第25話 散っていく都
潮帳――一日目、門楼に一番乗りした日を、失くした。
天井の穴の縁に、指がかかった。
わたしは、帳面を口にくわえて、両手で縁の石をつかんだ。水に押し上げられるのに合わせて、体を引き上げた。膝を、石の上に乗せた。
玉座の間の屋根の上だった。
平らな石の屋根が、朝の光で濡れていた。わたしは、そこに四つん這いになって、しばらく咳をしていた。塩辛い水を、何度も吐いた。
それから、顔を上げた。
都が、沈んでいた。
屋根の上から見渡すかぎり、水だった。
南の方から、外の海が、白い筋を何本も引きながら、北へ駆け上がっていた。干上がっていた通りが、見るまに水路になり、水路が水面になっていった。神殿区の外壁の灰色の背が、半分まで沈んでいた。その向こうの市場も、屋根の街も、通りから順に水に呑まれはじめていた。
水の上に、光が立っていた。
都じゅうから。
屋根の上から、通りの底から、神殿の柱の間から、人の形をした水が立ち上がっては、外の海に触れて、ほどけていった。ほどけた光の粒が、朝の空へ昇っていった。何百も。何千も。
雪が、下から降っているみたいだった。
わたしは、唇についた塩を舐めた。
ただの塩の味だった。舌の奥がひりつくことは、もうなかった。
◇
南の方の水面に、黒い点が一つ、動いていた。
流れに逆らわずに、斜めに横切って、こちらへ近づいてきた。点が、頭になった。水をかく腕になった。
尖塔の足元の、王宮の壁に取りついた。壁の石の継ぎ目に指をかけて、登ってきた。
屋根の縁から、濡れた頭が出た。
潮で色の抜けた髪が、額に張りついていた。
イサナだった。
彼は、屋根の上に這い上がって、仰向けに転がった。
胸が、大きく上下していた。胸の上に、紐できつく縛った油紙の包みがあった。
わたしは、四つん這いのまま、彼のそばまで行った。
膝で、水たまりを踏んだ。
イサナが、目を開けた。
わたしを見た。
長いこと、見ていた。
知らない誰かを見る目ではなかった。けれど、知っている誰かを見る目とも、少し違った。遠くの岸を見て、そこに何があったか思い出そうとしている人の目だった。
「......ミオ、だな」
わたしは、答えられなかった。
◇
イサナは、体を起こした。
胸の包みの紐を、ほどいた。油紙を開いた。中に、潮帳と、二つに折った紙が一枚。わたしの、置き手紙。
彼は、潮帳の最後の頁を開いた。
わたしにも、見えた。彼の字だった。
ミオを信じろ。ミオが誰か忘れても。
読むかどうかは、俺が決める。
イサナは、その二行を、指でなぞった。
一度。二度。
「信じて、よかったらしいな」
彼は、顔を上げて、南の空を見た。
それから、足元の水を見た。わたしが上がってきた天井の穴から、まだ光の粒が、ゆっくりと昇ってきていた。
「......飲まなかったのか」
「飲まなかった」
「断ったのか。自分で」
「自分で」
イサナは、何も言わなかった。
ただ、長い息を、一つ吐いた。あの人の息とは違う、痰の絡まない、短い、若い息だった。
「わたしを」
声が、喉の奥で引っかかった。
もう一度、言った。
「わたしを、覚えてる?」
イサナは、潮帳を膝に置いたまま、少し考えた。
「......半分くらい」
それから、潮帳を指で叩いた。
「残りは、帳面に書いてある」
◇
「何を、失くしたの」
わたしは聞いた。
帳面を、くわえていた歯の跡がついたまま、膝の上に開いていた。
イサナは、目を閉じた。
いつもの点検だった。唇が動いた。今朝の瓶口。カイリ。ハヤテ。溜まり。
昨夜の井戸。二十三人。干底の坑道。浜。崖の段。杏。
港。
そこで、止まった。
「港で、あんたと初めて会った」
目を閉じたまま、彼は言った。
「会ったのは、分かる。帳面に、あんたの名前が書いてある。......どこで会ったのか。あんたが何て言ったのか。俺が何て言ったのか。そこが、白い」
イサナは、目を開けた。
筆を出して、潮帳の新しい行に書いた。
――ミオと初めて会った日を、失くした。どこで会ったのかも。
書き終えて、筆の尻で、一行を叩いた。
それから、わたしを見た。
「どこで会った」
◇
わたしは、話した。
港の東の屋台。毎朝、同じ鯵。頭から骨ごと齧って、尻尾をコチにやっていた。わたしは三日、麦湯の椀を持って、屋台の端から見ていた。
含みの仕事。緑の空。オリエ、と三回。
防波堤の陰で、帳面を覗いた。鼠、とあなたは言った。その上着、網元のとこの娘のだろ、と。
夕方。崖の上。ふたつの月が、淵の底に映っていた。わたしは頭巾を下ろして、髪をほどいた。
「わたしを王にしなさい。代わりに、あなたが失くしたものを返してあげる」
わたしが、そう言ったの。
あなたは、断ったわ。次の日に、酒場で引き受けたけど。
イサナは、黙って聞いていた。
知らない二人の話を聞く顔だった。港の塩田で鯵の話をしたときと、同じ顔。
聞き終えると、彼は、もう一度、潮帳に筆を置いた。
崖の上で、王女が名乗った夕方を、失くした。
少し考えて、もう一行。
一日目、門楼に一番乗りした日を、失くした。
「それも、失くしたの」
「一番乗りって言われて、何も出てこなかった。......たぶんな」
わたしは、自分の帳面を開いた。
彼の三行を、一字ずつ写した。筆は、なかった。水に流されていた。彼の筆を借りた。濡れた紙に、墨がにじんだ。
「また、読んで聞かせたわね」
写し終えて、わたしは言った。
「あなたが失くしたことさえ忘れたとき、わたしが読んで聞かせる。門楼で、そう言ったの。......あなたは、それも、覚えてないでしょうけど」
「覚えてる」
イサナは、筆を受け取って、懐にしまった。
「門楼の夜だろ。あんたが寝たふりをしてた晩だ。......そいつは、残ってた」
◇
イサナは、北の方を見ていた。
水の向こう、淵を囲む崖の上に、黒い板壁の平たい建物が、小さく見えた。
彼は、屋根の縁まで這っていって、手を水に浸けた。
指を、口に運んだ。
舐めた。
しばらく、何も言わなかった。
もう一度、舐めた。
「......薄い」
彼は言った。
「ただの海だ。何も、読めねえ」
北の岩場。白潮院の崖の下の、浅いところ。
十の彼が消した、お母さんの声と、顔と、最初の一字。岩場の潮にほどけて、残っていた端。
それも、外の海と一緒に、どこかへ運ばれていった。もう誰にも、読めない。
「散った」
イサナは、それだけ言った。
指先の水を、屋根の石で拭った。
わたしは、何も言わなかった。
彼の隣まで行って、座った。膝と膝が、少しだけ触れた。
崖の上の建物の方で、今ごろ、誰かが潮溜まりで朝日を待っているはずだった。杏が好きで、干物の匂いが嫌いな人が。
◇
櫂の音がした。
尖塔の向こうから、平底の小舟が、流れに乗って回りこんできた。
千尋屋の舟だった。櫂を漕いでいたのは、カイリ兄さまだった。舟底に、ハヤテ兄さまが、濡れた上衣のまま膝を抱えて座っていた。
兄さまの背中に、外套でくるんだ包みがくくりつけてあった。
「無事か」
カイリ兄さまが、屋根の上のわたしたちを見上げた。
「イサナが、潮記を濡らすなと言った。濡らしていない」
わたしは、息を止めた。
イサナを見た。イサナは、肩をすくめた。
舟底で、ハヤテ兄さまが、顔を上げた。
「蔵が、空だよ」
いつもの屈託のない声ではなかった。けれど、商人の声だった。
「三百年分の蔵が、朝飯前に空だ。......で、姫さん。これから、どうするんだい。この国の銭の勘定は、誰がつける」
「わたしが、つけます」
わたしは言った。
「払わせた分の勘定は、払わせた方がつけるものでしょう」
ハヤテ兄さまは、しばらくわたしを見ていた。
それから、鼻で笑って、また膝を抱えた。
◇
舟は、玉座の間の正面の大扉の上まで回った。
大扉は、もう水の下だった。その上の回廊の手すりに、人がしがみついていた。
ユラ姉さまだった。
片腕で手すりを抱え、もう片方の腕で、灰色の衣の小柄な人を支えていた。大潮司さまの白い髪が、水に濡れて、顔に張りついていた。
カイリ兄さまが、舟を寄せた。
ユラ姉さまと二人がかりで、大潮司さまを水から引き上げた。舟底に下ろされた大潮司さまは、何も言わなかった。濡れた手を、膝の前で重ねようとして、うまく重ならなかった。
回廊の奥から、神官が二人、ナズナを抱えて出てきた。
ナズナは、濡れた紙の舟を一つ、手のひらに載せていた。舟は、もう形が崩れかけていた。
◇
舟は、満ちてくる潮に乗って、北へ流れた。
その日のうちに、神殿区が沈んだ。市場が沈んだ。夕方には、外郭の屋根の街が、最後の棟まで水の下に消えた。
六日目の朝、舟は、崖の下の浜に着いた。
浜は、もうほとんど残っていなかった。縄梯子の下の天幕だけが、波の届かない岩の上に移されていた。
崖の上に、人が並んでいた。
東の崖の肩から差す朝日が、その人たちの横顔を照らしていた。
イサナが、舟から浜へ降りた。
振り返って、わたしに手を差し出した。
わたしは、その手を見た。
それから、自分の帳面を胸に抱え直して、その手を取った。