第23話 棟梁の約束
潮帳――ミオと初めて会った日を、失くした。どこで会ったのかも。
櫛を握った手が、イサナの方へ伸びてきた。
ゆっくりと。水の指の間から、削ったばかりの櫛の歯が覗いていた。
触られれば、持っていかれる。
何を持っていかれるかは、選べない。読むのと同じだ。
イサナは、後ろへ下がらなかった。
息を、深く吸った。胸がいっぱいになるまで。
それから、溜まりの中へ、頭から飛びこんだ。
水の人の、胸の真ん中へ。
◇
石の声を、聞いていた。
牛ほどもある石の、肌に手を当てる。叩く。耳を寄せる。石には、目がある。割れたがる向きと、座りたがる向きがある。それを聞き分けて、組む。一つ組むごとに、石の腹に、組の印を刻む。丸に三本線。
親方から、そう習った。親方は、その親方から習った。
瓶口の水道に、一つずつ、石を沈めていった。
都じゅうから集めた荷車が、毎日、石を運んできた。荷車の主たちは、何に使う石かを知らなかった。
「水を通す口は、要らん」
王宮の役人が言った。図面を指で叩いて。
「一つも、要らん。海を閉じろ。淵を、ひとつの瓶にせよ。......これは、棟梁のお前にだけ話す」
口に出しては、何も言わなかった。
閉じっぱなしの堰は、いつか海に殺される。海を殺す堰は、人も殺す。親方の、そのまた親方の代からの、組の決まりだった。
だから、一つだけ、入れた。
堰のいちばん下の、真ん中。内っ側の面。どの石よりも大きな石を、ほんの少しだけ傾けて座らせた。その下に、青銅の楔を一本、噛ませた。
楔を抜けば、石は回る。石が回れば、上の石が、順に滑る。戸が開く。
要石。
誰にも、言わなかった。役人にも。組の者にも。王さまにも。
◇
イサナの中で、何かが揺れた。
誰にも言わなかったこと。いつか、誰かに教えるつもりだったこと。
港の、防波堤。
陰に座りこんで、帳面を開いていた。背中の方に、誰かがいた。小さな影。頭巾。
誰だ。
◇
祭りの夜だった。
肩の上に、娘が乗っていた。軽かった。髪を、つかまれていた。
「ハル。落ちるなよ」
「落ちないよ」
提灯の灯り。屋根の上の、ふたつの月。
娘の髪には、櫛が挿してあった。
堰の仕事の合間に、柘植の端切れで削ったものだった。石を刻む鑿で、木を削るのは難しかった。歯を一本ずつ、息を止めて彫った。十二本。一本も欠けずに彫り上がったとき、組の者たちに笑われた。棟梁が、娘の櫛で汗をかいてら、と。
「仕上がったら、帰る。帰ったら、もうどこへも行かねえ。約束だ」
足首を、つかんだ。痛いくらいに。
帰ったら、教えてやろうと思っていた。戸の開け方を。この子に。この子なら、誰にも言わないで覚えているだろう。
◇
夕方、もう一度来るわ。
防波堤の上で、誰かがそう言った。約束のように。
崖の上だった。
風が変わった。塩の匂いが濃くなった。ふたつの月が、丸い海の底に、一つずつ映っていた。
誰かが、頭巾を下ろした。七つに編んだ髪が、肩に落ちた。
わたしを王にしなさい。
その声が、ほどけていった。
声の主の顔が、先にほどけた。それから、崖の上の風が。月が。
つかもうとした。
水の中で、指を握った。握った指の間から、それは水と同じように抜けていった。握れば握るほど、速く。
選べなかった。
溶けていくのを、ただ感じていた。似ているから。帰ると約束した男の中に、来ると約束した誰かが、溶けていった。
◇
堤の内側の面に、縄で縛られて、立たされていた。
石を、ゆるめろ、と言われた。抜けるように。まだ、抜けないように。
ゆるめた。組の者たちと一緒に。石の声を、聞かないふりをして。
日暮れに、七つの波の衣の人が来た。
その人は、顔を上げなかった。最後の一つの石に、自分の手を当てた。
外した。
瓶口へ、連れていかれた。
自分が組んだ堰の上を、縛られて歩いた。松明の間を。一人ずつ、組の者が、縁から落とされていった。
落ちた。
水の中で、振り向いた。都の方。王宮の向こうから、白い水が噴き上がっていた。
沈みながら、見た。
堰の根もと。いちばん下の、真ん中。自分が座らせた石。丸に三本線。
ハル。
父ちゃんは、戸の開け方を知ってる。
帰ったら、教えて――
◇
一日目の、門楼の上だった。
石の床に、誰かがへたりこんでいた。一番乗りだった。
誰かが。
それも、ほどけた。
◇
イサナは、溜まりの底で、目を開けた。
黒い水だった。上も下も分からなかった。
胸が、焼けるように痛かった。息が、もう残っていなかった。
手を伸ばした。
指の先に、石が触れた。
大きな石だった。どの石よりも。ほんの少しだけ、傾いていた。
石の腹を、指でなぞった。溝があった。丸。その中に、三本の線。
見つけた。
石の下に、指を這わせた。
固いものに、触れた。細長い。石ではない。緑青で、ざらざらしていた。
楔だった。
◇
水から顔を出すと、世界が鳴っていた。
外の海が、堰を打っていた。どん。どん。もう、一打ちごとの間がなかった。堰の石の隙間から、水が、何本もの白い筋になって噴き出していた。
イサナは、溜まりの縁にしがみついて、息を吸った。
何度も。
溜まりの上に、鉢巻の潮霊は、もういなかった。
輪の外の潮霊たちも、真水の線の向こうで、揺れていた。
「イサナ」
カイリの声が、上から降ってきた。
堰の上だった。ハヤテの両腕を後ろにねじり上げて、石の道の上に膝をつかせていた。ハヤテの派手な上衣が、飛沫で黒く濡れていた。
「見つけたか」
「見つけた。......楔が、抜けねえ。三百年、錆びてる」
カイリは、ハヤテの腕を放した。
ハヤテは、石の道に手をついた。顔を上げて、カイリの背中に言った。
「やめなよ、殿下。......分かってるのかい。その戸の向こうに、この国の銭が、三百年分溜まってるんだ。開けたら、明日から、港で何人が食いっぱぐれると思う」
カイリは、振り返らなかった。
「分からん」
それだけ言った。
「だが、トモは、自分を空にして、あれを止めた。俺は、それを見た」
ハヤテは、口を開けた。
何も言わずに、閉じた。石の道に手をついたまま、動かなかった。
カイリは、堰の縁から、泥の上へ飛び降りた。
膝で、衝撃を殺した。そのまま、溜まりの縁まで走ってきた。腰の刀を、鞘ごと抜いた。
「どこだ」
「この下だ。石と石の間に、噛んでる」
カイリは、鞘の先を、溜まりの中へ差しこんだ。
イサナが、潜って、鞘の先を楔の頭に導いた。
カイリが、鞘を、梃子にして引いた。
イサナは、水の中で、楔に両手をかけて、足で石を蹴った。
動かなかった。
もう一度。
楔が、軋んだ。
もう一度。
緑青が、剝がれた。指の皮も、剝がれた。
楔が、石の間から、滑るように抜けた。
◇
石が、鳴った。
牛の呻くような、低い音だった。
イサナは、水の中で、それを聞いた。石の声だった。三百年、座らされていた石が、座りたかった向きへ、ゆっくりと回りはじめる音。
溜まりから、顔を出した。
「上がれ、カイリ」
カイリの腕をつかんで、崖の段の方へ押した。
「潮記を、濡らすな」
カイリが、何か言った。聞こえなかった。
堰が、動いた。
いちばん下の石が回り、その上の石が滑り、そのまた上の石が傾いた。組まれた順に、組まれたときとは逆向きに。一つずつ。
まるで、誰かが中から一つずつ外していくように。
堰の真ん中に、裂け目が走った。
外の海が、入ってきた。
白い壁だった。
音は、もう音ではなかった。耳が、何も聞かなくなった。泥の上の潮霊たちが、白い壁に呑まれて、ほどけていった。縛られた手の人たちが、一人ずつ、ほどけて、光る霧になって、散っていった。
その光の中に、鉢巻の形が、一つだけ見えた。
北を向いていた。
都の方。王宮の向こう。石工の町の方。
ほどける前に、その形が、一歩だけ、北へ踏み出した。
帰る。
イサナは、白い水に呑まれた。
◇
水の中で、転がった。
上も下もなかった。石が、横をかすめていった。泥が、口に入った。
胸に手を当てた。
油紙の包みが、まだそこにあった。紐で、きつく縛ってあった。潮帳。置き手紙。
水面に、出た。
息を吸った。
淵が、満ちていた。
ついさっきまで泥の原だったところを、外の海が、北へ、北へと駆け上がっていた。干上がった都の屋根を越えて。神殿区の外壁を越えて。
崖の段の上に、カイリの姿が見えた。背中の包みを、両腕で抱えていた。その横で、ハヤテが、石の段に座りこんで、崩れていく堰を見下ろしていた。
指輪の光る手が、膝の上に落ちていた。
イサナは、流れに押されながら、北を見た。
明けたばかりの空に、王宮の尖塔が立っていた。
轟音が、淵の底を、その尖塔の方へ転がっていった。
溜まりの底で、何かを失くしたことは分かっていた。
何を失くしたかは、分からなかった。
港。防波堤。崖。その辺りが、白かった。塗りつぶされたのではなく、最初から描かれていなかった紙のように。
胸の包みの中に、字がある。
ミオを信じろ。ミオが誰か忘れても。
イサナは、流れに逆らわずに、北へ泳ぎはじめた。