第24話 満ち始めの儀
潮帳――門楼で、屋根の上から都を見た朝を、失くした。
水は、くるぶしまで来ていた。
玉座の間の床の、石と石の継ぎ目という継ぎ目から、細い筋が集まって、薄い水の膜になっていた。提灯の灯りが、その膜に映って揺れていた。
天井の穴の向こうが、白んでいた。
夜明けだった。
ユラ姉さまが、玉座の前に跪いて、祈りの最後の言葉を唱えていた。
二人の神官が、提灯を掲げて、段の両脇に立っていた。柱の陰に、ナズナが座っていた。膝の上に、紙の舟を二つ並べて。真っ白な髪が、灯りの中で、ほとんど光って見えた。
大潮司さまが、段の上の瓶を、両手で取った。
素焼きの瓶。蝋の封。
「潮どきです」
大潮司さまは、段を下りて、わたしの前に立った。
瓶を、胸の高さに掲げた。
「その前に、一つだけ」
大潮司さまの目が、わたしの膝の上に落ちた。
わたしが抱えていた帳面に。
「器は、過去を置いていくものです」
穏やかな声だった。
子どもに、寝る前の支度を言いつけるような。
「あのお方は、あなたの中に、何も残っていない方がお楽です。あなたも、そうでしょう。......帳面を、こちらへ」
◇
わたしは、帳面を見下ろした。
表紙の角が、擦り切れていた。王宮の文房でいちばん上等な紙を綴じた帳面が、この十五日で、港の潮読みの帳面と同じくらい擦り切れていた。
最後の頁を、開いた。
五日目の未明。わたしは、自分で決めた。
わたしの字だった。昨夜、この段の上で書いた一行。
その上に、写した字が並んでいた。
ミオの名を、初めて口にした晩を、失くした。
門楼で、屋根の上から都を見た朝を、失くした。
塩田の水門で、ふたつの月を見た夜を、失くした。
頁を、一枚ずつ、前へめくった。
浜木綿で、あんたと約束した晩を、失くした。
港の入り江で、明日も来いと言った朝を、失くした。
白潮院の潮溜まりで、あんたが四つ浮いた日を、失くした。
白潮院の潮溜まりで、わたしが四つ浮いた日を、失くした。
港の路地を一本、失くした。
毎朝の屋台を、失くした。鯵の味も。囮。
契約の頁のあと、酒場で写した何十行の、いちばん最後の行で、手が止まった。
嵐の夜のことを、失くした。見習い小屋の屋根。
防波堤の陰で、彼が目の前で書いた、最初の一行。
これを置いていけ、と、この人は言っている。
「ミオ」
大潮司さまが、片手を差し出した。
乾いた、温かい手だった。
◇
床が、揺れた。
足の下からだった。石の床が、一度だけ、大きく跳ねた。水の膜が、波打った。提灯が、柱の掛け金の上で、がちゃりと鳴った。
それから、音が来た。
遠くからだった。南の方から。崖と崖の間を抜けて、淵の底を転がってくるような、低い、長い音。どこまでも途切れなかった。地の底で、巨きな何かの栓が、抜けた音だった。
玉座の淵の水面が、盛り上がった。
黒い水が、縁を越えて、床にあふれた。
匂いが、変わった。
天井の穴から吹きこむ風が、変わった。どろりと重たい淵の匂いの中に、別の匂いが混じっていた。薄い、冷たい、どこまでも広い匂い。
外の海の、朝の匂いだった。
大潮司さまの手が、宙で止まった。
「......瓶口」
その声は、初めて、少しだけ掠れていた。
◇
瓶口には、行かないで。
わたしは、そう書いた。
彼は、行ったのだ。
堰を壊しに。ハルのお父さんを、丸ごと読みに。
トモ爺みてえになるかもな。
干し飯を口に放りこみながら、何でもないことのように言った彼。
わたしは、彼に読ませないために、ここへ来た。
彼は、わたしに飲ませないために、瓶口へ行った。
違う。
わたしは、帳面の頁を握っていた。
違う。彼は、わたしに飲ませないために行ったのではない。
それなら、玉座の間へ走ってきて、わたしの腕をつかめばよかった。夜番の通路を抜ければ、すぐだった。彼なら、そうできた。
彼は、来なかった。
瓶口へ行って、淵に外の海を入れた。ここへ届くまでの、ほんの少しの時間を作った。自分の中の何かを、また溶かして。
わたしが、自分で選べる時間を。
読むかどうかは、俺が決める。
帳面の一頁目。彼の言葉。
彼はずっと、自分で決めてきた。誰に命じられても、読むときは自分で読むと決めて、読んだ。
わたしは。
イサナには読ませない。潮送りをやめて。
わたしは、自分の言葉で条件を言った。自分で決めたと、昨夜、この段の上で書いた。
けれど、断れば空蝉になると言われて、選んだ。サヨ姉さまと同じところへ行くか、ここで器になるか。その二つのどちらかを。
それは、選んだのではなかった。
選ばされたのだ。
◇
「急ぎましょう」
大潮司さまが、瓶の蝋の封に、指をかけた。
「潮が混ざる前に。......あのお方は、あなたの中に入ってしまえば、もう散りません。今なら、まだ間に合います」
封が、割れた。
栓が、抜かれた。
瓶の口から、あの息がした。
長い、深い、ひどく古い息。
六つの年に、わたしの目の奥から外を見ようとした人の。
わたしは、立ち上がった。
帳面を、胸に抱えたまま。
「お断りします」
大潮司さまの顔が、わたしを見た。
皺の深い目が、少しだけ大きくなった。
「わたしは、わたしのまま、この国を引き受けます」
声は、震えなかった。
自分でも、驚くほど、平らな声だった。ナズナの声みたいに。
「あのお方がいなくても。九十年の仮王の代のあとでも。国が割れそうでも。......わたしが、わたしの頭で考えて、わたしの言葉で、みんなと話します。泳げなくても」
大潮司さまは、瓶を抱えたまま、動かなかった。
「......あなたには、できません」
「やってみなければ、分からないわ」
◇
「ミオ」
横から、水色の衣が動いた。
ユラ姉さまだった。祈りの手をほどいて、大潮司さまの腕の中の瓶へ、手を伸ばしていた。
「それなら、わたくしが」
姉さまの指が、瓶の首をつかんだ。
大潮司さまの腕から、瓶が滑った。
「あのお方は、お迎えする者がいなければ、散ってしまわれる。......わたくしは、影です。影なら、器になれます」
姉さまは、瓶の口を、自分の唇へ運ぼうとした。
祈るときと同じ、静かな顔で。
わたしは、姉さまの手首をつかんだ。
「姉さまは、影じゃないわ」
姉さまの手が、止まった。
「影なんて、いない。姉さまは、毎朝、神殿で祈ってた人よ。わたしを日向に出すために、前に立ってくれた人。......それは、姉さまが自分でしたことでしょう。影は、そんなことしない」
姉さまの目が、わたしを見た。
その目が、揺れた。初めて。
わたしは、姉さまの指から、瓶を取った。
重かった。封をしたときと同じ重さだった。
◇
床の水は、もう膝まで来ていた。
玉座の淵からあふれた黒い水と、柱の間から押し寄せる外の海の水が、足元でぶつかり合っていた。黒い渦と、透きとおった渦が、互いの中へ巻きこまれていた。
わたしは、段を下りた。
膝まで、水に入った。
冷たかった。
足の指が、わたしの足の指のままだった。
瓶を、逆さにした。
黒い水が、糸を引いて落ちていった。
外の海の水の中へ。
一瞬だけ、落ちた場所の水が、黒く濁った。
濁りが、形になろうとした。皺だらけの手の形。何かをつかもうとする指。わたしの方へ。
それから、透きとおった水が、その上を流れていった。
指が、ほどけた。
手の形が、ほどけた。ほどけて、薄くなって、渦の中へ散っていった。
天井の穴から吹きこむ風の中で、あの息が、一度だけ聞こえた。
長い、深い息。
それが、途中で、切れた。
◇
水が、来た。
柱の間から、外の海が、壁のように押し寄せてきた。
膝。腰。胸。足が、床から離れた。
神官が、ナズナを抱えて、玉座の裏の垂れ幕の方へ泳いでいくのが見えた。ユラ姉さまが、大潮司さまの腕を取って、柱にしがみつかせていた。
わたしは、帳面を両腕で胸に抱えていた。
水が、顔に来た。
あの人が来る、と思った。
来なかった。あの人は、もう、どこにもいなかった。
それでも、体が、沈んでいった。
泳げない体だった。手足を動かすほど、水が重くなった。口に塩が入った。
息を吸って。
声がした。
わたしの中で。白い髪が、潮溜まりの水の上に、海草のように広がっていた。杏の甘い匂い。
海に任せるの。
わたしは、手足を止めた。
息を、吸った。
背中を、倒した。
耳が、水に浸かった。
世界の音が、ふっと遠くなった。こぽ、こぽ、と自分の鼓動だけが聞こえた。
背中の下で、水が、わたしを押し上げていた。
わたしは、何もしていないのに。
◇
一つ。二つ。三つ。四つ。
五つ。
天井の穴が、近づいてきた。
水が満ちるにつれて、わたしの体が、ゆっくりと上っていった。
穴の向こうに、空があった。
明けたばかりの、薄い青の空。南の高いところに、月がふたつ、まだ残っていた。白い月と、青白い遠月。
玉座の間の柱の間で、水の中から、人の形が立ち上がっていた。
潮霊たちだった。衛兵の形。厨の女の形。書記の形。
その一つ一つが、外の海の水に触れて、ほどけていった。ほどけて、光る霧になって、天井の穴へ、空へ昇っていった。
光の粒が、わたしの顔の上を、いくつも通り過ぎていった。
その中を、わたしは浮いていた。
十。十一。十二。
数えるのを、やめた。
数えなくても、沈まなかった。
胸の上で、帳面が、水を吸って重くなっていた。
両腕で抱えて、水の上に掲げていた。