第23話 ノック
4時49分50秒。
俺は膝の上で手を組んだまま、秒だけを数えた。
51、52、53。
空調の音がしている。隣のブースは空だ。廊下に足音はない。
57、58、59。
◇
4時50分00秒。
何も起きなかった。
後頭部は熱くならない。口の中に味はしない。視野の隅は白く飛ばない。
01秒。02秒。03秒。
俺は自分の胸に手を当てた。
心臓は速い。だがそれは、俺が怖がっているからだ。乱れてはいない。飛んでもいない。ただ速いだけの、正常な心臓の音だった。
05秒。
息を吸った。吸えた。もう一度吸った。吸えた。
07秒。
勝った。
その言葉が、頭のてっぺんから足まで一気に降りてきた。
勝った。俺は勝った。
4時50分を越えた。7回目にして、初めて。
これで、この3日間は消えない。装置は現物として残る。俺の証言に日付がつく。ここから先は積み上げていける。普通の戦いになる。
俺は口を押さえた。声が出そうだった。
◇
4時50分12秒。
ドアが、ノックされた。
コン、コン。
軽い音だった。
2回。指の第二関節で、遠慮がちに叩く音。ネットカフェの店員が注文した料理を持ってくるときに、たぶんこういう叩き方をする。
俺は動かなかった。
息は止まっていた。心臓は止まらなかった。喉のすぐ下で、殴るみたいに鳴っている。ドアの向こうまで聞こえるんじゃないかと思う音だった。
この店の個室に、鍵はない。
入るときに確認した。個室に鍵を付けると旅館業法の許可が要るからだと、聞いたことがある。だからどの店も、内側から施錠できない造りになっている。ドアは押せば開く。
確認したときは、どうでもいいと思った。
この部屋にいることを、誰も知らないからだ。
コン、コン。
2回目。
同じリズム。同じ強さ。
俺は声を出そうとした。「はい」とも「誰ですか」とも言えなかった。喉が動かなかった。
◇
ドアが、開いた。
俺は反射的に立ち上がろうとして、狭い個室の中で膝をテーブルにぶつけた。
顔を見ようとした。誰なのか、それだけでも持って帰るつもりだった。だが膝の痛みで体が折れて、視線は上がらなかった。
視界に入ったのは、まず、床だった。
黒い革靴。
左のつま先に、小さな傷。
俺は叫んだ。
7回目にして、初めて声が出た。
言葉になっていなかった。ただの音だった。俺は荷物を掴んで投げつけて、立ち上がろうとして、テーブルの角に脇腹をぶつけて、それでも腕を振り回した。
当たらなかった。
個室の幅は1メートルもない。俺の腕は壁に当たっただけだった。
首の後ろに、何かが触れた。
冷たくもなく、痛くもない。ただ、触れた。
後頭部の付け根が、じん、と熱くなった。
口の中に、コインの味が広がった。
(──なんで)
膝が落ちた。
俺は椅子の脚に肩をぶつけて、床に崩れた。
(なんで、ここが分かる)
俺は顔を上げようとした。
今度こそ、と思った。倒れてしまえば、あとは見上げるだけだ。
首の後ろに、手が置かれた。
力は入っていなかった。ただ置かれただけだ。それだけで、頭が上がらなくなった。
動いたのは目だけだった。視界の下のほうに、革靴。その上にズボンの裾。それ以上は上がらない。
だが、見た。
その人物は、部屋に入ってから、一度も迷っていなかった。
番号を確認していない。俺の顔を見て確認もしていない。ドアを開けて、まっすぐ俺に近づいて、前に折れた俺の首の後ろに手を伸ばした。
個室の中には、俺しかいなかった。だがこの店には30以上のブースがある。半分は埋まっていた。
その中から、この一室を、間違えずに開けた。
誰も知らないはずだった。
俺はスマホを部屋に置いてきた。カードを使わなかった。交通系ICも使わなかった。行き先を直前まで決めなかった。誰にも連絡しなかった。ここに入るときに使った身分証は、この店の中にしか残っていない。
その記録を、誰かが照会したなら、時間がかかるはずだ。
俺がこの店に入ったのは、22時。
7時間足らずだ。
7時間足らずで、60キロ離れた街の、名前も知らないネットカフェの、3階の、この一室が特定された。
(......そんな探し方は、ない)
左の耳から音が消えた。
空調の音も、廊下の音も、全部。右の耳だけが、自分の心臓を拾っていた。速い。不規則。つまずいて、また走り出して、また、つまずいた。
視界の端から色が抜けていく。
俺は床に頬をつけたまま、目を開けていた。
革靴が一歩、下がった。
その動きに、急いでいる様子はなかった。
人を殺した人間の動きに見えなかった。
業務だ。
そう思った。
この人は、いま、仕事をしている。俺が夜勤の運用室でやってきたのと同じ顔で、決められた手順を、決められた時刻に実行している。
4時50分に、対象を処理する。
(俺と、同じだ)
視界が細くなった。
最後に残ったのは、革靴と、その向こうにある個室のドアの、下の隙間から漏れてくる廊下の明かりだった。
(勝ったと思った)
12秒。
俺は12秒だけ、勝っていた。
◇
4時50分。9月17日、火曜日。
目を開けた。
汗。冷たい背中。天井。線が2本。
8回目だ。黒瀬彰、31歳。7回死んだ。
俺は起き上がらなかった。
しばらく、そのまま横になっていた。
最後の記憶は、ネットカフェの個室で、モニターの隅の時計が4時40分を回ったところだ。そこから先は霧の中。何が来て、どこで、どう死んだのかは、明日の4時50分まで戻ってこない。
結果だけが、先に届いている。この天井が、それだ。
頭の中で、昨日までの計算をやり直した。
スマホを置いた。カードを断った。行き先を自分でも決めなかった。60キロ離れた。誰にも言わなかった。
全部やった。
それでも、死んだ。
布団を握った。声は出さなかった。出したら、隣の部屋に聞こえる。歯を噛んで、天井を見ていた。悔しいという言葉では、足りなかった。
どこかで漏れたんだろう、と考えようとした。
ATMの記録。券売機。防犯カメラ。ネットカフェの会員登録。どこかに足跡がある。それを丹念に追えば、たしかに俺には辿り着ける。
辿り着ける。
時間さえかければ。
◇
俺は起き上がって、ベッドの縁に座った。
時間さえかければ、というのは、俺がいつも報告書に書く言葉だ。
「調査には数日を要します」
「解析には相応の工数が必要です」
人が記録を追うというのは、そういうことだ。取り寄せて、突き合わせて、絞り込んで、確認する。組織でやっても、半日では終わらない。
俺があの店に入ったのは、22時。戻ってきたのは、いつもの4時50分。間は7時間もない。
4時40分まで、俺はあの個室にいた。そこから10分で別の場所に移って死んだとは思えない。たぶん、あの部屋で死んだ。たぶん、だ。確かめる材料は、明日まで戻ってこない。
だがもしそうなら、向こうは7時間足らずで、俺が自分でも直前まで知らなかった場所を、当てたことになる。
俺は自分の手のひらを見た。まだ震えていた。
そんな探し方は、ない。
記録を追ったんじゃない。
じゃあ、どうやった。
答えは出なかった。出ないまま、俺は立ち上がって、台所で水を飲んだ。
1. 今回の変更条件:消える
2. 結果:死亡(再現性 7/7)。場所と時刻は記憶待ち
3. 次の変更条件:
3番目が、書けなかった。