顎が上がらなかった。首から上が、もう自分のものではなかった。
黒い革靴。その上、ズボンの裾。そこから先に、視線が届かない。
(──また、ここまでだ)
顔は諦めた。
俺は目を、画面に戻した。
白い光の中に、11行の表がある。俺が8ヶ月前に、褒めるつもりで作った表が。
視界の端から色が抜けていく。
膝が落ちる。床が近づく。
右の耳だけが、自分の心臓を拾っている。速い。不規則。つまずいて、また走って、また、つまずいた。
背後で、床が鳴った。
黒い革靴が一歩、下がる音がした。
(M-08)
(31回)
(7階)
俺は目を閉じなかった。
覚えたまま、いくために。