第18話 7階
5時50分、運用室のドアが開いた。
白河透だった。
「復旧、ありがとうございました。皆さんのおかげで助かりました」
深く頭を下げる。それから城戸さんと宮下さんの名前を呼んで、担当箇所を挙げて、労って、代休を取るようにと言う。
それから、こちらを見た。
「黒瀬彰さん、でしたね。東和システムズの」
「はい」
「統括部の連絡より先に、UPSの結線を見て回ってくださったと聞きました。3列目と、8列目と、10列目」
「はい」
「おかげで、今回は1台も落とさずに済みました。本当に助かりました」
もう一度、頭を下げる。城戸さんに向けたのと同じ角度で、同じ長さだけ。
俺は立ち上がって、頭を下げ返した。
白河社長が出ていったあと、俺はしばらく椅子に座っていた。
いま、この建物の中で、誰かが俺を殺している。
2ヶ月前の深夜、23分だけ記録を止められる人間がいる。俺の非番の日を知っていて、俺の部屋の天井に穴を開けられる人間がいる。黒い革靴を履いて、5階まで上がってきて、俺の首の後ろに何かを当てる人間がいる。
その建物の社長が、いま、俺に頭を下げた。
ラックの番号まで正確に挙げて。
相談しようか、と思った。
一瞬だけ、本気で思った。
この人なら、話を聞くだろう。社員の資格試験の科目まで覚えている人だ。委託先の常駐要員が「自分は殺されかけている」と言ってきたら、少なくとも門前払いにはしない。
調査もするだろう。この会社には金も権限もある。俺が何年かけても届かない場所に、あの人なら1日で手が届く。
だが、と俺は思った。
証拠がない。
俺が持っているのは、頭の中の数字だけだ。入退館ログの穴も、監視カメラの欠落も、今日この端末で引き直せば出てくる。だがそれを見せて何と言う。
「2ヶ月前に23分だけ記録が止められています」
「だから何ですか」と言われて終わりだ。
それに、と俺は思った。
記録を止められる人間は、社内にいる。
社長に相談するということは、その人間の近くに情報を渡すということでもある。
俺は椅子から立ち上がった。
もう少し、自分で調べる。
◇
6時10分。退勤。
外は晴れていた。台風は何事もなかったように通り過ぎていった。
駅までの道を歩きながら、俺は6回目の同じ空を見上げた。
◇
昼まで眠って、13時に起きた。
16時から遅番だ。それまでの3時間で、頭の中の設計を固める。
■目的
2ヶ月前 1時47分〜2時10分に、記録を止めた操作の実行者を特定する
■必要なもの
管理サーバの操作ログ(権限外)
■経路
9年分の、握りつぶされてきた不備の一覧
紙には書かない。もう書かない。書いたものは消える。
俺はベッドに腰かけて、目を閉じて、頭の中でだけ組み立てた。
この作業が、思っていたより気持ちよかった。
9年間、俺の仕事は「他人が壊したものを直す」ことだった。設計と呼べるものは、ほとんどしたことがない。誰かが決めた仕組みの下で、決められた手順を回すだけだった。
いま俺は、自分で組んでいる。
◇
16時、出社。
遅番は静かだ。17時を過ぎると正社員が帰り始めて、20時にはフロアから人が消える。
俺は日常の業務を普通にこなした。定型のチェックリスト。問い合わせの一次対応。バッチの監視。
今までで一番、丁寧にやった。
目立ちたくなかったからだ。
◇
21時。
フロアには俺以外に誰もいない。
俺は運用室の端末から手を離して、別の端末の前に座った。
3年前に更新されるはずだった、古い作業用端末だ。更新は予算の都合で二度延期された。俺はそれを毎回報告書に書いた。「サポート切れのOSが残置されています。早期の更新を推奨します」。
推奨は、通らなかった。
この端末は、いまも社内ネットワークに繋がっている。そして、いまでは誰も使っていない。誰も使っていないから、誰も見ていない。
俺は電源を入れた。
起動音が、やけに大きく聞こえた。
やることは、派手ではない。
映画で見るような話ではまったくない。
俺がやったのは、ずっとそこにあった不備を、順番に使っただけだ。
引き継ぎのときに消し忘れられた保守用アカウント。パスワードは、5年前に俺自身が「これは危険です」と報告書に書いた文字列のままだった。
誰も直さなかった。
俺の報告書は、いつもそうだ。読まれて、頷かれて、そして何も起きない。
いま初めて、その一つ一つが役に立っている。
◇
22時40分。
管理サーバの操作ログが、画面に出た。
俺は椅子の上で、少しだけ姿勢を正した。
日付を指定する。2ヶ月前。時刻を絞る。1時30分から2時30分。
行が、7つ返ってきた。
01:46:12 入退館システム 記録サービス 停止
01:46:40 映像記録サービス 停止(5F系統)
01:47:03 設定変更 適用
02:09:55 設定変更 適用
02:10:11 映像記録サービス 開始(5F系統)
02:10:33 入退館システム 記録サービス 開始
02:11:02 セッション終了
その7行を、俺は3回読んだ。
止めて、23分後に、戻している。
その間に何をしたかは、当然ながら、どこにも記録されていない。記録する側を止めているのだから当たり前だ。
だが、止めたこと自体は残る。
止める操作をした人間は、止める操作のログまでは消せなかった。あるいは、消す必要がないと思った。
誰も見ないからだ。
この操作ログは、たぶん、誰にも読まれたことがない。
俺以外には。
実行者の欄。
実行アカウント:maint-adm
保守用の共用アカウントだった。
個人が特定できない。10人以上が使える。しかも実際には、パスワードを知っている人間の中に、退職した者も残っている。
予想通りだ。犯人の名前が出てくるほど、この世界は親切じゃない。
だが共用アカウントには、共用アカウントの弱点がある。
誰が使っても同じ名前が残るということは、逆に言えば、名前以外のところを見るしかないということだ。
俺は接続元を見た。
IPアドレスが1行、そこにあった。
俺はそれを見て、しばらく動かなかった。
この建物のネットワーク構成は、頭に入っている。どのセグメントがどのフロアに割り当てられているか、俺は資料を見ずに言える。
運用室は、5階。
DCの機器は、専用の別セグメント。
会議室、共用エリア、来客用の無線。全部、覚えている。
画面に出ているアドレスは、そのどれでもなかった。
7階だった。
俺はゆっくりと椅子の背にもたれた。
7階。
この建物の最上階。役員フロア。
9年間、俺は一度も上がったことがない。エレベーターは動くが、5階の運用室から上に、用事があったことがない。俺の生活圏は、1階のロビーと、2階の社員食堂と、5階だけだ。
深夜1時46分。
その時間に、7階の端末から、保守用アカウントで、5階の記録が23分間止められた。
俺は他の日付も調べた。
4ヶ月前。半年前。
同じだった。
全部、7階。
画面を閉じて、端末の電源を落とした。起動したときと同じ音がして、静かになった。
俺は暗い運用室で、しばらく座っていた。
7階には、何人いる。
役員が数名。秘書室。社長室。
思い浮かべようとして、俺はほとんど何も知らないことに気づいた。同じ建物にいながら、俺はあのフロアの人間のことを、テレビと社内連絡ツールで流れてくる分しか知らない。
名前を知っているのは、2人だけだった。
秘書室長の桐生紗英。
そして、社長。
◇
23時50分。
俺は端末の前で、自分の指が冷たくなっているのを感じていた。
まだ、何も決まっていない。
7階には他にも人がいる。夜中にあのフロアに入れる人間なんて、いくらでもいるかもしれない。清掃も入る。設備業者も入る。
決めつけるな、と自分に言った。それで何度も恥をかいてきた。
だが指の冷たさは、そんな理屈を聞いてくれなかった。
俺は、今朝のことを思い出していた。
5時50分に運用室に入ってきて、ラックの番号を正確に挙げて、俺に二度頭を下げた人のことを。
あの人は、7階から降りてきた。